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セーフティネットの破壊 

低所得世帯の収入の方が、生活保護費よりも低いので、低い方に合わせる、という厚労省の論理。まさに、不幸の均霑である。

不幸の均霑の行き着く先は、セーフティネットの完全な破壊以外ないだろう。

生活保護の不正受給などを問題にする向きもあるが、それは極めて少数。むしろ、生活保護を受けるべき人が受けていない捕捉率の低さこそが問題だ。

生活保護等受けることはないとタカをくくっている方、この競争社会では何が起きるか分からない。明日は我が身かもしれない。

こうして国民のセーフティネットを破壊しておきながら、国会議員と官僚は、公務員給与は毎年のように引き上げ、さらに国会議員年金の復活を画策している。行政・立法の社会倫理が失われている。

以下、引用~~~

生活保護費、最大1割下げ
厚労省、5年ぶり見直し
2017/12/8 02:01
©一般社団法人共同通信社

 厚生労働省は7日、来年度の生活保護費見直しで、食費や光熱費などに充てる「生活扶助」を最大1割程度、引き下げる検討に入った。年齢や世帯形態によって増額となるケースもあるが、一般の低所得世帯の消費支出より支給額が多いとの調査結果を踏まえ、見直しが必要と判断した。

 生活扶助の支給水準は5年に1度見直している。全体では前回2013年度に続き2回連続で引き下げとなる見通し。都市部を中心に高齢単身世帯などが多く含まれ、反発が強まりそうだ。

 一部の子育て世帯で減額幅が大きいため、厚労省は別の案も検討している。

教育無償化にも不幸の均霑の原則 

教育無償化は、憲法改正しなくてもできる。

憲法改正を国民から受け入れやすくするために、教育無償化を自民党は言いだした。

そして、高等教育無償化は、高卒で働く者と公平を考えて、無償化への異論が自民党内部で多勢を占めている、と下記の報道にはある。まさしく、「不幸の均霑」である。

自衛隊を国軍と位置づけ、海外派兵を自民党は目論んでいる。すると、徴兵制ないし奨学金等をからめた徴兵制に近い制度が実施される可能性が高い。

徴兵制の対象は、「不幸の均霑」で徐々に広げられてゆく。それが、第二次世界大戦末期のわが国の状況だった。同じことが、この教育費だけでなく、徴兵制で再び行われる。

以下、引用~~~

憲法改正案「教育無償」明記せず…自民方針

2017年11月25日 06時00分 読売新聞

 自民党は、大学などの高等教育を含めた「教育無償化」について、憲法改正案に「無償」という表現自体は盛り込まない方針を固めた。

 代わりに、国に教育費負担を軽減するよう努力義務を課す条項を設ける案が有力だ。大学などの無償化には、党内に異論が多いことを踏まえた。

 憲法26条2項は義務教育を「無償」と定めており、教育基本法などに基づき、国公立の小中学校(9年間)の授業料は徴収されない。党憲法改正推進本部は高等教育を中心に、無償の範囲を広げるべきか検討してきた。

 憲法に「無償」と明記すれば、国公立の大学や幼稚園での授業料徴収は憲法違反になる。だが、推進本部の議論では、大学の無償化には「高卒の労働者との公平性が保てない」と反対論が大勢を占め、幼児教育の無償化明記を求める意見もなかった。

社会保障における、不幸の均霑 

知り合いの精神科医から聞いたところでは、精神障害者・・・多くが、長い経過のうつ病や統合失調症の患者達・・・の障害年金が、ばさばさと切られている由。社会保障は「合理化」しなければならない面があるのは分かるが、だが、障害年金をほぼ機械的に「切る」という形で、社会保障を抑制するのは頂けない。彼らにとって、その年金が生きるために必要なものであることが多いからだ。

行政の立場からは、生活保護等との平等性を確保するといった理由づけが行われるのかもしれない。だが、それは、不幸の均霑だ。下のレベルに合わせようという、行政に特有の論理だ。

所得控除を、高所得者、高齢者を中心に下げることも議論されている。低所得者の所得税減税と抱き合わせにするらしいが、力点は前者にあるのは当然だろう。高所得者という縛りも、徐々に引き下げられて、国民全般の所得控除の引き下げになって行くのは目に見えている。ここにも、不幸の均霑の論理がある。

以前のポストで、第二次世界大戦中、徴兵制がなぜ広く行われるようになったかを、ある本から学んだことを記した。こちら。不幸の均霑という論理は、大衆に受け入れやすい。だが、それを用いて、国民生活や、国民の生命自体を危機に晒す策動を、行政と政権が画策するのだ。

本音を言えば、国家財政を考えると、増税は今後不可避だと思っている。だが、「不幸の均霑」から小賢しく逃れている連中がいる。また、不幸の均霑の論理で社会保障を切り下げることには反対だ。社会のセーフティネットが破壊されると、社会の安定が損なわれる。目に見えぬところで進められる、社会保障の切り下げに注目してゆく必要がある。

不幸の均霑 

先日、所用があって高松に出かけた。夕食にありつこうと、夕暮れを過ぎた高松駅近くをうろついたが、一杯飲み屋しか見つからない。夕飯はホテルで摂ることに決め、本屋に入った。本屋の本棚から本を手に取り眺めるのは久しぶりだ。三冊ほど文庫本を購入。その一冊が、角川oneテーマ21という変なシリーズ名の一冊「戦争と日本人ーテロリズムの子どもたちへ」だった。加藤陽子と佐高信の対談である。

戦争と国民の関わりを、わが国の近代史から論じたもので、大変面白い内容であった。特に、印象が残ったのが、日本で戦争責任を正面から国民が論じようとしない背景についての議論だ。日本では、戦前徴兵制だったが、徴兵されるのは当初30人に1人程度だった。だが、戦争遂行とともに徴兵はどんどん拡大され、最後は学徒出陣まで進むことになる。その徴兵の拡大を行う際に、当局は、表面上徴兵を「公平に」行うようにして、対象を拡大していった、ということだ。いわば、「不幸の均霑」を実現していったのだ、という。

これは、官僚機構の好む手法であり、現在のセーフティネットの引き下げの議論等にも、しばしば登場する論法だ。年金受給者の方が、生活保護受給者よりも、受給金額が少ない、だから、生活保護をもっと減らそう、という類の議論だ。「不幸の均霑」の論法は、大衆の支持を得やすい。そこを利用するわけだ。

で、私が以前から疑問に思ってきたことの一つも、この本に記された議論から学ぶことができた。わが国においては、戦争責任がなぜ国民的な議論にならなかったのかという問題だ。徴兵されることによって、一人前の国民と認められるという側面もあったが、国民の大勢は、できれば徴兵されたくないという意識が強かったようだ。特に戦争末期一年半ほどは、徴兵により、国民は酷い目に会うことになる。それで、自分の意志とはかけ離れた戦争という意識が国民に植え付けられ、そのために戦争責任を自らの問題として考えることがなくなってしまったのではないか、ということだ。

中国や韓国では、日本の戦争責任を問う声が今でも多くある。その一部は、当局が、自らへの批判をそらすためであるのかもしれない。また、経済的な困窮から、比較的裕福なわが国に経済的な見返りを求めて、ということもあるのかもしれない。だが、戦争責任を国民が考え、きちんとその総括を行うことが、まだわが国で行われていないことは確かだろう。それが、安易で薄っぺらなナショナリズムが唱道される背景になっている。国家権力とどのような距離を置き、また国を本当に愛するためにどのようにしたら良いのか、改めて、考える必要があるのではないだろうか。それを行わないと、また「不幸の均霑」の論理で、徴兵制が復活し、戦争への道筋を歩みだすことは十分あり得る。自民党は、その憲法草案において、軍法会議の設置を謳っている。徴兵制を見据えていることは明らかだ。国家権力の論理に絡め取られる前に、この歴史からの問いかけに答える必要がある。

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