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最近の交信から 

めっきり会話らしい会話のなくなったCW交信だが、砂浜で砂金に巡り合うような頻度で、楽しめる交信もまだないではない。

数週間前、14メガで会った、Hartmut DK2SC。半身まひの方はどうかと尋ねると、回復はすでにきわめてゆっくりになってきている、とのことだった。杖をついて歩行しているらしい。リハはどうしている?という質問には、歩く先にウイスキーが置いてあれば熱心にやるのだけれどね、と言って笑っていた。奥様には頭が上がらぬ様子。でも、元気そうで何よりだ。

週に一、二度お目にかかるEllen W1YL。以前掲載した写真で、左手に置かれたKentのパドルは、Ned W1RANからの誕生祝の由。昔、左手で送信を練習した経験があるので、またその練習をしているそうだ。練習を積むとできるようになるものなのね、と89歳の方に言われると、歳だからと楽器やほかの習い事で音をあげるのは、許されぬことだと痛感。W7RNのリモートコントロールで毎朝CWを叩けるのがうれしいといつも仰る。彼女が家庭を築いたのはCT。小高い丘に家があり、夏はトマトをたくさん栽培し、残ったトマトは缶詰にして保存した由。1978年に、私も存じ上げるPete W1RMにその家を譲ったらしい。Peteは、増改築を繰り返しながら、今もそこに住んでいる。

ほかにも、コールを思い出すだけで、K2RD、WA6MCL、W8KJP等などと印象に残る交信が、この2,3か月の間にできた。K8JP Joeも、V31からではなく、テキサスの自宅からQRPで呼んでくれた・・・最初、彼と認識できず。あと1か月もすると、秋本番になることだろう。もう少し、オンエアーに皆が出てきてくれると良いのだが・・・日中も、JAのラグチュワーが呼んでくれないかと時折CQをだすが、和文の方からさえ呼ばれず。だが、まだ、しばらくはCWに出続ける積りだ。

Hartmut DK2SC 再び  

過日、14メガで、Hartmut DK2SCに久しぶりにお目にかかった。お元気そうで、私と会えたことで興奮していると、喜びようを表現してくださった。私も、昔変わらぬ彼のキーイングを耳にして、懐かしさで一杯であった。

彼は、家族のなかで大きな変化があった様子。だが、今の環境でとても幸せだと言っていた。私がヨーロッパ、とりわけドイツを訪れたいと言っていたことを覚えていてくれて、もうドイツには来てしまったのか、と尋ねられた。いや、まだで、でも来夏あたりに訪ねてみたいと答えたら、是非に彼の家に来るように、とのお誘いを頂いた。ベッドルームが二つ空いているから、と。家人が、知り合いのところにお邪魔することにあまり気乗りしないので、恐らくホテルに泊まることになると思うと言うと、hotel is somethingだが、我が家に来て泊まれと繰り返し親切に言ってくださった。計画を立てるときには、彼の住む地域も外せない・・・。

彼は、二度脳出血を起こしたのだが、現在杖をついて4km程度は歩けるほどに回復しているそうだ。良い医師に巡り合い、脳出血の原因(誘因)が、睡眠時無呼吸症候群にあるのではないかと言われ、現在CPAPを用いて休んでいるらしい。おかげでよく眠れ、体調も良いとのことだ。この話題の際に、以前palsyがあったと思うが、と話しを向けると、その意味がよく分からない、と彼は言う。彼は、以前から、話が通じないと、からなる分からないからもっと説明してくれと、率直に言うのである。以前半身が動きにくかったのではないか、それを言っていると説明し、理解して頂けた。電信の速度も速いと、それは私には早すぎると率直に仰る。これはなかなか真似のできぬことだ。理解できぬこと、早すぎてとれぬことは、彼の責任ではない。こちらが対応すべきことだ。だから、そうしたことをCONDXの所為にしたりしないで、素直に語ることは、とても好感が持てるし、会話を続ける意欲がさらに増すことになる。よくビギナーの方で、取れぬことを恥ずかしく思うのか、無理な口実を仰る方がいるが、そうすると会話はぷつっと切れてしまう。その取れないストレスをものともせず、会話を進めようと努力することが大切なのだと感じる。私も含めて、良く肝に銘じておきたいことだ。

DXに明け暮れていた1990年代、彼が9X/DK2SCで電波を出しているのを早朝の7メガで耳にした時は、とても感激したものだった。その後、9X5HGとして何度も交信させて頂いた。あれからもう20年近くなる。あの当時から、ラグチューの好きなところは変わらないHartmut。是非、近いうちにお目にかかりに行きたいものだ。

Hartmut DK2SC Dave VK4CEU 

過日、14メガでHartmut DK2SCに呼ばれた。少し意識が飛んでいたのか、聞き覚えのあるコールだなと思っただけだったが、かのHartmut ex9X5HGではないか。大変喜んでくださり、私もぞくぞくするような気持ちになった。

自宅にビームを上げられたそうで、信号は大変強い。実は頼みがあるのだが、とおもむろに彼が言い出した。9X当時のカード類をすべて失くしてしまったので、もう一度送ってくれないかというのだ。ルワンダの内戦に伴い、突然の帰国を余儀なくされ、持ち出せた(一緒に帰れた)のは、奥様とラップトップのPC一台だけだったとのことだった。確か、首都のキガリにたまたま出張していて、そのために助かったということだったのかもしれない。

セミリタイアしたこと、来年の夏はドイツ行きを考えていることを申し上げたら、家には客を泊める部屋もあるし、ハンブルグの近郊で交通の便も良いからぜひ来るようにと仰って下さった。北ドイツの夏、良いかもしれない・・・。

拙ブログを読んでおられる方で、9X5HGと1990年代前半に交信した方がいらっしゃったら、ビューロー経由でも良いので、カードをDK2SC宛にお送り頂きたい。きっと喜ばれると思う。

昨夜、夜遅くの7メガで、Dave VK4CEUに呼ばれた。とても夏場とは思えぬ、静かなCONDXで、彼の65Wの信号も、しっかり入感していた。最近は、あまり電波を出さなくなってしまった、メルボルンにいたころには活発に運用していたものだが、とのことだった。昔からのハムのようだったので、Tim VK3IM、さらに今は亡きClive VK4CCを知っているか尋ねてみた。それに、メルボルン時代の彼のコールも・・・。

以前のコールはVK3ABRだとのこと。私の備忘録のノートに見事にヒットした。1968年に最初の交信をしている。ついで、1980年だ。VK4CEUになってからも何度か交信をしているはずだ。彼は、上記の二人を良く知っているとのことだった。Timとは、1年以上会っていないと仰るので、Drew VK3XUから聞いた、Timの大変な状況を手短にお知らせした。Cliveとも盛んに交信をしたものだった、彼の自作のアンテナの話しをしたものだった、とDaveは仰った。そうだ、Cliveは、T2FDのような進行波型でブロードな同調のアンテナを自作して、いつも我々に比較リポートをくれるように言ったものだった。何か画期的なアンテナをどうにかして自作したいという熱意を持っていた様子だった。

無線、特にCWでラグチューを楽しむ者の世界は狭いと改めて感じた。あまり太くはならぬように、細く長く続けようと改めて思ったことだった。

DK2SC Hartmut その2 

昨日は、往復600kmのドライブを終えて、自宅に戻ると午後10時近く、テレビの前で転寝をしてしまった。今夜はゆっくり出来るかと思いきや、嘔吐の患児の親から二度ほど電話があり、致し方なく仕事場に出てきた。現在、点滴中。仙台の病院に入院中の母親は、かなり危ないと言われたが、少し持ち直して、医師が聴診を終えると、栃木訛りで「按配はいいんかい?」と尋ねていると、付き添っている姉が知らせてきた。でも、いつ急変があってもおかしくない。

さて、患児の点滴が終わらぬうちに、昨日の続きを・・・

Hartmutが、ヨットに乗り、世界旅行をする希望を持っていることは、彼がルワンダからドイツに戻って下さった手紙で知っていた。それは1990年代初めのことだったろうか。その後、無線でも、手紙でも音信普通になってしまっていた。

彼は、確かに、2001年にドイツを出港し、世界一周の船旅に就いたのだった。ところが、ギリシャに寄港していたときに、脳出血を患ってしまったのだ。ドイツに空路戻り、治療を受け、その後リハをする日々を過ごされたらしい。彼は左利きで、右半身の麻痺だったようなので、言語障害は免れたのだろう。リハのおかげで、多少は歩くこともできるようになったらしい。パドルは、左手なので自由に使えるようだ。その後、無線にもカムバックしたのだが、つい数日前まで3.5メガばかりに出ていた、14メガのダイポールを上げて、早々に私の信号を見つけたと嬉しそうに語ってくれた。

彼の愛娘も、二児の母親になり、ハンブルグで生活をしているとのこと。残念ながら無線は止めてしまった様子。息子さんにも、孫娘が生まれたばかり。67歳のお爺さんになってしまったと言って笑っていた。暖かくなったら、自宅にタワーをあげて、ビームを載せる積りだと仰っていた。

時々キーイングでつっかえると、彼は恐縮されるのだが、昔の悠揚相迫らざるキーイングは、そのままであった。英語の表現にも詰まることがあって、それも大分気にされていたようだった。きっと脳卒中を患ったことで、神経質になっておられるのかもしれない。

というわけで、20年ぶりの再会をまた経験することが出来た。一度は、自分のコールを9X5HGと打って、おどけて見せてくれたが、DK2SCというコールも記憶のなかに強烈に刻み付けられたコールだった。これで、しばしば彼とも会うことができるようになることだろう。

というところで、点滴は終わり。地震も一つやってきた。そろそろ帰ることにしよう・・・。

Hartmut DK2SC 

このところ、太陽活動が活発になって、ハイバンドのCONDXがかなり良くなっている。朝、仕事にでかけるまでのしばらくの時間、14メガでヨーロッパ、21メガで北米と交信している。懐かしいコールの方々から呼ばれて、しばし時の経つのも忘れる。

今朝、SM3EVRやSP2DXという旧知の方々から14メガで呼ばれた。Tord SM3EVRは、旧友JE1JKL中村氏が、地震の被害に遭ったのではないかと気にしていた。彼が中村氏と最初に交信したのは、1977年、その後何度か会い、1988年には中村氏が、彼の自宅を訪れたとのことだった。中村氏も忙しくなさっているのだろう。FOCからも最近脱退された。でも、きっとあと数年したら、社会的にも責任を負うことが少なくなり、また空に出てこられるのではないだろうかと話した。南関東では、地震・津波の被害はあまり出ていないと言うと、Tordは安心した様子だった。

そろそろ、切り上げようかと思っていたら、DK2SCからコールされた。一瞬、耳を疑った。元9X5HG Hartmutではないか。Hartmutかと尋ねると、その通りだとのこと。思わず「おぉ」と声を上げてしまった。彼も、興奮している様子だ。少し混信があるというので、リグをQSKにして話しを進めた。

彼との付き合いは、1990年前後に彼がルワンダに在住だった頃から数年間のことだった。彼のことは、以前のポストでも触れた。ここ。彼との付き合いの経緯は、以前にも紹介したA1Cのサイトに納められている下記の拙文の通りだ・・・


以下、引用~~~

前回のサンスポットサイクル最盛期の頃、9X5HG,Hartmut、がルワンダからactiveであった。彼は当初DK2SC/9Xとして空に出ていた。このコールを朝早く7メガで聞いた時には、感動したものだった。当時国連絡みの9Xの運用はまだなく、9Xは珍しいカントリーであった。また、決して早くはないが確実で重めのウエイトのCWで母国の局とドイツ語でラグチューしていた。

その後、9X5HGという自分のイニシアルをサフィックスにしたコールを手に入れたようで、14,21のロングパスを中心に良く聞かれるようになった。Hartmutの運用は所謂DXのばりばり捌く運用ではなく、一局一局に名前とQTHを送り、その他の話題を丁寧に続ける形式であった。殆ど唯一の9Xの局であったので、束になって必死に彼を呼びにまわった局は、やきもきさせられたことだろう。21はCONDXが良いと、アフリカの南西部に対して午前10、11時頃からロングパスで開けて来る。丘の上にビームを上げ、リニアーを用いていた彼の信号は、ビーコンのように入感するのが常であった。パイルを一向に捌こうとしない彼に業を煮やしたヨーロッパの口の悪い連中から、この人種差別主義者!!等と揶揄されても、それに動ずることなく、「諸君は、少しは躾を受けた方が良いだろう」とやり返していた。

私が彼としばしば交信するようになった経緯は、よく覚えていないが、互いにラグチュー好きという点で、共鳴しあうものがあったのだと思う。彼は、ルワンダで放送中継所のメインテナンスを担当する技術者で、首都Kigali近郊で奥様と暮らしていた。日本の文化にも興味を持っていたようで、よくいろいろなことを質問された。私が医師であることを知ると集めて研究?しているというマラリア感染者の血液標本の事について言及したりもした。また、当時VEで生活していた美しい愛娘Gisaのことも良く報告してくれた。
GisaはDL6***というコールを持つハムで、現在Z2から運用している。
彼がたまたまDLに休暇で戻っている時に、例のルワンダのツチ族対フツ族の内乱が勃発、一段落してから自宅に戻ってみると跡形も無く荒らされていたとのことであった。その後まもなく、仕事・無線ともにQRTし、母国に戻った。

数ヶ月前彼から届いた手紙によると、現在は所謂アパマンハムの状態で無線はバーチカル1本で細々出ているだけとのことだ。年来の夢であった、ヨットでの世界一周を実現すべく、ヨットを入手したとのことであった。(この「夢」も9X時代に彼が良く語っていたものであったが、まさか実現するようになると思っていなかった。彼の実行力に脱帽・・・)近い将来、DK2SC/MMのコールが流れるようなCWで入感するようになることだろう。

引用終り~~~


Hartmutは、その世界一周の航海に2001年に出かけたのだった、・・・

今日はこれから仙台市の病院に入院中の母を見舞いに、姉と車ででかける。続きは、また夜にでも・・・。

ルワンダ内戦の衝撃 

1990年代初めに、Hartmut DK2SCが、ルワンダから9X4HGというコールでアクティブに出ていた。首都キガリ郊外で、放送施設のメンテナンスをしていたドイツ国籍の方だった。当時の彼との交友については、JARL A1Clubのサイトに拙文を載せていただいてある。

ルワンダでの内戦、フツ族によるツチ族の虐殺については、当時の彼とのやり取り、さらにマスコミのニュースで、多少知っていた。正直なところ、遠いアフリカでの部族対立程度にしか認識していなかった。

「ホテル ルワンダ」という映画が、テレビで放映された。内戦時に虐殺されそうになった人々を、あるホテルのマネージャーが匿い、逃げさせたというストーリーだ。史実に基づいた物語のようだ。よく出来た映画で、一見をお勧めしたい。

その物語りの中で一番驚かされたのが、この内戦で苦しむ人々に、国連はおろか、米英仏等の先進国それに昔の支配者であったベルギーまでもが、手を貸そうとしなかった、むしろそうした人々を捨て置いて、逃げ出したという描写だ。これは、事実であったに違いない。でなければ、100万人とも言う大量虐殺の犠牲者が出たはずがない。

冷徹な国際政治の場にあっては、ルワンダの内戦は一顧だにする必要の無い出来事だったのだろう。しかし、ルワンダを無視し、放り出した先進国の政府は、歴史に大きな汚点を残した。経済的、政治的な利害が絡まないといって、無視して良い出来事ではなかったはずだ。

翻って、自分自身、Hartmutの安全だけが大きな関心事であったことを、ある痛みをもって思い起こす。自分に何かできることはなかったのだろうか。一人の民間人が、国際政治の強固な枠組みのなかで、遠く離れた異国に生じた出来事に対してできることは、実際上あまり無かったかもしれない。しかし、問題の深刻さにより鋭敏になっているべきだったと強く反省させられる。

さらに、こうした国際的な悲劇を同時代人として経験したことに気付くと、市民レベルでの国境を越えた連帯が、必要になっていることを痛感する。

私達に何が問われ、何ができるのか、よく耳を澄ましてみる必要がありそうだ。

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