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David Gordonからの贈り物 

昨日夕方、買い物を終えて帰宅すると、テーブルの上に米国からの小包が載っていた。差出人はDavid Gordon・・・はて誰だったろうかと思いつつ、小包を開けた。開けながら、あぁ、「Carmel Impresarios」の著者の方だと思いだした。以前のポストに記した通り、同書の校正一覧を送ったところ、とても喜んで下さり、彼の新刊の著作を送ると言ってくださった方だ。もう一月以上経つので、半分忘れかけていたが、約束通り彼の新刊「The Little Bach Book」を郵送してくださったのだ。

タイトルページのところに、彼がacknowledgementを記してくださっていた。

In a shared love of the music of J.S.Bach
and with deep gratitude for reading "Carmel Impresarios"

David
Oregon USA
Feb 2018

彼がこの本を献呈した四人の指揮者の名が記されていた。彼らが演奏会にソリストとして招待して下さらなかったら、現在のようにバッハを知ることはなかっただろう、という言葉とともに。その四名の指揮者の最後に、Helmut Rillingの名があった。とても驚いた・・・しかし、Carmel Bach音楽祭に、Rillingが最近まで定期的に指揮に訪れていたことからして、Gordonとの接点があっても不思議ではない。Gordonは、Rillingに認められるほどの実力を持つテノール歌手だったわけだ・・・。

早速、彼にお礼のメールを差し上げた。無事著書を受け取ったこと。そして、献呈者のなかにRillingの名を見つけて驚いたこと。(以前のポストに記した通り)Rillingがシュトットガルトバッハアンサンブルを率いて東京でマタイを演奏し、その演奏会を聴いたことによりマタイへの私の傾倒が始まったことを記した。1970年代半ばのことだった。私は単に聴衆の一人にすぎなかったが、それでもお二人との不思議な縁を感じざるをえない、とも記した。 彼が、Rilling等の引き立てにより、バッハ音楽デビューする数年前のことだった。

さらに、最近、高名なバッハ研究者である礒山教授が急逝されたこと。多くのバッハ愛好家が悲しみに暮れていることも記した。Gordonの著作は、私のバッハライブラリー(と言えるほど立派なものではないが)の一つとして、礒山教授の著作と同じ本棚に並べられることも・・・。

バッハが取り持つ不思議な縁だ。そして、異国の一読者への約束を忠実に守ってくださったGordonに、感銘を受け、感謝するばかりである。

Carmel Impresariosの著者とのやり取り 

以前、「Carmel Impresarios]という本を、このブログで紹介した。こちら。

カリフォルニア、サンフランシスコ近郊のリゾート地、カーメルで、毎夏、カーメルバッハフェスティバルという音楽祭が開催される。その歴史、同地域の歴史、それにアメリカのクラシック音楽活動の歴史を概観する力作だ。

この本を読んで、いくつか誤植の類があることが気になっていた。一応、校正を一覧にして、著者に送ろうと考えていたが、同書を紹介してくれたBob W6CYXが、それは要らないのではないかと言ってきたので、その一覧は、PCのファイルとして眠っていた。だが、やはりせっかく作ったのだから、参考のためにお送りした方が良いだろうと考え・・・さもないと、このPCのHDがクラッシュすると、大げさに言えばこの世から無くなる・・・昨日、メールに貼付してお送りした。

著者のDavid Gordonは、早速丁寧な返事を下さった。本を読んでくれてとても有難い、この本は2014年に初版を出版した、同年7月のバッハフェスティバルに間に合わせるために急いで出版した、一応試読をしたのだが、多くの誤植があることに初版出版後気づき、2015年に第二版を出した、私が指摘した点、三つはまだ訂正されていない誤りだったので、次の版で訂正しコメントに私の指摘について記したい、とのことだった。とても喜んで下さった様子が、文面から伝わってきて、メールをお送りして良かったと改めて思った。

たった3年前のことだが、毎夜、楽しみに読み進めた本、その改訂に少しでも力にならたとしたら望外の幸せだとDavidに書き送ることにしよう。

八木重吉 

夜、寝る前に、寝床の中で、本を読む。雑誌「世界」や、音楽関係の書物、政治経済関係の本、それに原発事故に関する書籍等々。一頃、Jim N3BBの記した小説「Reunion」や、Bob W6CYXに紹介された「Carmel Impresarios」も読んだ。あまり難しい本は、続かない。だが、興味のもてる内容でなくてはだめだ。尊敬する評論家の方が推奨していた、当代売れっ子作家の小説も最近読んだが、後にあまり残るものがなかった。

本棚に、「八木重吉 詩と生涯と信仰」と題する新書版の本があったので、手に取った。関茂著、新教出版社、1965年初版、1976年発刊の第14版である。著者は、教会牧師で、八木重吉の人生を振り返り、そのキリスト教信仰とそれから発する詩作について、深い共感をもって記している。

八木重吉は、昭和2年、30歳の若さで世を去った夭逝の詩人だ。キリスト教信仰に学生時代に捉えられ、信仰に生涯を生きた。彼は、神に仕えるために、すべてを投げうたなくてはならないのではないか、という思いを抱き続けた。幸せな結婚をし、二人の可愛いお子さんに恵まれてからも、その思いは強くなったようだ。しかし、亡くなる一年少し前に、結核に冒されてから、イエスへの絶対的な信仰によって生まれ変わる。この最後の一年に、詩人としての豊かな詩作の時を迎える。しかし、その時期は長くは続かなかった。母上と奥様が見守るなかで、この世を去る。

彼の死後、様々な詩人が、彼の単純な言葉で自らの思いを端的に表現した詩に注目し、また信仰をそうした詩作によって表現したことで多くのキリスト教信者に積極的に受け入れられた。死への病であった結核に冒された人々にとって、彼の詩がもたらした慰めは大きなものがあったのだろう。

私が、十代後半から二十代前半にかけて、無教会主義の聖書研究会に毎日曜日通っていたころ、5、6歳年上のMさんという方と知り合いになった。透明な人柄の方で、農業関係の研究機関にお勤めだった。どのような経緯だったか思い出せないが、八木重吉の詩集を彼から頂いたことがある。「定本 八木重吉詩集」彌生書房刊である。これは、上記の本でも、八木重吉詩集の定番として紹介されている。簡明な言葉で、思いを率直に表現した詩が新鮮だった。今でも、覚えている詩がある。この詩集は、昭和40年に重版で出版されたもののようで、貴重な蔵書を彼が下さったのだと、改めて思う。

この本を読んでいて、この本は誰が購入したのだろうとふと思った。私が、大学生活を送っていた時代。両親は、私と弟への学費を稼ぐために、せっせと共働きをしていた。彼ら二人のうちどちらかが手に入れたのだろう。どのような気持ちで読んだのだろうか。あれから40年前後経って、私がこうして読むことを、彼らは想像していなかったに違いない。だが、そうとは意識していなかったかもしれないが、このように貴重な本を、残してくれた親に改めて感謝の気持ちを抱く。キリスト教信仰から離れてしまった私だが、あの時代を八木重吉の詩に親しみ、聖書を読む時があったことは、無駄では決してなかった。

これからの人生、残り少ない時間は、流行りの本ではなく、やはり時の経過に生き残った、このような貴重な本を読んでゆくべきだろうと改めて思う。

英語の勉強 

英語の勉強について最近思うこと。やはり関心のある読本、教材でないと記憶に残らない。最悪なのが、受験英語の問題集。何らかの著作や論文の一つ、二つのパラグラフを持ってきて、それについて根掘り葉掘り尋ねる。テーマはぱらぱら変わる。あれでは関心が持てるはずがない。あのような問題集を続けさせられる受験生には拷問に近いのであるまいか。私の受験時代も遠くに過ぎ去ったが、当時読んだものとしては、そうした問題集の中身は全く記憶に残っていない。ただ一つ、楽しみもかねて読み通した「Goodbye, Mr Chips」だけが記憶に残っている。

関心を持つテーマの著作なり小説なりを、じっくり通して読み込むことが、楽しさだけでなく効率の点からも優れている。最近は、友人であるJim Georgeの記した「Reunion」、それにここでも紹介した「Carmel Impresarios」が面白く、記憶に残った。一方、Rawlsの「A Theory of Justice]」や、Gardinerの「Bach」は挫折。天声人語の英語訳も少し読んだが、途中でほっぽり投げてある。一ページ読むのに、辞書を引くのが二、三回で済むような難易度の書物が良いのかもしれない。それに、重要なことは、テーマが関心を持てるものであることだ。

最近は、そうした単行本も読むことを怠っている。何か関心を持てるものを見つけて、少しずつ読み進めなければと思う。交信中に分からない単語を辞書で引くくらいしか、英語に接していない・・・これはこれで、印象に残るので、記憶には残りやすいのだが・・・。歳を重ねるにつれて、記憶力は徐々に落ちている。その劣化との戦いだ。

受験を繰り返せるとしたら、もう少しましな勉強ができたかもしれない・・・。

Carmel Impresarios 

Carmel Impresarios とは、「カーメルの興行師たち」という意味だ。そのタイトルの本がある。サンフランシスコから南に車で3時間程走ったところにある、リゾート地、カーメル。そこで、1935年以来、戦争中の一時期を除いて毎年夏、綿々と開催されてきたバッハ音楽祭の記録である。

この音楽祭のことは、サンノゼ在住の旧友Bob Warmkeから教えて頂いた(この経緯は、すでにこのブログでも記したはず・・・)。バッハのマタイ受難曲が彼との間で話題に上り、私は、学生j時代に、シュトットガルトバッハアンサンブルを率いたヘルムートリリングの演奏を聴いて、感動したことをBobに話した。すると、彼が、この音楽祭で、リリングの指揮するマタイを聴いたことがある、というのだ。当時リリングは、オレゴンの大学で教鞭をとっており、この音楽祭に定期的に指揮をしに来ていたらしい。リリングのあたたかな演奏にこころ動かされたことを話すと、Bobは、リリングが結構陽気な方でワインを飲みつつ談論風発だったという思い出話をしてくれた。レギュラーに聴衆として参加する方には、演奏者と食事を一緒にするように招待されるらしい。リリングとマタイの思い出を通して、Bobとはさらに親しくなったような気がする。

一昨年だったか、Bobから、この本が発刊されたことを教えてもらい、私も取り寄せた。読み始めたのは、昨年夏。少しずつ読み進め、1昨日読了した。David J Gordonというテノール歌手が、関係者からの聞き取り、様々な資料、特に新聞記事等を丹念に集め、カーメルバッハ音楽祭にかかわる出来事、人物・・・とくに、創始者の二人の女性・・・についてまとめた力作である。本の紹介はこちら。原書というと、残るページ数が早く減らないかと思いつつ読むことが多いが、この本は、そうではなかった。あとこれだけで終わってしまうと思いつつ読み進めた。この前に読んだ、Reunionに対するのと同じ気持ちだった。

筆者のGordonが、1982年6月、サンフランシスコからレンタカーを借り、101号線を一路南下、カーメルに向かう場面の記述から、この本は始まる。この道は、これまで二度ドライブしたことがある。サンタバーバラのelmer Merle K6DCを訪れるためだった。懐かしい道とその周囲の情景が目の前に浮かび、私は、物語に引き込まれていった。彼が、カーメルでバッハ音楽祭のオーディションを受けるために向かっていたのだ。その後、バッハ音楽祭に深くかかわるようになった筆者は、カーメルバッハ音楽祭の歴史と、それが成立し継続したのはなぜなのかを探求し、それをまとめた。

カーメルの記載された歴史は、スペイン人がモントレー湾に来航した16世紀に始まる。19世紀になって、ゴールドラッシュが始まり、それに伴い、この音楽祭の二人の創始者Dene Denny, Hazel Watrousの祖父母が東部からやってくる。最初は、パナマを経由した長旅だったようだ。また、わずかな資産を持ち、例の幌馬車で二か月もかけて西部にやってくる人々もいた。比較的恵まれた青年期を過ごした、二人の創始者はベイエリアで教育を受け、Deneはピアニスト、音楽教師として、Hazelもデザイナー、教師としてキャリアーを始める。、やがて、サンフランシスコで出会った二人は、共同で様々な事業を始める。カーメルで、当初演劇の興行を始めるが、やがて音楽興行に重点を移す。音楽演奏を楽しむ機会を提供するだけではなく、周辺住民の教育、音楽参加を試みるようになる。毎年夏定期的に行っていた、音楽会を、1935年、バッハ生誕250周年記念の年にバッハの音楽を主に演奏するバッハ音楽祭を開催することになる。驚いたことに、バッハにしたのはたまたまだった、ということだ。Deneはピアニストとして、現代音楽の演奏に力を入れており、西海岸でのシェーンベルクの作品演奏を最初に行ったりしていた。最初は、演奏者、楽器ともに不足しており、またアマチュアが主体であったコーラスは力不足で、難しい曲目は演奏できない、ということもあった。が、徐々に、演奏者、楽器編成ともに充実し、また優れた指導者にも恵まれ、安定した音楽祭に成長した。DeneとHazelは1950年代に相次いで他界した。それ以降も、良い指導者のもと、ボランティアに支えられ、アマチュアとプロの演奏家の混成の演奏家が、この音楽祭を維持、発展させている。・・・といった内容。

この本を読んでの感想をいくつか・・・

まず、この二人の女性の志しの高さ、さらにエネルギーに圧倒される。当時、米国に会っても、女性は家に入り子育てと家事に専念するというのが、世の中の常識的な女性の生き方だったのではなかろうか。そうした、常識を超えて、自らが大切に思うことにまい進していった、彼らに驚かされる。彼らのバイタリティを受け入れ、共鳴するものが、当時のアメリカ社会のなかにあったことも見逃せない。

1930年代は、ご存じの通り、大恐慌時代であり、この音楽祭の運営も厳しい面があったようだ。恐らく、音楽家の多くが苦しい生活を送らざるをえなかったのではあるまいか。Deneは経済的に恵まれていた様子だが、当時のルーズベルト大統領は、Federal Music Projectという政策を打ち出し、各地に公立のオケを立ち上げ、そこで音楽家を雇用した。このプロジェクトに、当時のバッハ音楽祭で指揮を執っていた方も参画している。それは、音楽家を経済的に救済すること以上に、音楽によって社会の可能性を引き出そうとしたのではなかろうか。こうした政策を打ち出す政府を許容し、支持する社会の懐の深さもあったに違いない。それと、同じように社会が音楽文化をはぐくみ、それによって活力を得ようとする社会の奥行が、この音楽祭を生み、育んでいったのではないだろうか。筆者も、最後のパラグラフで述べているが、社会とともにある、ということによって、この音楽祭が続き、発展していったのだろう。

クラシック音楽演奏が、20世紀初頭当時どのような位置にあったのかも、興味深かった。ヨーロッパに音楽の勉強にでかけたような、当時の優秀な演奏者であっても、単独の演奏会を開くということはあまりなく、ヴォードヴィルのプログラムの一つとして、演奏をする機会を得ていた、ということのようだ。恐らく、1930年代以降、徐々に、音楽がより大衆化し、広範な人々から支持されるようになり、クラシック音楽の音楽会が開かれるのが普通のことになっていったのだろう。上記のFMPによって設立された公的なオケのいくつかは、その後地域立や私立のオケになり発展していった様子だ。

20世紀初頭は、所謂現代音楽が現れた時期でもある。Deneは、シェーンベルクを始め、現代音楽に造詣が深く、そうした現代音楽を好んで演奏していた。当初、Cowellという作曲家も、DeneやHazelの事業に深くかかわっていた。それ以外にも、多くの現代音楽作曲家の名が現れては消えてゆく。作曲という芸術活動は、何時の時代も同じだったのかもしれないが、そうした現代音楽作曲家が、やがて時間が経つとともに、忘れ去られてゆくことを、この本を読みつつ、改めて確認し、何とも言えぬ寂寞とした思いに囚われた。とびぬけた才能が、適切な機会を得て、初めて世の中に受け入れられ、さらに時間の検証に耐えて残る。それはごく少数の作曲家だけだ、ということだ。

バッハ音楽祭では、先に記したように、演奏家、楽器の制約から、オリジナルの楽器を別なものに置き換え、さらに演奏する部分を限定して、当初出発した。驚いたのは、オーボエ奏者が手配できず、しばらくクラリネットで代用していたということだ。でも、徐々に体制が整い、1950年代になるとロ短調ミサ全曲をオリジナルの楽器編成で演奏するようになったとある。最初、宗教曲の多くの歌詞が英語への翻訳で演奏していたものも、やがて原典通りになってゆく。米国の演奏家、聴衆のプラグマティズム、それに根気強さも感じることができる。

だらだらと書き連ねてしまった。今も、多くのボランティアに支えられ毎年夏開催されるこの音楽祭。これまで続き、発展してきた要因は、先にも述べた通り、皆とともにある、ともに演奏し、ともに聴くという、Dene、Hazelお二人の生き方にあるのだろう。いつか、Bobとともに、この音楽祭にでかけてみたいものだ。

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