アマチュアオケの求人サイトFreudeの編集者逝く 

7K4QOK/JR2BNF中村氏が昨年12月8日に急逝なさっていたことを、JE1CKA氏のブログで知った。57歳の若さだった。

中村氏とは個人的には面識はなかったのだが、アマチュアオケのためのサイトFreudeで何度かお世話になったことがあった。アマチュアオケのためのサイトとしては、結構古い歴史を持つサイトで、メンバー募集、応募のために利用させていただいたことがあった。2週間に一度程度定期的にアップデートを続けてこられた。クラシック界でアマチュア演奏者の裾野を広げるために果たした功績は大きなものがあった。

12月上旬以降、アップデートがなされていなかったので、何かあったのかとは思っていたが、中村氏ご自身が急逝なさっていたことは、残念極まることだ。彼自身チェロを演奏されるとどこかで聞いた。これで、彼のチェロも、またactiveであったRTTYの信号も聞かれることはなくなった。Freudeもその役目を終えることになるのだろう。彼のご冥福をお祈りしたい。

『魔笛』公演 1977 お茶の水女子大学 徽音堂 

あれから40年が経った・・・大学時代、オケの有志が、お茶の水大学音楽科3年の演ずるオペラ「魔笛」のためにオケを組み、伴奏した。時は1977年11月同大学の学園祭「徽音祭」。場所は同大学、徽音堂。

伴奏オケを編成する、すなわち奏者を招聘するのは、音楽科の学生たち。そのオケに呼ばれるのは、一種のステータスだったので、夏休み前後になると、声がかかるかと内心心待ちにしていた(笑。これは、私が大学オケのチェロのトップを弾いた年だったか・・・。夏休み後、週一回程度の練習を数回行い、本番に臨んだ。歌い手たちの多くは顔見知りで、彼女たちの歌いっぷりに感心をしながら、オケピットで弾いたのを思い出す。もっとも、男性のパートは、かなり無理があったが・・・。アドリブできわどいセリフが出てくるので、つい聞く方に集中してしまい、出そこなったこともあったような気がする。例の「夜の女王のアリア」を歌った方は、その後NHKの歌のお姉さんをしばらく務めていたような記憶がある。オペラは苦手で、「魔笛」もちゃんと見たこと、聴いたことがないのだが、最後の方で、和解の四重唱があった記憶がある。すばらしい響きだった。

お茶の水女子大のキャンパスは、オケの練習で毎週末定期的に訪れていた。以前のポストにも記したが、女子大といっても、男子学生が目立つ。週末のクラブ活動のために他大学からやってきた学生だったのだろう。正面玄関を入ると、100m前後先方に、古めかしい建物が見える。そこが徽音堂だ。木製の内装で、音響効果が素晴らしい。響きすぎるでもなく、ちょうどよい音量のあたたかな残響が心地よかった。

こんな下らぬ思い出話を記そうと思ったのは、その「魔笛」のプログラムが、書庫から偶然出てきたためだ。オケ奏者や歌い手の名が懐かしい。このプログラム、実物はこの画像の半分以下のサイズなのだが、細密画の出来がすばらしい。学生が描いたものだろう。現代のPCで作成されるプログラムとは違い、ここにも暖かみがある。この演奏会に出演した人々、みな還暦を過ぎているはずだ。元気にしているだろうか・・・。

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お茶の水女子大を紹介するヴィデオクリップ。最初の方に、徽音堂が出てくる。これは戦前からの建物なのではないだろうか。このエントランスの両側にそびえる銀杏の木。当時から聳え立っていたが、ますます立派になった。ぜひ、徽音堂、この銀杏ともに、これからも長く生き延びてもらいたいものだ。

ピアソラ 「ブエノスアイレスの四季」から「冬」 

以前記したかと思っていたが・・・ピアソラは、アルゼンチンタンゴから出発し、ヨーロッパで音楽を学び、活躍の場を北米に得た作曲家だ。アイデンティティをタンゴにおきながらも、その作品は人のこころに直截に訴えかける、いわばコスモポリタンの作品になっている。歴史に名を遺す作曲家だ。

「ブエノスアイレスの四季」から、「冬」。冬の憂愁と熱い思いが、伝わってくる。

フォーレ 弦楽四重奏曲作品121 

フォーレの最晩年の傑作、弦楽四重奏曲作品121。大学に入り、オケ活動を始めたころに良く聴いた。コンクリートがむき出しの壁に囲まれた、二人部屋。入口の両脇に、山水のスピーカーを置いて、FMから流れる音楽、LPそれにFMを録音したものを、夜になると流していた。この曲もそうしたものの一つだったようが気がする。夜の帳が下り、廊下から時々、談笑する声が聞こえてくる。同室だったK君とたわいもない会話を続け、そのうち、眠りに落ちてゆく。そこでかけられた曲だった。

フォーレは、晩年になるまで、彼の前にそびえる大いなる山々のようなベートーベンの弦楽四重奏群を超えることはできないと、このジャンルの作曲はしなかったらしい。だが、最晩年の一年間をかけて、この曲を書く。美しい旋律の織り成す流れが、その特質だ。ベートーベン後期の弦楽四重奏群と同じように、虚飾や、誇張等が全くない。自由な精神の躍動がある。その点で、ベートーベン後期の弦楽四重奏曲の後を継ぎ、さらに発展させた、と言えるのかもしれない。

以前にも記したが、フォーレは、高音域は低く、低音域が高く聞こえるという聴覚異常を、晩年患った。この曲の試奏も、その理由で断ったらしい。彼の精神のなかで生まれ、純化された音楽ということだ。そうした状況で、これほど高邁な音楽を作れるということは、彼の天才があって可能になったことだろうが、それでもさまざまな機能が徐々に奪われる晩年にあっても、我々はなにごとかを経験し、作りあげることができることを示しているのではないだろうか。

この曲を聴くたびに、あの四方形のコンクリートの箱のような寮の部屋、夜の静けさを思い起こす。

ドボルザーク8番 

この夏ごろから、ドボルザークの8番の交響曲をどこかのオケで弾きたいと考えていた。この交響曲は、大学オケで弾いた曲の一つで、とても懐かしい曲なのだ。ドボルザークの音楽は、ピアノ五重奏曲や一部の室内楽を除いて、あまりピンとこないのだが、この懐かしさあふれる曲は別だ。私にとって懐かしいのと、曲想自体も懐かしさにあふれている。



福島大学のオケが12月にこの曲を演奏する予定であり、チェロ奏者を探していることを知り、応募してみた。おそらく、大学生の参加者を募集していたのかもしれなかったが、こころよく応じてくれた。で、練習が近づき、よく考えてみると、同大学のキャンパスまでドア トゥ ドアで3時間以上かかる。過酷な練習を終えて、そんな長時間真夜中の高速を走るのは無理だと考えた。大変申し訳ないことだったが、参加をキャンセルさせて頂いた。いろいろ手配してくださった上でのことで、残念かつ申し訳ないという気持ちである。

福島をなぜ選んだのか・・・一つの理由は、私の大学受験時代までさかのぼる。高専を何とか卒業した私は、医学に方向転換する積りだったが、高専の終学年での少なくとも前半は学園紛争で明け暮れてしまった。学生運動をしていたわけではないが、全学集会だ、バリケードの撤去だとやっているうちに、時間はどんどん過ぎていった。また終学年後半には卒業研究もあった。というわけで、受験勉強は殆どせず仕舞。それでも、記念受験よろしく、福島県立医大に受験申請をした。受験会場が、金谷川の福島大学経済学部だったと記憶している・・・ちょっと調べてみると、私の記憶違いの可能性もなきにしもあらずなのだが・・・当時、東北新幹線はまだなく、鈍行か、急行で、福島手前の金谷川まで行った。木造の駅舎がだだっ広い場所にぽつんと建っていた記憶がある。3月上旬で、外に降り立つと、寒風が吹いていた。これからどのような人生が開けるのだろうと、大きな不安と、小さな希望を抱いて、駅前のコンコースに立ちすくんだような記憶がある。福島の金谷川、そこにある福島大学キャンパスは、私の人生の起点であったのだ。そこにもう一度降り立ってみたいというのが、一つの理由だった。

ネットで拾ってきた、昔の金谷川駅・・・私が受験で降り立ったのがこの駅舎だったかどうかは、思い出せない・・・イメージはこんな感じか・・・

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もう一つの理由は、やはり原発事故である。小高町に住んでおられた両親の知り合いに会うために両親を連れて行ったことがあった(以前に記した)。また、母が一時宮城県の施設にお世話になっていたことがあり、何度か福島を通り過ぎた。あの鄙びた美しい浜通りには、親近感を感じていた。その一部が、原発事故で住めなくなった。また、多くの方が今も避難生活を余儀なくされている。趣味を通してということになるが、福島をもっと知りたい、身近に感じたいと念願していた。

福島の人々に対する負い目を、いつか返してゆかねばならないと今も考えている。12月の演奏会には、聴きに行ってみたいと思っている。




マーラー9番4楽章バイオリンソロ 

メモ代わりに残しておく・・・

過日、夕方14メガで9V1VV Johnに呼ばれた。彼はAtsuさんからこの夏の日本旅行時にいただいたバグキーが気に入ったと嬉しそうにしていた。息子さんJayeは大学がいよいよ始まった由。Johnは、10月に英国に戻り、FOCの集まりに出るのが楽しみだ、とのことだった。

で、話題はマーラーの9番の交響曲に・・・。4楽章に出てくる、バイオリンソロの旋律が、こころに沁み入るようだ、と申し上げると、あの旋律はyiddish音楽なのだ、とのこと。yiddishとは、ヨーロッパや米国で流浪の生活を送る(送った)ユダヤ人の文化を指すらしい。なるほど、それであの旋律にはどことなしに西洋音楽とは異なる響きがあったのだな、と腑に落ちたことだった。寂寞感に満ち、それでいて慰めを感じさせる、あの旋律は一種のelegyでもある・・・ユダヤ人であったマーラーが、あの深刻な楽章で自らのこころを表現するのに、自らの出自の音楽を採用したのだろうか。

バロックが専門というJohnから、マーラーについて教えて頂いたことだった。

マーラー 交響曲第九番 

マーラーの交響曲9番を、最近しばしば聴く。かなり長大な曲なので、正直なところ、緊張感をもって聴きとおすことは難しい。が、終楽章が白眉の音楽だと思う。第10番が未完成に終わったことを考えれば、この交響曲が彼の最後のまとまった作品と言えるのだろう。それでも、終楽章は、マーラーがいつもやるように、手を加えることが少なかったようで、彼のオーケストレーションの重厚さに欠けるところがある、と解説には記されている。だが、それだからこそ、彼の飾らぬ思いがこの楽章に表現されているともいえるのかもしれない。

この音楽のテーマは、死からの解放だったのだろう。当時の時代思潮も、「死」にまつわる思索、表現にあったと言われている。それに加えて、マーラーのやや強迫的なまでに死からの救いを音楽に求める生き方が、この交響曲に結実したと言える。終楽章の第四小節に初めて現れる16分音符からなる動機が、全体を通して繰り返し現れる。これが、人の呼吸または何らかの生命現象を表現しているように思えてくる。索漠とした響きが、慰めと表裏一体になって、音楽が進行する。最後は、曖昧模糊として意識が遠のく状況を表現しているかのようだ。チェロのソロが最後の呼吸の動機を繰り返し、消え入るように音楽は終わる。最後の小節の表情記号は、eresterbend・・・あたかも死ぬかのように・・・である。この表情記号をマーラーはほかの作品でも用いているらしいが、この曲では、最終的な場面で大きな意味をもつ指定になっている。

アバドが2010年、亡くなる3年ちょっと前に残した録画がYoutubeで視聴できる。ルツェルン音楽祭という夏の間スイスのルツェルンで開催される音楽祭のオーケストラの演奏。錚々たる面々が参加していることが分かる。アバドは、死は生の実存の一側面に過ぎないと述べたと言われている。この曲を振る彼の表情は、死と抗うことなく、生きることを示しているように見える。時に微笑みを浮かべて・・・。終楽章の最後は、明かりを徐々に暗くし、指揮を終えてから2分間ほどの沈黙を守る。

この歳になり、人生の有限性を改めて感じる。身体的、知的能力が徐々に衰えてゆく。その最後は死である。アバドが、この作品の演奏で死を受け入れたように、自分も死を受け入れらるか・・・分からない。だが、若いころのように、死と抗うことはしなくなるのではないだろうか。若い時代の死の観念は、その苦しみと恐怖への思いは、自分の人生が完成されぬままにこの世界を去ることであった。だが、人生が完成したとはとても思えないが、十分に生きたという思いは、現在ある。もちろん、死が差し迫ってくれば、私を構成する細胞の一つ一つが死に抗い始めるのかもしれないが、若い時ほどには無念の思いは強くないのではないか、と思える。マーラーの死の観念をアバドが受け止めたように、自分も受け入れることができるだろうか・・・。

「モーツァルト 最後の四年」 

磯山雅氏が、「モーツァルト 最後の四年」という本(翻訳)を出版された。原著者は、Christoph Wolff。その中に引用される、未完の室内楽の自筆譜とその演奏の録音を、こちらで聞くことができる。

名を遺した作曲家の晩年の作品には、自由さ、それによる透明性が感じられることが多い。ベートーベンや、フォーレの作品群を聴くと、その消息が良く分かる。悪しき意味での伝統や、外面的な効果を狙った派手な技巧等とは無縁の、自身の芸術を表現することだけに関心を向けた自由さを聴くのだ。ベートーベンの後期の弦楽四重奏を聴いてみればよい。まるで天国で遊ぶがごとき自由さ、それによる透明感を聴くことができる。この著作に引用されているという、モーツァルトの遺作であるこれらの室内楽も同様だ。未完の作品群だが、素晴らしい。

人間は晩年になると、世の中の価値や、常識から自由になり、透徹した生き方ができるようになるはずだ。こうした天才作曲家には足元にも及ばないが、願わくば、私の晩年も自由で透徹したものになってほしいものだ。

この本を早速注文した。

ヨハネ受難曲 

先週末、サンフランシスコ近郊のリゾート地カーメルで、「カーメル バッハ 音楽祭」が開催された。Bob W6CYXと一緒に行きたいと以前から考えていた音楽祭だったが、近づいているのに気づいたのが先月末。ひょいと出かけるわけにもいかず(家人が休みを取れない)、今年は、音楽祭のメイン演奏曲目であるバッハのヨハネ受難曲を聴きながら過ごすことにした。

Bobが、先週半ば、興奮した面持ちで、鈴木正明指揮BCJによる2000年の演奏が素晴らしいといって、YoutubeのURLを送ってよこした。それを聴いた。今日になってここにそれを貼ろうとしたら、視聴できないという表示になってしまっていた。BCJの演奏は、小規模のアンサンブルで、オーセンティックな演奏法である。響きが透明であり、かつポリフォニーの旋律線が明瞭に浮かび上がって聞こえる。旋律が歯切れよい。恐らくは、指揮者の鈴木氏の造詣と思い入れの深さによるのだろうが、マタイ受難曲と比べても、内面により迫るこの音楽の内容をよく表現している。

ヨハネ受難曲についてもっと知りたいと思い、このサイトの解説を見つけた。ヨハネ福音書の位置づけから、この受難曲の意味まで深い内容を分かりやすく記載されている。筆者はどのような方なのか。合唱団の内部資料として記したものを公開したらしい。筆者の思いが伝わってくる文章だ。ご一読をお勧めしたい。

この曲、正直言って、少し苦手にしていた。その理由の一つ(理由にもなっていないが)は、第一曲からして、弦楽器が無窮動風に動く動機が、何かこころのざわめきを表現しているようで、聴いていて苦しくなってしまいのだ・・・それを意識していなかったが、恐らくそうだったのだろう。ヨハネ福音書が、他の福音書とは異なり、キリスト教が世界に伝導される時に、イエスとその十字架上の死がいかなる意味を持っていたのかを解き明かすことを目的として記されたために、極めて内面的な内容になっていることも取っつきにくい理由だったのかもしれない。だが、改めて聴いてみると、やはりその深さはただならぬものがある。イエスの捕縛に際してのペテロの否認を通して信ずることについて述べ、さらにピラトとパリサイ人(コスモポリタンな見地からユダヤ人となっている)のやり取りを通して、信仰の政治性、そして社会性を表現しているように思える。上記の解説文の記述を参照しながら聴くと、こころに迫ってくるものがさらに大きくなる。

少し地味な音楽だなと思っていた、ヨハネ受難曲だったが、繰り返し聴くべきものの一つになった。Bobは、どのような感想を持って、カーメルから帰ったことだろうか。

Carmel Impresarios 

Carmel Impresarios とは、「カーメルの興行師たち」という意味だ。そのタイトルの本がある。サンフランシスコから南に車で3時間程走ったところにある、リゾート地、カーメル。そこで、1935年以来、戦争中の一時期を除いて毎年夏、綿々と開催されてきたバッハ音楽祭の記録である。

この音楽祭のことは、サンノゼ在住の旧友Bob Warmkeから教えて頂いた(この経緯は、すでにこのブログでも記したはず・・・)。バッハのマタイ受難曲が彼との間で話題に上り、私は、学生j時代に、シュトットガルトバッハアンサンブルを率いたヘルムートリリングの演奏を聴いて、感動したことをBobに話した。すると、彼が、この音楽祭で、リリングの指揮するマタイを聴いたことがある、というのだ。当時リリングは、オレゴンの大学で教鞭をとっており、この音楽祭に定期的に指揮をしに来ていたらしい。リリングのあたたかな演奏にこころ動かされたことを話すと、Bobは、リリングが結構陽気な方でワインを飲みつつ談論風発だったという思い出話をしてくれた。レギュラーに聴衆として参加する方には、演奏者と食事を一緒にするように招待されるらしい。リリングとマタイの思い出を通して、Bobとはさらに親しくなったような気がする。

一昨年だったか、Bobから、この本が発刊されたことを教えてもらい、私も取り寄せた。読み始めたのは、昨年夏。少しずつ読み進め、1昨日読了した。David J Gordonというテノール歌手が、関係者からの聞き取り、様々な資料、特に新聞記事等を丹念に集め、カーメルバッハ音楽祭にかかわる出来事、人物・・・とくに、創始者の二人の女性・・・についてまとめた力作である。本の紹介はこちら。原書というと、残るページ数が早く減らないかと思いつつ読むことが多いが、この本は、そうではなかった。あとこれだけで終わってしまうと思いつつ読み進めた。この前に読んだ、Reunionに対するのと同じ気持ちだった。

筆者のGordonが、1982年6月、サンフランシスコからレンタカーを借り、101号線を一路南下、カーメルに向かう場面の記述から、この本は始まる。この道は、これまで二度ドライブしたことがある。サンタバーバラのelmer Merle K6DCを訪れるためだった。懐かしい道とその周囲の情景が目の前に浮かび、私は、物語に引き込まれていった。彼が、カーメルでバッハ音楽祭のオーディションを受けるために向かっていたのだ。その後、バッハ音楽祭に深くかかわるようになった筆者は、カーメルバッハ音楽祭の歴史と、それが成立し継続したのはなぜなのかを探求し、それをまとめた。

カーメルの記載された歴史は、スペイン人がモントレー湾に来航した16世紀に始まる。19世紀になって、ゴールドラッシュが始まり、それに伴い、この音楽祭の二人の創始者Dene Denny, Hazel Watrousの祖父母が東部からやってくる。最初は、パナマを経由した長旅だったようだ。また、わずかな資産を持ち、例の幌馬車で二か月もかけて西部にやってくる人々もいた。比較的恵まれた青年期を過ごした、二人の創始者はベイエリアで教育を受け、Deneはピアニスト、音楽教師として、Hazelもデザイナー、教師としてキャリアーを始める。、やがて、サンフランシスコで出会った二人は、共同で様々な事業を始める。カーメルで、当初演劇の興行を始めるが、やがて音楽興行に重点を移す。音楽演奏を楽しむ機会を提供するだけではなく、周辺住民の教育、音楽参加を試みるようになる。毎年夏定期的に行っていた、音楽会を、1935年、バッハ生誕250周年記念の年にバッハの音楽を主に演奏するバッハ音楽祭を開催することになる。驚いたことに、バッハにしたのはたまたまだった、ということだ。Deneはピアニストとして、現代音楽の演奏に力を入れており、西海岸でのシェーンベルクの作品演奏を最初に行ったりしていた。最初は、演奏者、楽器ともに不足しており、またアマチュアが主体であったコーラスは力不足で、難しい曲目は演奏できない、ということもあった。が、徐々に、演奏者、楽器編成ともに充実し、また優れた指導者にも恵まれ、安定した音楽祭に成長した。DeneとHazelは1950年代に相次いで他界した。それ以降も、良い指導者のもと、ボランティアに支えられ、アマチュアとプロの演奏家の混成の演奏家が、この音楽祭を維持、発展させている。・・・といった内容。

この本を読んでの感想をいくつか・・・

まず、この二人の女性の志しの高さ、さらにエネルギーに圧倒される。当時、米国に会っても、女性は家に入り子育てと家事に専念するというのが、世の中の常識的な女性の生き方だったのではなかろうか。そうした、常識を超えて、自らが大切に思うことにまい進していった、彼らに驚かされる。彼らのバイタリティを受け入れ、共鳴するものが、当時のアメリカ社会のなかにあったことも見逃せない。

1930年代は、ご存じの通り、大恐慌時代であり、この音楽祭の運営も厳しい面があったようだ。恐らく、音楽家の多くが苦しい生活を送らざるをえなかったのではあるまいか。Deneは経済的に恵まれていた様子だが、当時のルーズベルト大統領は、Federal Music Projectという政策を打ち出し、各地に公立のオケを立ち上げ、そこで音楽家を雇用した。このプロジェクトに、当時のバッハ音楽祭で指揮を執っていた方も参画している。それは、音楽家を経済的に救済すること以上に、音楽によって社会の可能性を引き出そうとしたのではなかろうか。こうした政策を打ち出す政府を許容し、支持する社会の懐の深さもあったに違いない。それと、同じように社会が音楽文化をはぐくみ、それによって活力を得ようとする社会の奥行が、この音楽祭を生み、育んでいったのではないだろうか。筆者も、最後のパラグラフで述べているが、社会とともにある、ということによって、この音楽祭が続き、発展していったのだろう。

クラシック音楽演奏が、20世紀初頭当時どのような位置にあったのかも、興味深かった。ヨーロッパに音楽の勉強にでかけたような、当時の優秀な演奏者であっても、単独の演奏会を開くということはあまりなく、ヴォードヴィルのプログラムの一つとして、演奏をする機会を得ていた、ということのようだ。恐らく、1930年代以降、徐々に、音楽がより大衆化し、広範な人々から支持されるようになり、クラシック音楽の音楽会が開かれるのが普通のことになっていったのだろう。上記のFMPによって設立された公的なオケのいくつかは、その後地域立や私立のオケになり発展していった様子だ。

20世紀初頭は、所謂現代音楽が現れた時期でもある。Deneは、シェーンベルクを始め、現代音楽に造詣が深く、そうした現代音楽を好んで演奏していた。当初、Cowellという作曲家も、DeneやHazelの事業に深くかかわっていた。それ以外にも、多くの現代音楽作曲家の名が現れては消えてゆく。作曲という芸術活動は、何時の時代も同じだったのかもしれないが、そうした現代音楽作曲家が、やがて時間が経つとともに、忘れ去られてゆくことを、この本を読みつつ、改めて確認し、何とも言えぬ寂寞とした思いに囚われた。とびぬけた才能が、適切な機会を得て、初めて世の中に受け入れられ、さらに時間の検証に耐えて残る。それはごく少数の作曲家だけだ、ということだ。

バッハ音楽祭では、先に記したように、演奏家、楽器の制約から、オリジナルの楽器を別なものに置き換え、さらに演奏する部分を限定して、当初出発した。驚いたのは、オーボエ奏者が手配できず、しばらくクラリネットで代用していたということだ。でも、徐々に体制が整い、1950年代になるとロ短調ミサ全曲をオリジナルの楽器編成で演奏するようになったとある。最初、宗教曲の多くの歌詞が英語への翻訳で演奏していたものも、やがて原典通りになってゆく。米国の演奏家、徴集のプラグマティズム、それに根気強さも感じることができる。

だらだらと書き連ねてしまった。今も、多くのボランティアに支えられ毎年夏開催されるこの音楽祭。これまで続き、発展してきた要因は、先にも述べた通り、皆とともにある、ともに演奏し、ともに聴くという、Dene、Hazelお二人の生き方にあるのだろう。いつか、Bobとともに、この音楽祭にでかけてみたいものだ。