大学オケに入ったころ 

昔話・・・。

大学に入った当初は、軟式テニスに毎日明け暮れていた。本当はオケに入りたかったのだが、女子大との合同オケということで何か気恥しかったのか決心がつかず。寮で同室になった友人がオケに入ろうと言い出して、それに乗って私も入る決心をした・・・大学1年の秋だった。某女子大のおんぼろ部室が、松林の真ん中にポツンと立っており、そこに、楽器を受け取りに行った。緊張していた・・・木々の葉は落ち、寒風がキャンパスを吹き抜けていた。

今から考えると、鈴木の一番安い楽器だったかもしれない。手渡された、その楽器は布製のケースに収められていた。それを小脇に抱えて、少しハイな気分で最寄りの地下鉄の駅に急いだ。当面は、弦のトレーナーをなさっていたM先生に師事、週一度レッスンを受けた。楽器を始めて、数か月もすると、大学寮で楽器を弾く(吹く)連中と夜な夜なアンサンブルの真似事。四国の某大学薬学部の教授になった同級生S君と、ヘンデルのソナタを合わせた。千葉で開業しているバイオリン弾きは、自慢のオールドの楽器で時にアンサンブルに加わった。メンコンの出だしを弾いて聴かせてくれた。チェロのウェルナーのテキストを1年半程度で終えた記憶・・・でも、今思うと、余りしっかりさらわなかった・・・。すぐに曲を弾くことばかりを考えていた。あの頃に、もっとスケール等の基礎的な訓練を積むべきだったと、今になって思う。

その後、1年ほどして安物のドイツ製の楽器を入手した。その楽器はしょっちゅうネックのところで折れた。安物とはいえ、親の一か月分の給料に相当する額だった・・・ドイツ製といっても、こんな楽器があるのだと学習した。親は、イヤな顔をせずに楽器代を出してくれた。やがて、先輩が弾いていたクラブ所有の鈴木の楽器が使われずに部室にあるのを眼にし、いつの間にか自分専用にしてしまい、卒業までそれを使い続けていた。高音域はイマイチでだったが、C線は深い音がする楽器だった。結婚式に「夢のあとに」を家内と合わせたのも、その楽器。

翌春、新入生が入ると、大学オケでは楽器の初心者を集めて、「ジュニアオーケストラ」略して「ジュニオケ」が組織されるのが通例になっていた。私たちの時も、ジュニオケが組織された。歯学部を卒業したばかりのバイオリン弾きT先輩が指導をしてくださった。彼は、大学からバイオリンを始め、オケで1stを弾くまでに上達なさった方・・・1stを弾くバイオリニストは、すでにそれだけで憧れの対象。チェロには、1年遅れの私を含めて5名。うち、3名は女子大の学生。私が上記の経過で少し早く始めたので、先輩づらして、学年が一年下のその連中の楽器の調弦を手伝ったりしていた。確か、週末に練習があり、母校の階段教室で練習をした。弾ける方も時々参加し、何かうまくなった気になっていた。練習していたのは、ハイドンの驚愕2楽章や、ヘンデルの水上の音楽。練習が終わると、時々皆で食事に出かた。不思議と飲み会はなかった・・・まぁ、貧乏学生だったからか・・・私、大学に入るまではコンパとか飲み会というものに参加したことがなかったのだった・・・その後、オケにドップリはまることになるのだが・・・。お茶の水のキッチンジロー等に足しげく通った。

お茶管ジュ二オケ 於白馬 やまや
毎夏8月下旬に開催された白馬での夏合宿。ジュニオケの練習風景。食堂で譜面台なし。メンバーの総数は20名前後だったか・・・。ビオラの調弦をなさっているのは、トロンボーンが専門のH先輩。このH氏、いつも飄々として、世の中の汚れたことから縁遠い人物でした。夜ごと部室に遅くまで残り、そこに居合わせる部員で即席のアンサンブルをすることがあった。その中心人物がこのH氏だった。バッハの「フーガの技法」の第一曲を、ブロックフレーテ、ビオラ、ファゴットしれにチェロ等という編成で合わせた記憶がある。その後、彼は、私のために八木重吉・室生犀星の詩に寄せるピアノトリオを作曲してくださった。それをきちんと音にせず仕舞いで、ご無沙汰を続けている。右端にいるのが、音楽科のMさん。病院に慰問に行ったときに、マタイ受難曲のEr barmeをアルトで熱唱してくださった方。ピアノもとてもうまく、指が回るだけでなく、あたたかみのある演奏を聞かせてくれた。一頃、ブラームスのソナタの伴奏もお願いしたことがあったような記憶・・・。

オケに入る前に入部していた軟式テニスは、二年目で教養部の部長を仰せつかった(とんでもなく下手だったのだが、練習に欠席することが殆どなかったので、熱心だと見込まれたのだろう)、この年は、テニスとチェロの二刀流。都内某大学の医学部とテニスの定期戦があった。まだ木造の校舎だった同大学のキャンパスにあるテニスコートに、チェロを抱えて行ったことがあった・・・顰蹙だったろうな・・・、当時はお構いなし。徐々にテニスから足を洗い、秋が深まるころには、もっぱらオケだけの活動に・・・。

牧歌的な生活を謳歌した教養課程の2年間を終え、寮を退出する時期になった。ジュニオケの練習が終わり、丸ノ内線で、チェロの同年の二人、それに同じ音楽科のバイオリンの名手の方と一緒に帰路についたことがあった。このバイオリン弾きの方は、あとでMさんとともに、Er barmeのソロを弾いてくれた方で、後に、オケのコンミスも2年間ほどなさっていた。私は、週末は東京都下にあった我が家に帰ることにしていたのだった。その帰り道の丸ノ内線車内で、チェロの二人が、寮に興味をもったらしく、私たちが寮を退出する前に、一度行ってみたいと言いだした。バイオリニストの彼女も無邪気に、「私も」と・・・。我らがむさくるしいあの寮の部屋に女性3人が来る、かなり躊躇したが、オーボエ吹きの同室の友人と迎撃した。その時、一体何をしたのか思い出せない。バイオリニストの彼女に、その寮の部屋で何か弾くように所望したら、やおら「ビターリのシャコンヌ」を演奏し始め、あの冒頭の重音の旋律が部屋に鳴り響いた。あの深刻なシャコンヌの主題、今でも忘れられない。ビオラの同級生を交えて、モーツァルトの初期のクワルテットを2nd Vn無しで弾いた記憶もある。出来はさっぱり思い出せない・・・。でも、室内楽が良いなと思った一つのきっかけになった。

この楽しいジュニオケも、年末のクリスマス会という名の忘年会で発表演奏し、打ち上げ終了となった。今から考えると、その後の大学オケの数年間と比べて、音楽的には未熟だったが、親しい仲間で一緒に音楽をやる楽しみに溢れた時期だった。親睦がメインの集まりでは決してなく、やがてオケデビューを飾るために、皆必死に楽器をさらっていた。でも、気心の知れた仲間と合わせるのは、とても楽しかった。音楽的な向上を気心の知れた仲間と共に目指す、それ以上の楽しみはない。

あれから40数年。皆元気にしているだろうかと時折思い出す。

悲しみ・喜びの対比の彼岸にあるもの 

吉田秀和という音楽評論家のことを何度かここで記した。

彼の評論集の一つに「たとえ世界が不条理だったとしても 新 音楽展望 2000-2004」という本がある。

朝日新聞に1971年から寄稿してきた音楽評論のうち、2000年から5年間分をまとめたものだ。このタイトルは、2003年に半世紀近く連れ添ってこられた奥様に先立たれ、世界の不条理に直面した経験から来ているのだったと思う。奥様の死から時間がたち、普段の生活、楽しみ等が戻ってきた。だが、奥様との死別というような不条理と思われることと同様に、そうした日常はやはり故あることではない、という心境に至ったことも彼はどこかで記している。

そうした不条理のなかで生きる上で、音楽が条理の存在を指し示しているように思えた、という心境になった。それで、再び評論の筆を執った、ということだった。音楽が生きる力を与えてくれたという消息だったのだろう。

というのは前置き・・・この評論の最初に、「長調と短調」という題の文章がある。高名な政治学者丸山真男とある集まりで隣り合う。丸山は、吉田にモーツァルトの長調の作品を取り上げ、モーツァルト作品の晴れやかさについて語った。小林秀雄の「走る悲しみ」というフレーズを念頭においてのことだ・・・吉田自身は、この小林のフレーズが気に入らないようで何度か別な評論で批判をしている・・・。丸山のその言葉を受けて、吉田は、音楽において長調と短調が存在し、それらが混然一体となって、悲喜・明暗といった対比の彼岸にある音楽を形作ることを述べている。長調の音楽であっても、悲しみをたたえている作品がある、というのだ。以前、私がバッハの管弦楽組曲2番に抱いた感想そのものだ。対比の彼岸かぁ、言いえて妙な表現だなと改めて感心した。

人生、生きていくと、悲しむべきことと喜ばしいことが隣り合わせ、一体になっていることをしばしば経験する。そうした事情を、音楽は反映しているのかもしれない。

管弦楽組曲のポロネーズ、とくにそのドゥーブルを聴いてみる。優雅に踊るなかに、悲しみの感情が隠されている。あぁ、また流れるようなフルートに合わせてみたいものだ・・・。練習、練習・・・

楽器演奏の科学 

楽器演奏に習熟するためには、1万時間の練習を必要とする(と、このclipのなかで語られている)。練習をどうしたら効果的にできるかという疑問に答え、また管楽器におけるembouchureの問題を解決するために、科学的なアプローチをしている研究者がいる、という報告。

Sarah Willisというホルン奏者が、マックスプランク研究所にそうした研究者を尋ねて、成果を見せてもらい、また自ら被検者になって(ナチュラル)ホルン演奏の際のembouchureを可視化する技術を実際に見せてくれる。

自らフルートを吹かれる耳鼻科医の友人の方が、facebookにアップしたもの。

こちら。

バイオリンの方は、motion captureというテクニック。運動の解析ではよく用いられているものだ。各関節の動き、腕等の体の部分の動きを、可視化する。確かに、教育には効果があるのかもしれない。ただ、考えてみるに、身体の様々な動きは、拮抗する筋群の緊張の総体的な関係で生まれる。筋緊張の在り方まで、この技術が教えてくれるわけではない。また、楽器というインターフェースに刺激を与えて、音、音楽を作るわけだが、インターフェースとしての楽器と私たちの体の関係についても大きな情報が得られるわけではない。従って、motion captureで得られる情報は、楽器演奏のごく一部なのではないだろうか。先日来、sautille奏法で苦労している(笑)私としては、これだけでは救われぬ、という思いで見ていた。でも、楽器演奏法を科学の言葉で語ることは今後ともどんどん進むことだろう。

ホルン演奏の際の口腔、躯幹の動きを可視化するMRIの技術も大したものだ。舌がこれほど微妙な動きを俊敏にしているとは知らなかった。舌のような体内構造の俊敏な動きを捉えることに、この研究者は成功したということのようだ。軟口蓋が、吹くのに合わせて、口腔と鼻腔の間をふさぐ。声帯が開く・・・人体の機能は、よくできている。それを意識的に実現するのが、菅楽器演奏をわがものにすることのわけだ。kinesiologyの研究者の方が、dystoniaの症例に接したことからこの研究を始めたと言っておられたが、dystoniaは筋緊張を司る大脳基底核の問題ではなかったのか?こうした研究で、そうした病気の方が何かしら軽快するための情報が得られると良いのだが・・・。

楽器演奏の多くの部分は、一種の運動なのだけれど、それだけではなく、楽器というインターフェースを用いて、我々の頭にある音楽から出発し、音楽の表現に戻ってくるという長いプロセスを実現することだ。そのプロセスで科学的に分析できる部分は、積極的に科学を援用すべきだ。ただ、それですべて解決することは、いくら科学が進歩してもありえないことも確実だ。

sautille奏法の科学はどこかにないだろうか・・・苦笑。

礒山雅教授 学位授与 

礒山雅教授が亡くなって、もうすぐ2か月。彼のブログが、関係者の方により続けられている。ICUで学位を授与されたニュースが記されていた。こちら。ICUでも教鞭を取られておられたことは知らなかった。私も、ごく短期間在籍したあのキャンパスにいらっしゃったのかと感慨を改めて覚える・・・もちろん、彼のおられた時期は、私の在籍よりもかなり後のことだろう。

ヨハネ受難曲についての研究による学位。彼はバッハ研究の泰斗であり、学位は以前に容易に取ることはできたのだと思う。以前のポストにも記した通り、一つの区切りとして昨年からヨハネ受難曲研究をまとめておられた。それが終わり、口頭試問も終えたところで、人生の終止符を打つことになった。まだまだ、やり残したこと、計画されていたことはたくさんあっただろうけれど、人生をこうして終えられたことは、言い方が良くないかもしれないが、見事だったと思える。ご自身で意図したことではもちろんなかったが、それにしても見事な人生だった。

3年前、富山でのマタイ受難曲演奏会に出かけ、彼の短いレクチャーを聴いたのが、人生で唯一彼の肉声を聞く機会だった。舞台の袖にすっくと立ち、富山でマタイを演奏する意義を分かりやすく語りかけておられた。優しく誠実な人柄を反映したスピーチだった。もうあのような機会に巡り合うことがないと思うと、愛惜の念にこころふさがれる思いになる。ヨハネ受難曲の論文が上梓されたら、真っ先の読者になろう。

この次の日曜日は復活祭。

マタイの終りの二曲。こちら。

ブラームス 弦楽四重奏曲2番 

一昨日、お昼近くなって外に出た。大気ががらっと変わっていた。ぬくもりがあり、ひそかに官能を刺激するかのよう。昔、こうした大気を身の回りに感じたことを思い出した。学生時代、お茶の水の神田川の橋の上、そして四谷の桜並木・・・。この春の嵐を経ると、一気に春めいてくるはず。

この時期に思い起こす曲が、ブラームスの弦楽四重奏曲2番。1番の後、速筆でブラームスはこの曲を書きあげたらしい。交響曲の2番にも似て、自由で流麗な旋律に満ちている。1楽章最初の旋律がFAE Frei aber Eismal 自由に、しかし孤独に、だそうだ。FAEというモットーの旋律は、他の曲にも彼は用いている。1楽章冒頭のこの主題、あたたかなそよ風が吹きわたるような感慨を思い起こさせないだろうか。

演奏は、こちら。ゆっくり目のテンポで、のびやかに歌い上げている。この四重奏団、どこかのコンペティションで優勝した団体らしい。若手の有望株か。

先日、急逝された礒山雅先生の著書「バロック音楽 豊かなる生のドラマ」を読んでいる。手に入れたまま本棚に死蔵してあった本。バロック音楽は、生命の満ち溢れた感情表現を目指した動きであったことを知った。パレストリーナ、モンテベルディ、クープラン等、これまでほとんど聞いてこなかった作曲家の作品を聴くべきだと思った。きっと新しい発見があることだろう。

礒山先生の突然の死に接して、人生に何時終止符が打たれるかもしれない、という思いが強くなった。昔懐かしい音楽も、まだ見知らぬ音楽も、聴くことができる間に聴くことだ。これからの人生、やはり音楽を大切に歩んでゆく。

David Gordonからの贈り物 

昨日夕方、買い物を終えて帰宅すると、テーブルの上に米国からの小包が載っていた。差出人はDavid Gordon・・・はて誰だったろうかと思いつつ、小包を開けた。開けながら、あぁ、「Carmel Impresarios」の著者の方だと思いだした。以前のポストに記した通り、同書の校正一覧を送ったところ、とても喜んで下さり、彼の新刊の著作を送ると言ってくださった方だ。もう一月以上経つので、半分忘れかけていたが、約束通り彼の新刊「The Little Bach Book」を郵送してくださったのだ。

タイトルページのところに、彼がacknowledgementを記してくださっていた。

In a shared love of the music of J.S.Bach
and with deep gratitude for reading "Carmel Impresarios"

David
Oregon USA
Feb 2018

彼がこの本を献呈した四人の指揮者の名が記されていた。彼らが演奏会にソリストとして招待して下さらなかったら、現在のようにバッハを知ることはなかっただろう、という言葉とともに。その四名の指揮者の最後に、Helmut Rillingの名があった。とても驚いた・・・しかし、Carmel Bach音楽祭に、Rillingが最近まで定期的に指揮に訪れていたことからして、Gordonとの接点があっても不思議ではない。Gordonは、Rillingに認められるほどの実力を持つテノール歌手だったわけだ・・・。

早速、彼にお礼のメールを差し上げた。無事著書を受け取ったこと。そして、献呈者のなかにRillingの名を見つけて驚いたこと。(以前のポストに記した通り)Rillingがシュトットガルトバッハアンサンブルを率いて東京でマタイを演奏し、その演奏会を聴いたことによりマタイへの私の傾倒が始まったことを記した。1970年代半ばのことだった。私は単に聴衆の一人にすぎなかったが、それでもお二人との不思議な縁を感じざるをえない、とも記した。 彼が、Rilling等の引き立てにより、バッハ音楽デビューする数年前のことだった。

さらに、最近、高名なバッハ研究者である礒山教授が急逝されたこと。多くのバッハ愛好家が悲しみに暮れていることも記した。Gordonの著作は、私のバッハライブラリー(と言えるほど立派なものではないが)の一つとして、礒山教授の著作と同じ本棚に並べられることも・・・。

バッハが取り持つ不思議な縁だ。そして、異国の一読者への約束を忠実に守ってくださったGordonに、感銘を受け、感謝するばかりである。

礒山雅教授逝去 

2月10日にポストした、礒山雅教授のその後を心配していた。今夕彼のブログを訪れると、彼の逝去を知らせるポストがあった。

こちら。

10日のポストに記した内容に訂正がある。彼が博士論文の口頭試問を受けたのは1月26日。そして事故に遭われたのは2月7日ということのようだ。

著書、そして音楽会(富山でのマタイ受難曲の演奏会)でのスピーチだけが彼との接点だった。該博な知識でバッハとその周辺について教えてくださった。ただただ、惜しい方を失くしたと哀惜の念で一杯だ。

10日のポストにも記した通り、マタイ受難曲の後のライフワークとなさっていた、ヨハネ受難曲の研究を博士論文としてまとめ、その試験を受けられた直後の急逝であった。何か大きな人知の及ばぬ計画のもとに人生を締めくくられたように思えてならない。

残された著書、翻訳書をこれからも繰り返し読み、彼の仕事をしのび、また音楽の理解を深めてゆきたい。

くしくも、今日は武満徹の22回忌でもある。

礒山教授の冥福を祈りたい。

マタイ受難曲 第67,68曲。こちら。

音楽体験の旅 

北海道の知り合いの方が、facebookにアップしてくださったyoutube clip。バレンボイムが、音楽の聴き方について語っている。こちら。

彼の言葉で印象に残ったのは、音楽には喜びと悲しみがともにある、そして音楽に能動的に関わることが音楽の喜びを自分のものにするうえで必要なことという内容のことを述べた下りだ。

音楽とは何か、その喜びとは何かという疑問には、様々な側面があり、回答は複数あるのだろう。だが、少なくとも、音楽が情動の深い部分に作用し、そこでは喜びと悲しみが表裏一体、ないし混然となっているように思える。そこに到達するのには、聴く側が、聴くことに集中することが必要なのだろう。

副次的に、その音楽を最初に聴いたときのこと、聴いて特に印象に残った状況等が思い起こされる。情動と深いかかわりがあるので、記憶に残りやすいという消息もあるのかもしれない。音楽を聴いて、その思い出に浸ることも決して邪道なことではない。音楽の与えてくれる喜びの一つだろう。

最近、倉田澄子女史が、トルトリエのマスタークラスで演奏しているyoutube画像に巡り合った。こちら。彼女が30歳の時。ということは1975年。その少しあと、私は上野の文化会館で、彼女が弾くシューマンの協奏曲を聴き、いたく感激したのだった。背筋に電気が走るような感動に襲われたのだ。感動を受けた音楽の思い出にいつもあることだが、その時の状況を昨日のことのように思い出す。

そのマスタークラスでの倉田女史、力強い集中した演奏を聞かせる。トルトリエが男性的な演奏と評しているが、その通りだと思う。倉田女史の演奏音源は多くないのだが、フォーレのソナタ二曲を収めたCDを良く聴く。トルトリエと音楽表現の語法が似ている。むしろトルトリエよりも男性的なほどの力強さ、線の太さである。

バレンボイムの言葉を思い起こしつつ、音楽体験の旅を続けよう。

礒山雅教授が事故に遭われた 

礒山雅氏、というよりも礒山雅教授と呼ぶ方がしっくりくる・・・彼は、バッハ等の研究者で、多くの優れた著作、翻訳書を記している。長く国立音大の教授を務め、数年前には音楽学会の会長でもあられた。音楽を専攻する学生、そして音楽愛好家に対して、教育・啓蒙活動を続けた来られた方でもある。

彼が、昨年夏に、ブログで学位論文について言及なさっていたので、学生を指導して学位を取らせるのかと思っていた。が、ご本人の学位論文であることが分かり驚いたことだった。2月6日が、その審査の日であることを、ブログに記しておられた。

ところが、1月下旬以降、ブログがパタッと更新されなくなった。ブログのコメント欄で、彼のことを良く知る方が、彼がどこかで転倒し入院なさったという情報を上げられた。事故に遭われた日が、学位審査の翌日7日であったという。情報はそれだけしかないので、ただただ彼の快癒を祈るばかりである。

以前にも紹介したと思うが、彼はブログにおいて、平易な言葉で音楽の奥深い消息を語り、また日常のありふれたことを軽妙洒脱に記されていた。ブログはこちら。彼のブログを、私は以前から定期的に訪れていた。3年前だったか、富山で地域のオケ、合唱団がマタイを演奏する、そして彼がその演奏会に関わっているということを知り、その音楽会に駆けつけたのも、そのブログで情報を得たからであった。その旅行、音楽会については以前このブログに記した。

今回の出来事に接して感じたこと・・・

彼は、学位論文をものにしようと思えば、以前から、論文を上梓し学位をとるだけの学識は十分持ち合わせていた。今回の論文は、ヨハネ受難曲についてのものらしいが、本来その仕事は、単行本として出版することを企画しておられたのではないかと思う。仕事も一段落し、単行本以外に学位論文として提出することも併せて考えられたのだろう。恐らく、彼の名作「マタイ受難曲」と双璧をなす書物になるはずである。そうした事情であったとしても、70歳台半ばで学位論文を上梓しようという気力には脱帽だ。学位審査を担当するのは、きっと彼の教え子、または教え子と同じ年代の方々だったのではないか、と思う。

もう一つ、学位審査の翌日、この事故にお遭いになったということも強い印象に残る。まさに「神与え、奪い給う」という厳粛な事実なのではないだろうか。彼には是非回復して頂き、また活発な評論活動を続けて頂きたいものだと思うが、人生の一つの集大成を成し遂げた直後にこうした大きな事故に見舞われたという事実の厳粛さに、身が引き締まる思いだ。自分自身と、彼のような碩学の学者と比べるのもおこがましいが、私自身にもいつ同じような運命が訪れるかも分からない。それを自覚せよ、ということなのではないかと思った。

バロック、バッハそして宗教音楽、否音楽そのものに関心を持たれる方には、彼の「マタイ受難曲」はお勧めだ。

追伸;礒山教授のお名前を訂正いたしました。ご指摘をありがとうございました。

武満徹 22回忌 

今月22日は、武満徹の22回忌だ。

彼の死の直後にNHKが放映した、追悼番組を改めて観た。こちら。この番組をリアルタイムで視聴したうっすらとした記憶があるのだが、高名な作曲家が亡くなられたのか、という感想しか思い出せない。だが、番組の最後で、キャスターを務めた立花隆が突然嗚咽をし始めたことは鮮烈な記憶として残っている。

死ぬ二日前、雪がしんしんと降りしきっていた。入院していた武満は、奥様を気遣い、家に戻るように促す。その夜、彼は、ラジオで放送されたマタイ受難曲を聴く。それはたまたまの偶然の出来事だった。雪が降り続ける静かな夜、武満は一人で静かにマタイ受難曲を聴いたのだ。翌日、「マタイはやはり素晴らしい」と感想を奥様に改めて述べた。生前、武満は、マタイ受難曲、とりわけあの有名なアルトのアリア「Er barme dich」を愛好していた。

このエピソードを紹介する下りで、立花隆は涙をこらえきれなかったのだ。死と生を、二項対立ではなく、互いに寄り添うもの、両者が合い混ぜになった薄暮のなかを我々は生きるというようにとらえていた武満。その武満が亡くなったということへの限りない哀惜の念が思わず吐露された場面だった。

武満は、純音楽から映画音楽まで幅広いジャンルの作品を残した。「死んだ男の残したものは」という作品がある。武満は、この作品を愛染かつらのように口ずさんでほしいと、作詞者の谷川俊太郎に語っていた、とか。この歌は、元来ベトナム戦争に対する反戦歌として作詞作曲されたようだが、平凡な人生を送り、生を終えようとする人々・・・私もその一人だが・・・に対する挽歌のように思える。それを以前のポスト・・・11年前になる・・・に記した。こちら。

「死んだ男ののこしたものは」。

武満が残してくれたものを改めて思い返しつつ、彼の22回忌を迎えたい。