小学校道徳教育のイカガワシサ 

ちょっと前に紹介した通り、先日、国会答弁で文科省の官僚が「教育勅語の内容は優れている」と答えていた。森友学園の幼稚園で教育勅語を暗唱させている教育について、安倍首相等も絶賛していた。

教育勅語とは、国民を天皇の配下にある臣民として規定し、国家神道の教義を国民に浸透させようとするものだ。教育勅語の枠組みは、天皇臣民関係に基づく国体・天照大神信仰・皇祖皇宗への畏敬の念・天皇崇敬という、宗教的な教義である。中身は儒教に基づく道徳的徳目をただ単に羅列したものだが、核心は、一旦国家に危急が生じたら、天照大神の神勅に従って天皇に仕え支えること、即ち命を投げ出して天皇のために戦うことを要求する、前近代的、カルト的な内容だ。それが、国家を狂気に陥れ、国を1945年の破滅に追いやった。その反省から、教育勅語は廃止されたはずだった。ところが、教育勅語が堂々と政治・行政の場で復権しているのである。

それを忖度したのか、小学校道徳教科書の検定が、とんでもなく偏ったものになっている。そもそも、道徳を教化として教えるということのイカガワシサは置いておいても、この検定は笑えて、その後背筋が寒くなる。

経済特区や規制緩和という隠れ蓑を使って、自らの関係者に国の資産をただ同然で譲り、そこに特定の教育機関を作らせるということが、どうしたら「節度、節制」「感謝」「国や郷土を愛する態度」に結びつくのだろうか。

以下、引用~~

小学校道徳教科書への文科省検定に関して、朝日新聞デジタル版から引用~~~

「しょうぼうだんのおじさん」という題材で、登場人物のパン屋の「おじさん」とタイトルを「おじいさん」に変え、挿絵も高齢の男性風に(東京書籍、小4)▽「にちようびのさんぽみち」という教材で登場する「パン屋」を「和菓子屋」に(同、小1)▽「大すき、わたしたちの町」と題して町を探検する話題で、アスレチックの遊具で遊ぶ公園を、和楽器を売る店に差し替え(学研教育みらい、小1)――。

 いずれも文科省が、道徳教科書の検定で「学習指導要領の示す内容に照らして、扱いが不適切」と指摘し、出版社が改めた例だ。

 おじさんを修正したのは、感謝する対象として指導要領がうたう「高齢者」を含めるためだ。文科省は「パン屋」についても、「パン屋がダメというわけではなく、教科書全体で指導要領にある『我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ』という点が足りないため」と説明。「アスレチック」も同様の指摘を受け、出版社が日本らしいものに修正した。

 「ここまで細かいとは」。各社の編集者はこうした検定のやり方に戸惑う。

 検定に臨んだ8社は、2015年に告示された指導要領が学年ごとに定める「節度、節制」「感謝」「国や郷土を愛する態度」など、19~22の「内容項目」を網羅することを求められた。

 学校図書(東京)の編集者は指導要領やその解説書を読み込み、出てくる単語をリスト化。本文や挿絵、設問に漏れなく反映されているか入念に点検したが、それでも項目の一部がカバーされていないという検定意見が数カ所ついた。別の出版社の編集者は「単語が網羅されなくても、道徳の大切さは伝えられる。字面だけで判断している印象だった」と不満を口にする。

 最終的に、検定では8社の計24点(66冊)の教科書に誤記や事実誤認を含めて244の意見がつき、このうち43が指導要領に合わず、「本全体を通じて内容項目が反映されていない」などの指摘だった。

給付型奨学金の貧しさ 

返済不要な給付型奨学金が拡充される。だが、その中身はあまりにお寒い。

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今日の衆議院予算委員会の議論で分かったこと。
国は、経済的に困っている学生を助ける意欲は皆無であること。
この220億円の予算を、奨学金制度をやりくりして(すなわち、他の奨学生の奨学金を取り上げて)、算段しようとしている。

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給付型奨学金制度

予算規模 220億円

対象 全学生の2.5%(国際的に見て、学費無料の国々を除き、最低)

実際の給付額 自宅通学 2万円 下宿通学 3万円
国立大学に通う学生で、非課税世帯家庭の学生は、自動的に学費免除となる
その場合、給付型奨学金は受けられない


給付条件 所得税非課税世帯

給付型奨学金の財源 奨学金制度のなかで手当てする 返還不要の大学院生奨学金を縮小する等、他の奨学金を減らす

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奨学金を貸与する特殊法人、日本学生支援機構は、金融機関として扱われ、その有利子奨学金により、これまで300億円弱の利潤を計上している。同機構は、官僚の天下り先であることは疑いえない。

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わが国の教育は一体どうなって行くのだろうか。安倍首相は、トランプ大統領の意向を受けて、日本の軍備拡張をさらに進めるという。2012年度からの5年間で、軍事費は2000億円超増やされている。軍備を拡張して、一体何を守ろうというのだろうか。これを、教育予算に回すべきなのではないだろうか。また、日本学生支援機構の天下りはすぐに止めること、その利潤追求体質をなくすことを緊急に行うべきだ。

わが国の大学の凋落 

タイムズ・ハイヤー・エデュケーションによる、高等教育機関のランク付けが公表された。

日本の大学は、凋落を続けているらしい。もちろん、このランク付けの調査項目には、英語教育、留学生受け入れ等わが国の大学にとって不利な項目が入っており、欧米の大学が有利に判定されるわけだが、それにしてもアジアでの地位でも落ちている。

こうした低落傾向の理由の大きなものは、やはり大学独立法人化以降、国からの助成金が毎年引き下げられていることなのではないだろうか。国立大学では、毎年1%以上引き下げられている。医学部でいえば、定員を目いっぱい増やしているのに、人員・予算の面で何の手当もないとのことらしい。東大は財政面では比較的恵まれているはずなのだが、長期的に見て実力は落ちているように思える。

現在、毎年のようにノーベル賞受賞者がわが国から出ているが、多くの研究は20、30年以上前の研究に対する授与だ。残念だが、今後、教育レベルの低下による国力低下は免れないように思える。

杜撰な使い方をされている政党助成金の一部でも、大学への助成に回すべきではないか・・・長い目で日本の将来を考える政治家・官僚がいない。

以下、引用~~~

東大またアジア首位逃す 世界大学ランキング
16/09/23記事:共同通信社

 【ロンドン共同】英教育専門誌タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)は21日、今年の「世界大学ランキング」を発表、東京大は昨年の43位から39位に順位を上げたもののアジアでは4位となり、昨年に続きアジア首位を逃した。THEは日本の競争力低下に懸念を示している。
 
 上位980校中、日本の大学は69校が入り数ではアジアでトップだが、上位200位内に入ったのは東京大と91位の京都大(昨年88位)の2校。
 
 400位内には東北大、大阪大、東京工業大、名古屋大、九州大、豊田工業大も入り、昨年の6校から8校に増加した。
 
 アジアではシンガポール国立大が全体の24位で最も高く、北京大(中国)が29位、清華大(中国)が35位に。韓国は200位内に4校入った。
 
 THEのフィル・バディ編集長は、日本の大学の資金不足や海外の大学との共同研究の少なさを挙げ、周辺国の大学が順位を伸ばす中で「日本は後れを取らないようにしなければならない」と警告した。
 
 全体の上位10校は英米とスイスの大学で占められ、1位は英オックスフォード大(昨年2位)。2位は米カリフォルニア工科大(同1位)、3位は米スタンフォード大(同3位)だった。
 
 ランキングは論文の引用頻度や教員スタッフ1人当たりの学生数など13の指標で評価した。

大学教育、教科書のコスト 

私が医学部に在籍していた40年以上前でも、教科書の類は高価だった。一冊1万円以上、何分冊かをそろえると数万円なぞという教科書がざらだった。その当時は、あまり感じなかったが、裕福でなかった両親にとって、大きな出費だったことだろう。何も言わずにその費用を出してくれた親のありがたみを改めて感じる。

米国では、学費はさらに高く、そのうえ教科書も高価なようだ。無料ないし低廉な教科書をネットで学生に閲覧させるサイトがあることを、Facebookのポストで知った。自然科学から人文科学までそろっている。これには、例のビルゲイツの財団などが財政面でバックアップしている様子。こちら。米国の制度もかなり無理のあるところもあるが、学ぼうとする学生をバックアップする体制が整っている点は素晴らしい。

わが国でも、特に国立の大学学費がどんどん上がり、奨学金を得て大学に進学しても、卒業までに数百万円以上の借金を背負うことになってしまうようだ。教育は、医療とともに大切な社会的なインフラだ。大学を独法化して助成金をどんどん減らすのではなく、むしろ税金をもっと投入すべきだ。学費を安くし、学ぶ意欲のある学生には門戸を開くべきだ。同時に、教科書を無償で閲覧、DLできる体制を作るべきだろう。貧しいために教育が受けられない、または学生が、大学教育をうけたがために経済的な大きな負債を追って、社会に出るということがあってはいけない。

大学の序列化による管理と、基礎的学問の軽視 

大学への公的補助金が毎年1%ずつ削られ続けている。その一方、予算の重点的配分として、少数の研究者、施設に補助金が配られる。その「重点化」は、研究者に一定期間内に結果を出すことを求める。さらには、文学部の哲学科のような基礎的学科を廃止する、ないし企業利益に結びつく「実学」に変更させる動きもあるらしい。

こうした問題を、京大の理学部学部長の立場から批判的に論じておられるのが、こちら

結局、予算配分によって行政が大学を縛り、大学の序列化を生むことになる。下記の記事にあるように、少数のグロー^バル大学、スーパーグローバル大学に予算を重点的に配分する一方、それ以外の大学、さらに基礎的な学問を研究する学部・学科には、存続の可否まで含めた厳しい要求が突きつけられるのだろう。特にスーパーグローバル大学に選ばれた大学には、すでに予算が重点的に配分されている。このプログラムで配分される予算は、その額に比べると大した額ではない。このプログラムから外された大学への補助金を減らすための口実であるとも言える。

こうして、教育予算を増やすことなく、大学の中央集権化・序列化、行政による支配を強化するのだ。教育内容の「実学化」によって、基礎的学問研究が、ないがしろにされる。基礎的学問をないがしろにするところでは、応用的技術の飛躍的な発展は望めない。安倍内閣の経済成長戦略に掲げられた「科学技術イノベーションの推進」という、うたい文句が空しく響く。


以下、引用~~~

グローバル大学37校を選定 国際化進める大学支援

記事:共同通信社
14/09/26

 文部科学省は26日、世界レベルの研究を行う大学や、国際化を進める大学を支援するため「スーパーグローバル大学」に国公私立大37校を選定したと発表した。期間は10月1日から2023年度末まで。

 104校が応募し、文科省の有識者委員会が審査した。世界トップレベルの教育や研究を目指す「トップ型」には東京大、東北大、広島大など国私立計13校、新しい取り組みで国際化を先導する「グローバル化牽引(けんいん)型」には金沢大、会津大、立命館大など国公私立計24校が選ばれた。

 選定された37校は今後、各大学の構想に基づいて海外のトップレベルの大学と共同での大学院の創設や、海外の大学との連携などを推進する。

 文科省は教員の人件費など必要経費を支援。支援額は大学によって異なり、「トップ型」が1校あたり年間4億2千万円、「グローバル化牽引型」が1校あたり年間1億7200万円を標準額としている。

いじめについて 

一頃、いじめによる中高生の自殺が連続して起きた。小児期のいじめは、以前からあった問題だ。それが自殺にまで被害者を突き動かしてしまうようになったのは、どうしてなのだろうか。それを何とか理解し、対応を考えてゆかねばならないと思う。

学校医をしていて、保健委員会のあるたびに、先生方にいじめがないかということを伺ってきた。が、返事は、いつも、そのようなことはない、ということだった。田舎の小学校で平和なのだろうかとも考えたが、それを信じるのは難しかった。残念だが、医師としてのコミットの仕様はあまりなかった。

この問題について思うことは二つ。

一つは、問題は学校だけにあるのではないだろう、ということだ。識者・教育関係者がすでに述べていることだが、問題は家庭と、さらには社会そのものにあるのだろうと思う。ケースによって状況が変わるので、一つ一つのケースできめ細かな調査が必要なのだと思う。問題は学校だけにあるのではない。これは、子供たちを取り囲む大人がいつも認識すべきことだ。学校とこどもたちだけの問題ではないだろう、ということだ。

もう一つ、これもネット上で読んでなるほどと思ったのだが、いじめる子、それにいじめられる子以外に、第三者の子供たちがたくさんその周囲にいる。その子供たちが、いじめに関して傍観者でいることが大きな問題なのではないだろうか。坂本義和氏の「人間と国家 上下」の最終章の最終パラグラフに「他者への無関心を克服する」という文章がある。彼が、自らの政治学者、市民運動家としての人生を振り返ったあと、後に続く若い人々に書き記した文章の最後に、他者への無関心を克服することの大切さを訴えるこの文章が置かれていることが、とくに印象に残る。世界的規模、ないし国家内部での「競争」が、格差を拡大し、人間性を喪失させる。無関心やアパシーを克服することによって、そうした格差、差別さらに人間性喪失んい対処できるのではないか、と彼は説いている。いじめの現場を遠くからただ見るだけ、ないし目をそむけている周囲の子供たちの無関心がどのようにして生まれたのか、如何にしたら、いじめを受ける友人へ関心を持たせることができるのか、それを教育界、社会そして家庭で考えてゆかねばならないのではないだろうか。

いじめを限りなくゼロに近づけなければならない。ただ、それは社会の多様性、個々人の個性の多様性から難しいことが多い。むしろ、いじめへの社会の対応力resilienceを伸ばすことが、いじめへの直接的対応と同等か、それ以上に必要なことなのではないか、と考える。

内向きのエートス 

先日、知り合いの御嬢さんが、Tufts大学に入学したと聞いて、この聞き覚えのある大学について調べたことがあった。リベラルアーツ、それに国際関係論等で有名な大学らしかった。その際に、たまたま留学生の数と、その母国についても情報が載っていた。驚いたことに、韓国からの留学生の数が非常に多い。また、中国の留学生も目立つ。ほかの米国の有名大学の留学生の様子も調べると、同じような傾向にあった。日本からの留学生は、上記二か国に比べると、かなり少なくなっている。以前、このことは記したかもしれないが、これと車輪のような関係で、医学分野(私が目にするのは、アレルギー・感染分野が多いのだが)の論文著者として、上記両国、特に中国人と思われる研究者が目につく。論文の多寡で、学問の質は測れないが、日本発の論文は、中国等に圧倒され始めているようだ。

どうしてこのようなことになっているのか・・・留学することが、その後日本で仕事をしてゆくうえで、必ずしもプラスに働かないということが、若い人があまり留学をしたがらない理由の一つのようだ。特に、企業の採用では、そうした「ブランク」をネガティブに評価することもあると聞く。また、日本にいて、欧米と並ぶ業績を上げられるようになってきたこともあるのかもしれない(が、私にはこれはまだないのかとも思う)。さらに、留学して業績を上げ、上を目指すという上昇志向が減ってきていることも関係しているかもしれない。日本の一応安定した社会で、それなりに生活して行ければ良いという安定志向だ。日本人は、この内輪に留まるという傾向が強そうだ。

話しかわって、無線の分野でも、最近、内向きというか、海外との交信を特に求めない傾向が目立つような気がする。設備の問題や、運用に割ける時間の問題などがあるが、何とかして海外と交信し、友人を作りたいものだ、という志向が減ってきているのだ。もし海外と交信しても、599QSLで済ますことになる。で、国内でも特定のグループでまとまり、そこで交信を楽しむということだ。いざとなれば、ネットで文字ベースのやり取りが何時でもできる。こうした内向きの姿勢は、海外に出てゆこうとしない若者の存在と根っこが同じような気がしてならない。

趣味の世界は、あくまで趣味であるから、楽しめれば良いのだが、学問の世界ではそうはいかない。国の将来がかかってくる。若い人々には、もっと世界に向かっていってもらいたいものだ。現在、坂本義和著「人間と国家 ある政治学徒の回想」を読み終わろうとしているところだ。戦時中から終戦後にかけて、政治学を学び、その後東大で教べんをとりながら、全世界に足を運び、世界の優れた政治学者・社会活動家と交友を深め、業績を上げてこられた坂本氏の生き方に感銘を受ける。彼ほどの能力と機会に誰もが恵まれるわけではないが、これからの若者にも、世界に出てゆき、研鑽をつみ、世界に友人たちを作ってもらいたいものだ、と強く感じる。現在の日本を覆う、この内向きのエートスは、時代によって生み出されたものかもしれないが、このままでは、日本は沈みだすような気がしてならない。

基督教独立学園高校 

山形県西置賜郡小国町に、基督教独立学園高校という小さな高校がある。私は訪れたことがないのだが、静かな山間にある小さな学校だ。一学年25名で、無教会主義のキリスト教に基づいた教育を行っている。その淵源は、1920年代、内村鑑三の主導によってこの地にキリスト教の伝導が行われ、鈴木弼美等によって開設されたと、その沿革に記されている。

何故この学校の存在を知っているかというと、この学校に在学し、またそこから卒業なさった方数名と知り合う機会が、若いころにあったからだ。とくに、遠縁にあたるNMは、この学校を出て、看護師の道を歩み、現在東海地方の基幹病院で看護の責任者になっている。私が高専から大学に進むころに親しくさせて頂いた方である。私が現在住む地域にも何人かこの学校の卒業生がおられる。この学校は、決して進学教育をするところではないので、有名大学に進学し、所謂世の中で高い地位についた方は多くはない。が、卒業生全般に言えることは、その人柄に共通して、裏表のなさ、透明さを感じることだ。そして、純朴であり、人の上に立とうとしたり決してしない。この学校の卒業生とは、それと知らずにお会いしても、すぐにそうではないかと想像がつくほどだ。

昨年12月号の月刊誌「世界」に、鈴木弼美のことが記されていた。この気骨の伝道者については、若いころに、いろいろなところで耳にしていた。彼は、東大の物理学科を出るのだが、内村鑑三と出会い、キリスト教伝道で生きることを志す。最初に記したとおり、山形県の山村で伝道を行い、そこに移り住み私塾を開く。それが、現在の同学園に発展してゆく。「世界」の記事には、鈴木弼美が、戦後、自衛隊の違憲訴訟を立ち上げた経緯が記されていた。彼は、自衛隊が戦力にあたり、違憲であることを主張し、自衛隊戦力予算に相当する税金分の不払いを行い、同時に自衛隊の違憲訴訟を一人で提起する。結局は、敗訴するのだが、口頭弁論が実際には開かれず、書面での審議になることを不服とし、裁判官忌避の訴えを起こす。だが、それも門前払いを受けてしまう。彼は、なぜ裁判官忌避の訴えが一度しか認められないのか(これは法的規定はなく、慣例でそうのようになっているらしい)を、裁判官に厳しく問い詰めるが、裁判官は無視をする。そして、彼が定めた回答期限までに裁判官からの返答はなかった。そこで、彼は自らを「勝訴した」と結論づけ、その文書を裁判官に送りつけるのである。

このように記すと、ドンキホーテのように見える。だが、戦争中に天皇を神と認めず、それによって1年近くを監獄で過ごした彼の経歴を思い返すと、この戦いが、ぴしっと筋の通った精神に基づくことが分かる。ここまでしっかり筋を通し、非戦の戦いを権力に挑んだことに私は驚嘆し、敬意を抱かざるを得ない。これほどに、自分の意志をしっかりもって生きることは、やはりキリスト教信仰があったからなのだろうか。

あのような卒業生を輩出する学校のバックボーンに、鈴木弼美の持っていた強靭で変わることのない信仰があったのだということを改めて教えられた。

看護師教育について 

昨日午後、開院当初数年間一緒に仕事をして下さった看護師さんから電話があり、相談したいことがあるとのことだった。お出でいただき、お話を伺った。一人娘のEさんが大学の看護学部4年生なのだが、卒論で煮詰まってしまっている、というか指導教授が厳しく、かつEさんにはよく理解できぬ指導をされるようで、精神的に参ってしまっているとのこと。これまで授業や実習の単位を落としたことはなかったそうだ。

事情が分からないので、Eさんが帰郷したら一度お目にかかって、どのような問題なのかお話を伺うことにした。国試も間近で、親御さんとしても心配なところだろう。最終的には、本人が教授と話し合って解決すべきことだが、母親のその看護師さんに伺うと、実習も大変苦労した様子。睡眠時間が殆ど取れないような課題を出されるらしい。

看護大学・看護学部が、このところ、多数作られたが、教育のレベルはどうなっているのだろうか。私は、某看護短大、二か所の看護専門学校でこれまで非常勤講師として勤めさせて頂いた。短期間に知識を詰め込まなければならないのが、大変そうだなと感じた。それ以上に、Eさんの件だけでなく、看護学校・看護大学に行っている方の話を伺うと、実習が半端なく厳しいところが多いようだ。

看護師の世界を傍から見ただけだが、どうもそこにあるのは軍隊の規律・上下関係のような気がする。看護という業務の生まれてきた歴史的な背景もあるのかもしれない。看護師教育もそのようなやり方で行われている傾向があるように思える。それは、実習教育という名の、苛めに近い、悪い意味での精神教育だ。恐らく、現在看護師教育に携わっている方のかなりの方も看護師として同じように教育を受けてきたのだろう。一晩で十数枚から数十枚のレポートを毎晩書かせるような課題が、教育効果の上がる方法なのか、教育現場で考えないのだろうか。看護・医療は、一つ間違えると、患者さんの生命にかかわる。だからといって、根性を叩き上げれば良いと言うものではない。科学的な知見に基づき総合的な状況判断の仕方が身につくような実習になるようにすべきではないだろうか。

科学としての看護学というものが未成熟なこともあるのかもしれないが、看護教育に携わる方々の教育観に問題がありそうな気がする。

勿論、先取の看護教育の取り組んでおられるスタッフの方もいらっしゃるのだろうが、全体としてみると、看護教育が時代遅れである印象を抱く。

乳児の頃から、私の患者でもあったEさんには無事卒業し、立派な看護師になってもらいたいものだ。

生きた英語を学ぶこと 

榊原英資氏の「日本をもういちどやり直しませんか」という本を読み始めた。それまで読んでいた、金子勝氏のグローバリズムに関する本と違い、大変読みやすい。榊原氏は、もと財務省官僚だけあって、官僚を高く評価する傾向があり、その点がいつも引っかかっていた(いる)のだが、広やかな視点で現在の日本の財政経済状況を分かりやすく解説している。内容の紹介はまた読了してから・・・。

とても印象に残ったことがある。日本が、これまでの米国に追随する外交政策で行きづまり、アジア諸国、特に中国とインドだが、の勃興(歴史的に見ると、19世紀以前の状況に回帰したといえるとのこと)と、米国の経済的な低落の狭間で困惑し、内向きの思考に陥っているということだ。それとともに、英語での意思疎通能力が落ちているということも書かれていた。英語の力に関して言えば、国民の内向きの精神状況と合わせて、外国語習得の問題があるという。

日本の外国語習得は、専ら翻訳文化によって支えられ、翻訳文化そのものが大きな位置を占めているという。明治以降に用いられるようになった頻用される言葉、例えば、社会・経済・正義・市民といった語句、が、翻訳によって作られた抽象的な言葉であると言う。本来、こうした言葉は、具体的な言葉が歴史を経て、生まれれてくるはずのものだが、その過程が欠けているといのだ。英語を生きた形で学ぶことに欠けている、と榊原氏は指摘する。

英語が、外国との意思疎通の道具になっているのは紛れもない事実だが、日本の教育では、生きた英語教育がおざなりにされ、さらに内向きの志向により、海外に留学する若い人々が減っているということだ。私は、医学論文の検索をネットを使って行うことがあるが、英語による論文の抄録に載る中国人と思しき名前の研究者が急増している印象がある。それに反して、日本の研究者の名前を見出すことが少なくなっている。榊原氏によると、日本人のTOEFLによる英語能力は、アジアの中でカンボジアについで下から二番目だそうだ。中国や、韓国では、英語圏を中心とした外国に若い人々が留学することが一般的で、そうした留学組が、社会の主導的な役割を果たすようになってきている、というのだ。

さて、自分を振り返ると、英語を学ぶことは好きなのだが、生きた形でどれだけ学んできたかを考えると忸怩たるものがある。別に、英会話でペラペラになりたいとは思わないし、英会話であっても話す中身が大切だといつも考えている。だが、外国語を学ぶ上で、翻訳という日本語への置き換えに重点を置いていなかったか、改めて反省させられた。外国語の単語は、日本語の翻訳語に一対一対応していない。また、文法内容を箇条書きにし、さらに例外までも暗記しても、文法概念を包括的に理解することにならない。外国語で思考することは、もうとっくに無理な年齢になっているので、英語それ自体を理解すること、英語の生き生きとした姿に接することが大切なのだろう。

ここからは手前味噌になるが、CWでの交信は、テキストベースによる、リアルタイムの会話であり、生きた英語に接する良い機会になる。単語の用法、表現の仕方に分からないこと、印象に残るものがあれば、ログに記録し、できるだけ調べることにしている。会話のなかで、関心を持ったことについての事項だと、海馬が活性化されるのだろうか、記憶に多少残りやすい。早速、無線机の上にLONGMANの辞書、仕事場には、OXFORD PEDを備え付けた。交信中に英英辞書を引くのは少し手ごわいが、交信終了後の反省には使えるだろう。

また、英語でのブログも、仕様もない内容を書き連ねているが、できる範囲で続けるつもりだ。ほとんど校正せずにぶっつけで書いているので、幼稚な内容になっているかもしれないが、自己研修の積りだ。時に、交信中に思わぬ方から読んでいるとコメントされることがあり、それはそれで嬉しいことだ。そうした出会いが増えるように、研鑽を続けてゆきたいものだ。

でも、ザルのようになった記憶力との戦いというのが実相なのかもしれない・・・。

若い人々には、生きた英語の能力をつけて、世界に雄飛しようと訴えたい(自分のできなかったことを勧める、初老期老人の繰り言と取られてしまうかもしれないが)。