特区の扱いの不思議 

国家戦略特区によって今治市に開校する獣医学部は、人動物間感染症の研究を行う施設にするという触れ込みだった。

鳥インフルエンザで多くの研究業績を挙げている京都産業大学が、その獣医学部開設に手を挙げた。が、どういうわけか、落とされてしまった。同大学には鳥インフルエンザ研究センターがある。こちら。聞くところによると、Natureレベルの論文を多く出しているらしい。

ところが、人動物間感染症に関して何も業績はない岡山理科大が、どういうわけかこの獣医学部開設に名乗りを上げ、簡単な準備書類で通ってしまったという。

不思議なこともあるものだ。

国家戦略とはこんなものなのか?

悪しきガバナンスが大学を破壊した 

大学法人化後、官僚が大量に大学に天下るようになった。それに併せて、ガバナンス改革と称して、教授会の権限縮小と学長・総長への権力集中が行われた。その結果、大学の自治は失われ、大学が文字通り破壊された。それは結局、日本という社会の行く末を示す象徴的な出来事だ、という論考。

天下りが国家を危うくし、権力の集中が社会の健全さを損なう、これは大学だけの話ではない。

gendai.ismedia.jpより引用~~~

『日本の大学をぶっ壊した、政官財主導の「悪しきガバナンス改革」
なんのための大学か【後編】
石原 俊明治学院大学社会学部教授』

こちら。

銃剣術について 

新指導要領で中学校の体育武道選択科目に入れられた、銃剣術。2月に文科省が、この銃剣道の導入についてパブコメを公に求めた際に、「数百」の導入賛成意見があったために、導入されたという。行政のパブコメにはこれまで何度か意見を送ってきたが、その方向で採用されたことはなかった。数百のオーダーで賛成意見があると導入が決まるというのは、何か出来レースの感じがしないでもない。髭の隊長の異名を持つ佐藤参議院議員は、自衛隊の出身なのはよく知られているが、彼は、自衛隊で訓練に用いられているこの銃剣を中学校の教科として採用すべきだ、と主張していた。

木製の銃を相手の「喉、左胸、小手」等に「突き刺す」剣術らしい。喉、左胸は当然急所である。基本的に、直接的に相手を殺すことを目指す。だからこそ、自衛隊の訓練に取り入れられているのだ。銃剣の経験者は、のど、左胸等を突くため、結構けがが多いと述べている。これは、未確認情報だが、中学校の剣道では、「突き」は禁止されているとネットで述べている方もいた。どう考えても、私には、剣道のように、精神性を涵養するための武術には見えない。「殺し、殺される」のをスポーツの形をとって模擬体験する運動にしか見えないのだ。

銃剣道導入賛成の方は、これは軍隊で用いられる銃剣術とは異なるスポーツだ、ときっと主張されるのだろう。だが、自衛隊で訓練に用いられているという、殺人を直接の目的とするこの「武道」を、中学校で教える、教育に取り入れるのは、やはりまずいのではないだろうか。

繰り返し言おう、お子さんをこれから育てようとされる方、育てている方、気が付かないうちに、とんでもない方向に子供たちが連れていかれようとしている。国家神道のプロパガンダたる教育勅語を教育現場に導入しようという勢力と同じ人々が、銃剣道を教育現場に導入しようとしている。それでよいのか、と尋ねたい。

銃剣道と教育勅語 

文科省は、新学習指導要領で、中学校の武道の選択に、「銃剣道」を加えた。銃剣というと、銃の先に短剣を装着して、白兵戦の戦闘行為で殺し合う武器を思い描く。が、確かに、スポーツとしての銃剣道なるものがあるらしい。日本銃剣道連盟という団体もある。だが、その会長は、元自衛隊北部方面隊総監の酒井健氏である。銃剣の訓練は、自衛隊のなかで必須項目として行われているらしい(米軍では、海兵隊以外銃剣の訓練をすでに中止している)。東京都銃剣道連盟会長は、かの小池都知事だ。小池女史は、いまでこそ都民ファーストとして、やわらかな印象を与えているが、以前からかなり極右的な言動の多い政治家だ。銃剣道を、柔道や剣道と並列することは、違和感がある。銃剣は、基本的に殺傷することを直接の目的とする武器であり、剣道のような長い歴史があり現在殺傷とは無縁のスポーツとは、異なる。だからこそ、自衛隊の必須の訓練項目になっているのだ。直接的な殺傷を目的とする訓練である。

教育の場で、教育勅語を用いることは否定されぬ、と政府は見解を述べた。「教育勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切である」としたうえで、「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」との答弁書を閣議決定した。民進党の初鹿明博衆院議員の質問主意書に答えた、ということらしい。

教育勅語が、天皇を国民に崇めさせ、天皇制を維持するために命を投げ出して戦えという、国民を教化するための文章であることはすでに述べた。教育勅語によって、わが国は第二次世界大戦の破局へと突き進んだわけだ。戦後、国会で教育勅語の廃止が決議されたのは、そうした歴史的経過への反省からだった。だが、教育勅語を、教育現場に導入することに異を唱えぬばかりか、森友学園のように、教育勅語を単刀直入に教育現場に導入しようとする教育を、安倍首相は誉めそやしていた。政府・行政は、教育勅語を教育に導入することには抵抗はなく、むしろ積極的のように見える。

銃剣道の武道としての選択、教育勅語の教育現場への導入、これらから、現政権がわが国をどのような方向に導こうとしているのか、明白な形で見えてくるのではないだろうか。これからお子さんを育てる世代の方々は、この現実を十二分に考えた方が良い。

小学校道徳教育のイカガワシサ 

ちょっと前に紹介した通り、先日、国会答弁で文科省の官僚が「教育勅語の内容は優れている」と答えていた。森友学園の幼稚園で教育勅語を暗唱させている教育について、安倍首相等も絶賛していた。

教育勅語とは、国民を天皇の配下にある臣民として規定し、国家神道の教義を国民に浸透させようとするものだ。教育勅語の枠組みは、天皇臣民関係に基づく国体・天照大神信仰・皇祖皇宗への畏敬の念・天皇崇敬という、宗教的な教義である。中身は儒教に基づく道徳的徳目をただ単に羅列したものだが、核心は、一旦国家に危急が生じたら、天照大神の神勅に従って天皇に仕え支えること、即ち命を投げ出して天皇のために戦うことを要求する、前近代的、カルト的な内容だ。それが、国家を狂気に陥れ、国を1945年の破滅に追いやった。その反省から、教育勅語は廃止されたはずだった。ところが、教育勅語が堂々と政治・行政の場で復権しているのである。

それを忖度したのか、小学校道徳教科書の検定が、とんでもなく偏ったものになっている。そもそも、道徳を教化として教えるということのイカガワシサは置いておいても、この検定は笑えて、その後背筋が寒くなる。

経済特区や規制緩和という隠れ蓑を使って、自らの関係者に国の資産をただ同然で譲り、そこに特定の教育機関を作らせるということが、どうしたら「節度、節制」「感謝」「国や郷土を愛する態度」に結びつくのだろうか。

以下、引用~~

小学校道徳教科書への文科省検定に関して、朝日新聞デジタル版から引用~~~

「しょうぼうだんのおじさん」という題材で、登場人物のパン屋の「おじさん」とタイトルを「おじいさん」に変え、挿絵も高齢の男性風に(東京書籍、小4)▽「にちようびのさんぽみち」という教材で登場する「パン屋」を「和菓子屋」に(同、小1)▽「大すき、わたしたちの町」と題して町を探検する話題で、アスレチックの遊具で遊ぶ公園を、和楽器を売る店に差し替え(学研教育みらい、小1)――。

 いずれも文科省が、道徳教科書の検定で「学習指導要領の示す内容に照らして、扱いが不適切」と指摘し、出版社が改めた例だ。

 おじさんを修正したのは、感謝する対象として指導要領がうたう「高齢者」を含めるためだ。文科省は「パン屋」についても、「パン屋がダメというわけではなく、教科書全体で指導要領にある『我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ』という点が足りないため」と説明。「アスレチック」も同様の指摘を受け、出版社が日本らしいものに修正した。

 「ここまで細かいとは」。各社の編集者はこうした検定のやり方に戸惑う。

 検定に臨んだ8社は、2015年に告示された指導要領が学年ごとに定める「節度、節制」「感謝」「国や郷土を愛する態度」など、19~22の「内容項目」を網羅することを求められた。

 学校図書(東京)の編集者は指導要領やその解説書を読み込み、出てくる単語をリスト化。本文や挿絵、設問に漏れなく反映されているか入念に点検したが、それでも項目の一部がカバーされていないという検定意見が数カ所ついた。別の出版社の編集者は「単語が網羅されなくても、道徳の大切さは伝えられる。字面だけで判断している印象だった」と不満を口にする。

 最終的に、検定では8社の計24点(66冊)の教科書に誤記や事実誤認を含めて244の意見がつき、このうち43が指導要領に合わず、「本全体を通じて内容項目が反映されていない」などの指摘だった。

給付型奨学金の貧しさ 

返済不要な給付型奨学金が拡充される。だが、その中身はあまりにお寒い。

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今日の衆議院予算委員会の議論で分かったこと。
国は、経済的に困っている学生を助ける意欲は皆無であること。
この220億円の予算を、奨学金制度をやりくりして(すなわち、他の奨学生の奨学金を取り上げて)、算段しようとしている。

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給付型奨学金制度

予算規模 220億円

対象 全学生の2.5%(国際的に見て、学費無料の国々を除き、最低)

実際の給付額 自宅通学 2万円 下宿通学 3万円
国立大学に通う学生で、非課税世帯家庭の学生は、自動的に学費免除となる
その場合、給付型奨学金は受けられない


給付条件 所得税非課税世帯

給付型奨学金の財源 奨学金制度のなかで手当てする 返還不要の大学院生奨学金を縮小する等、他の奨学金を減らす

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奨学金を貸与する特殊法人、日本学生支援機構は、金融機関として扱われ、その有利子奨学金により、これまで300億円弱の利潤を計上している。同機構は、官僚の天下り先であることは疑いえない。

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わが国の教育は一体どうなって行くのだろうか。安倍首相は、トランプ大統領の意向を受けて、日本の軍備拡張をさらに進めるという。2012年度からの5年間で、軍事費は2000億円超増やされている。軍備を拡張して、一体何を守ろうというのだろうか。これを、教育予算に回すべきなのではないだろうか。また、日本学生支援機構の天下りはすぐに止めること、その利潤追求体質をなくすことを緊急に行うべきだ。

わが国の大学の凋落 

タイムズ・ハイヤー・エデュケーションによる、高等教育機関のランク付けが公表された。

日本の大学は、凋落を続けているらしい。もちろん、このランク付けの調査項目には、英語教育、留学生受け入れ等わが国の大学にとって不利な項目が入っており、欧米の大学が有利に判定されるわけだが、それにしてもアジアでの地位でも落ちている。

こうした低落傾向の理由の大きなものは、やはり大学独立法人化以降、国からの助成金が毎年引き下げられていることなのではないだろうか。国立大学では、毎年1%以上引き下げられている。医学部でいえば、定員を目いっぱい増やしているのに、人員・予算の面で何の手当もないとのことらしい。東大は財政面では比較的恵まれているはずなのだが、長期的に見て実力は落ちているように思える。

現在、毎年のようにノーベル賞受賞者がわが国から出ているが、多くの研究は20、30年以上前の研究に対する授与だ。残念だが、今後、教育レベルの低下による国力低下は免れないように思える。

杜撰な使い方をされている政党助成金の一部でも、大学への助成に回すべきではないか・・・長い目で日本の将来を考える政治家・官僚がいない。

以下、引用~~~

東大またアジア首位逃す 世界大学ランキング
16/09/23記事:共同通信社

 【ロンドン共同】英教育専門誌タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)は21日、今年の「世界大学ランキング」を発表、東京大は昨年の43位から39位に順位を上げたもののアジアでは4位となり、昨年に続きアジア首位を逃した。THEは日本の競争力低下に懸念を示している。
 
 上位980校中、日本の大学は69校が入り数ではアジアでトップだが、上位200位内に入ったのは東京大と91位の京都大(昨年88位)の2校。
 
 400位内には東北大、大阪大、東京工業大、名古屋大、九州大、豊田工業大も入り、昨年の6校から8校に増加した。
 
 アジアではシンガポール国立大が全体の24位で最も高く、北京大(中国)が29位、清華大(中国)が35位に。韓国は200位内に4校入った。
 
 THEのフィル・バディ編集長は、日本の大学の資金不足や海外の大学との共同研究の少なさを挙げ、周辺国の大学が順位を伸ばす中で「日本は後れを取らないようにしなければならない」と警告した。
 
 全体の上位10校は英米とスイスの大学で占められ、1位は英オックスフォード大(昨年2位)。2位は米カリフォルニア工科大(同1位)、3位は米スタンフォード大(同3位)だった。
 
 ランキングは論文の引用頻度や教員スタッフ1人当たりの学生数など13の指標で評価した。

大学教育、教科書のコスト 

私が医学部に在籍していた40年以上前でも、教科書の類は高価だった。一冊1万円以上、何分冊かをそろえると数万円なぞという教科書がざらだった。その当時は、あまり感じなかったが、裕福でなかった両親にとって、大きな出費だったことだろう。何も言わずにその費用を出してくれた親のありがたみを改めて感じる。

米国では、学費はさらに高く、そのうえ教科書も高価なようだ。無料ないし低廉な教科書をネットで学生に閲覧させるサイトがあることを、Facebookのポストで知った。自然科学から人文科学までそろっている。これには、例のビルゲイツの財団などが財政面でバックアップしている様子。こちら。米国の制度もかなり無理のあるところもあるが、学ぼうとする学生をバックアップする体制が整っている点は素晴らしい。

わが国でも、特に国立の大学学費がどんどん上がり、奨学金を得て大学に進学しても、卒業までに数百万円以上の借金を背負うことになってしまうようだ。教育は、医療とともに大切な社会的なインフラだ。大学を独法化して助成金をどんどん減らすのではなく、むしろ税金をもっと投入すべきだ。学費を安くし、学ぶ意欲のある学生には門戸を開くべきだ。同時に、教科書を無償で閲覧、DLできる体制を作るべきだろう。貧しいために教育が受けられない、または学生が、大学教育をうけたがために経済的な大きな負債を追って、社会に出るということがあってはいけない。

大学の序列化による管理と、基礎的学問の軽視 

大学への公的補助金が毎年1%ずつ削られ続けている。その一方、予算の重点的配分として、少数の研究者、施設に補助金が配られる。その「重点化」は、研究者に一定期間内に結果を出すことを求める。さらには、文学部の哲学科のような基礎的学科を廃止する、ないし企業利益に結びつく「実学」に変更させる動きもあるらしい。

こうした問題を、京大の理学部学部長の立場から批判的に論じておられるのが、こちら

結局、予算配分によって行政が大学を縛り、大学の序列化を生むことになる。下記の記事にあるように、少数のグロー^バル大学、スーパーグローバル大学に予算を重点的に配分する一方、それ以外の大学、さらに基礎的な学問を研究する学部・学科には、存続の可否まで含めた厳しい要求が突きつけられるのだろう。特にスーパーグローバル大学に選ばれた大学には、すでに予算が重点的に配分されている。このプログラムで配分される予算は、その額に比べると大した額ではない。このプログラムから外された大学への補助金を減らすための口実であるとも言える。

こうして、教育予算を増やすことなく、大学の中央集権化・序列化、行政による支配を強化するのだ。教育内容の「実学化」によって、基礎的学問研究が、ないがしろにされる。基礎的学問をないがしろにするところでは、応用的技術の飛躍的な発展は望めない。安倍内閣の経済成長戦略に掲げられた「科学技術イノベーションの推進」という、うたい文句が空しく響く。


以下、引用~~~

グローバル大学37校を選定 国際化進める大学支援

記事:共同通信社
14/09/26

 文部科学省は26日、世界レベルの研究を行う大学や、国際化を進める大学を支援するため「スーパーグローバル大学」に国公私立大37校を選定したと発表した。期間は10月1日から2023年度末まで。

 104校が応募し、文科省の有識者委員会が審査した。世界トップレベルの教育や研究を目指す「トップ型」には東京大、東北大、広島大など国私立計13校、新しい取り組みで国際化を先導する「グローバル化牽引(けんいん)型」には金沢大、会津大、立命館大など国公私立計24校が選ばれた。

 選定された37校は今後、各大学の構想に基づいて海外のトップレベルの大学と共同での大学院の創設や、海外の大学との連携などを推進する。

 文科省は教員の人件費など必要経費を支援。支援額は大学によって異なり、「トップ型」が1校あたり年間4億2千万円、「グローバル化牽引型」が1校あたり年間1億7200万円を標準額としている。

いじめについて 

一頃、いじめによる中高生の自殺が連続して起きた。小児期のいじめは、以前からあった問題だ。それが自殺にまで被害者を突き動かしてしまうようになったのは、どうしてなのだろうか。それを何とか理解し、対応を考えてゆかねばならないと思う。

学校医をしていて、保健委員会のあるたびに、先生方にいじめがないかということを伺ってきた。が、返事は、いつも、そのようなことはない、ということだった。田舎の小学校で平和なのだろうかとも考えたが、それを信じるのは難しかった。残念だが、医師としてのコミットの仕様はあまりなかった。

この問題について思うことは二つ。

一つは、問題は学校だけにあるのではないだろう、ということだ。識者・教育関係者がすでに述べていることだが、問題は家庭と、さらには社会そのものにあるのだろうと思う。ケースによって状況が変わるので、一つ一つのケースできめ細かな調査が必要なのだと思う。問題は学校だけにあるのではない。これは、子供たちを取り囲む大人がいつも認識すべきことだ。学校とこどもたちだけの問題ではないだろう、ということだ。

もう一つ、これもネット上で読んでなるほどと思ったのだが、いじめる子、それにいじめられる子以外に、第三者の子供たちがたくさんその周囲にいる。その子供たちが、いじめに関して傍観者でいることが大きな問題なのではないだろうか。坂本義和氏の「人間と国家 上下」の最終章の最終パラグラフに「他者への無関心を克服する」という文章がある。彼が、自らの政治学者、市民運動家としての人生を振り返ったあと、後に続く若い人々に書き記した文章の最後に、他者への無関心を克服することの大切さを訴えるこの文章が置かれていることが、とくに印象に残る。世界的規模、ないし国家内部での「競争」が、格差を拡大し、人間性を喪失させる。無関心やアパシーを克服することによって、そうした格差、差別さらに人間性喪失んい対処できるのではないか、と彼は説いている。いじめの現場を遠くからただ見るだけ、ないし目をそむけている周囲の子供たちの無関心がどのようにして生まれたのか、如何にしたら、いじめを受ける友人へ関心を持たせることができるのか、それを教育界、社会そして家庭で考えてゆかねばならないのではないだろうか。

いじめを限りなくゼロに近づけなければならない。ただ、それは社会の多様性、個々人の個性の多様性から難しいことが多い。むしろ、いじめへの社会の対応力resilienceを伸ばすことが、いじめへの直接的対応と同等か、それ以上に必要なことなのではないか、と考える。