国連による、幸福度調査報告 

国連による世界各国別幸福度調査が公表された。こちら。

155か国各3000名を対象として、アンケート方式で調査したようだ。調査項目は以下の六つ。0から10までのスケールで回答を求め、その平均をとっている。

GDP per capita
healthy years of life expectancy
social support (as measured by having someone to count on in times of trouble)
trust (as measured by a perceived absence of corruption in government and business)
perceived freedom to make life decisions
generosity (as measured by recent donations)

日本はといえば、51番目である。過去10年間の幸福度の変化でみると、マイナス0.4を超えており、この変化は、世界で106番目。要するに、「不幸」な方に進んだ、ということだ。特に、国民一人当たりのGDPは大きいが、社会的基盤の点で幸福さをあまり感じなくなっているようにグラフからは読めるようだ・・・。

トップ10は、中小の国々であり、7つは西ヨーロッパに所属する。社会民主主義政策をとっている国が多くランク入りしている。いわゆる、ポピュリズムの勃興が目立つ国々は、上位には多くないように思える。米国が、格差の進行と政治的な清廉さの喪失でかなり低い位置にあるのが興味を引く。

社会的基礎を充実させることにより、経済的な豊かさで得られぬものを人々が実感できるようになる、という総括の言葉が印象に残る。

さて、わが国がこれからどういう方向に向かいつつあるのか。興味深い調査である。

いのちは自分自身だけでは完結できない 

自由の森学園高等学校という学校は、今まで知らなかった。そのサイトを見ると、1985年に創設された学校で、生徒の個性を尊重し、自ら経験し考えるための教育を行っているらしい。

その校長先生の卒業式での言葉。最後に引用されている吉野弘さんの詩とともに、こころに響く。このような先生に教育を受けた若者たちは、幸せなことだ。

我々が、健康に社会生活を送れるのは、ほんとうに僥倖に過ぎない。誰が優れている、どの民族が優れているといったことは、ない。あるのは、遺伝的・社会的・歴史的に決定されたほんのわずかな「差異」だけ。それをもって優劣を競い合うというのは馬鹿げたこと。その差異ゆえに我々は互いに寄り添いあう。が、時代の潮流として、その差異をもって、差別したり、社会を分断したりする動きも、政治そして社会にある。それは憎しみと諍いしか生まない。若者には、それを乗り越えて行ってもらいたいものだ。

この祝辞を述べた校長先生・他のスタッフに教育された若者は、その差別・分断を乗り越えて行ってくれるだろう。世の中を良い方向に動かしていってくれるのは、そうした若者だ。

以下、引用~~~

3月12日付2016年度 自由の森学園高等学校 卒業式 校長の言葉 - 自由の森日記

卒業生のみなさん 卒業おめでとうございます。
保護者のみなさん、お子さんの卒業おめでとうございます。
そして、これまでの学園に対するご支援とご協力に感謝申し上げます。
自由の森学園において授業というものの持つ意味は深く重いものだと思っています。
ここで話すいわゆる校長の言葉も、みなさんにとっての最後の授業というつもりで私は臨んでいます。
私は昨年の夏からずっと「 生命( いのち )の重さ 」について考え続けていました。
昨年の7月に起こった相模原の事件、何の罪もない無抵抗の障害者の方々19名が犠牲になり、
また多くの方々が深い傷を負い、そしてまた、私たちの社会に大きな衝撃を与えました。
みなさんの中にも、この報道に接してどのように考えていったらいいのか立ちつくしていた人もいたかもしれません。
私もその一人でした。
9月の全校集会では、この事件について共に考えていこうといった呼びかけが教員の中からありました。
この事件の根底には様々な考え方が複雑に絡み合っていると言われています。
その一つとして「 優生思想 」があげられています。
「 価値がある人間・ない人間 」「 役に立つ人間・立たない人間 」「 優秀な人間・そうでない人間 」といった偏った考え方で人間をとらえ、人間の生命に優劣をつける思想です。
また、この事件は「 ヘイトクライム 」( 憎悪犯罪 )の特質も持っていると言われています。
ヘイトクライムとは、人種・民族・宗教や障害などの特定の属性を持つ個人や集団に対する偏見や差別にもとづく
「 憎悪 」によって引き起こされる暴力等の犯罪行為を指す言葉です。
この事件の問題を「 常軌を逸した加害者の問題だ 」として、
軽々に判断し押し込めてしまってはいけないように私は感じています。
全盲と全ろうの重複障害を持つ 福島 智( さとし )さん( 東京大学先端科学技術研究センター教授 )は次のように書いています。
「 こうした思想や行動の源泉がどこにあるのかは定かではないものの、
今の日本を覆う『 新自由主義的な人間観 』と無縁ではないだろう。労働力の担い手としての経済的価値や能力で人間を序列化する社会。
そこでは、重度の障害者の生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。
しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。
生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、徐々に拡大し、
最終的には大多数の人を覆い尽くすに違いない。 」
「 役に立つ/立たない 」といった人間や生命を価値的に見ていく考え方は、
いずれは自分も含めた全ての人の生存を軽視・否定することにつながっていくのだと福島さんは述べています。
人間の価値、生命の価値、生きる価値、そもそも人間や生命という言葉に「 価値 」という言葉をつなげるべきではない、
私はそう思っています。人間には、そして生命には「 尊厳 」があるのです。
尊厳とは「 どんなものによっても代えることができないもの・存在 」と言うことができるでしょう。
ここにいるみなさん一人ひとりもそうです。
あなたは何ものにも代えられないのです。あなたの代わりはどこにもいないのです。
人間をそして生命をも、取り替えることが可能なものとして「 価値的 」に見てしまう現代社会において、
「 価値 」ではなく「 尊厳 」という言葉で自分をそして自分の人生を見つめていくことが大切だと私は思っています。
当然その視線は、自分以外の他者やその人生をも見つめることにもなるでしょう。
そしてそれは「 どのような社会を目指していくのか 」ということにもつながっていくと私は思っています。
自由の森学園は、かけがえのない子どもたち若者たちをテストという一元的な価値で人間を序列化し評価するといった
価値的に人間をとらえる教育のあり方をやめ、一人ひとりの学びを大切にした学校をつくりだそうとして誕生しました。
自由の森に集うわたしたちは、人間をそして生命を価値的に見るのではない
「 ものの見方 」を、そして「 人間の尊厳 」を、学び続けていると言っていいでしょう。
今、社会には、ヘイトクライム、ヘイトスピーチ、ヘイト文書など、ヘイト・憎悪という言葉があふれています。
この「 憎悪 」に対するものは「 学び 」だと私は思っています。
学ぶということは本来、さまざまなことをつなげていく・結びつけていくことだと思います。
学ぶことによって、自然とつながり、社会とつながり、芸術とつながり、他者とつながり、そして、自分とつながる、
そんな学びをみなさんにはこれからも続けていってほしいと願っています。
最後に、ある詩をみなさんと共有したいと思います。
吉野弘さんの「 生命( いのち )は 」という詩です。
有名な詩なので、みなさんも出会ったことがあるかもしれません。
私は昨年の夏以来この詩が胸の中にあります。
   『 生命 ( いのち ) は 』        作:吉野 弘
  生命 ( いのち )は
  自分自身だけでは完結できないように
  つくられているらしい
  花も
  めしべとおしべが揃っているだけでは
  不充分で 虫や風が訪れて
  めしべとおしべを仲立ちする
  生命 ( いのち )は
  その中に欠如を抱き
  それを他者から満たしてもらうのだ
  世界は多分 他者の総和
  しかし 互いに
  欠如を満たすなどとは
  知りもせず 知らされもせず
  ばらまかれている者同士
  無関心でいられる間柄
  ときにうとましく思うことさえも許されている間柄
  そのように 世界がゆるやかに構成されているのはなぜ?
  花が咲いている
  すぐ近くまで
  虻 ( あぶ ) の姿をした他者が
  光をまとって飛んできている
   私も あるとき
  誰かのための虻 ( あぶ ) だったろう
  あなたも あるとき
  私のための風だったかもしれない
卒業おめでとう。みなさんの健闘を祈ります。
自由の森学園高等学校
校長 新井達也

歴史的な転換点 包摂型社会から排除型社会へ 

世界的に見られるマイノリティ、社会的弱者を排除する社会的な動きは、大きな潮流になりつつあるようだ。

それが生じた理由の一つは、資本主義社会が突き当たっている壁だ。資本主義社会の原動力は、利潤の追求だ。その追求の場が、地理的なフロンティアからネット空間に移行した。現代の資本主義の先端は、ネット空間の金融資本主義にある。だが、それもリーマンショックをもたらし、金融機構の信用不安を生じた。現在、再びネット金融資本主義はバブルを生じつつあり、米国トランプ政権の銀行金融業の規制緩和によってそれが加速し、やがてリーマンショック以上の金融破たんが生じる。こうした資本主義社会の直面する壁は、低成長と長期金利の低下に如実に表れている。先進諸国は、おしなべて低金利、場合によってはマイナス金利に陥っている。これは、資本主義社会の利潤追求が壁にぶち当たっていることを示している。

20世紀の二つの世界大戦を契機に、国民国家は、国民福祉を主要な目的としてきた。だが、上記のような経済社会的な限界に突き当たり、国民を包摂する社会を放棄しつつある。代わって登場しているのが、少数者・社会的弱者を排除する排除型社会だ。社会福祉は縮小され、すべてにおいで自己責任が強調される。そこで、経済格差に苦しむ国民は政権に対する批判を行い、場合によっては犯罪が横行するようになる。

こうした動きは、国際社会のなかでも同様な構造で起きる。宗教・文化的対立、資源確保の争いも混じり、テロリズム・宗教原理主義の武力抗争が局地的に進行する。

そのような文脈で見てみると、「安保法制、特定秘密保護法、共謀罪、緊急事態条項を含む憲法改正」という一連の流れが、明瞭な歴史的意義をもって目の前に現れる。わが国の場合、天皇制に宗教的な意味を付与し、それを中心に国民をまとめようとする歴史修正主義にたつ政治家が政権を握っている。彼らは、その戦前の皇国史観に立つ国家主義によって、この歴史的な変換点を乗り切ろうとしているのではないだろうか。その具体的な社会の在り方は、思想的な管理を伴う排除型社会となる。そこでは、国民の主権はおろか、基本的人権は認められぬ社会だ。

権力を持つ側は、いわば歴史的な転換点にたって、自らの信じるところを実現しようとしている。それを、国民の側はどう理解し、対応するか、だ。これまで通り、権力者と官僚とに無批判の信頼をおき、すべて預けていて良いのかどうか、という問いだ。この先に進むと、引き返すことができなくなる。

朝日Web Ronzaより引用~~~

続・「共謀罪」が成立すると、どんな社会になるか
恐怖が、究極の監視社会への原動力(一部引用)
斎藤貴男

 エドワード・ルトワク(引用者注・アメリカの歴史学者)によれば、包摂型社会から排除型社会への移行から、次のような二つの事態がもたらされる。すなわち、一方では貧困層がたえず相対的な剥奪観を抱くようになり、そのために犯罪が増加の一途をたどっている。他方では、比較的裕福な層の人々も不安定な状態に置かれて不安を抱くようになり、法を犯すものにたいして不寛容と処罰をもって処すべきという意識が高まっている。犯罪の増加と処罰の厳格化という、私たちの社会が直面している二つの事態は、同じ根っこから生じたものである。

 ヤングの議論は、世界を席巻し、あらゆる国々の階層間格差を広げている新自由主義イデオロギー分析の延長線上にあった。家庭環境や経済力次第で人それぞれスタートラインが異なる現実を無視し、あたかも正当な競争のように見せかけ、にもかかわらず自己責任原則を絶対のルールだと演出する新自由主義のシナリオは、イコール社会ダーウィニズムと同義と言って過言でない。ダーウィンの進化論を人間社会に丸ごと当てはめ、社会的地位の高い人間は優れた人間、低い人間は劣った人間と見なし、“劣った人間”を排除していけば世界も人類も進化するという思想潮流は、19世紀後半から20世紀前半における欧米列強の帝国主義や植民地支配、あるいは労働者の搾取を正当化した。

 権力者や巨大資本にこうまで都合のよい理屈も珍しい。そこに医学や遺伝学の装いを凝らしたのがナチスの優生学で、第2次世界大戦の終結とともに国際社会では一時的にタブー視されたのが、いつの間にか蘇っていた構図だ。

日本ペンクラブ 共謀罪反対声明 

日本ペンクラブも共謀罪新設に反対する声明を出した。

以下、引用~~~

日本ペンクラブ声明 「共謀罪に反対する」
共謀罪によってあなたの生活は監視され、
共謀罪によってあなたがテロリストに仕立てられる。
私たちは共謀罪の新設に反対します。

 私たち日本ペンクラブは、いま国会で審議が進む「共謀罪(「テロ等組織犯罪準備罪」)」の新設に強く反対する。過去の法案に対しても、全く不要であるばかりか、社会の基盤を壊すものとして私たちは反対してきたが、法案の本質が全く変わらない以上、その姿勢に微塵の違いもない。
 過去に3度国会に上程され、いずれも廃案となった法案同様、いま準備されている共謀罪は、事前に相談すると見なされただけでも処罰するとしている。これは、人の心の中に手を突っ込み、憲法で絶対的に保障されている「内心の自由(思想信条の自由)」を侵害するものに他ならない。結果として、表現の自由、集会・結社の自由など自分の意思を表明する、あるいは表明しない自由が根本から奪われてしまう。
 しかも、現行法で、十分なテロ対策が可能であるにもかかわらず、共謀罪を新設しなければ東京オリンピックを開催できないというのは、オリンピックを人質にとった詭弁であり、オリンピックの政治的利用である。
 このような法案を強引に成立させようとする政府の姿勢を許すわけにはいかない。  
 法案の成立を断固阻止すべきである。

 2017年2月15日
  一般社団法人日本ペンクラブ                 会長      浅田次郎                 
                                    言論表現委員長 山田健太

残業時間の上限規制強化という偽善 

こんなことをしたら、ますますサービス残業が増える。長時間労働に批判的な世論へのガス抜きか。

まずは、長時間労働を余儀なくされている医師等の実際の労働時間をしっかり調べるべきだ。

公務員にも、サービス残業が多い。こちらを参照。この苛烈なサービス残業をやり抜いた官僚が作る制度だから、必然的にザル法になるのか。この深夜に及ぶ官僚の残業の多くは、国会対策だと言われている。

法律上、残業時間規制を厳しくするなら、それを実現するための担保が必要だ。

以下、引用~~~

<残業>「月80時間」上限、政府調整 19年度導入目標
毎日新聞 1/25(水) 7:00配信

 政府は、長時間労働の是正策として検討している残業時間の上限規制について「月80時間」を軸に調整に入った。1カ月単位だけでなく半年や1年などの期間でも規制を設け、この場合は「月平均45時間」などとする案が出ている。政府の働き方改革実現会議の労使メンバーらの意見も踏まえて今国会か今年の臨時国会に労働基準法改正案を提出し、2019年度からの導入を目指す。

 厚生労働省が昨年公表した過労死白書によると、過労死ラインとされる月80時間超の残業があった企業は約2割に上り、上限規制で一定の効果が期待される。

 労基法は残業を原則禁止しているが、労使が同法36条に基づく「36(さぶろく)協定」で特別条項を付ければ時間制限を外すことができる。長時間労働を助長すると指摘されており、昨年問題になった広告大手・電通の過労自殺では亡くなった社員の時間外労働が月100時間を超えていた。

 政府は新たな法規制による企業への影響は限定的とみているが、長時間労働へ厳しい目が向けられている現状を踏まえ「世論の動向も重要だ」と指摘する政府・与党関係者もいる。上限を80時間より短くする声が強まれば、経済界との調整が難航する可能性がある。

 忙しさが時期によって異なる業種などに配慮し、複数月での規制も検討。月平均45時間とした場合、6カ月単位なら270時間が上限になる。運輸業などで認められている適用除外も残す方向で、3月末までに最終決定する。【阿部亮介】

住民情報システムと犯罪 

住民情報システムに仕事上アクセスできる人間が、そこから得た情報をもとに強制わいせつ罪の犯罪行為を行っていたというニュースが昨日流れた。調べてみると、同じように住民情報システムから得た情報で同じような犯罪を犯したケースがいくつかあることが分かった。

http://www.at-s.com/news/article/social/shizuoka/254114.html

http://juki.popolo.org/news/tuika050311.pdf

このようなプライバシーを扱うメガデータでは、セキュリティをいくら強固にしても、それにアクセスする人間が犯罪を意図したら、たまったものではない。それは、容易に防げない。

さらに、国家権力やら、プライバシー情報で利益を得る保険会社等が、そうしたデータを恣意的に用いることができるとすると、寒々しい社会状況が見えてくる。

厚労省は、医療情報と介護情報を結合させたデータベースを国の規模で作りあげるつもりらしい。「マイナンバー」に紐づけする積りなのだろう。医療介護という高度にプライベートな情報を、国家規模で一元的に管理すべきなのか、住民情報システムで生じた犯罪行為への反省がどれほど生かされているのか、大いに疑問だ。

以下、引用~~~

住民情報盗み見、女性宅侵入=元中野区臨時職員を逮捕-警視庁

 東京都中野区役所で勤務中に住民情報システムに接続し、個人情報を盗み見て女性宅に侵入したとして、警視庁捜査1課は11日、同区個人情報保護条例違反と住居侵入の疑いで、元中野区臨時職員高橋健一郎容疑者(29)=強制わいせつ罪などで起訴=を逮捕した。黙秘しているという。
 逮捕容疑は、同区の戸籍や住民情報を扱う部署に勤務していた2014~16年、住民情報システム端末で、同区に住む20代女性の氏名や住所などの個人情報を閲覧。この女性が1人暮らしをするマンション3階の部屋のベランダに計3回侵入し、下着の写真を撮るなどした疑い。
 捜査1課によると、高橋容疑者宅からは勤務中に知ったとみられる女性の名前や住所などおよそ50人分の個人情報が保存されたパソコンや携帯電話が押収された。
 同容疑者は昨年7月、同区で1人暮らしだった別の20代女性のアパートに侵入し、わいせつな行為をするなど計5件の強制わいせつ事件で逮捕されており、このうち被害女性3人の個人情報も保存していたという。
 しかし事件前の閲覧記録は確認されておらず、同課は侵入後に被害女性の名前や年齢などを盗み見ていた疑いもあるとみて調べている。
 田中大輔中野区長のコメント 区民に多大な心配と迷惑を掛け、心からおわびする。事実関係を調査し、厳正に対応する。(2017/01/11-17:59)

日本財団の偽善 

フェースブックで、日本財団が「こどもサポートプロジェクト」なる活動のPRを行っていた。六人に一人の貧困小児に援助の手を、という趣旨だ。結構な数の人々が、そのサイトにアクセスし、真摯なコメントを残している。

だが、日本財団は、モーターボートレース(以下、レースと略す)の売り上げから活動資金を得ている団体だ。レースは、一種のギャンブルである。ギャンブルに依存する人々を必然的に生み出している。ギャンブルに依存する方は、中高年に多く、その多くは必然的に貧困に陥る。そうした素性の日本財団が、貧困小児に援助の手を差し伸べようというプログラムの活動を繰り広げるのは違和感がぬぐ得ない。

貧困小児の問題は、親が貧困であるために生じる。公営ギャンブルの問題はもとより、非正規雇用をどんどん増やし、平均賃金は削られてゆく政治の問題が根底にある。そこに切り込まないで、ギャンブルで得たあぶく銭を元手に、慈善活動もどきをやるのは、偽善だ。

日本財団会長笹川陽一が委員長となって、福島第一原発事故後福島県で毎年開催されている集まりがある。「放射線と健康についての福島国際専門家会議」だ。今年、5回目の会議で、被曝小児への甲状腺の定期健診を規模縮小することを福島県知事に提言した。チェルノブイリ事故の研究者をヨーロッパから招いていたが、まだ健診を継続すべきという趣旨の講演を行った彼らはその提言に加わらなかった。福島県は、同会議の提言を受けて、健診の規模を縮小するようだ。これから、被曝の影響が出てくる可能性が高いのに、とんでもないことだ。ノーベル賞受賞の益川氏等が、反対声明を出している(別ポストにアップする)。原子力村は、将来の賠償費用を削減しようと、被曝による健康被害をなるだけ小さく見せかけようと動いている。日本財団のこの会議も、その一部だ。

日本財団は、まるで社会の慈善活動、被爆者を援助する活動を行うと見せかけて、それとは真逆のことを裏で行っている。

ポピュリズムとは何か 

ポピュリズム台頭に関する、小熊英二氏の優れた論考である。

中流階級が、自らの立ち位置が崩されようとしている。彼らは、昭和の時代に生まれた、安定した年功序列社会で自分の生活を築いてきた人々だ。非正規雇用の拡大、年功序列の消失、そして年金制度の崩壊の危機が、彼らの立ち位置を崩そうとしている。

彼らは、懐かしい昭和の時代に戻ろうとする。今となっては、良き古き時代の価値観に。伝統的な家族制度の尊重、自国の歴史を書き換えてでもそこに自尊心の根拠を見出そうとする修正史観である。それの裏面は、排他主義である。

そうした人々が、ポピュリスト政治家を支持する。ポピュリスト政治家は、改革者のような体裁をとるが、彼らの価値観は古き良き時代への回帰という幻想だ。ポピュリストは、没落しようとしている中流階級に古き良き時代に回帰しようと訴える。だが、内実は、回帰するのはファシズムである。

朝日新聞デジタル版より引用~~~

脱ポピュリズム 「昭和の社会」と決別を 小熊英二
2016年12月22日05時00分

 ポピュリズムの支持者は誰か。遠藤乾はEU離脱支持が多い英国の町を訪ねた〈1〉。そこでは移民の急増で病院予約がとれず、公営住宅が不足し、学級崩壊も起きている。「英国のアイデンティティ」の危機を感じる人も多い。

 だがこの論考で私の目を引いたのは、現地の女性が発したという以下の言葉だった。「彼ら移民は最低賃金の時給七ポンド弱(約九百六十円)で休日も働き残業もいとわない。英国人にはもうこんなことはできないでしょ?」

 私はこれを読んで、こう思った。それなら、日本に移民は必要ないだろう。最低賃金以下で休日出勤も残業もいとわない本国人が、大勢いるのだから。

 西欧で移民が働いている職場は、飲食や建設などだ。これらは日本では、(外国人や女性を含む)非正規労働者が多い職場である。西欧では移民が担っている低賃金の職を、日本では非正規や中小企業の労働者が担っているのだ。

 それでは、英国でEU離脱を支持した層は、日本ならどの層だろうか。日本の「非正規」が英国の移民にあたるなら、それは「非正規」ではないはずだ。

 先月も言及したが、大阪市長だった橋下徹の支持者は、むしろ管理職や正社員が多い。低所得の非正規労働者に橋下支持が多いというのは俗説にすぎない。

 米大統領選でも、トランプ票は中以上の所得層に多い。つまり低所得層(米国ならマイノリティー、西欧なら移民、日本なら「非正規」が多い部分)は右派ポピュリズムの攻撃対象であって、支持者は少ない。支持者は、低所得層の増大に危機感を抱く中間層に多いのだ。

 では、何が中間層を右派ポピュリズムに走らせるのか。それは、旧来の生活様式を維持できなくなる恐怖である。それが「昔ながらの自国のアイデンティティー」を防衛する志向をもたらすのだ。

 ファリード・ザカリアは、EU離脱やトランプを支持した有権者の動機は「経済的理由ではなく文化要因」だったと指摘する〈2〉。移民増加や中絶容認などを嫌い、英国や米国のアイデンティティーの危機を感じたことが動機だというのだ。確かにその背景は、雇用の悪化で生活の変化を強いられたことではある。だがそれは、「古き良き生活」と観念的に結びついた国家アイデンティティーの防衛という文化的な形で表出するのだ。

 日本でも社会の変化とともに、右派的な傾向が生まれている。だが日本では、移民や中絶の問題は大きくない。その代わりに、歴史認識や夫婦別姓の問題が、「古き良き生活」と結びついた国家アイデンティティーの象徴となっている。

 そして調査によれば、ネットで右翼的な書き込みをしたり、「炎上」に加担する人に多い属性は、「年収が多い」「子供がいる」「男性」などだ〈3〉。いわば「正社員のお父さん」である

 この層は、旧来の生活様式、つまり終身雇用や専業主婦などが象徴していた「昭和の生活」を達成しようとあがきながら、それが危うくなっている中間層である。10月の本欄で述べたが、都市部で子供2人を大学に行かせれば、年収600万円でも、教育費を除いた収入は生活保護基準を下回ってしまう。

 さらに住宅を買い、多少の余裕を持つには年収800万でもぎりぎりだろう。統計上は「中の上」の収入でも、「昭和の生活」を維持するのは苦しいのだ。

 もっと働いて稼げ、というのは解決にならない。長時間労働はもう限界だ。日本の労働時間は平均では減少したが、それは非正規労働者が増えたためで、正社員の労働時間は増加傾向だ。長時間労働者の比率は欧米よりずっと多い。サービス残業のため「時給換算で約700円」の大企業正社員もいる〈4〉。

 ではどうするか。無理が多い時は、目標の立て方を見直した方がよい。つまり「昭和の生活」をめざすことが無理なのだ。男性が年収800万を長時間労働で稼ごうとするよりも、男女が適正な労働時間で400万ずつ稼ぐ方が、現代の経済状況に適合している。「古き良き生活」に固執し続ければ、不安とストレスから抜け出せないし、右翼的な書き込みや投票行動をも誘発しかねない。

 しかも日本の労働生産性は製造業で米国の7割、サービス業で5割にすぎない〈5〉。低賃金の長時間労働は、古い産業や古い経営を維持する結果になっている。今の日本は「昭和の社会構造」を維持するために疲れ切っているのだ。

 これは都市だけの話ではない。日本でも実習生という名の移民が農業や縫製などで働いている。安田浩一はこれを「日本の地場産業が、低賃金で働く外国人実習生によって、ぎりぎりのところで生き永らえている」と評した。安田によれば「移民によって日本が日本でなくなる」というのは逆で「外国人によって日本の風景が守られている」のが実態だ〈6〉。

 過去への愛着は理解できる。だが人権侵害が指摘される制度を使ってまで「日本の風景」を維持するべきだろうか。同じく、人間を破壊する長時間労働で「昭和の社会」を維持するべきだろうか。それは他者と自分自身の人権を侵害し、差別と憎悪の連鎖を招きかねない。

 右派ポピュリズムの支持者は誰か。それは古い様式に固執し、その維持のためには人権など二の次と考える人である。他者と自分の人権を尊重し、変化を受け入れること。それによってこそ、健全な社会と健全な経済が創られるはずだ。

糸魚川の大火 

糸魚川市の火災で被災された方にお見舞いを申し上げます。

今回の火災が広範に及んだ理由は、フェーン現象や、強い風もあるかもしれないが、糸魚川市内の立て込んだ街並みも大きなファクターだったのだろう。

密集した住宅地というと、まず東京が思い浮かぶ。特に、下町を中心とした区部の住宅は、ほとんど間隔がなく建てられている。防火のためのスペースがないところが多い。さらに、電柱が狭い道路に建てられており、地震の際にそれが倒れると、救助、消火活動を妨げる。

東京消防庁の作成した、地震・火災に対するリスクを示す地図がある。こちら。上記の地域は、ハイリスクであることが分かる。特に下町地域は、地盤が軟弱であり、街並みとしても火災で被災しやすい。

建物の間隙を多くとるようにする、防火帯を設ける、電柱の地下化を進める、地域での防災・消火活動の準備を行うということを進めるべきではないだろうか。もちろん、難しい問題もあるが、地震による火災は同時多発する。なんとしてもできることから、予防処置を講じておく必要がある。

糸魚川は、ドライブ旅行で何度か通過したことがあり、思いで深い土地だ。白馬から姫川沿いの曲がりくねった道を日本海に向けて走る。その突き当りに、糸魚川の町がある。海岸沿いの料理屋で食べたあら汁が旨かったこと。被災地の皆さんが一日も早く普段の生活を復旧されることを祈りたい。

post truth politics 

post truth、 脱真実とでも訳すのか、が米国では盛んに問題になっている。事実かどうかは二の次で、人々の感情に訴えかける政治上の手法だ。今回の米国大統領選挙では、Steve Bannonの主宰するサイトBreitbart Newsが、主にClintonを攻撃する事実無根のfake newsを、垂れ流した。こともあろうに、Bannonは、Trump政権のチーフアドバイザーに就任するという。SNSでは、post truth的なポストをいやというほど目にした。ウォールストリートジャーナル紙に対して、Bannonはかってナチス政権下で宣伝を担当したLeni Reifenstahlを参考にしている、と語っていた。この政治手法・報道態度は、ファッシズムを招来する。

わが国の政権はしばしばpost truthを喧伝手法とする。それを受けて、マスメディアは、このpost truthの手法、精神が、徐々に浸透してきているように思える。下記の中野晃一氏のFacebookへの投稿に様々な事例が端的に語られている。

彼の挙げた事例に付け加えるとすると、先の日ロ首脳会談の評価が、マスメディア、とくにテレビでは、安倍政権の代弁者に陥っていることがある。あの会談は、北方領土問題には何も触れず、経済協力だけを得ようとしたプーチンの一方的な勝利だったわけだが、マスメディアは、平和交渉への第一歩だと盛んに、その「業績」を持ち上げている。安倍・プーチン両者の会談後の首脳記者会見を見れば明らかだ。あの会談後、安倍首相は、各テレビ局に出演し、「成果」を宣伝して回っていたが、各番組の司会者は、突っ込んだ議論を彼に仕掛けなかった。会談の乏しい成果だけでなく、この経済協力によって、ロシアがシリア・ウクライナで行っている侵略・武力行使に対する西側諸国の経済制裁から抜け出すことになってしまった。あの会談は二重の意味で失敗だった。だが、それをマスメディアは本格的に追及しない。これは、post truth politicsの一翼を、マスメディアが担いだしていることを意味する。

マスメディア全体を一緒くたに批判するのは行き過ぎだろう。メディアのなかでも、雑誌、ラジオのなかには、事実に基づき報道し、議論しているものがある。TBSラジオの平日夜10時からの「セッショントウェンティトゥ」はいつも出色のでき。だが、全体としては、現政権の政策、外交に批判的な番組、論考は限られたものになっている。特に、国民の大多数が接するであろう、テレビ、インターネットでは、post truth politicsが大きな問題になってきている

国民の多くは、それを理解せぬままに・・・。


中野 晃一氏のFacebookへの投稿を引用~~~

12月15日 12:44 ·
トランプまずいよ、って思ってる人は、日本のまずさもわかったほうがいいと思います。Post-truthつまりポスト真実(真実に基づかない世界)が到来しつつあるということは、啓蒙思想以前の時代つまり中世に戻りつつある、ということ

憲法9条は変わっていないのに、集団的自衛権の行使はできると真逆の読み方ができると、安倍政権が言い出すことで始まりましたが、戦争ができるようにする法律を「平和安全法制」と呼び、南スーダンに「戦闘」はなく「衝突」が起こるだけと言い、「土人」は差別語でないと強弁し(ちなみに「土人」をコンピュータは漢字変換しません。差別語だから)、オスプレイの「墜落」を「不時着」と政府が公式に言い張る。

これはどういうことかというと、客観的な事実や真実よりも国家権力の主観や意図(あるいは主観や意図と主張するもの)が優先する、つまり何が事実か真実かを権力が決めることができる時代が来かねないということです。「墜落」ではなく「不時着」だと言い張るのは、オスプレイの操縦士が着陸させる意図を持っていた(という主張)が、墜落した事実に優先する、ということ。

こういう流れに対して、学問を職業とする大学人が抵抗しないとしたら、それは大学や学問の自死以外のなにものでもないと思うのですが。報道機関も同じこと。いやもうすでに「情報産業」しかないのか?と悪態をつきたくなりますけど。