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北海道開拓史の一面 

小松秀樹氏が、facebookで短いながら、興味深いポストを投下し続けている。

北海道開拓に、囚人たちが如何に利用され、そこで生まれた利権を政治家・貴族がどのように私物化していったのか、ということが分かる。

現在偉大な政治家・起業家と目される人物の多くが、腐敗に関与した歴史だ。

この同じメンタリティが、延々と続き、今も政財官に流れているように思えてならない。

以下、小松秀樹氏のfacebookポストを引用~~~

華族組合農場(田端、桑原、船津、関口『北海道の歴史』山川出版)
農地の開拓も、零細農民に対する土地の払い下げから、資本を持つ者への大規模の払い下げに重心が移動しました。

首相を兼ねた三条実美、菊亭修季(ゆきすえ)、蜂須賀茂韶(もちあき)が4万9千町歩の貸下げを北海道庁長官永山武四郎に出願しました。文献には、貴族院議員の構成メンバーとなる華族の経済基盤を強化するためと書かれていましたが、権力を利用した利権獲得にほかなりません。

農場・牧場の経営、農産物の加工、製粉・製糖・製乳を計画。さらに運搬のために、小型蒸気船を購入、運送事業も計画していました。

道庁に以下の3点を申入れました。

・合理的な農場開墾法の設計を道庁側で設計してほしい
・北海道農業に熟練した農場管理人を道庁から派遣してほしい
・農場内の幹線道路や排水を官費で整備してほしい。

無能で自立心を欠き、公共物と官を私物化し、無責任で欲深い。日本の伝統的貴族です。ノブレス・オブリージュはかけらも見当たりません。福沢諭吉が詳細に繰り返し述べているように、日本の伝統の多くは、ろくなものではありません。

明治23年開墾に着手。最初囚人50人を借り受けましたが、以後実現しませんでした。明治24年三条実美が急死。新たな出資者が3名に限られたため、明治26年解散しました。出資割合に応じて、既墾地を配分。雨竜村の全面積に等しい蜂須賀農場が誕生しました。

大規模払い下げは、当初、大農場経営を目指しましたが、運営の意欲、能力に欠けたためか、徐々に大規模小作制に移行しました。このため、北海道は不在地主による全国一の小作地帯になっていきました。

小作争議が頻発し、小林多喜二は『不在地主』を書き、有島武夫はニセコにあった農場を小作人に開放しました。

朝鮮人虐殺から96年 

昨日、関東大震災から96年経った。あの時に、朝鮮人が流言飛語、そして朝鮮人への差別意識から多数虐殺された。警察に保護されていたのに殺されたのだ。

こちら。

また、現在も、韓国への差別意識が蔓延し始めている。96年前の虐殺を起こした時と同じ社会になりつつある。

韓国への意味のないヘイトを放置して良いのか。誰が、このヘイトによって喜ぶのか、よく考えるべきだ。

敗戦の日に思い起こすべきこと 

昨日は、敗戦記念日。さまざまな集まり、発言それに記事・番組があった。

なかでもNHKが結構頑張っているように思えた。過去の出来事を取り上げることで、現在への問題意識を表現したいと、NHKの担当者は思っているのではないか、と善意に取っている。

だが、多くの記事・番組・発言は、やはり我々日本国民があの戦争で負わされた苦難についてのものだった。私自身もルメイ・無差別爆撃の記事の内容等はもっと語り継がねばいけないと感じた。

あの戦争で310万人が亡くなり、兵士の戦死者230万人中140万人は餓死・病死であった。「尊い犠牲の上にわが国の繁栄がある」「その英霊に感謝の誠をささげる」という表現で、そうした戦死者を思い返すことに、躊躇する。そうした表現は、彼らを死に追いやった「軍部と天皇制全体主義」を免罪し、そうした体制が再生することを肯定するように思えてならないのだ。戦死者の大半は、餓死・病死であった、すなわち彼らを戦場に向かわせた政府・軍部さらには天皇が彼らを死に追いやったのだ。あの戦争の戦死者を美化することなく、彼らの戦死の実態を語りつながなければならない。

もう一つ、わが国国民が被った被害を語り継ぐだけでは、不十分だ。中国・朝鮮・東南アジア・太平洋州の島々等で、日本人の犠牲者以上の数の方が戦争によって亡くなっている。隣人へ与えた苦痛を、同時に思い起こすことが必要なのだ。私たちが容易に忘れても、彼らはそれを忘れることはない。そこから出発しないと、新たな平和と共存の関係が気づけない。現在進行している日韓関係の軋轢の多くは、その歴史認識の差異に基づく。。下記の社説にある「侵略と植民地支配により、日本以外の国々に及ぼした加害の事実」こそ、この敗戦の日に思い起こすべきなのではないだろうか。

こちら。

第二次世界大戦末期の米軍による無差別爆撃 その指導者への叙勲 

先日、長崎の原爆投下の写真に、長崎近傍の街が同時に焼夷弾攻撃を受けた様子が映り込んでいたことが報じられている。広島・長崎への原爆投下は、無差別爆撃で国際法違反だが、東京大空襲を始めとする各地への米軍による焼夷弾攻撃も無差別攻撃である。敗戦直前の米軍による無差別爆撃により計51万人の人々が命を失った。この爆撃によって、日本が降伏するのを早めたという見方もあるが、果たしてそうだろうか。「国体」維持を目論む昭和天皇・軍部と、日本を徹底して破壊しつくそうとする米軍双方が、この悲劇をもたらしたのではなかったか。

その無差別攻撃を指揮した米軍軍人ルメイに対して、敗戦直後、参議院議員で元航空幕僚長源田実と小泉純也防衛庁長官(ともに当時)が、最高位の叙勲を行うように取り計らい、それが実現した。「わが国防衛力の拡充強化に関して、米軍の対日協力、援助に寄与した」というのがその理由だ。この無差別攻撃で日本国民が被った被害を想うと、反吐が出そうな主張である。

無差別爆撃が戦争終結を早めたという理由づけが、多少なりとも当たっている面はあったとしても、無差別爆撃という国際法犯罪行為の指揮を執った責任は帳消しにはならない。この時点から、政権与党政治家は、米軍を頂点とする「新たな国体」を祭り上げ始めたのだ。古い国体も外見上「民主化」の洗礼を受けたが、米軍により日本占領を実現するための制度として生き残った。

トランプ大統領という異形の指導者の下、日本は明確に属国扱いされ始めた。一方、安倍政権は、米国の言いなりだ。農産物輸入、有志連合参加で、その一部が明らかになりつつある。「新たな国体」は、日本をもう一度「新たな敗戦」に導く。

山中株式投資塾というブログに、この無差別爆撃とルメイ叙勲に関して詳細に記されている。

こちら。

歴史の廃棄、捏造 

裁判所の書類廃棄、そして安倍政権による公文書廃棄・隠蔽も、同じエートスの問題なのだろう。

こちら。

これでは、国の歴史が書けなくなる。歴史のない国、歴史を捏造する国は、長続きしない。

時代の証人 メルケル首相 

自分が生きたこの時代を、後の歴史家がどのように評価するだろうかと時々考える。その時代の真っただ中で生きてきた、平凡な市民の一人である私が、それを適切に予測することは難しい。

敢えて単純化すると、第二次世界大戦後、共産主義と自由主義経済体制間の冷戦が生じた。それがあったからこそ、わが国は驚異的な復興を遂げられた。だが、共産主義体制国家がその非人間性によって崩壊した。その後、自由主義経済体制は、経済を単純な貨幣現象と捉え、世界経済を同一化し、利益を最大にする新自由主義経済体制に変化した。だが、それが各国、各地域の社会的共通資本を破壊し、経済格差を国家間、国家内で極大化した。それによって、移民問題が生じた。それに対して、ナショナリズム・移民排斥を訴える勢力が力を得ている・・・ということなのではないか。共産主義に一度は夢を抱いたが、その夢は共産主義体制そのものの欠陥によって破れ、自由主義経済体制を推し進めそれによって更なる歪が生じた。それへの反動の時代、ということなのではないか、ということだ。

この難しい時代にあって、現実へ柔軟に対処し、新自由主義にもその後のナショナリズムからも距離をおく政治家が必要とされていると思うのだが、現実は、米国のトランプ大統領に代表される、孤立主義、利己的な政治家、または独裁を目指す安倍首相のような政治家が政権を握っている。現実の政治の世界で、前者に近い政治家の代表は、ドイツのメルケル首相だろう。彼女も、国内のナショナリズム、ファシズム勢力の台頭によって、政治の舞台から去ろうとしている。後世の歴史家は、彼女を孤立主義・少数者排斥・極右ナショナリズムに抗した人物として評価することになるのではないだろうか。

メルケル首相が、ハーバード大学で行った演説を報じる記事を引用する。

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独メルケル首相がトランプ氏批判 「壁」崩し国際協力を
5/31(金) 8:09配信 共同通信

米東部マサチューセッツ州のハーバード大で演説するドイツのメルケル首相=30日(UPI=共同)

 【ニューヨーク共同】ドイツのメルケル首相は30日、米東部ボストン郊外のハーバード大卒業式で講演し、「ベルリンの壁」の向こう側にある「自由」に憧れていた自身の経験を紹介しつつ、自由を阻害する保護主義や単独主義などの「壁」を壊して国際的な協力を進めるよう呼び掛けた。トランプ米大統領を間接的に批判した形で、卒業生らは熱狂的に拍手した。

 旧東ドイツで育ったメルケル氏は、第2次大戦後の欧州復興の原動力となった米「マーシャル計画」が1947年にハーバード大で発表されたことに触れ、「心の中の壁を壊せば敵が友に変わる」と主張した。

「令和」にこめられた強烈なアイロニー 

令和に込められた意味、品田悦一東大教授の解説。ぜひご一読を。

こちら。

安倍首相と、その背後に居る日本会議のあまりに知性を欠く振る舞いにただ唖然とするばかり。

この強烈なアイロニー、それに安倍一味の万葉集自体への無知をこれから指し示し続ける、令和という年号。この年号がこれからの歴史に燦然と輝くものとなった。

大西進氏が、この年号の発案者だとすると、すごいトリックを忍ばせたものだ。さすが大西先生である。

安帝の時代・・・ 

爆笑した。

くらげというハンドルの方のtweet

基本的に元号とかどーでもよいが、アベ一族に関係する文字が入らなくてよかったのと、昔々「安帝」の腐敗政治にブチ切れた張衡て人の詩へのオマージュで山上憶良が作った詩からの引用とのことで、反知性主義の現代日本の「安」帝に強烈な知性主義で対抗したどこぞの学者さんに天晴れな気持ちでいる。

万葉集という国書から選んだという元号、皮肉どころではない、真逆の意味合いを帯びてきた。

安帝というのは、少し知能の足りなかった皇帝らしく、後漢は、彼の治世の時代に衰え、彼が亡くなると同時に滅びた。

現代の「安」帝はどうか?

ドナルド キーンの遺した言葉 

先ごろ、日本文学研究者で、東日本大震災時に日本に帰化するほど日本を愛した、ドナルド キーン氏が逝去された。

彼のこの文章を日本国民はどう読むのだろうか。

日本は凄いと根拠なく、自分たちを持ち上げ、戦前の体制に回帰しようとしている。

自衛隊は、実質的に国軍化され、海外派兵は目の前に近づいている。国内では、滅茶苦茶な財政運営により国家財政の破綻の寸前の状態だ。現政権は、文書改ざん、統計不正で、それを覆い隠そうとしている。粉飾である。それを見抜けないのか。キーン氏の述べる通り、黙殺するのか。


東京新聞の記事から~~~

【ドナルド・キーンの東京下町日記】
「暴走黙殺の果て」 2015年8月9日

七十年前の今月、太平洋戦争が終わった。戦時中、米海軍通訳士官だった私は、多くの日本人捕虜と接してきた。その数は何百人になるだろうか。全員がそうだったわけではないが、多くは捕虜になったことを恥じていた。「どうせなら死んだ方がよかった。殺してくれ」「日本には帰れない。家族に合わせる顔がない」と頭を抱えた。

「日本兵が捕虜になったことはない。神武天皇の時代からの伝統だ。捕虜となるなら玉砕せよ」と、日本兵はたたき込まれていた。いわば洗脳である。一九四三年五月、日本軍最初の玉砕の地となったアリューシャン列島のアッツ島の戦いに私は参加した。

日本兵は勝ち目がなくなると、最後の手りゅう弾を敵に投げるのではなく、自分の胸にたたきつけて自決した。そんな遺体が散らばっていた。全滅ではなく玉砕。他の国ではあり得ない光景だった。

民間人も「女は辱めを受け、男は戦車にひき殺される。捕虜になるなら自決しろ」と言われていた。サイパン島では若い母親が幼子を抱えて次々と崖から飛び降りた。その悲劇を米誌が報じると、日本の新聞はそれを「日本婦人の誇り」と美化して伝えた。

日本兵は本当に捕虜になったことはないのかと、私は疑問に思い、戦時中に調べてみた。すると、日露戦争では多くの日本兵が捕虜になった記録が残っていた。捕虜の扱いについて定めたジュネーブ条約を盾に、「ウオツカを飲ませろ」と収容所の待遇改善を求めた将校までいた。

それが、太平洋戦争時には一変していた。「勝てない」と言われていた日清、日露両戦争に日本は勝ち、力を持った軍部はおごりと野心からか、国民に「日本は神の国」と刷り込んだのだ。

太平洋戦争時に書かれた日本人作家の日記を読み返してみると、当時の世相が垣間見える。言論統制の影響も大きかったろうが、真珠湾攻撃の直後には高揚感にあふれる記述が目立っていた。

反戦的で親米派といわれた吉田茂元首相の長男の健一でさえ、「暗雲が晴れて陽光が差し込んだ」と興奮気味だった。伊藤整は「この戦争を戦い抜くことを、日本の知識階級人は、大和民族として絶対に必要と感じている」「民族の優秀性を決定するために戦うのだ」と書いた。

だが、太平洋戦争の結末は言うまでもない。日本が優勢だったのは最初の半年程度。四二年六月のミッドウェー海戦が転機となり、米国の圧倒的な物量に押されて、占領地を次々と失った。

当時、南洋諸島で最大の飛行場があったテニアン島を奪った米軍は、日本各地を空襲した。私は不思議で仕方なかった。イタリア、ドイツが落ち、日本は勝てるはずもないのになぜ降伏しないのか。勇ましい大本営発表は続いた。一方で東京は大空襲で壊滅状態に。沖縄は占領された。広島と長崎に原爆が落とされ、何十万人もの命が奪われた。

戦後、私が知り合った日本人の大多数は「勝てるはずがなかった」と自嘲気味に話した。だが、分かっていたなら、なぜ開戦したのか。旧満州(中国東北部)の建国に続き、日本軍のフランス領インドシナへの進駐で日米関係は決定的に悪化した。外交交渉には譲歩も必要だが「神の国」は突き進んでしまった。

開戦後も、私の友人で日本生まれの米工作員ポール・ブルームは欧州駐在の日本人武官を通じて終戦工作に奔走した。日本側からの反応は常に「敵にだまされるな」。理性的に考えた形跡はなかった。

戦前も戦時中も、戦争への反対意見はあった。高見順や清沢洌(きよし)、渡辺一夫らは、時代に翻弄(ほんろう)されながらも日記に反戦をつづっていた。

太平洋戦争に至る過程では、権力中枢のごく少数が国民をだましたといえる。だまされた国民は兵士となって加害者となり、被害者にもなったのだ。だが、問題の根幹は日本政府、そして体制に迎合した国民による現状の黙殺だっただろう。

軍部の暴走を誰も止められず、終戦に至るまで黙殺は続いた。私はアッツ島や沖縄の上陸作戦に実際に参加し、戦争がいかに悲惨で無意味なものかを身をもって体験した。同じ過ちを繰り返してはならない。 (日本文学研究者)

1月27日 アウシュビッツ解放記念日  

facebookで米国人の友人がアップした記事。アウシュビッツで解放を待ちのぞむ子供たちの画像とともにアップロードされた。

安倍政権の歴史修正主義は、ナチスのホロコーストに連なる思想であることをもう一度思い起こすべきだろう。

日本軍731部隊は、規模はナチスの強制収容所よりも小さかったが、ナチスと同じことを行った。

Today, January 27, marks the 74th anniversary of the liberation of Auschwitz by Soviet forces. As the Soviet army approached in the days leading up to this, Nazis marched the vast majority of the prisoners west into Germany. The few thousand remaining were thought to be too ill to travel, and were left behind to be shot by the SS. In the confusion that followed the abandonment of the camp, the SS left them alive, and these were the prisoners found by Soviet forces. Eva Mozes Kor, age 10, was one of several hundred children, many of them twins, who were left behind. She and her twin sister Miriam had been subjects in Dr. Josef Mengele’s medical experiments. She describes what it was like to see the liberating Russians. “We ran up to them and they gave us hugs, cookies, and chocolate. Being so alone a hug meant more than anybody could imagine because that replaced the human worth that we were starving for. We were not only starved for food but we were starved for human kindness. And the Soviet Army did provide some of that.” Three months later, Hitler was dead.