家族でアンサンブル参加 

庭仕事と楽器の練習に明け暮れて、いつの間にか一週間このブログからご無沙汰をしてしまった。安保法制のことやら、信州で高齢で亡くなった親戚の方のことや、記したいことはあるのだが、忙しさと、書くモチベーションが下がってしまい、実現できていない。県単位での「医療改革事業」という行政主導のトンでもない、行政の利権のための事業も進められようとしている。

昨日、守谷市の方で立ち上げられたアンサンブルに、家内、娘と三名で三かしてきた。昨夜が初めての練習会。指揮をなさる方が、以前別な地域オケでお世話になった方で、彼からお誘いを受けたのだ。白内障で譜面がよく読めず、さらにフィンガリング(楽器の指使い)を決めてもしばらくすると忘れる、という老化現象そのものが目立ってきたため、一旦はどうしようかと迷ったのだが、彼や集うことになっている方の暖かな雰囲気と、演奏するバッハの管弦楽組曲1番という曲目に惹かれた。さらに、家族に話したら、彼らが乗り気になってくれたことも背中を押してくれた。

仕事を早めに切り上げて帰ってきた家内を乗せ一路294号線を南下。後部座席には、私のチェロ、それにしばらくぶりに娘が弾くバイオリンで満載。294号線を走るのは、2年ぶりくらいか。昔は、まっすぐに南下するこの道を走り、谷和原から常磐道で東京に良く向かったものだ。所々、二車線に拡幅されていたが、周囲の田畑、街並みはあまり変わらず。守谷市内に入り、混雑。守谷駅手前で右折し、目指す公民館へ。駐車場には、自分のアパートからすでにやって来ていた娘が待っていた。三名で練習会場にそっと入ると、すでに練習が始まっていた。

指揮者を囲んで、序曲の中間部分を演奏していた。弦は私達を含めて五名。管も五名で、オーボエ、バスーンそれにフルートがそろっていた。フルートは、第二オーボエのパートを吹いている様子。二、三の方を除いて、以前のオケで顔見知りの方ばかり。指揮者のI先生は、もう50歳台半ばだろうが、昔通りのダンディさである。私たちが加わったことで、予定されていた全員が集まったようで、自己紹介。その後、ほとんど休みなく、全曲を一気に演奏した。この曲は、これまであまり知らなかったのだが、バッハの曲としては、情感の深い部分に訴える要素が少ないように思えた。しかし、やはりバッハである。ハ長調という調性のためもあるかもしれないが、堂々たる風格の舞曲が並ぶ。ところどころで、譜面の見誤りをしたりしたが、大いに楽しめた。演奏に費やすエネルギー量は昔と変わらないのに、こちらのエネルギーが減って来てる。大いに汗をかき、最後には疲労困憊であった。終わってから、I先生にご挨拶。

帰路、途中で、こちらの地域オケに来ていたころいつも寄っていた、「魚平」という寿司屋さんに寄り、三人で遅い夕食を取った。娘、家内ともに楽しんだ様子。とくに家内にとっては、仕事と地域に付き合い以外の社会的な活動はこれまで皆無であったため、大いに刺激になった様子だった。楽器をまだまだ練習しなければならないし、仕事との兼ね合いが難しいが、一緒に通い続けよう。娘も昔は人見知りだったが、積極的にこうした場に出てくるようになり、成長したと改めて感じた。私は、やはり白内障を早く手術すること、さらに楽器の練習にもう少し時間をかけることか。家族でアンサンブルに加わる、この夢がようやく曲がりなりにも実現した。ありがたいことだ。、

すず、姿を消す 

すず、年齢17歳、雄、が姿を消した。我が家で生活を共にした三匹の猫のうち、最後まで残った一匹だった。

17年前、まず我が家にやってきたのは、写真中央の白黒の美ネコ、愛ちゃん。家人の同僚の方の家の庭で野良猫が子猫をたくさん産んだ。その子猫の内の一匹。愛嬌があるということで、そのご家庭で愛ちゃんとなずけられた。愛嬌があるかどうかは少し疑問だったが、とても賢い猫らしい猫だった。人に可愛がられる術を理解しているが、最終的には人のことは信じませんよ、という猫。彼女は、数年前にアレルギー性気管支炎とかいう慢性の病気で亡くなった。というか、彼女も病状がもっとも悪化した時に、外に出たがり、どうしてもという意思表示をするので、外に出した。それっきり帰ってこなかった。猫は、自らの最後を人に見られまいとするかのようだった。

愛ちゃんが我が家に来てしばらくは、我が家になじめず、食事時だけ家の中に入り、それ以外は植木の陰に隠れて生活していた。我が家に来て1週間ほどしたときに、リビングの掃出し窓の隅からするすると我が家に入ってきた愛ちゃん。その後ろに、何やら小さな動物が愛ちゃんの後をついて入ってきた。それが、「すず」であった。薄汚れた茶色の子猫。すずめのように見えるということで、最初すずめと呼んでいたが、猫をすずめと呼ぶのはあんまりだろうということで、「すず」と改名した。雄猫だけあって、やがて育つと、威張りかえっていたが、2、3年間は母親代わりの愛ちゃんのおっぱいを吸っていた。写真の右側の虎模様の猫が、すず。

猫は二匹でもう一杯だと言っていたが、6、7年前、夕方散歩していた時に、骨盤骨折(これはあとで獣医にかかり判明)で、よれよれになって歩いていた子猫を見つけた。一旦抱き上げたが、どうも大分痛がる。それで地面に降ろすと、のろのろと逃げて行った。だが、3,4m行ったところで、くるっと踵をかえし、私たちのところにやってきた。決死の思い出我々に保護を求めたのだろう。それが、みちる、普段の呼称、みっちゃんと私たちの出会いである。写真では、左側の黒っぽい猫。雌だったが、身体は大きく成長し、いかつい相貌だった。が、声が可愛らしく、発音の最後で微妙に音調を上げるのだ。それに、人懐っこく、庭仕事をしていると、1mの半径のあたりにいつもついて歩いていた。しかし、道路には決して出ようとしなかった。あの骨盤骨折はきっと車にはねられたためだったのだろう。我が家に来て、2、3年した頃、彼女も忽然と姿を消した。車のドアが開いていると、中に入り込む習性があり、きっと宅配便の車に入り込み、連れられて行ってしまったのではないか、と我が家では推測していた。

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すずは、もともと一人前の量を食べると吐く習性があった。それで、一食分を少なめに回数をわけて食事を与えていた。それでも十分に栄養が取れなかったのか、どちらかというと痩せていた(この画像では、ふっくらして見えるが・・・)。長生きしたのは、小食のためだったのかもしれない。が、この2,3年、痩せが酷くなり、それとともに認知症の傾向が表れた。所構わず、トイレにしてしまうのである。家人は、文句を言いながら、せっせと世話をしていた。それまで、通常の成猫の性質通り、鳴くことは殆どなかったが、我々の顔を見る度に、鳴いて何事かを要求するようになった。一種の若年化、または猫としての本能が崩れてきていたのだろう。今年の夏は、当初暑さがこたえたのか、痩せが進行した。また、尻尾の付け根を、我が家に侵入してきた猫に噛まれたのか、そこに膿瘍ができたようだった。殆ど食事がとれぬまでに衰えた。が、砂糖入りの牛乳で持ち直したようだった。るい痩はあまり改善しなかったが、毛並みは大分良くなった。しかし、やはり夏の暑さがこたえたのか、徐々に衰弱が進んだようだった。3日前、外に出ると言うので出したら、それっきり姿を現さなくなった。愛ちゃんと同じく、最後の姿を人目にさらしたうないという本能のようなものだったのだろうか。それとも、侵入猫にやられてしまったのか・・・。

思えば、我が家の激動の時代を一緒に生きて、部屋の端っこから、我々を観続けていてくれた猫たちであった。子どもたちが成長し、やがて家を出て行った。両親は年老い、やがて病をえ、天に召されていった。すずには、テレビの前でうたた寝をしていると、耳元にやってきて、突然鳴かれ、うんざりしたこともあったが、もうそれもなくなる。やはり家族を失った気持ちだ。みっちゃんはまだどこかで幸せに生きているのかもしれない。愛ちゃんとすずにはしばらくのお別れだ。この長い間、我が家をほっこり、そして時にはうるさくしてくれたお前たち、安らかに眠れ。

弟 

先日、母の墓参りに、弟夫婦が仙台からやってきた。年に一度程度しか会わないのだが、頭髪が少しさびしくなっていたものの、引き締まった体格で元気そうだった。昔通りのハスキーな声で早口で話す。四歳違いだが、子供の頃の知り合いは共通な人たちが多い。なかには現在も交流を続けている友人が彼にはいるらしく、そうした人々のことを彼から懐かしく聞いた。

私と同学年で、某有名大学工学部を卒業し、その後所謂特殊法人に就職した友人がいる。彼は、すでにリタイアして悠々自適の生活をしていると、弟から聞いた。その友人が今はシルバー人材センターで仕事をしている、とのことで驚いてしまった。関連企業にでも天下っているのかと思いきや、のんびりとしているらしい。どうも彼は年金が多いらしく、そうした生活ができるらしい・・・他人の懐を覗きこむのは良い趣味ではないが・・・二人して思わずため息。

それに引き替え、我々(弟も同業)はどうだ、という話になった。年金受給額の見込み額が分かって、あまりの少なさに驚いたと、彼は言う。たしかに、卒業が人よりも多少遅く、大学生活は非常勤扱い、大学での最後の2年間ほどは助手となったが、その後も様々な施設を転々とする生活。年金が少ないのは予測できる。医師というと高給取りの代名詞みたいになっているが、実際は違う。当初の訓練期間の数年間から10数年間は、薄給。医師として一人前に仕事をはじめたら、多少恵まれるが、退職金はまずないに等しい。さらに年金もこの有り様だ。弟は、恐らく年金受給年齢を過ぎても仕事を続けなければならない。彼の場合、開業に適当な年齢を過ぎており、またたとえ開業しても大きなリスクを伴う。彼には開業の選択肢はあり得ない。私も自分の年金額を知った時は、これは生活保護とそれほど変わらないではないかと思ったくらいだった。彼の場合は落ち着く場所もまだないので、これからは大変なことだろう。

私が彼の年金を心配していたら、彼は私に運動をしているかと尋ねてきた。庭仕事は運動量としては少なすぎる、というのである。エアロバイクが良いぞと勧められた。「1万2千円」のエアロバイクを通信販売で手に入れ、毎日こいでいるらしい。自慢気であった。私は彼の年金を心配し、彼は私の運動不足を心配する。互いに歳をとったものだ。彼の場合、まだまだ病気せず仕事を続けなければならないという思いも強く、そのための運動でもあるのだろう。

人生を経済的にだけみると、特殊法人上がりが勝ちなのかもしれない 笑。もっとも、それもこれからは無くなるのだろうが・・・。

弟は基督教信仰に立ち、読書をこよなく愛する男だ。今回、ここに立ち寄った理由の一つは、彼の書庫で本を探すためだった。少し変り者だが、我が一族のもっともよいものを受け継いだ存在だ。

父の日記 

一昨日、春めいた陽気に誘いだされるように、庭で草むしりに精を出した。前傾姿勢を取り続けると、腰に来るが、それでも気持ちが良い。

ほどなく、家に入って休もうと、玄関に回った。玄関のドアが開かない。仕事が今日休みの家内が、カギをかけて出かけてしまったらしい。何時かは、これをやるのではないかと思っていた。家の周囲を歩き回って、窓や出入口の開いているところがないか、探し回った。ない。万事休すだ。

両親がかって住んでいた離れに入り、お茶碗に水道の水をくみ、母親がいつも座っていた、リクライニングの椅子に腰を下ろした。離れの空気の入れ替えがてら、そこでしばらく休むと決めた。

本棚の本も多くが、両親が生きていた頃のままになっている。何か本を読んで過ごそうと考えた。加藤剛のエッセー等に目が留まった。また、父が私淑していた高橋三郎先生の著作集にしようか・・・。ふと、父がかかさずつけていた、日記に目が留まった。父がなくなってもう十年ほど経つのだが、彼の日記を読むことはなかった。彼の内面に踏み込むようで、躊躇したのだ。昭和37年の日記・・・ページをめくってみた。

私たち子供のことが多く記されていた。中学生になり、無線に関心を持ち始めた私についての記載が多い。あの当時勉強しろ等とは、記憶にある限り、言ったことのない父だったが、「明日から試験だというのに、ラジオの部品を買いに行った」と私のことが記されいた。私自身子供を育ててきて、父が私たちにどれほどの関心を抱いていたのか、今になってみると痛いほど分かる。

あの当時、そして成人してからも、父に対して関心をもち、父の心配と希望を、どれほど理解してあげただろうか・・・全く足らぬことの多い息子だったのではないか、もう取り返しのつかぬことだが、親の期待と愛情に育まれてきたことを、改めて感じた。父とは行き違いもあり、なかなかそのこころに飛び込んでゆくことをしなかった。今になって後悔しても仕方ない。

自分の子どもたちが、私の思うように行動しないとしても、もう彼らを遠くから見守る以外にあるまい。もし、彼らが私に目を向けてくれれば、それは望外のことなのだ。親子関係は、繰り返すのだろう。それで良いのだ。そう父が私に向かって語りかけているような気がした。

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両親が住んでいた離れの前の紅梅。ほぼ満開だ。

TPP議論における政府の不誠実さ 

野田首相が、APECの会議でTPP交渉に参加する意向を表明する前、国会審議で、自民党議員の質問に答えて「ISD条項を知らない」と発言していた。まさか、首相が、大きな問題点である、この条項を知らないわけがない。恐らく、国会で議論すれば、TPP交渉参加への逆風が吹くと分かって、「知らない振り」をしたのだろう。国会と、国民を軽視する態度ではないか。

TPPの大きな問題であるISD条項は、例えばオーストラリア等でも問題にされていた。以前のポストにもアップしたが、投資家・企業が、他の国の市場に出る場合、そこで経済的な不利益を被ったと判断したら、当該国の政府を相手に訴訟を起こせるということを規定したのが、この条項だ。訴える裁定組織は、WTOの下部機関であり、そこでは非公開で審議が行われ、当該企業が経済的な不利益を被ったかどうかという点に絞って判断されるという。当該国の公共の利益や、環境への影響といったことは勘案されぬということだ。上告制度はない。NAFTAでは、この条項に基づき、カナダ等が米国企業から訴えられて、巨額の損害賠償をさせられている。国内に一種の治外法権ができるのだ。

また、昨夕、同じ国会審議では、TPP交渉の対象から外すネガティブリストについては現段階で明らかにしない(交渉の中で明らかにしてゆく)と、外務大臣と首相が、社会民主党の質問者に答えていた。TPPは、まな板に載せる項目を検討するのではなく、載せない項目を検討する、ネガティブリスト方式を取っている。参加するとして、何をネガティブリストに載せるかということは、国民にとって極めて重要な検討事項のはずだ。それを国会で議論しないで良いのだろうか。ここにも、国民を軽視する姿勢がある。

すでに、TPPの枠組みは決まっているように思える。関税が問題になるのは、農産物の分野だ。工業製品はすでに、ほとんど無視できるほどに関税が低くなっている。米国が明言しているのは、農業分野に加えて、医療福祉の分野、即ち医療保険分野での市場開放、を要求するとしている。現政権は、皆保険制度は死守すると言いつつ、米国が、それを撤廃せよと要求する交渉の場に出てゆこうとしている。米国が重点を置くと言う、この要求にどう対処するのか、保険をネガティブリストに入れるのかどうか、政府は明言しない。

このTPPの中身について議論を避けようとする態度と、上記の「知らない振り」から見えてくるのは、既に決められたTPPの枠組みに、どうしても入らなければならないという政府の強い意思だ。本音を語ることは外交交渉ではできないのかもしれないが、国民生活に密接にかかわることについては明らかにし、議論すべきだ。

TPP参加を表明するかどうかの議論を直前までほとんどしてこなかった、マスコミも、その方向での世論誘導に参加しているのだろう。

TPPは、沈みかけた米国が、起死回生の策として、日本の国民の資産に狙いをつけ、医療分野でその資産を簒奪しようとするものだ。国民は、それを知らされていない。日本がこれから大切にし、経済的な連携を深めるべき相手は、経済発展を続けるアジア諸国、特に、中国とインド、だろう。そうした国には目を向けようとしないのは、大きな判断の誤りだろう。

混合診療になると、国民は、医療に多大の支出を強いられる・・・医療界の中には、現在の低医療費から脱却できるとして、この制度が実現することを待ち望んでいる向きもある。でも、国民も医療界も結局米国の巨大保険資本の餌食になるだけだ。

この予測が当たらないことを祈るが、TPPへ参加をした時には、国民はこれが実現するのを目の当たりにすることになるだろう。TPPに参加したら、逆戻りはできないようになっていることも知らないのだろう。

医学の道に進むRへ 

君(次男)にはこのブログを教えていないので、このポストを何時読むことになるか、または読まれぬぬままに消えることになるのか分からないが、君の人生の一つの節目に一言記しておこう。

君は、この春から医学の道を歩むことになった。家族が強く勧めたわけではないが、将来を考えるようになった大学3年のときに、医学を志した。それ以来、大学の単位は3年目で殆どとり終り、その後の1年半は、受験勉強に没頭していた。週末も必ず図書館に通い、こつこつと努力していた。その姿に、むしろ私の方が教えられるような気がした。そして、この春、その努力が実った。こうして一つのことに集中して努力すること、それをし終えたことは、君のこれからの財産になるはずだ。

暗闇から生まれ、また暗闇に向かって進む大きな生命の流れのなかで、人間は生命を一時得て、その流に参画し、自らの生命を輝かせるように精一杯生きようとする。一人の人間は、やがて、次の世代に生命を受け渡して、この世から去ってゆく。その大きな生命の流れにあって、生命に寄り添い、生命を輝かせるためにそっと手を差し伸べるのが、医師の仕事だ。いずれ死滅する個々の生命に対して、医師といえどもなしうることは、限られている。それでも、病者にとっては、なくてはならない仕事であり、喜ばれる仕事だ。

医療が、社会的にばら色の道を歩んでいた時代は既に過去のものとなった。社会からさらに多くの医療の助けが求められる時代になりつつあるのに、そうした社会の到来にしっかりと準備をしてこなかった、我々の世代の責任なのだろう。さらに、社会が医療に要求するレベルが、医療の力を超えていることも度々ある。医療のなしうること、限界が理解されていないためなのだろう。医療がこうした厳しい状況にあることは、君も、家族内での話題などで知っていることだろう。医師であることだけで、社会的に認められ、経済的にも恵まれるということは、決してない。それを覚悟しておく必要がある。

医療と医学について、幅広く学び、関心の持てる事柄には率先して首を突っ込んで楽しく学んでいって欲しい。仕事の場を、日本だけに求めるのではなく、求められれば世界どこにでも出かけていって、仕事が出来るように準備しておいた方が良いだろう。信頼できる友人を持ち、友人と様々な喜び、不安そして哀しみを共有できるようになるように。これを読んで、私が自分でなしえなかったことを君に期待していると、君は苦笑していることだろう・・・そうだ、君の人生なのだ。君の人生を、君の仕方で切り開くことだ。疲れたら、羽を休めに帰ってくるといい・・・。

東北行  

昨日、午前中の仕事を終えてからすぐに母の滞在している介護施設に向かった。快晴。高速道路は走る車が少ない。那須連山には、雪が降り積もっていた。背景の青空から山々が浮き上がるように見える。

福島に入ると、少し雲が出ている。安達太良PAで休憩。安達太良山という名は聞いたことがあったが、その雄大な姿をゆっくり眺めるのは初めて。

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山茶花も咲いていた。

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白石インターで降り、少し北上。母は以前と同じ和室で横になっていた。少し、痩せたか。私を見ると、にっこり微笑み、私のことを考えていたところだと言う。義兄が先日見舞いに来てくれたことも覚えていた。田舎(私の住処)に戻りたいと言って、顔をくしゃくしゃにする。何時まで「入院」しているのか、と繰り返し尋ねられた。

母の白く、少し冷たい手を握り締め、また来ると言い残して部屋を出た。母は障子を開けて、手を振っていた。

これで良いのだろうかと考えつつ、帰路についた。

母親が具合悪くなる 

老母が2,3日前に、微熱を出し、その後咳をするようになった。食欲もまあまああるし、大丈夫かと思っていたが、今夜帰宅後、聴診すると右肺野に湿性ラ音が聴こえる。どうも元気ももう一つで、日中脈拍が少し速かったようだ。初期の肺炎の可能性がある。

とりあえず、仕事場にとって返し、抗生物質と気管支拡張剤の点滴及び吸入薬を持って帰った。母親に点滴するのは何年ぶりだろうか。血管は良く見えるのだが、いざさそうとすると、逃げる。何とか静脈路を確保し、先程点滴をし終えた。熟睡している。

93歳という年齢では何が起きてもおかしくないのだが、今夜のところはこれで何とかなるだろう。明日、医療機関を受診させるつもりだ。

親族を治療するというと、少し気を使うところもあるが、相手がこちらを信頼しきっているという安心感もある。微妙な医師患者関係のなかで、一晩中眠れずに仕事をしている若い医師のこと・・・それは、20年ほど前の私の姿でもあるのだが・・・を思った。

年老いた親にほとんど孝行はしてあげていない・・・親子で旅行をと思っていたが、10年以上前に信州に二泊でドライブ旅行に行ったきりだ。その後、母親が糖尿病や認知症になり連れて行ってあげられない。人生の中で親に孝行できる時間も極めて限られていることを痛感している。こんな時に点滴をさす位しかしてあげらることはできないものだが、それでも、その機会が遺されていることはありがたいことだ。

次男坊熱発 

昨夕、自宅に戻ると、次男坊が真っ赤な顔をして、寝ていました。朝から熱発し、39度超までいったらしい。朝からのまず食わずでいたらしく、ココアや食べ物を準備すると、その熱をものともせずに、平らげていました。今朝は、38度台にまでおりた様子。

学校生活が始まり、生徒・学生同士の間で、ウイルスの伝播が起きはじめています。この2週間程度が、毎年、インフルエンザを始めとするウイルス疾患の流行のピークになります。皆様、人ごみを出来るだけ避け、風邪の一般的な予防法を守り、夜間十分な睡眠を取って、予防を心がけられますように。

私は、また風邪の子から咳を吹きかけられに(笑、仕事場に参ります。

人生の流れを・・・ 

老母が、朝飯の時に、「鶏を飼ってみるよ」と言い出した。私の次男坊に鶏舎を作らせ、そこで鶏を飼って、過ごしたいという。ヘルパーさんには、「デイケアに行きたくないな」とこぼしてもいたらしい。

デイケアで、何かあったのだろうか。毎日、学校に通うように車で送り迎えされる生活が、管理されたものに感じられるのだろうか。悪いな、お祖母ちゃん、思い通りの生活をさせて上げられなくて・・・。

父が存命だった頃は、喧嘩もしていたが、それなりに楽しそうだった、母。その楽しい晩年の時間はあっという間に過ぎ去り、一人残されてしまった。そうした人生の流れを、身をもって教えてくれているのかな、そうとは意識せずに・・・。

しかし、一人きりじゃないからね、お祖母ちゃん。家族が一緒だよ。