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頌春 

頌春

私は、根性が曲がっているせいか 笑、世の中がお目出度いと湧きかえっている時には、むしろ気持ちは低迷し目の前の困難を意識する。

世界的にみて、世界各国が積み重ねてきた量的金融緩和は極端に積み上げられ、そのバブルが破裂しかかっているように見える。これが破たんしたら、金融の信用システムが大きく毀損されることになる。また、グローバリズムへの反動なのだろうか、ナショナリズムの形をとったポピュリズムが世界各国で横行している。米中の覇権争いはますます深刻になり、ツキヂデスの罠が生じるのではないかと危惧されている。中東の戦禍、避難民増加は止むことがない。

国内では、虚偽と改ざんにより、統治機構が破壊された。没知性の安倍晋三という一人の人間がこの国を誤った方向に導こうとしている。彼は、戦前の統治機構の中心に自らを置きたいのだ。対米従属は、さらに強まり、自衛隊は米軍の手足になって海外での戦闘に加わる。沖縄や、福島、その他自然災害で被害を被った人々の苦難は続く。

こうしたなかで、どうしたら新年を喜べるのか、というのが率直な気持ちだ。

3,4年前だったろうか、米国のSimonという名の方、まったく未知の方から、facebookで「友達リクエスト」が来た。未知の方のリクエストはpendingにしておくことが多いのだが、どのように考えたのか、その方針に反して、それを承諾した。やがて、2,3か月したころ、彼のお子さんから、彼が逝去なさったことが報告された。

そのすぐ後に、美しく紅葉する銀杏の木に寄せて、燃え上がるように最後の輝きを見せて、次の世代のために静かに死んでゆく美しさについてfacebookに記した。すると、KB6VSE Steveがそれへの返信に、まるで亡くなったSimonが、そのような人物だったと書いてよこした。SteveとSimonは、カリフォルニアの森林警備員として同僚だったのだ。Simonの逝去の報告に、多くの方が心情溢れる追悼の辞をコメントとして残していた。どれもが彼を心底悼む気持ちに溢れていた。

先月だったか、facebookの彼のアカウントがまだ開いていたことを知った。後で、そこに記録されていることを読もうと思っていた。だが、先日もう一度見てみると、彼のアカウントが無くなっていた。逝去した者のアカウントになって別なところにうつされたのか・・・。もっと早く見ておくべきだったと後悔した。

この一年、亡くなったSimonのように皆に思われるように、または思われなくても、周囲の方々、そしてこの国の未来のために、知られるれることでなくても何事か、できることを続けて行きたいと念願している。今年は70歳台の大台に乗る。できることは限られているが、その努力を続けたい。

新年早々、あまり目出度い話ではないが、これが私の現在の心境だ。

この一年が皆様にとり健康に恵まれ、幸い多い年になりますように。

故郷 

昨日、夕食の食材を買い出しに、隣町のスーパーに出かけた。以前、自分で仕事をしていた時の職場の近くのスーパー。仕事をしていた頃は、仕事帰りにしばしば立ち寄った。

以前にもこのブログに記したと思うが、このスーパーは、あの大震災で被害を受け、1年間ほど休業していた。内部を大幅に改装して、また営業を始めた。店内の様子が変わってしまい、昔の面影はないのだが、店内には当時からの店員もちらほら。昔は、よく患児とその親御さんにお目にかかったが、最近はまず会うことはない。子供たちもみな成長して、親元を離れるか、親と行動を共にすることはなくなったのだろう。

往復ともに、かっての通勤路を走った。最近入手したカメラ、キャノンのコンパクトデジカメ、の試し撮り。

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交通もほとんどなく、大きな音でバッハの管組2番やら、ブラームスの弦楽五重奏曲1番をかけて、突っ走った道。これは行きに撮った。まだ青空。

帰り道、日が暮れかかるころ、おなじみの弁財天の祀られた祠を撮った。広葉樹はすべて落葉している。昔とまったく変わらない。こうして数百年いや千数百年ここに存在し続けてきたわけだ。

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夕暮れ・・・少しアップにしてあるので、画質が良くない。

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はるか北西の方向に、日光連山、男体山が見える。

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こうして写真を撮っていて、確かにこの地域が私の故郷だという感慨を改めて抱いた。人生の半分以上をこちらで過ごしたわけだ。初期研修に自治医大にやってきたときは、仕事のために一時的に滞在する地域という意識でいた。年末になると、家族を車に乗せ、両親の待つ東京都下の町に帰って一晩、二晩過ごすのを常としていた。あの頃は、また東京に戻るかもしれないと漠然と考えていた。あの東京の町が、私の育った場所で、故郷だった。何よりも、両親がそこで生活をしていた。しかし、やがて両親が相次いでこちらに戻ってきて、あの東京の故郷と呼べる場所はなくなった。そしていつの間にか、こちらが故郷になったのだ。もちろん、東京で育った頃の思い出は、記憶のなかに残っているが、もうそれは記憶のなかだけのこと。両親はもういない。

そんなことを、ぼんやり考えていた。

干し柿 

今年は柿が豊作だ。二つある甘柿の木も、一つの渋柿の木も、たわわに実をつけている。尊敬する志村建世氏も、そのブログで、柿が豊作だと述べている。今年の酷暑が柿を多く実らせる要因だったのか。甘柿はサラダの具にして、渋柿は干し柿にすべく干している。

腕が2m程度伸びる、柿の収穫はさみで渋柿を小枝ごと摘み取る。皮をむき、紐で2,3個数珠繋ぎにして、熱湯で短時間消毒してから軒下に干す。母が元気なうちは、この時期によく干し柿を作っていた。やがて、認知症が進行しても器用に同じように渋柿を軒下に干していた。でも、糖尿病があったので、姉や弟が来訪したときに、そっとその干し柿を隠してしまった。母はそれに気づかず、またその翌年同じことを繰り返していた。食べる楽しみもあったのかもしれないが、毎年この時期になると行うべき年中行事だったのかもしれない。その母ももういない。私がそれを受け継いでいることを改めて思い、こうして世代が交代してゆくのかと思った。母もきっと私の知らない、彼女の母、私の祖母から、干し柿づくりを教わったのかもしれない。

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「枯葉」 

庭に落ちたいがぐりを掃き集め処理をし、さて、これから木の葉が落ちる番だと思った。ふとシャンソンの「枯葉」を思い起こした。

実は、しばらく前に、イタリ―のフィレンツェの街角で撮影された、「枯葉」のジャズのセッションを気に入り、「枯葉」が頭から離れなかった。そのセッションは、旅行者の韓国人ベーシストが、街角で演奏する現地のミュージシャンに飛び入りで加わり、演奏したもの。ヨーロッパでは、人種間の対立が微妙な問題になっている。そこで、音楽を通して、このような即興のセッションが成立したことに感銘を受けた。もちろん、演奏も素晴らしく、とくにバイオリン奏者の即興演奏には感動だった。

で、「枯葉」のレコードを中学生時代に手に入れ、良く聞いたことを思い出した。イブモンタンの歌う「枯葉」。静かな語りから始まり、いつの間にか、あの美しい旋律に乗せて、「一つの歌がある」と歌いだす。youtubeで検索すると、彼の実況録画が残っていた。聴衆から語り掛けられ、それに笑顔で答え、すっと歌い始める。懐かしさでこころが溢れた。

こちら。

そのころ以来、この曲を聴くことはほとんどなかった。で、歌詞の意味も知らず、フランス語を真似て口ずさんだりしていた。

人生の晩年を迎えて、別れた恋人のことを思い出す。通りに北風が吹き、枯葉が吹き溜まりに集まっている。その頃は、時が輝き、太陽もより明るく輝いていた。・・・と過去を懐かしむ曲だ。老人の感傷と片づけられるのかもしれない。だが、そうした時が、老境を迎えると必要になるものだ。この恋人とは、過ぎ去った自分の青春そのものと言えるのだろう。

でも、まだ感傷だけに浸っているわけにはいかない。一時、その儚い過去の記憶を懐かしんだ後には、まだするべきことがある。この世界をより良いものにして、次の世代に受け渡すために、まだするべきことがある。

栗の木 

我が家には、栗の木が一つある。直径が40cmは優に超えそうな大木になった。我が家がここに越してきた時に、父が植えてくれたものだった。

毎年、無数ともいえるほどの実をならせる。例年、ごく一部を利用して、他は同じ栗の木の肥料にしていた。今年は、せっせと落下した実を拾い集め、一部はお世話になった方にお送りした。

弟、姉にも昨日送った。それを知らせるメールに記した文章の一部・・・

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渋皮煮をつくるために鬼殻をむいているときに、ふと、この木は父が植えておいてくれたのかと思いだしました。ご存知の通り、彼は実のなる木を大切にしていました。戦争中の飢餓を経験したためか、私がまだ幼児だったころ、うろ覚えなのですが・・・小豆島に、そうした実のなる木による農業を学びに出かけたことがありました。数日父が我が家に不在でした。そして、帰ってきたときのことをまざまざと思いだします。信愛園の前の雑木林から、「三輪車」を肩に担いで帰ってきたのです。その時、如何に幼かった私が喜んだか、その瞬間の思いを今も忘れることができません。

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親の愛情を改めて思い出し、それを彼らと共有したかった。

それに、地球温暖化による食糧難がそう遠くない将来襲ってくるだろうことも、常に忘れるべきではない。

大きく育った栗の木・・・

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無言館訪問 

先週末、長野県上田市の無言館という美術館を訪ねた。

先日、この美術館、その所蔵する作品についてあるテレビ番組で紹介された。それを観て、是非一度訪ねてみたいと思っていた。

この美術館の作品は、第二次世界大戦で戦没した画学生、若い絵描きによるものである。彼らの遺品も収められている。

絶好のドライブ日和。富岡まで高速道路を使って走り、そこから下の道に降りた。母と昔ドライブして、釜飯を食べた横川で昼食をとる積りだった・・・のだが、週末でレストランはものすごい混雑。諦めて下の道を走り続けた。碓氷峠を抜け、軽井沢へ。軽井沢でも渋滞。小諸から高速に再び乗り、上田に着いた。

目指す美術館は、上田市の近郊の小高い山の上にあった。数台駐車場に停まっていた。ナンバープレートを見ると、埼玉や神奈川からの車もある。決して入場者数は多くはないようだが、近隣の方々だけではなく、きっと全国から観に来る方々がいるのだろう。

駐車場から建物まで数十m。きれいに整備されている。

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建物の近くに、パレットの形をした大きな岩盤が置かれており、そこに人名が刻まれている。戦没した画学生、絵描きの名前のようだ。いわば、声なきパレットだ。

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建物は、窓のほとんどない外観で、まるで教会のよう。鳥瞰すると、十字に見える構造になっており、もしかするとこの建物、美術館を創建された方はクリスチャンなのかもしれない。歴史は比較的新しく、20年ほど前に開館したようだ。1979年に開館した「信濃デッサン館」という美術館の分館として始められたとパンフレットにあった。信濃デッサン館は、大正から昭和にかけて夭逝した画家の作品を収めているらしい。

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所蔵の絵画、遺品の撮影は禁止されていた。

美術館のなかに入ると、全面の壁に作品が展示され、通路の中央に遺品類がガラスケースに収められていた。各々にライトが当たり、それらに集中することができるようになっている。雑音や会話の声は全く聞こえず。観覧者は20名前後だったろうか。時間をかけながら、一つ一つの作品に見入っていた。

作品の一つの裸婦像に目が行った。若々しい女性、でもモデルのようには見えない。だが、彼女の姿に美を追求しようとする画家の視線が感じられる作品だ。説明に、この画家は、あと5分、10分だけでも良いからこの絵を描き続けたいと述べて、出征していったとあった。そして、彼は戻ることはなかった。

火鉢を囲む、あたたかな家庭団らんの絵があった。のちに画家の兄が述べたところでは、この画家の家庭は貧しく、このような団らんを経験したことはなかった、おそらく、そうした団らんにあこがれていたのだろう、とあった。この画学生は、貧しい中、美術学校に行かせてくれた家族への感謝を忘れなかった、という。

戦場から戻ることのなかった彼らは、皆同じように、絵を描き続けたい、家族とともにいたいと考えていたのだろう。そうした作品を観ながら、目に涙があふれてきた。

若い画家、画学生は第二次世界大戦敗戦前の2年間に集中して亡くなっている。戦地で病没という方もかなりいる。第二次世界大戦では、300万人以上の方が命を失った。その半数以上が、病死ないし栄養不足による死だと言われている。名誉の戦死等と言うのは、国民を戦地に赴かせるためのスローガンに過ぎなかった。多くが兵站の不足、栄養不足による死であった。いわば、国家が彼らを殺したのだ。画学生、画家でいえば、大多数は、家に戻り絵を描き、家族と幸せに過ごしたいと渇望していたのだ。

また、この侵略戦争でアジア・オセアニアの若人も多く殺したことも記憶されるべきだろう。米軍・同盟軍で命を失った若人も多くいる。

この美術館の展示絵画、遺品は、声高に叫ぶ政治的なプロパガンダ以上に、戦争を繰り返してはならないことを、それを観る者に静かに語り掛けている。機会があれば、また訪れてみたい。

大学生時代に、夏休みに鹿教湯温泉の病院で、病院実習をした。その際に降り立ったのが、上田駅前だった。帰りに駅のコンコースを訪れてみた。当時の土産物屋は見当たらなかったが、駅前の雰囲気はその当時を思い起こさせた。もう半世紀近く経つのだ・・・。

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「夕焼け小焼け」 

陽が落ち始めるころ、草むしりを始める。刃にぎざぎざのついた草刈り鎌でさくさくと根っこから雑草を刈り取るのだ。田舎で土地が広く、春から夏にかけてかなりの仕事量になる。最近は、根を詰めてやると、腰に来るようになってしまった。それでも、放置しておくとすぐにぼうぼうになってしまうので、せっせと精を出す。

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道路を挟んで西側に中学校があり、放課後のブラスバンドの練習が聞こえてくる。太鼓に合わせて、スケールの練習。ついで、様々な曲の練習になる。不協和音を用いたなかなか難しそうな曲もある。我が家の娘も、このブラスバンドでホルンを吹いていた。熱のこもった練習が続く。

やがて、陽がさらに西に傾くと、ブラスバンドも運動部も練習を終える。東口で生徒たちの談笑の声が、ひとしきり聞こえる。やがて、その喧噪も聞こえなくなり、静寂が戻る。すると、6時を知らせる防災無線の放送が、童謡の「夕焼け小焼け」を流す。子供たちに帰宅を急がせるための音楽だ。

少し味気ないその放送を聴きながら、姉から聞いたエピソードを思い出した。もう60数年前、父は、青春時代を犠牲にさせられた戦争を生き延びて帰ってきた。やがて、母とここで家庭を持った。教育を受けていない父は、母の実家で「桶作り」の仕事をしていた。日中、父の仕事場に遊びに行っていた姉は、夕方になると父の背負う籠に乗って、自宅に戻って来るのを常としていた。その際に、この「夕焼け小焼け」を二人で歌いながら帰ってきた、ということだった。不遇な子供時代を過ごした父は、私たち子供たちに精一杯愛情を注いでくれたのだ。その情景が目の前にひろがるような思いだった。

限りない懐かしさをもって、その思い出を思い起こした。両親が逝って長い時間が過ぎた。私が逝くときまで、次の世代に残すべきことは何なのか、何ができるのか・・・。

69歳の誕生日に 

昨日、60歳台の最後の歳に突入した。その前日まで、忘れかけていたのだったが、Bill K1YTから誕生祝と近況報告のメールを頂き思い出した。とくに、誕生日に感慨を深くすることはないが、この良い天候の日に生を授けてくれ、育ててくれた両親に改めて感謝の気持ちを抱く。育ち始めた野菜の手入れをしながら、庭に立つと、気持ちの良いそよ風が吹き抜ける。こころが洗われるような思いになると同時に、両親のいる世界にそう遠くない将来帰って行くことを改めて思う。それまでのもうひと頑張りである。

facebookでは、世界中の友人たち、とくに北米の方が多いのだが、50名ほどから誕生祝のメッセージを頂いた。facebookに半分強制されて(?)(笑)、メッセージを贈らせられたのかもしれないが、私のことを覚えて下さる方がいることに改めて感謝した。特に、ヨーロッパの友人たちとは間遠になっているのだが、何人もメッセージを下さり感謝。もちろん、他の地域の方々にも感謝であった。

戦争と平和とは、こころのなかから始まる、というのは本当だと改めて思った。あの友人、この友人がいる国、場所で争いが起きるとすると、それは耐えがたいことだ。戦争と平和は、政府が作り出すものではなく、我々のこころのなかにこそあるのだ。こころのなかでヘイトに凝り固まっているような人々から戦争は始まる。そう簡単に割り切れるものではないが、自分のこころにはいつも平和を保持していたいものだ。

さぁ、大台へ突入の一年だ。健康にきをつけて、一日一日を歩み続けて行きたい。

母の七周忌 

あと三日で、母の7周忌が巡ってくる。

時が経つと、美しいこと、楽しかったことばかり思い出されるようになる。母の晩年は、アルツハイマーに冒され、短期記憶が徐々に失われていった。本来知的な能力を持っていたので、その過程では不安と焦燥感があったのではないかと想像する。朝夕、母が住む離れに行くと、テーブルの椅子に腰かけて、新聞広告の紙を用いて、無心に漢字の練習をしていることがあった。その時には、なぜと思ったが、失われて行く記憶を維持するためだったのかと後で思った。

だが、周囲の人間に何も愚痴ることなく、いつも笑顔で接していた。朝食を離れに持って行くと、同じくテーブルの前に座り、頭を垂れて熱心に祈っていることが時々あった。その姿は私には神々しくさえあった。最後の数年、弟に引き取られ、宮城県で過ごした。見舞いに訪れると、こちらに戻りたい、すでに数年前に亡くなっていた父親がどうしているか、泣き顔で繰り返し尋ねた。家族の消息を尋ね各人が元気で過ごせるようにと語るのを常としていた。弟夫婦、施設のスタッフの方々は本当に良くしてくださった。

東日本大震災の後、体調を崩し、最後の入院をした病院のベッドでも、苦しみを訴えたりすることなく、繰り返し、こちらに戻りたいと述べた。手を取ると、笑顔を浮かべ、私の名を呼んだ。そして、ろうそくの灯がふっと消えるように亡くなった。

母の人生は、キリスト教信仰に支えられたといえ、悩みと苦しみの多い人生だった。だが、今はそれらから解放されていることだろう。父と相まみえることができただろうか。彼女の晩年は、下記のホイヴェルス神父の言葉をそのまま生きた時間だった。自分の存在を通して、最後のときはこのように過ごすのだと遺される我々に教え諭すかのようだった。この詩は、母の一周忌に姉が送ってくれたもの。その時にブログに転載したが、本当に希望を与えてくれるものだと思うので、再び引用する。

最上の業

この世の最上の業は何?
楽しい心で年をとり
働きたいけれども休み
おしゃべりしたいけれども黙り
失望しそうなときに希望し
従順に平静におのれの十字架をになう

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず
人のために働くよりも
謙虚に人の世話になり
弱ってもはや人のために役立たずとも
親切で柔和であること

老いの重荷は神の賜物
古びた心にこれで最後のみがきをかける
まことのふるさとへ行くために
おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつ外して行くのは
真にえらい仕事
こうして何もできなくなれば
それを謙虚に承諾するのだ

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる
それは祈りだ
手は何もできない
けれども最後まで合掌できる
愛するすべての人のうえに神の恵みを求めるために

すべてをなし終えたら
臨終の床に神の声をきくだろう
「来よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ」と

            春秋社「人生の秋に」
            ヘルマン ホイヴェルス著

さて、どうしたものか・・・? 

書こうかどうか迷っていたのだが、思い切って顰蹙覚悟で書いてしまおう。

CWのactivityがガタッと落ちていることはすでに何度も書いた。だが、それ以上に深刻なのは、ダイアローグにならぬ、一方向のモノローグのことが多いこと。自分の言いたいことだけを語り続け、話題のやり取りがない。これは、恐らくオペの高齢化が関係していると踏んでいる。高齢化すると、他者への関心が薄れるand/or他者の考えを理解できないことが多くなるのだと思う。高齢者が、今を生きるのではなく、過去を生きるようになるのはそれと関係している、ないし互いに因果関係にあるのかもしれない。

CWの交信では、通信効率が低いために、一方向のモノローグにとりわけなり易い。フルQSKにしたら、そうした事態を避けられるのかとも思うが、フルQSKでもモノローグを続ける方を知っている。やはり、知的な退行が始まってしまった場合は、なかなか意味のあるやり取りが難しくなる。

CW人口の高齢化によって、この一方向のモノローグが蔓延しているとしたら、もう改善の余地はないということになるのかもしれない。あまりに悲観的過ぎるだろうか。否、やはりそれが現実だ。Wのオペ達を見ても、大多数がモノローグの開陳を繰り広げている。

以前から65歳を過ぎると黄色信号、そして70歳を過ぎると赤が点滅する。80歳を過ぎると、まず間違いなく、この知的退行は進行する、という風に感じてきた。CWの世界を観察してのことだが、通常社会でも同様のことが言えるのではないか。そして、私も60歳台後半に差し掛かり、黄色から赤に変わる年齢に差し掛かっている。最近、相手がモノローグを始めると、心底ウンザリする。以前はもう少し我慢強かったし、もうちょっと神経を集中して聴かなくてはと思ったものがだった。だが、最近は、もういいやと投げ出したくなる。そして、時々自分がmonologistになっていることに気づき、ハッとする。

勿論、80歳を過ぎても知的にしっかりしており、楽しく会話をできる方もいる。だが、残念ながら、それはかなり例外的だ。

さて、どうしたものかと自問する。そろそろ、手を引くべきときか・・・。

ただ、CWで会話をすることは、かなりの知的な作業で、頭の訓練にはなる。本当に時々あぁ交信出来て良かったと思う方もおられる。一方で、大多数は、もうご免こうむりたい、という相手。そして、私自身がそう遠くない将来、相手の方に同じように思われるようになるかもしれない、迷惑をおかけするのではないか、という疑念がいつもつきまとう。

頭脳の訓練としては、SNSやメールで、外国の友人とやり取りをすれば良い。一方、無線から離れることは、多くの友人との直接の接点を失うこと。

だが、私も彼らも同様にこの加齢という坂道を降り始める。人生は大きな峠を歩むようなもの。峠を登り切り、見晴らしが開けてくると、あとは下降するばかりだ。それが人生の現実であることは間違いがない。

さて、どうしたものか・・・。