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野菜畑 先輩の作品を音にする 

長かった梅雨のために、今年の野菜、ことにトマトはかなり傷害を受けた。黒く腐って行く病気にかかるのだ。カボチャも、蔦ばかり伸びて、実のなり方がイマイチだった。インゲンは、花を咲かせぬままに終わってしまうものもあった。

一方、モロッコインゲン、ししとう、ジャガイモは豊作だった。それにつけたしで植えた茄子が順調に成長し、今も実をつけ、焼き茄子の材料になっている。サツマイモと里芋は、収穫がこれから。梅雨が過ぎてから植えた、股芽のトマトはどれだけ実をならせてくれるだろうか・・・。

盛大に成長した栗の木のもとで草むしりをしていたら、小さな未熟な栗がいくつか、地面に落下していた。昨秋収穫して、冷凍してあった栗がまだ残っていることを思い出した。収穫したカボチャと、その栗で煮物を作ってみた。栗の風味はさすがに落ちているが、カボチャの深い甘味はそれを補って余りある。

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もう実をつけなくなった野菜を順次引っこ抜き、畑地を整地した。また秋の野菜を植えるためだ。まだ、土中にしっかり根をはっているものもあり、生命の連鎖のなかで精一杯生きた・・・いや、それは野菜に意志があるわけではないのだが、生命の流れを担っているわけだ。野菜に向かって、そういうのはおかしなものだが、ご苦労様とこころで呟きながら、その作業を進めた。

姪が、都内の基幹病院の一つで婦長として働いている。その病院は感染症の専門病床は持たないのだが、都からの依頼で、彼女の仕事場が急ごしらえの新型コロナ病棟となった。退院が検査の陰性化を待たずに行われるようになり、回転が速くなり、毎日二、三人の新たな入院を受け入れている。

ピアノを弾く彼女、合唱を長く愉しんできた私の姉、それに私のチェロで、ある曲を演奏することを思いついた。学生時代にとてもお世話になったHさんが作曲し、恵与下さったもの。八木重吉の詩に寄せた曲で、静謐で懐かしい世界が表現されている。二人にその話をしたら、喜んでくれた。Hさんとも長い間連絡を取っていなかった・・・ご無沙汰をお詫びしなければならない。この曲を音にすること・・・20年程前に一度音にしたのだったが、それっきりになっていた、ピアノトリオとソプラノの作品も二つある・・・を、是非実現しておきたい。

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人生の終盤に差し掛かり、すべての雑念を払って、Hさんの音楽の世界に浸ることができるように・・・そうした日が早く来ることを望んでいる。


『南相馬メドレー』 

去年、柳美里が南相馬市小高地区で始めたフルハウスという本屋さんを訪れたことは以前記した。残念ながら、改装中でなかに入ることはできなかった。でも、小高地区は、20年以上前に、元気だった両親を車に乗せて、彼らの旧友に会いにでかけた場所であり、懐かしさに浸った。その後、東日本大震災と福島第一原発事故で、甚大な被害を受けた場所でもある・・・。

そこに、柳がどのような理由で居を移し、生活を始めたのかを知りたかった。

先日、彼女の新刊が発行された。「南相馬メドレー」というエッセー集。彼女が2015年に南相馬に移住してからの生活、そして思いを綴った記録。

南相馬に彼女が移住した直接の理由は、あちらで大震災後しばらく活動していた「災害放送局」で定期的な番組「ふたりでひとり」を受け持ったことだと記されていた。かの地で生活をする知り合い、二人にインタビューをするという番組。この番組の記録は、彼女のサイトに行くとすべて聞き返すことができる。

だが、その直接的な理由よりももっと深いところで、彼女が社会で疎外され、大切なものを喪失したという立ち位置が彼女を南相馬に誘ったのではなかっただろうか。南相馬から、あの事故以降多くの方が、遠くに避難し、そしてかなりの方が故郷を永遠に喪失した。その悲しみ、不条理に彼女が深いところで共鳴し、惹きつけられて南相馬に移り住んだ、ということだったように、この本から読み取れる。

彼女の疎外感、喪失感は、幾重にも彼女を苦しませてきた。在日韓国人であること、両親との距離、学校での疎外、そして実質的な夫であった演出家との死別。何度となく語られる、癒しがたい悲しみがある。でも、息子さんを得て・・・彼はフルートと自然を愛する好青年に育った・・・若い演劇仲間と演劇活動を再開する。同じく悲しみを生きる人々への静かな共感、そして演劇という表現活動を通して、自分を他者に開こうとする試みが、彼女を地域に溶け込ませている。当地の高校生たちが集えるようにと、フルハウスという本屋を立ち上げた。

彼女が愛する花々木々を育てた鎌倉の家を手放し・・・それを決断するのにどれほどの意志が必要だったことだろう・・・、そこで作家として安逸に生きることを断念して、南相馬に移り住んだ。その理由が、ずしんと読む者に迫って来る。生きることの悲しみが、通奏低音のように流れる著作だ。二日間で読了。

あの南相馬へのドライブで改めて感じたのだが、南相馬は、地理的にも、そして心理的にも私には遠い。両親を連れて、年老いた彼らの友人を訪れたドライブを思い返しに、またいつかフルハウスを訪れてみたいものだ。

犬飼光博氏のこと 

私は大学受験をする前後しばらく、無教会主義の聖書研究会に日曜日ごとに参加していたことは何度か記した。高橋三郎先生という素晴らしい指導者の下、老若男女多くの方が参集していた。私は、その後キリスト教信仰から離れてしまい、高橋先生の弟子とは到底言えない者だが、その集まりで知己を得た方々には忘れがたい方が多い。

その中の一人が、犬飼光博氏だ。彼は、当時、同志社大学・大学院で神学を専攻し、学生時代からかかわりを持つようになった、筑豊の炭鉱町で伝道者として働き始めたところだった。個人的に話をした記憶はないのだが、毎年、正月と夏に行われる泊りかかりで開催された聖書研究会にいつも参加なさっておられた。彼の述べたことを思い出すことはできないのだが、カネミ油症の方々とともにカネミへの抗議活動を始められたところだったのだろうか、自分のこれからの価値は生命だという意味のことを述べておられたことだけは覚えている。

伝道活動とともに、というかそこから自然に導かれるように、筑豊の子供たちとの生活、カネミ油症の抗議活動、そして在日韓国人・徴用工達への謝罪と援助の活動等、長い期間地道な活動を続けてこられた。彼の半生が、6年前にNHKの番組で取り上げられ、放映されたことを最近知った。その番組自体は見ていないのだが、内容の記録がネットに残っていた。

こちら。

いつもにこやかで温厚そうな方だった。その表情がいつも光り輝いていたように覚えている。

その番組内で、高橋先生とのやり取りのエピソードもあり、そうだった、高橋先生はこうした方だったと、こころ打ち震える想いで、思い出した。とても怖い先生だったが、何事にも全力で当たり、私たちに細やかな配慮を忘れぬ愛情深い先生だった・・・。

当時、30歳前後でいつも元気そのものだった犬飼氏も、46年間に渡る筑豊での活動を終え、今は長崎でやはり牧師として生活なさっている様子。もう80か81歳になられたはずだ・・・。

炭鉱の人々は、政府のエネルギー転換の影響をもろに受け、いわば棄民された方々だった。カネミ症患者の方々、在日韓国人の方々も同じような境遇にあった。そうした人々のなかに入って人生を送ってこられた彼、誠実な人生を送られたのだろうと改めて思う。世の中で注目されることは少なかったかもしれないが、本当に光り輝いた人生を送られたのだろう。

翻って、私は・・・比較すること自体おこがましいが、何といい加減で自分勝手な人生を送ってきたことかと改めて感じる。それに気づくのが少し遅すぎた嫌いがあるが、これから残された時間を彼が歩んだ誠実さに少しでも近づけるように努力したいものだと思った。

ある友人の奥様の突然の逝去 

facebookで、米国の友人が、奥様が逝去されたことを報告した。took her own lifeとあったので、自死なさったのだろう。

彼自身が、末期がんであることもほぼ同時に記していた。

お二人には、8年前にシアトルであったFOCの集まりでお目にかかった。それほど親しくはなかったのだが、facebookそれに無線を通して付き合いのあった方だった。

お子さんにも恵まれ、お孫さん、ひ孫もおり、時に家族の集まりの画像を同じfacebookにアップなさっておられた。

しかし、突如として、こうして最後が訪れるものなのだ。

奥様は、ご主人の病気で悲観的になったのかもしれない。すべての心配と苦しみから解放されることを願ったのかもしれない。

傍からみて如何に順風満帆に見えても、人生はこのように最後を迎える。

こころして生きて行かねばと思った。あの優しそうな笑顔の奥様の冥福を祈りたい。

ハクモクレン開花 

二日ほど前、ベランダで洗濯物を干していた時、ふっと庭の東側の方を見ると、ハクモクレンが満開に近かった。えっと驚きの声をあげそうになった。ハクモクレンは、毎年春・・・もう少し遅くに、一斉に咲き始めるのは覚えていたが、この時期に、そして一晩でこれほど見事に咲くとは、予想していなかった。

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認知症になった晩年の母が、この時期、ハクモクレンが咲き始めると、私に「咲いたよ」と輝くような笑顔で知らせてくれた。この木を父親が植えたのは30年ほど前のこと。その両親と、こうした季節の花を一緒に楽しむことはもうできない。

時間が経つのは早い。

惜別 木内みどりさん 

昨年11月、木内みどりさんが急逝なさった。特によく知っていた方ではなかったが、その際に告別の言葉を記そうかと思いつつ、機会を失ってしまった。一昨日の朝日新聞に彼女の短い評伝が掲載されていたので、それに乗せて、私も彼女への惜別の言葉を一言記しておきたい。

彼女は、芸能界で生きてきた方で、私とは別世界の方だった。だが、福島第一原発事故以降、積極的に反原発の意思を明らかにし続けてこられた。芸能界は、電通という魑魅魍魎の住む組織が支配しており、こうした意思を示すことは並大抵なことではできないことだったはずだ。だが、彼女はかろやかに自らの考えを公にしてきた。

昨年7月の参議院選挙では、山本太郎率いる「れいわ新選組」の街頭演説にも立っていた。お嬢様には常々自由に生きるように語っていたそうだが、彼女自身が自由で透明な生き方をなさっていた。私は、その姿を、眩しさを感じながら遠くから見守っていた。

もう一つ、彼女が同世代であることも親近感を感じさせた。20世紀後半と21世紀の始めを共に生きてきた方だった。ベビーブーマの最後の世代。日本が経済成長を遂げ、その後バブルの破裂からデフレ、スタグフレーションが続き、現在の虚偽の政治体制下で破滅に向かおうとしている、これらの時代を共に生きてきた方のお一人だった。きっと同じ危機を感じておられたのではないだろうか。

彼女を良く知る、ビートたけしが、彼女のことを「学歴はないのだけど物知りだった」と彼らしい言葉で追悼していた。きっと、仕事の合間に勉強をなさり、自分の意見を形成なさったのだろう。そして、それに忠実に生きた方だったような気がする。彼女はかろやかに生きた方だった。

お疲れ様でした、ゆっくりお休みくださいと申し上げたい。

木内みどり1

朝日新聞 夕刊
2020年2月8日 16時30分

■人への優しさ、まっすぐに

 2019年11月18日死去(急性心臓死) 本名・水野みどり 69歳

 遺作の一本である映画「夕陽(ゆうひ)のあと」で演じたのは、ブリを養殖する主人公の義母。撮影地の鹿児島県長島町で養殖業を営む岩塚泰樹さん(36)方に、3日間通って役作りに努めた。
ここから続き

 「木内さんは祖母のカーディガンを着て撮影に臨み、うちには『ただいま』と帰ってきた。夕食は母と台所にたち、家族みんなで食卓を囲んだ。芸能人とは思えないほど気さくな方でした」と岩塚さんは振り返る。

 作品は家族の絆とともに育児放棄、特別養子縁組など社会的テーマも内包する。監督の越川道夫さん(54)は「日本の今に絶対必要な映画だから頑張りましょう」と励まされた。「他の人に思いを寄せる人でしたね。みんなが手を出しやすいように率先して差し入れの品をいただき、寒い日の撮影では率先してエキストラの方にみそ汁を配ってくれました」

 愛知県生まれ。1967年に劇団四季に入り、退団後は、テレビドラマや映画に数多く出演したほか、バラエティー番組でもお茶の間に親しまれた。

 2011年の東日本大震災による原発事故に大きな衝撃を受け、脱原発運動に力を注いだ。訴えは反原爆・反戦・護憲に広がっていった。

 夫で元西武百貨店社長の水野誠一さん(73)は「困っている人や弱い立場の人に対する優しい視点を基本に、原発や原爆の問題を徹底的に学び、自分なりに咀嚼(そしゃく)して反対の姿勢を貫くようになった」と話す。被災地の復興を優先すべきだとして東京五輪の開催にも反対していた。

 亡くなった日は広島市にいた。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で企画された作品の朗読を担当。収録を終え、ホテルで倒れた。すでに10年ほど前に、延命治療の拒否や散骨の願いをしたためた遺書を書いていた。水野さんは「突然の死はショックでしたが、みどりらしいなとも思いました」と言う。

 娘の頌子(しょうこ)さん(30)には、幼いころから「自由に生きなさい」と言い続けた。「あまり言われ過ぎて、私は普通の会社員になりましたが」と頌子さん。

 死後、本人の携帯電話に着信があった。海外旅行の飛行機でたまたま隣に座った人だった。テレビの訃報(ふほう)を見て、意気投合して携帯番号を交換した女性が木内さんだと知り、連絡してきたのだ。頌子さんは「母のまっすぐで純粋な人とのつきあい方には、亡くなってからも驚かされることばかりです」と話す。(斉藤勝寿)

今年を振り返って 

今年を思い返し、安倍首相は「日本が世界の真ん中で輝いた年」と述べたそうだ。輝いたということ自体事実認識の大きな誤りだが、世界の真ん中で、とはこれまた殆ど病的な認識の誤りだ。これを政治的なプロパガンダとしてならある程度理解できぬでもないが、どうも彼の頭の中では、この認識が真実となってしまっているようだ。彼のこの誤った認識に合わせるように、現実を示すデータを彼自身、そして取り巻きが作り替えようとしている。

日本は、さらに困窮化しつつある。子供の7人に1人は貧困、毎年1700人の餓死者が出る社会。自殺は毎年2万人を超え、60万人以上が自殺を考えている。その大多数は経済的困窮による。実質賃金は減り続け、一人当たりのGDPは世界26位まで落ちた。少子高齢化による国力の低下以外に、人に投資を行わない現政権の新自由主義的な一連の政策が背後にある。

地球温暖化による異常気象も今年は目だった。大雨、強大な台風は、今後も増え続ける。地震も引き続き起こり続けている。南海トラフ地震への備えは出来ているのだろうか。予測される南海トラフ地震が生じると、国家予算の二倍以上の被害と、数十万人の死者が出る。福島第一原発の復旧は遅々として進まない。それによる汚染土を、土木工事ならず農業用として全国にばら撒こうとしている。行政と、東電は、汚染水も海洋投棄をしようと画策している。こうした自然災害、それに原発事故による被災者が、今だ多く避難生活を余儀なくされている。

為政者は、マスコミをコントロールし、スポーツや芸能の催しに顔を出し、オリンピックという商業主義に冒された2週間の催しに3兆円をつぎ込もうとしている。すべて、人気取りのためだ。日本の国益にならぬ法律を、ろくろく国会で審議をせぬままに次々に強行採決した。安倍首相の取り巻きに利権を与え、便宜を図っている事態も徐々に明らかになりつつある。米国に隷従し、米国の命じるがままに、軍備を買い入れている。オリンピック予算の重し、無節操な軍備拡大の「ツケ」は後の世代に先送りだ。この米国への隷従は、「自主独立憲法」の制定とどこかで矛盾を露呈するはずだが、彼は一向に気にしない。米国への隷従、米国を新たな「国体」の頭に据えることが、彼の権力基盤を強めると、本能的に理解しているのかもしれない。

こうした現実に対して、左派反緊縮財政論の山本太郎率いるれいわ新選組という政党が成立した。これまでの政治的エスタブリッシュメントに対する国民レベルの反旗といって良い。人への投資を行う、生き辛い世の中を変えて行くという、彼と同党の主張には共感するところ大だが、しかし、その反緊縮財政論の危うさも感じないわけにはいかない。しかし、ごく一部の国民と大企業の利便、利権だけを優先する現政権よりは「マシ」かもしれない。現時点で、希望を託すとしたら、この左派ポピュリズム政党しかないのかもしれない。

世界に目を向けても、新自由主義経済によって困窮させられた人々、地球温暖化により故郷を追われた人々そしてその両者が遠因となっている内戦により難民にならざるを得ない人々がいる。シリア北部の戦闘激化により、ギリシャへの難民が大幅に増えているようだ。また、これらの困難に対して、悪しきポピュリズムが跋扈している。英国のBrexitは壮大な失敗に終わる。この右派ポピュリズムはナショナリズムと結びつき、トランプのような異形の指導者を選出する。それが世界をさらに混迷に陥れる。また、様々な武力衝突、内戦の背後に、軍産複合体と武器商人が蠢いている。日本でもどうどうと武器の見本市が開かれるようになった。武器で立つ者は、武器で滅ぶ、という歴史上の真理に畏れを抱かないのか。

このような状況でどこに希望を見出せば良いのだろうか。悲観的に過ぎるだろうか。

中村哲医師の突然の逝去は、本当に大きな衝撃だった。だが、彼の行ってきたことを改めて知り、彼のような生き方にこそ未来への希望があるように思える。死の砂漠が、彼の計画し実現した灌漑路によって緑の大地に生まれ変わる、あの光景は現代の奇跡としか言いようがない。そうした事業に加わることはもう年齢的に無理だが、世の中を見わたして、そのような活動をなさっている人々を支持し、わずかでも支援してゆきたい。さらに、この世界で進行中の事態を良く理解し、それにどう対処して行くべきなのか、田舎で退職生活を送る者でしかないが、勉強を続けて行きたいものだ。

クリスマスエキスプレス 1989 

私は、元来テレビをあまり見る方ではないのだが、このコマーシャルは記憶に残っていた。1989年JR東海のコマーシャル。クリスマスエキスプレス。

こちら。

この文章を書かれた方は、この短いコマーシャルから多くのことを読み取り、まるで一篇の短編小説を書き上げられたかのよう。

その文才、分析力に感嘆しつつ、あの頃のことを思い出していた。

私は大学を辞める前後、漠とした将来への不安がありながら、まだ人生で一つや二つ大きなことができるのではないかという希望も持っていた。とりあえずは、市中病院での仕事を始めた・・・。

バブル経済がピークを迎えていた。薄給なのに自宅を建てたりして、蓄えは殆どなかったが、私の意識もバブルに冒されていたのか、それともまだ若かったせいか、将来への不安はあまりなかった・・・でも、開業が10年遅れたら、結構経済的に苦労したのではないか。いずれにせよ、この2年後にはバブルが破裂。金融機関や重厚長大企業のバブルの始末が不適切で、その後今まで続くデフレに突入していったわけだ。勿論、少子高齢化による需要の減少もあったが・・・。

世界的には、共産主義諸国が政治経済的に立ち行かなくなり、次々に崩壊していった。冷戦構造の終焉とともに、少し前から英国で始まった新自由主義経済が世界を席巻することになる。今は、それによる格差が至る所で人々を苦しめている。

それにしても、牧瀬里穂が可愛い。彼女は引退したのだろうか。もう確実に50歳台になっているはず。

時代背景とは別に、恋愛についても客観的に眺めることができるようになった自分がいる。恋愛は、結局人間の「生殖行動」なのだ。より良い子孫を残すために矯めつ眇めつして、パートナーを探す。傍から見ると、動物たちのペアリングと同じ。時には滑稽ですらある。だが、主観的に考えてみると、たとえ一瞬であっても、絶対的な信頼、それによって世界が意味のあるものに見える瞬間をもたらしてくれる経験でもある・・・でもあった。後で振り返ると、恥ずかしさで一杯になる様な行動も、あの経験で何とかプラマイゼロになっているのかもしれない。

それにしても、夢のあるコマーシャルだった。今の時代、これだけ希望と夢を込めたコマーシャルはあるだろうか・・・。

JH1HDX 10周忌 

この歳になると、先に逝った人々のことをことあるごとに思い出す。

先月6日は、中島守氏JH1HDXの10周忌だった。お墓参りに伺わなければと思いつつ、時間が過ぎてしまった。今日、10周忌に改めて彼との交誼を有難く思いだしていることを記して、わずかなお花料とともに奥様にお送りした。彼のことは、5周忌に比較的詳しく記した。こちら。

そちらのポストに記したこと以外にも、彼とは多くのことを共有させて頂き、またお世話になった。最初にお目にかかったのは、ログを見直してみないと分からないが、1980年か81年の冬、夜更けの21メガだったような気がする。こちらは、ベアフットにバーチカルという設備。彼もワイアーアンテナだったような気がする。夜間になるとさすがにバンドは静まり返り、当時今市市に在住だった彼に呼ばれて交信したのだ。彼は、東京からこちらに舞い戻ってきたばかり。某電池製造の会社にお勤めだった。何度か当時の彼の家に遊びに行ったことがあるが、かなり古びた平屋建ての家で、それに建て増しした狭い空間、恐らく3畳程度の細長い部屋で無線をやっていた。暖房がないとのことだった。あちらの冬はかなり冷え込むはずだったが、それでも寒さには強いんだと強がりを言って、無線に出てきた。

仕事では、恐らく上司にはずけずけものを言うタイプだったのだろう、それが彼の希望だったかどうか分からないが、最後まで現場の仕事を続けた。製品のアフターケアのために、特に東北地方を車で回ることも多かった。日光の山で「民宿」を始めるのが夢だと時々語っており、実際物件を探したりもしていたようだが、ある程度の年齢になるとそれも口にしなくなった。

私がお世話になったことでよく覚えていることがある。30歳台半ばだったころ、学会の関係でスエーデンから高名な学者が、当時勤めていた大学に来られて、その接待で教授とともに鬼怒川の温泉に行ったことがあった。そのようなことは殆どなかったのだが、そのスエーデン人の学者を無事もてなし、翌朝早々にホテルを後にした・・・が、夜殆ど眠れなかったために、かなりグロッキーになり、今市の彼の家に、帰路、突然押しかけて休ませてもらったことがあった。図々しく、こたつに潜り込み、しばらく眠ることができて、何とか自宅に帰ることができた。突然の来訪だったのに関わらず、ニコニコしながら休ませてくれた。

彼は後輩の面倒見がよく、その付き合いもたくさんあったようだが、年月がたてば、やがて思い出す人も少なくなる。私についても全く同じだ。この世の中に生まれ、格闘し、家族を得、そして去って行く。しばらくすると、誰も思い出さなくなる。それで良いのだろう。この世で生きたことは、自分だけが最後まで記憶する。そして、ふっと風が吹くようにいなくなる。それと同時に、我々の生きた思い、出来事はすべて永遠の過去に封印される。それで良いのだ。彼もきっと同じような思いで、この世を去って行ったに違いない。

フランクルとの再会 

オーストリアの著名な精神科医・思想家ヴィクター フランクルについては過去に何度か記した。彼の著作に若いころ接して、私は精神医学を志した。医学を学ぶうちに、精神医学から小児科学に関心は移って行ったのだったが、フランクルの名前、そしてその思想は忘れがたい。

人生を生きる意味は、三つあると彼は言う。創造する価値、経験する価値、そしてそれらを経験できなくなっても、運命を受容する価値が人生を意味あるものにする。アウシュビッツの過酷な体験を経て、彼はその思想に到達した。

そのフランクルに予期しない形で再会した。facebookでの知り合い、ニューメキシコ在住の画家、Donna Clairが、フランクルに関する記事を、facebookで紹介していた。ナチスの強制収容所で奥様と生き別れ、過酷な収容所生活のなかであっても、彼女への思いによって生きる意味を見出した様子が生き生きと描かれている。

こちら。

詳細は分からないのだが、彼女は、恐らくまだ年若いご子息を亡くされ、生きる意味を喪失していたようだ。フランクルの著作に出会って、少しずつ生きる意味、存在する意味を取り戻してきた、と仰っていた。

facebookは、政治的な議論やら、日々の生活の「喜び」を書き記し、画像で示す場になっているが、生きることの光と影とを述べらる方は多くはない。人生の在り方を、Donnaはその存在を通して教えて下さる方だ。

彼女のブログは、こちら。