69歳の誕生日に 

昨日、60歳台の最後の歳に突入した。その前日まで、忘れかけていたのだったが、Bill K1YTから誕生祝と近況報告のメールを頂き思い出した。とくに、誕生日に感慨を深くすることはないが、この良い天候の日に生を授けてくれ、育ててくれた両親に改めて感謝の気持ちを抱く。育ち始めた野菜の手入れをしながら、庭に立つと、気持ちの良いそよ風が吹き抜ける。こころが洗われるような思いになると同時に、両親のいる世界にそう遠くない将来帰って行くことを改めて思う。それまでのもうひと頑張りである。

facebookでは、世界中の友人たち、とくに北米の方が多いのだが、50名ほどから誕生祝のメッセージを頂いた。facebookに半分強制されて(?)(笑)、メッセージを贈らせられたのかもしれないが、私のことを覚えて下さる方がいることに改めて感謝した。特に、ヨーロッパの友人たちとは間遠になっているのだが、何人もメッセージを下さり感謝。もちろん、他の地域の方々にも感謝であった。

戦争と平和とは、こころのなかから始まる、というのは本当だと改めて思った。あの友人、この友人がいる国、場所で争いが起きるとすると、それは耐えがたいことだ。戦争と平和は、政府が作り出すものではなく、我々のこころのなかにこそあるのだ。こころのなかでヘイトに凝り固まっているような人々から戦争は始まる。そう簡単に割り切れるものではないが、自分のこころにはいつも平和を保持していたいものだ。

さぁ、大台へ突入の一年だ。健康にきをつけて、一日一日を歩み続けて行きたい。

母の七周忌 

あと三日で、母の7周忌が巡ってくる。

時が経つと、美しいこと、楽しかったことばかり思い出されるようになる。母の晩年は、アルツハイマーに冒され、短期記憶が徐々に失われていった。本来知的な能力を持っていたので、その過程では不安と焦燥感があったのではないかと想像する。朝夕、母が住む離れに行くと、テーブルの椅子に腰かけて、新聞広告の紙を用いて、無心に漢字の練習をしていることがあった。その時には、なぜと思ったが、失われて行く記憶を維持するためだったのかと後で思った。

だが、周囲の人間に何も愚痴ることなく、いつも笑顔で接していた。朝食を離れに持って行くと、同じくテーブルの前に座り、頭を垂れて熱心に祈っていることが時々あった。その姿は私には神々しくさえあった。最後の数年、弟に引き取られ、宮城県で過ごした。見舞いに訪れると、こちらに戻りたい、すでに数年前に亡くなっていた父親がどうしているか、泣き顔で繰り返し尋ねた。家族の消息を尋ね各人が元気で過ごせるようにと語るのを常としていた。弟夫婦、施設のスタッフの方々は本当に良くしてくださった。

東日本大震災の後、体調を崩し、最後の入院をした病院のベッドでも、苦しみを訴えたりすることなく、繰り返し、こちらに戻りたいと述べた。手を取ると、笑顔を浮かべ、私の名を呼んだ。そして、ろうそくの灯がふっと消えるように亡くなった。

母の人生は、キリスト教信仰に支えられたといえ、悩みと苦しみの多い人生だった。だが、今はそれらから解放されていることだろう。父と相まみえることができただろうか。彼女の晩年は、下記のホイヴェルス神父の言葉をそのまま生きた時間だった。自分の存在を通して、最後のときはこのように過ごすのだと遺される我々に教え諭すかのようだった。この詩は、母の一周忌に姉が送ってくれたもの。その時にブログに転載したが、本当に希望を与えてくれるものだと思うので、再び引用する。

最上の業

この世の最上の業は何?
楽しい心で年をとり
働きたいけれども休み
おしゃべりしたいけれども黙り
失望しそうなときに希望し
従順に平静におのれの十字架をになう

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず
人のために働くよりも
謙虚に人の世話になり
弱ってもはや人のために役立たずとも
親切で柔和であること

老いの重荷は神の賜物
古びた心にこれで最後のみがきをかける
まことのふるさとへ行くために
おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつ外して行くのは
真にえらい仕事
こうして何もできなくなれば
それを謙虚に承諾するのだ

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる
それは祈りだ
手は何もできない
けれども最後まで合掌できる
愛するすべての人のうえに神の恵みを求めるために

すべてをなし終えたら
臨終の床に神の声をきくだろう
「来よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ」と

            春秋社「人生の秋に」
            ヘルマン ホイヴェルス著

さて、どうしたものか・・・? 

書こうかどうか迷っていたのだが、思い切って顰蹙覚悟で書いてしまおう。

CWのactivityがガタッと落ちていることはすでに何度も書いた。だが、それ以上に深刻なのは、ダイアローグにならぬ、一方向のモノローグのことが多いこと。自分の言いたいことだけを語り続け、話題のやり取りがない。これは、恐らくオペの高齢化が関係していると踏んでいる。高齢化すると、他者への関心が薄れるand/or他者の考えを理解できないことが多くなるのだと思う。高齢者が、今を生きるのではなく、過去を生きるようになるのはそれと関係している、ないし互いに因果関係にあるのかもしれない。

CWの交信では、通信効率が低いために、一方向のモノローグにとりわけなり易い。フルQSKにしたら、そうした事態を避けられるのかとも思うが、フルQSKでもモノローグを続ける方を知っている。やはり、知的な退行が始まってしまった場合は、なかなか意味のあるやり取りが難しくなる。

CW人口の高齢化によって、この一方向のモノローグが蔓延しているとしたら、もう改善の余地はないということになるのかもしれない。あまりに悲観的過ぎるだろうか。否、やはりそれが現実だ。Wのオペ達を見ても、大多数がモノローグの開陳を繰り広げている。

以前から65歳を過ぎると黄色信号、そして70歳を過ぎると赤が点滅する。80歳を過ぎると、まず間違いなく、この知的退行は進行する、という風に感じてきた。CWの世界を観察してのことだが、通常社会でも同様のことが言えるのではないか。そして、私も60歳台後半に差し掛かり、黄色から赤に変わる年齢に差し掛かっている。最近、相手がモノローグを始めると、心底ウンザリする。以前はもう少し我慢強かったし、もうちょっと神経を集中して聴かなくてはと思ったものがだった。だが、最近は、もういいやと投げ出したくなる。そして、時々自分がmonologistになっていることに気づき、ハッとする。

勿論、80歳を過ぎても知的にしっかりしており、楽しく会話をできる方もいる。だが、残念ながら、それはかなり例外的だ。

さて、どうしたものかと自問する。そろそろ、手を引くべきときか・・・。

ただ、CWで会話をすることは、かなりの知的な作業で、頭の訓練にはなる。本当に時々あぁ交信出来て良かったと思う方もおられる。一方で、大多数は、もうご免こうむりたい、という相手。そして、私自身がそう遠くない将来、相手の方に同じように思われるようになるかもしれない、迷惑をおかけするのではないか、という疑念がいつもつきまとう。

頭脳の訓練としては、SNSやメールで、外国の友人とやり取りをすれば良い。一方、無線から離れることは、多くの友人との直接の接点を失うこと。

だが、私も彼らも同様にこの加齢という坂道を降り始める。人生は大きな峠を歩むようなもの。峠を登り切り、見晴らしが開けてくると、あとは下降するばかりだ。それが人生の現実であることは間違いがない。

さて、どうしたものか・・・。

受験時代の思い出 

この時期になると、まだ受験時のことを思い出す。受験の前の年の秋ごろから、この時期にかけて、私は、呼吸困難に襲われるようになった。呼吸困難と言っても、全身性に障害が及ぶものではなく、空気枯渇感ともいうべきもので、吸気が十分できないという感覚だった。ときどき大きく肩で呼吸しなければならなかった。

どうも精神的な問題のようだという見立てて、父の知り合いの精神科医に診察をお願いした。一通り、話を聞き終えた彼は、私に厳しい叱責の言葉を投げかけた。何らかのアドバイスなり、治療を期待していたのにと思ったが、もうそうしたものは期待しないでやり抜く以外にないと腹をくくった。時々、肩で呼吸しながら、受験を乗り切った。受験が済み、平穏な生活が戻ると、その症状は徐々に消えていった。

今から思うと、あれはパニック発作の一種だったのではないかと思う。当時は、まだパニック障害・パニック発作という概念はなく、不安神経症とくくられていたのではなかったろうか。医師になってから、同じ症状の方、またはもっと典型的なパニック発作の方に時々出会い、適切な対応ができたと思っている。呼吸困難、多呼吸、頻脈等の呼吸循環系の問題を発作性に起こす場合は、この病気を考える必要がある。多くの場合は、ベンゾディアゼピン系の薬物の短期投与で改善する。ただ、この薬は、長期になると依存性があるので、注意すべきだ。この系統の薬、とくに短時間作用性の薬の場合、切れ味はよいのだが、依存性の問題が出やすい。場合により、SSRIの連用も行われるようだ。また、うつ病などを基礎に持ち現れるパニック発作の場合は、うつ病への対応が必要になる。心療内科・精神科の領域となる。

どうもこの病気には遺伝性の要因が大きいように思える。母が、しばしば「セルシン」を用いていたのを覚えている。母も同様の病態に悩まされていたのかもしれない。こうした精神身体的な疾患は頻度も多く、それに悩まされている方も多いのではないだろうか。そのような方が、進歩している医療の恩恵を受けて、その悩みから解き放たれることを望みたい。

受験時代の思い出から、こんなことを思い描いていた。今日、また患者になって、眼科受診だ。

余命数週間という知り合い 

FOCのMLで、Dave M0IKEからポストが1,2週間前にあった。彼とは交信したことがあったかもしれないが、とくに親しいという関係ではない。そのポストによると、大腸がんが全身に転移し余命数週間であること、リグやアンテナはもう処分したこと、クラブでは長い間皆に仲良くしてもらい感謝していることを彼は淡々と述べていた。いささかショッキングな内容であったが、覚悟を決めた様子が文面から読み取れる。

私は、ただそのポストに対する皆の返事を読んだだけだった。数名の方が、彼との交誼に感謝し、ご家族、彼をいつも思っている、という内容の返事をした。死に行く方へ、かけるべき言葉はなかなか見つからないものだが、皆の返信には、短い言葉に真情があふれていた。

一昨日、7メガでDon WB6BEEに会った。彼は、挨拶もそこそこに、Daveのポスト、スレッドを読んだかと尋ねてきた。Donは、彼と12回ほど交信し、いつもバグキーの話題等で楽しく過ごした。最後の交信で、彼が大腸がんの再発を知らせてきたので、気になっていた。そして、彼のポストを読んでいささかショックを受けたということだった。Daveのあの発言は、もっとも勇気のある発言だと思った、とDonは語った。Donのご両親、それに唯一の兄弟も、比較的若くして亡くなっており、他人ごとには感じられなかったのだろう・・・いや、私にとっても、同じだ。

Daveとはそれほど親しくなかったので、コメントを差し上げなかったことを申し上げた。一般論として言えば、死は苦痛と痛みを超えてゆかねばならぬ経験であり、怖くないと言えば嘘になる。死の先にあることが分からないからだ。だが・・・私の母親が認知症が進行してから、親戚の方の死を知り、「誰それさんは、もう苦しまなくていいんだね。」と独り言のように語ったことを思い起こし、死は地上の苦しみや悩みから解放されることでもある、とDonに申し上げた。また、現在は、ターミナルケアが進んでおり、Daveはそれほど苦しまずに最後を迎えられるのではないかと思うとも言った。それは希望的観測なのだが・・・あのようにしっかりしたポストを彼がアップできたのは、一つには彼の強靭な精神があるのだろうが、もう一方、適切なターミナルケアを受けているのだろう(と信じたい)。

それにしても、死に行く方には、ただ手を差し出して握りしめることしかできない、ということを改めて感じさせられたことだ。Donも同様な気持ちでいることだろう。それに、もう一つは、いつそのような事態になっても良いように、準備をしておくことだ。彼も、相続については、奥様が裁判所に行かねばならない手間が納得できないがと言いつつ、その準備をしている様子だった。

二人とも、毎朝のように1時間の散歩をかかさず健康な生活を送っているから、まだ20年以上、今お住いのPagosa Springsで二人で生活を続けるのではないか、と言ったら、そうだね、そうありたいとの返答だった。朝の散歩に早速出かけると言って、彼は交信の最後の挨拶を送ってきた。

最近、無線の友人たちの訃報やら、重い病気にかかったという報告が相次いでいる。自分がそのような事態になれば、それはそれで受け止めるのが大変なことだとは思うが、普段から準備できることはしておくべきだと改めて感じた。

ボンヘッファー、そして若井晋氏 

英語ブログにも詳しく紹介した、ボンヘッファーの詩について、ボンヘッファーに絡まる記憶について記しておきたい。内容の一部は以前のポストと二重になる。

ボンヘッファーの名を初めて知ったのは、1970年代後半、高橋聖書研究会に通っていたころのことだった。日曜日の午後、都立大学駅近くにあった今井館という古い集会施設で、読書会が開かれた。夏から秋にかけてのことだった。そこで取り上げられた本が、ボンヘッファーの「抵抗と信従」であった。ドイツ語のテキストを対照させ、読み進めるという勉強会だった。抵抗することは、他の何かにつき従うことである、ということを学んだ記憶がある。ボンヘッファーが優れた福音派の牧師・神学者であり、ナチスへの抵抗運動に加わり、ナチスが負ける少し前に処刑された人物であることも知った。その後、ドイツにおけるナチス抵抗運動の記録には、彼が必ず登場することを知った。

現在、安倍晋三は、日本を戦前の体制に引き戻し、そこでさらなる権力の集中を画策している。それは、米国への隷従に伴う戦争・武力衝突に自衛隊を加担させ、さらにはわが国自体を戦場にしようとすることである。それは、戦前の「国体」を実現させることを目的としている。米国隷従が、その意図とは相いれないことを彼は無視する。米国にはますます追従することになる。それは、米国が主導した戦後民主主義体制と矛盾し、我が国の国民を苦難に追い込むことは明らかである。

そうした政治的な動きのなかで、ナチスという全体主義に抵抗したボンヘッファーに再び出会ったことになる。勿論、今のところ、ナチスの時代ほどは切迫していない。だが、このすぐ先に、放漫国家財政と高齢化による困窮によって内部から崩壊するのか、戦争への加担による外力で崩壊するか、という瀬戸際にいる。ボンヘッファーの生き方から学ぶべきことは多い。

もう一つ、その読書会で、以前から何度か紹介させ頂いた若井晋氏と出会った。彼は、東大の医学部専門課程に進学されたばかりで、少し若い私に、まるで弟に相対するかのように接してくださった。その後、近くの医大で仕事をする時期が、二、三年間、彼と重なったことがあった。廊下等で行き交うと、いつもこぼれるような笑顔で、一言、二言、声をかけて下さった。彼は、基礎の仕事をなさり、そこから脳外科の臨床に移られた。海外医療協力にも出かけJOCSの幹部も務められた。50歳前後で、母校の教授として転出されたことを聞いていた。だが、その数年後、アルツハイマーを発症され、大学を辞めざるを得なかった。その事実を公表もなさっている。以前に紹介したが、こちら。もう70歳前後になられたはず。ご家族、周囲の方々の手厚い看護、介護もあり、比較的ゆっくりな経過であった。だが、最近、私の家族から聞いたところでは、すでに意思疎通が難しく、常に横臥の状態にある様子だ。彼は、医療を通して、常に他者のために生きた。そして、今、自らの信念、信仰に基づき、自らの存在を通して若年性アルツハイマーという病気を世の中に知らしめるべく戦っている。私の思いの中で、その姿が、ボンヘッファーと重なってくる。

東独で生まれ1973年に西独に逃れたアマチュア無線の友人がいる。Reinhart 現在のDL7UF/W7である。彼は、その後米国に移住なさった。彼とは1980年代に7メガでしばしば交信をした。数年前、SNSで再びめぐり逢い、それほど頻繁ではないが、コメントをしあったりしていた。彼が、昨年暮れに、ボンヘッファーの詩と、それをある方が曲に乗せて歌うクリップを公開された。その詩は、ボンヘッファーが捕らえられやがて処刑される直前に記されたとある。美しく、こころうつ詩である。処刑されるのを前にして、クリスマスの日に澄み切ったこころで感謝を歌っている。Reinhartによる英語への翻訳と説明が下記の文章である。最後に、演奏のyouotubeのurlがある。お聞きになられることをお勧めしたい。

以下、引用~~~

Dietrich Bonhoeffer, theologian and anti-Nazi dissident, wrote the poem “Von Guten Mächten wunderbar geborgen…” in a concentration camp on Christmas 1944 not too long before he was executed. An amazing man… One the family’s favorite songs. Brother Volker sent this link just before the start of the New Year in Germany

By loving forces silently surrounded,
I feel quite soothed, secure, and filled with grace.
So I would like to live these days together,
and go with you into another year.
Still matters of the past are pressing our hearts
and evil days are weighing down on us.
Oh Lord, to our souls, so scared and sore,
give rescue, as it's that you made us for.
And when you pass to us the bitter chalice
of suffering, filled to the brim and more,
we take it, full of thanks and trembling not,
from this, your caring and beloved hand.
But if you want to please us, over and again,
with our shining sun and wondrous world,
let us muse on what is past, and then we shall,
with our lives, in all belong to you.
Warm and bright be our candles' flame today,
since into gloom you brought a gleaming light,
and lead again us, if you will, together!
We know it: you are beaming in the night.
When silence now will snow around us ev'rywhere,
so let us hear the all-embracing sound
of greater things than we can see and wider,
your world, and all your children's soaring hail.
By loving forces wonderfully sheltered,
we are awaiting fearlessly what comes.
God is with us at dusk and in the morning
and most assuredly on ev'ry day.

https://youtu.be/aN7dGz6NH5M

過ぎ行く年を振り返って 

過ぎようとしている一年を振り返って・・・ますます、家事と庭仕事に明け暮れた一年だった。何はともあれ、健康を守られて、こうして過ごせたことに感謝したい。ただ、残念ながら、公私ともども、さまざまな出来事に見舞われ、ハッピーな一年だったとは言い難い一年だった。主に海外の友人に送る年末の挨拶状も、今年は欠礼した。

音楽の面では、冬にピアノトリオを某所で弾いて以来、夏から秋にかけてオケに少し参加したのみ。やはり運動能力の減退から、楽器演奏がなかなか大変になりつつある。だが、まだ体力の許す限り、続ける積りだ。来月下旬には、ベートーベンの大公トリオを弾く(練習する)。これは学生時代に、K、Nさんのお二人に弾こうと誘われて弾いた曲。お茶大の徽音堂を借り切って弾いたこともあった。お二人とは、このところ連絡がないが、お元気にしているだろうか。来月のアンサンブルは、バイオリンはいつものTさん、ピアノは東京から来てくださるNさん。気心の知れた仲間で楽しみたいもの・・・。オケは、もう体力的に難しいかもしれない。昔の音楽仲間の大学時代の友人M君が、体調を崩したという知らせをくれてから音信不通だ。どうしていることだろう。

聴く方では、マーラーの9番に惹きつけられた。ブラームス・フォーレの室内楽にも、改めて、こころ癒される思いになることが多い。学生時代以来聴いている、リヒテルの演奏する平均律もやはり素晴らしい。もう新しい音楽を開拓することは難しいかもしれないが、こころに響く音楽を見つけてゆきたい。

アマチュア無線・・・これも私の好みとするモードCWのactivityが、世界的にみてもガタッと落ちている。先日、FOCのMLで、Martin OK1RRが、メンバーの多くがFT8に行ってしまって、CWで聞こえなくなっていると憂慮する発言をしていた。確かに、デジタルモードが盛んになってから、珍局との交信、競争的な楽しみにCWを用いていた方々は、デジタルモードに流れていったようだ。これも時代の流れなのだろう。それに、もう笑うしかないような、我が国の免許制度。ガラパゴス化極まれりである。新スプリアス規制を、行政・関連業者の利権のために利用している。これは、我が国のアマチュア無線界で、もっとも息長く無線を楽しみ続けてきた人々を、無線から遠ざけることになるに違いない。行政・関連業者の視野の狭さ、長期展望の欠如、そして短期的な利己主義は、目を覆うばかりだ。

このブログも、政治経済に関する話題ばかりになりつつあるが、ネットでは、結局自分の信じるところ、本当だと思うことだけを追い求め、そこに腰を下ろしてしまうことが多い・・・私も、そうした一人だと自覚している。ますます、本当のこと、posttruthではないことを研ぎ澄まされた目と耳で見出すことが必要なのだろう。特にネットでは、あからさまな嘘が横行している。それに惑わされずに、自分の座標軸を得て、そこから物事を判断することが必要になる。さらに、勉強と見聞を続けてゆきたい。今年読んだ本のなかで、明石順平著「アベノミクスによろしく」が平易な書き方で、事実に基づき、アベノミクスなる偽りの経済財政政策の問題点を指摘していた。長谷部恭男・石田勇治氏の対談「ナチスの手口と緊急事態条項」も、歴史的に緊急事態条項の重要性を説き起こしている。現在、山崎史郎著「人口減少と社会保障」を読み進めている。山崎氏は社会保障を専門とする官僚のようだが、物事を深く突き詰め、それでいてあたたかなまなざしを感じる優れた研究者でもあるようだ。こうした方が、行政のなかにいることで、日本の社会が何とか持ちこたえているのだろう。これからも、もっと古典的な書物も含めて、勉強だ。

モリカケ疑惑は、証拠や証言が隠蔽され、止められて、何ら明らかになっていない。籠池夫妻は、補助金詐取で逮捕され、その後起訴されたのに勾留され続けて5か月が経った。権力を乱用する安倍首相が、権力の乱用を阻止するための憲法を改変すると主張している。権力の集中する政権周囲には、ペジー・リニア業者それにジャパンライフといった利権を漁る連中がたむろしている。生活保護給付水準を切り下げ、それに伴い他の社会保障給付も大きく切り下げられようとしている。一方、国難を喧伝していた安倍首相は、冬休みにゴルフに興じている。

SNSは、facebookに加えて、twitterも覗くようになった。あの短文での意見の表明は、ちょっと単純化しすぎで、かつプロパガンダになりがちだが、様々な識者・研究者からの、知らないことの指摘も多く、刺激的ではある。m3は、匿名掲示板の常で、玉石混交で、石の方が圧倒的に多くなっており、最近はご無沙汰だ。このブログが100万のカウントを数えた。訪れて下さる方には感謝あるのみ。最近、とある理由で過去のポストをつらつらと読み返しているが、いかにも取って付けたような記事が多いのに赤面するばかり。だが、中には自分の当時の心境を反映したものもある。残すことは不要だが、自分史の一部としては、自分のために記録する意味があるだろう。ブログを毎日アップしていると、だんだん手抜きになる。英語ブログも含めて、いろいろと研究して、中身のあることをアップして行きたいものだ。

家の修理・手入れで大きな工事が二件あった。浄化槽の取り換え、壁の塗り替え、屋根の補修である。それに伴い、庭の土壌から砂利や廃材を取り除く作業を進めた。この土地全体で行うことは無理だが、当面花壇や、畑に用いる土地は、確保した。腐葉土化も進めた。これからもいろいろな作業が必要になるかもしれない。だが、ここでの生活、というか地上での生活も、もう残すところ20年はない。その終りの時点から逆算して、生活設計をしてゆきたい。

ブラウニングのラビ・ベン・エズラにある「老い行けよ、われとともに」という心境にはなかなかなれないが、それでもこの人生の最終章に何か良いものが残されていることを期待してまた新しい年を迎えたい。ここを訪れて下さる皆さまにとっても良い新年になりますように。

戸塚洋二氏の言葉と、リンパ腫に罹った無線の友人 

7年前に亡くなられた戸塚洋二氏のことを思い起こす機会があった。彼の言葉は、簡明でありながら深い消息を語る。彼が亡くなった直後、このブログでも彼のこと、その言葉について記した。彼の残した言葉を英文ブログで紹介した。こちら。

いつもの通り、そのブログをfacebookで紹介した。あまり反響がないのはいつものことだが、”like”ボタンを押してくれた方の中に米国西海岸に住む無線の友人がいた。その友人は、つい最近、悪性リンパ腫の診断を受けたばかりだった。私と同年齢で、T細胞型のリンパ腫となると、治療抵抗性の可能性もかなりある。治療予定に化学療法、放射線療法後に幹細胞移植が組まれている。幹細胞移植が組まれているということは、根治をそれにかけるということなのだろう。

戸塚洋二氏のこころに染み渡るような言葉、それを拙い翻訳で記した私のブログ記事が、彼にどのように受け止められたのだろう。無線では、いつも朗らかで、人生を謳歌していたような彼が、どのような心境にあるのか。ぜひ治療効果をあげて、無線にカムバックしてきてもらいたいものだ、と切実に思った。

死にゆく孤独 

夕食を作りながらかけているCDは、このところ、マーラーの9番。クッキングのお供にはいささかふさわしくなさげだが、それでも聞き入っている。

以前何度かアップした4楽章のYiddishの旋法による旋律。その元となる動機が、3楽章に長調で出てくることに気づいた。いかに漫然と聞いていたかの証明のようなものだ。あの4楽章の静謐な世界に流れてゆく必然をここでマーラーは言いたかったのか、と納得した。

Yiddishの印象的な旋律を聴くたびに、「死に行く孤独感」を感じる。もちろん、それは想像でしかないのだが、恐らく、この音楽はそれを表現しているのではないか、と思う。

先日、「矢内原忠雄」という東京大学出版会から出版された、矢内原忠雄の伝記を読んだ。矢内原の弟子だった鴨下重彦先生が、彼の生涯を記しておられる。鴨下先生の飄々とした人柄がにじみ出るような筆致だ。懐かしい。生前の鴨下先生には、不義理を重ねてしまったということを改めて思った。

その本のなかに、矢内原が「富士登山」をした折に記したエッセーがある。矢内原が東大総長を務めたときに、山岳部の学生が数名富士山で遭難死する事件があった。矢内原はこころを痛め、彼らの追悼のために富士山の登山をすることにした。総長を辞める前後のことだ。若い時代に登山を楽しみ健脚で鳴らした矢内原だったが、すでに60歳台になっており、さすがに富士登山はきつかったらしい。彼の前後を、東大山岳部の方が彼を守るように歩く。何も言葉をかけたりはしない。ただ、黙々と彼を見守るようにして歩くのだ。矢内原は、死出の旅もこのように孤独な、ただキリスト教信仰によって立つ彼の場合は、天使に見守られながらの旅になるのではないか、と思ったそうだ。孤独だが、不思議とこころ落ち着く旅・・・。死に行くときには、誰しも絶対的な孤独のなかを歩むことになる、ということなのだ。

矢内原のこの文章を読んだときに思い起こしたのが、マーラーのあのYiddishの旋律である。すさまじいまでの孤独感であるが、それでいてこころ落ち着く、という心境。我々は皆そこに向かって歩んでいるのだ。

でも、これは「最後のこと」。そこにたどり着くまでに行わねばならぬことが残っている。

限界を知りつつ進む旅路 

山田太一氏が、脳出血を起こし、事実上の断筆宣言をした、と報じられている。83歳。

限界を受け入れて生きる、諦める。さまざまな限界が、老境に入ると明らかになってくる。そもそも人生の時間が限られていることが根本的な限界。そこで、人生の実相が明らかになる。人生は、限界に囲まれ、それに沿って生きる旅路だ。

それをそのまま受け入れて生きるということか。ご本人は、本当のところ、迷いや苦しみがないのかとも思うが、このインタビュー記事の彼の言葉からは、澄み切った朗らかさ、明るさを感じる。

お疲れ様でした、と申し上げたい。私も、彼の生き方の後に続きたいものだ。

以下、NEWSポストセブンより、山田太一氏インタビューの一部を引用~~~

「人生は自分の意思でどうにかなることは少ないと、つくづく思います。生も、老いも。そもそも人は、生まれたときからひとりひとり違う限界を抱えている。性別も親も容姿も、それに生まれてくる時代も選ぶことができません。生きていくということは限界を受け入れることであり、諦めを知ることでもあると思います。でも、それはネガティブなことではありません。

 諦めるということは、自分が“明らかになる”ことでもあります。良いことも悪いことも引き受けて、その限界の中で、どう生きていくかが大切なのだと思います」

 ひとつひとつの言葉を絞り出すように語り、一呼吸ついて、こう続けた。

「もう脚本家として原稿が書ける状態ではありませんが、後悔はしていません。これが僕の限界なんです」

 事実上の断筆宣言にも取れる言葉だが、その顔は笑いに満ちていた。