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信州行 

先月下旬、思いついて・・・そう、思いついたらすっと出かける旅をしたいとリタイアする前から念願していたのだ・・・信州に一泊で出かけてきた。

下の道を通って行った。1980年前後、まだ高速道路ができていない頃、子供を親に見てもらい、同じ道を家内と信州に旅した。今回は、午後遅くに家を出たので碓氷峠を越えるころには、とっぷりと日が暮れていた。上田の辺りで一泊。翌日、朝早く鹿教湯を目指した。何度も記しているが、学生時代に、鹿教湯の病院で研修、というか見学をさせてもらった。同級生数名と一緒に、上野から同じ列車で上田へ、そして田舎のバスで、渓谷にある鹿教湯に向かったのだった。

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その後も何度かこの道を自分の車で通った。松本で開催されたUさんのリサイタルを聴きに行った時も、この道を通ったのだったか・・・。この初夏ともいえる時期にここを通るのは初めてだ。すべてが生き生きとしている。

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鹿教湯の病院は、建て替えられ、以前の面影はない。私たちが研修で訪れたときは、コンクリートむき出しの外壁、4から5階建ての垢ぬけない建物だった。その前が広場になっており、向かって右側に私たちが寝泊まりした建物があった。今は当時の面影はまったくない。研修といっても大した内容ではなく、病院の様子を見せて頂くだけだった。だが、臨床を始めたばかりの私たちには新鮮だったのだろう。

当時、この病院の院長をなさっていたのは、第三内科出身のF先生で、彼が毎年夏学生を研修に呼んでくださっていた。おそらく、将来この病院で仕事をするようになることを期待してのことだったのだろう。この病院は第三内科の関連病院になっていたが、今はどうなっているのだろうか・・・大体、ナンバー内科が未だ存続しているのかもしらない。臓器別の細分化された教室になってしまったようだ。F先生も存命だとしてももうかなりの高齢。もちろん現役は引退なさっているはずだ。・・・すべてが、変わった。

やはり1980年代だったろうか、父の元の同僚の方がこの病院に入院なさっていたことがあった。父の代わりにお見舞いに出かけた。その方も大分前に亡くなられた。

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鹿教湯は、典型的な温泉街。だいぶ高層建築のホテルが増えたが、街を南北に走る道は昔のままだった。早朝のせいもあるが、人通りは少ない。その研修時、夕食前だったか後だったか、友人たちとこの道を散歩した。たわいもない話をしながら歩いた。でも、将来医師としてどのような生活が待ち受けているのか、少しの不安とともに漠とした期待は確かにあった。あの同級生たちも皆リタイアの時期になっているはずだ。

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松本・安曇野方面へ向けて、三才山トンネルを通る有料道路を走った。トンネル手前で周囲の林を撮影した。通勤時間にさしかかり、車が結構走っていた。この有料道路、建設コストをカバーしたので、来年から無料になる由。長野県、なかなかやるではないか・・・。

松本の北部で渋滞に巻き込まれた。安曇野の自然、北アルプスが見える地点で、しっかり渋滞になっていることに違和感。信州は、観光だけでもっているわけではなく、人々が生活している地域でもあるという当然のことを改めて感じた。

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大町を経て、青木湖へ。これも繰り返し記したことだが、ここから数km先にある神城という街で、毎年8月末にオケの合宿をした。半日程度自由になるときがあり、数名の友人たちとこの湖に歩いてやってきた。で、私とあと二、三名が湖畔から泳いだ。完全な横断ではなかったが、ボート乗り場まで数百mは泳いだか。水泳パンツをもちろん履いていたはずなので、最初から泳ぐ気満々だったのだ。ところが、岸に上がってみると、遊泳禁止の看板。湖のなか、急に水温が下がる場所があり、危険だということだった。

女子も二、三人いたと思うが、彼女たちは泳がず。この通りを、また1時間ほどかけて、騒ぎながら合宿所に戻って行った。あの当時の友人たち、多くは後輩だったが、とは連絡が取れていない。皆元気にしているだろうか・・・。

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この道が、白馬から小谷を抜けて、糸魚川に至る唯一の道路だった。現在は、少し小高いところを走るバイパスがあり、それで糸魚川に簡単に抜けることができる・・・だが、トンネルが多く、あの秘境の姫川渓谷を走り抜ける楽しみはない。交通は専らバイパスなので、この下の道は閑散としている。真夏になると少しは観光客が来るのかもしれないが、この時期は本当に人と出会うことがない。

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オケ合宿の常宿「やまや」から少し南に行ったところにある、スキー場のリフト発着所から望む五竜岳。ここも人が殆どいなかった。

途中まで、下の道を走ってみたが、山道に迷い込み、結局バイパスに乗った。本当は、姫川沿いを走る曲がりくねった道を走りたかったのだが・・・。糸魚川に出た突き当りに、五洋水産というご飯を食べさせてくれるドライブインがあったのだが、きれいになくなっていた。1980年代、大学を辞めて、市中病院に移る前に、やはり車で通りすがり、五洋水産で美味しいあら汁を頂いたのだったが、やはり時間が経ったということか。

このドライブ旅行の最中、しきりに今は亡き友人たちのことを思い起こしていた。その一人は、中島守氏JH1HDX。長男が小学生のころ、長男と彼と三名で、この姫川沿いから加賀温泉に旅行した。JA9FNC月田氏にお世話になった・・・このことは既にこのブログに記した。その後、私が一人でここを旅行した時に、中島氏とモービルで交信し続けた。中島氏が亡くなって、もう10年前後経つ。

鹿教湯で、将来を夢見たころからもうすぐ半世紀だ・・・時間が経ったものだ。残された時間を、また丁寧に一歩一歩歩むことだ。

北陸自動車道から関越自動車道に乗り、暗くなる前に自宅に帰着。

大台に乗るに際して 

過ぎ去ろうとする今日、70歳になった。このブログを始めたのが57歳。その頃は、仕事に生活に遮二無二突進していた。体力・知的能力両面でまだ余裕があった。

あれから13年。仕事を辞め、家事中心に生活が回っている。

ブログ開始当時は、大野病院事件があり、医療の将来に危惧を抱いた。自分の仕事であったからかもしれないが、あれではいけないという思いが強かった。

だが、バブル崩壊の後遺症の癒えぬまま、この7年間安倍政権が政治を私物化し、平和国家を破壊し続けている。憲法の理念、平和主義、国民主権、基本的人権が蔑ろにされ、集団的自衛権の名のもと世界どこにでも米軍の指揮下に自衛隊が派遣されることになろうとは、13年前には想像できなかった。そして、国内では、少子高齢化が急激に進み、国力は落ち続けている。天文学的な政府負債がさらに積み重ねられている。

以前にも記したが、第二次世界大戦に兵士として徴兵された父は、若い時代をあの戦争の渦中で過ごした。それに匹敵するかもしれない、政治経済の混乱がこれから起きようとしているように思える。父の経験した戦禍と同等の混乱・窮乏化が待ち受けているように思える。

経済的なハードランディングが先か、それとも全体主義化が先か、いや両方が一緒にやってくるのか。今のところ、暗い見通ししかない。自分の晩年になって何故という思いも強いが、それが運命というものなのだろう。歳をとり、同じことを繰り返し述べているだけのような気もするが、それでもできる限り、その時々を記録する積りでブログを続ける。

早くに逝ってしまわれた方、晩年を生きる方 

昨日、行きつけの床屋さんに出かけた。私の仕事場のあった場所の近く。車で20分ほどかかるが、この10年間ほど通っている。幹線道路・・・とまではいえないが、結構車の往来のある道路沿い、住宅街の端に、かなり古びた小さな建物があり、そこに理髪店のあの回るサインがある。以前は、時々その道を通り過ぎ、サインが回っていると、お元気にしていることが分かって、ほっとしたものだった。最近は、髪を刈ってもらうときしか、行くことがなくなってしまった。

老夫婦がそこで仕事をしている。ご主人は、80歳を過ぎ、奥様は70歳台半ば、か。お店に入ると、奥から「いらっしゃい」と声を私にかけ、ラジオをつけ、そして電気ストーブを足元で点けてくれる。時間の流れが、途端にゆっくりになる。

お二人のお嬢さんに当たる方のお子さんAちゃんが、赤ちゃんの頃からの私の患者だった。Aちゃんは、かるい喘息があり、少し具合が悪くなると、お二人またはお爺ちゃんが一人で、Aちゃんを連れてこられた。中肉中背で髭を生やし、歯切れ良い話し方をするお爺ちゃんである。最初、私の仕事場に来られるようになった時は、元気そのものの中年の紳士然とした方だった。奥様は小柄でいつも笑顔の優しそうな方。

当時、Aちゃんの母親であるお嬢さんが来られなかったのは、離婚をなさったばかりだったから、と後で伺った。お嬢さん、その頃はまだ20歳台後半の方だった、は少し陰のある美しい方だった・・・つい10年ほど前再婚なさり幸せに暮らしていると伺った。私が仕事場を畳む前数年間は、Aちゃんを連れて、お母さんが来院なさっていた。彼女の仕事のことなども診療の間に時々伺っていた。努力なさって介護士の資格を取られたと聞いた。Aちゃんは、小学校低学年まではおしゃまな子だったが、思春期にさしかかると物静かな少女に変身して行った。

床屋さんで、あのシートに私が収まると、まずは天気の話題・・・そしてお孫さんのこと。Aちゃんはなかなかの努力家で、近傍の国立大学に入り、この春卒業。都内で職場を見つけ、来月下旬には引っ越すらしい。赤ちゃんの時代から、大学に入るまで、ことあるごとにお目にかかっていたので、自分の娘・・・否、孫・・・のことを伺うように、お二人から彼女の様子を伺ってきた。都内では生活も厳しく、誘惑も多いだろうが、実直に生きてこられたご家族の皆さんのようにしっかり生きて行ってもらいたいものだ、とまるで第二の祖父のような思いで伺っていた・・・。

老夫婦は、店を売りに出しているが、買い手が見つからないらしい。頭を刈ってもらい、最後にお爺ちゃんをしっかり見つめる。やはり年齢相当に老けておられる。頭髪は薄く、口ひげにはかなり白いものが混じっている。少し猫背になり、肩の筋肉も落ちている。鋭い眼光は昔のまま。床屋さんを辞めてしまうと、私の行き場がなくなるが、でももう引退なさり、お嬢さん夫婦の家に越してのんびり過ごされるべき時期なのだろう。

ただただ、Aちゃんが育つのをそばで見守るだけの私の仕事だったが、こうしてAちゃんの御一家と長い期間家族のようにお付き合いさせて頂けたことは幸せなことだった。これは、町医者にしか経験できないことだったと思う・・・再びパートの仕事に出ることを私が躊躇うのは、こうした経験ができないからだ。ここにも記したが、昨年秋には、自家製干し柿をお持ちして、老夫婦に喜んで頂いた。この秋まで彼らが仕事を続けておられたら、そして私が農作業を続けることができたなら、収穫した野菜をお持ちできることだろう。

寝る前に、ふっと思い立って、礒山雅教授の「バッハ 魂のエヴァンゲリスト」を読み直し始めた。この本のことはまたいつか詳細にわたってリビューしたいと思っているが、素晴らしい著作である。礒山教授が、ドイツ留学を終えて帰国し1年後に書かれた。1985年初版。彼がまだ30歳台後半の時期だったのではないだろうか。バッハの生涯を振り返りつつ、時々に作曲された代表的な音楽について記されている。特筆すべきは、そのみずみずしい筆致と表現。おそらく、バッハが生涯を過ごした土地を彼自身が訪れて、その様子を記述に生かしている。また、内容がありきたりな伝記ではなく、音楽史の最新の研究成果に基づいている。最後の索引もとても充実している。

この本を手にしたのは、彼の一周忌が今月22日だということを思い出してのことだった・・・これも何度か記した通り、同じ日が武満徹の23回忌でもある。礒山教授は、埼玉で行われたヴォーカルアンサンブルのコンクールに審査員として出席した帰路、雪道で倒れて重傷を負い、4週間近くの闘病後に亡くなられた。これも以前に何度も記した通り、「ヨハネ受難曲」研究で、博士号をICUから受ける試験を受けた直後の出来事だった。ヨハネ受難曲研究の本、それに彼の遺された名作「マタイ受難曲」改訂版の出版を準備していた途中の事故・逝去であった。

早くに逝く方、そして晩年を生きる方・・・自分はどうなるか。

頌春 

頌春

私は、根性が曲がっているせいか 笑、世の中がお目出度いと湧きかえっている時には、むしろ気持ちは低迷し目の前の困難を意識する。

世界的にみて、世界各国が積み重ねてきた量的金融緩和は極端に積み上げられ、そのバブルが破裂しかかっているように見える。これが破たんしたら、金融の信用システムが大きく毀損されることになる。また、グローバリズムへの反動なのだろうか、ナショナリズムの形をとったポピュリズムが世界各国で横行している。米中の覇権争いはますます深刻になり、ツキヂデスの罠が生じるのではないかと危惧されている。中東の戦禍、避難民増加は止むことがない。

国内では、虚偽と改ざんにより、統治機構が破壊された。没知性の安倍晋三という一人の人間がこの国を誤った方向に導こうとしている。彼は、戦前の統治機構の中心に自らを置きたいのだ。対米従属は、さらに強まり、自衛隊は米軍の手足になって海外での戦闘に加わる。沖縄や、福島、その他自然災害で被害を被った人々の苦難は続く。

こうしたなかで、どうしたら新年を喜べるのか、というのが率直な気持ちだ。

3,4年前だったろうか、米国のSimonという名の方、まったく未知の方から、facebookで「友達リクエスト」が来た。未知の方のリクエストはpendingにしておくことが多いのだが、どのように考えたのか、その方針に反して、それを承諾した。やがて、2,3か月したころ、彼のお子さんから、彼が逝去なさったことが報告された。

そのすぐ後に、美しく紅葉する銀杏の木に寄せて、燃え上がるように最後の輝きを見せて、次の世代のために静かに死んでゆく美しさについてfacebookに記した。すると、KB6VSE Steveがそれへの返信に、まるで亡くなったSimonが、そのような人物だったと書いてよこした。SteveとSimonは、カリフォルニアの森林警備員として同僚だったのだ。Simonの逝去の報告に、多くの方が心情溢れる追悼の辞をコメントとして残していた。どれもが彼を心底悼む気持ちに溢れていた。

先月だったか、facebookの彼のアカウントがまだ開いていたことを知った。後で、そこに記録されていることを読もうと思っていた。だが、先日もう一度見てみると、彼のアカウントが無くなっていた。逝去した者のアカウントになって別なところにうつされたのか・・・。もっと早く見ておくべきだったと後悔した。

この一年、亡くなったSimonのように皆に思われるように、または思われなくても、周囲の方々、そしてこの国の未来のために、知られるれることでなくても何事か、できることを続けて行きたいと念願している。今年は70歳台の大台に乗る。できることは限られているが、その努力を続けたい。

新年早々、あまり目出度い話ではないが、これが私の現在の心境だ。

この一年が皆様にとり健康に恵まれ、幸い多い年になりますように。

故郷 

昨日、夕食の食材を買い出しに、隣町のスーパーに出かけた。以前、自分で仕事をしていた時の職場の近くのスーパー。仕事をしていた頃は、仕事帰りにしばしば立ち寄った。

以前にもこのブログに記したと思うが、このスーパーは、あの大震災で被害を受け、1年間ほど休業していた。内部を大幅に改装して、また営業を始めた。店内の様子が変わってしまい、昔の面影はないのだが、店内には当時からの店員もちらほら。昔は、よく患児とその親御さんにお目にかかったが、最近はまず会うことはない。子供たちもみな成長して、親元を離れるか、親と行動を共にすることはなくなったのだろう。

往復ともに、かっての通勤路を走った。最近入手したカメラ、キャノンのコンパクトデジカメ、の試し撮り。

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交通もほとんどなく、大きな音でバッハの管組2番やら、ブラームスの弦楽五重奏曲1番をかけて、突っ走った道。これは行きに撮った。まだ青空。

帰り道、日が暮れかかるころ、おなじみの弁財天の祀られた祠を撮った。広葉樹はすべて落葉している。昔とまったく変わらない。こうして数百年いや千数百年ここに存在し続けてきたわけだ。

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夕暮れ・・・少しアップにしてあるので、画質が良くない。

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はるか北西の方向に、日光連山、男体山が見える。

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こうして写真を撮っていて、確かにこの地域が私の故郷だという感慨を改めて抱いた。人生の半分以上をこちらで過ごしたわけだ。初期研修に自治医大にやってきたときは、仕事のために一時的に滞在する地域という意識でいた。年末になると、家族を車に乗せ、両親の待つ東京都下の町に帰って一晩、二晩過ごすのを常としていた。あの頃は、また東京に戻るかもしれないと漠然と考えていた。あの東京の町が、私の育った場所で、故郷だった。何よりも、両親がそこで生活をしていた。しかし、やがて両親が相次いでこちらに戻ってきて、あの東京の故郷と呼べる場所はなくなった。そしていつの間にか、こちらが故郷になったのだ。もちろん、東京で育った頃の思い出は、記憶のなかに残っているが、もうそれは記憶のなかだけのこと。両親はもういない。

そんなことを、ぼんやり考えていた。

干し柿 

今年は柿が豊作だ。二つある甘柿の木も、一つの渋柿の木も、たわわに実をつけている。尊敬する志村建世氏も、そのブログで、柿が豊作だと述べている。今年の酷暑が柿を多く実らせる要因だったのか。甘柿はサラダの具にして、渋柿は干し柿にすべく干している。

腕が2m程度伸びる、柿の収穫はさみで渋柿を小枝ごと摘み取る。皮をむき、紐で2,3個数珠繋ぎにして、熱湯で短時間消毒してから軒下に干す。母が元気なうちは、この時期によく干し柿を作っていた。やがて、認知症が進行しても器用に同じように渋柿を軒下に干していた。でも、糖尿病があったので、姉や弟が来訪したときに、そっとその干し柿を隠してしまった。母はそれに気づかず、またその翌年同じことを繰り返していた。食べる楽しみもあったのかもしれないが、毎年この時期になると行うべき年中行事だったのかもしれない。その母ももういない。私がそれを受け継いでいることを改めて思い、こうして世代が交代してゆくのかと思った。母もきっと私の知らない、彼女の母、私の祖母から、干し柿づくりを教わったのかもしれない。

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「枯葉」 

庭に落ちたいがぐりを掃き集め処理をし、さて、これから木の葉が落ちる番だと思った。ふとシャンソンの「枯葉」を思い起こした。

実は、しばらく前に、イタリ―のフィレンツェの街角で撮影された、「枯葉」のジャズのセッションを気に入り、「枯葉」が頭から離れなかった。そのセッションは、旅行者の韓国人ベーシストが、街角で演奏する現地のミュージシャンに飛び入りで加わり、演奏したもの。ヨーロッパでは、人種間の対立が微妙な問題になっている。そこで、音楽を通して、このような即興のセッションが成立したことに感銘を受けた。もちろん、演奏も素晴らしく、とくにバイオリン奏者の即興演奏には感動だった。

で、「枯葉」のレコードを中学生時代に手に入れ、良く聞いたことを思い出した。イブモンタンの歌う「枯葉」。静かな語りから始まり、いつの間にか、あの美しい旋律に乗せて、「一つの歌がある」と歌いだす。youtubeで検索すると、彼の実況録画が残っていた。聴衆から語り掛けられ、それに笑顔で答え、すっと歌い始める。懐かしさでこころが溢れた。

こちら。

そのころ以来、この曲を聴くことはほとんどなかった。で、歌詞の意味も知らず、フランス語を真似て口ずさんだりしていた。

人生の晩年を迎えて、別れた恋人のことを思い出す。通りに北風が吹き、枯葉が吹き溜まりに集まっている。その頃は、時が輝き、太陽もより明るく輝いていた。・・・と過去を懐かしむ曲だ。老人の感傷と片づけられるのかもしれない。だが、そうした時が、老境を迎えると必要になるものだ。この恋人とは、過ぎ去った自分の青春そのものと言えるのだろう。

でも、まだ感傷だけに浸っているわけにはいかない。一時、その儚い過去の記憶を懐かしんだ後には、まだするべきことがある。この世界をより良いものにして、次の世代に受け渡すために、まだするべきことがある。

栗の木 

我が家には、栗の木が一つある。直径が40cmは優に超えそうな大木になった。我が家がここに越してきた時に、父が植えてくれたものだった。

毎年、無数ともいえるほどの実をならせる。例年、ごく一部を利用して、他は同じ栗の木の肥料にしていた。今年は、せっせと落下した実を拾い集め、一部はお世話になった方にお送りした。

弟、姉にも昨日送った。それを知らせるメールに記した文章の一部・・・

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渋皮煮をつくるために鬼殻をむいているときに、ふと、この木は父が植えておいてくれたのかと思いだしました。ご存知の通り、彼は実のなる木を大切にしていました。戦争中の飢餓を経験したためか、私がまだ幼児だったころ、うろ覚えなのですが・・・小豆島に、そうした実のなる木による農業を学びに出かけたことがありました。数日父が我が家に不在でした。そして、帰ってきたときのことをまざまざと思いだします。信愛園の前の雑木林から、「三輪車」を肩に担いで帰ってきたのです。その時、如何に幼かった私が喜んだか、その瞬間の思いを今も忘れることができません。

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親の愛情を改めて思い出し、それを彼らと共有したかった。

それに、地球温暖化による食糧難がそう遠くない将来襲ってくるだろうことも、常に忘れるべきではない。

大きく育った栗の木・・・

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無言館訪問 

先週末、長野県上田市の無言館という美術館を訪ねた。

先日、この美術館、その所蔵する作品についてあるテレビ番組で紹介された。それを観て、是非一度訪ねてみたいと思っていた。

この美術館の作品は、第二次世界大戦で戦没した画学生、若い絵描きによるものである。彼らの遺品も収められている。

絶好のドライブ日和。富岡まで高速道路を使って走り、そこから下の道に降りた。母と昔ドライブして、釜飯を食べた横川で昼食をとる積りだった・・・のだが、週末でレストランはものすごい混雑。諦めて下の道を走り続けた。碓氷峠を抜け、軽井沢へ。軽井沢でも渋滞。小諸から高速に再び乗り、上田に着いた。

目指す美術館は、上田市の近郊の小高い山の上にあった。数台駐車場に停まっていた。ナンバープレートを見ると、埼玉や神奈川からの車もある。決して入場者数は多くはないようだが、近隣の方々だけではなく、きっと全国から観に来る方々がいるのだろう。

駐車場から建物まで数十m。きれいに整備されている。

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建物の近くに、パレットの形をした大きな岩盤が置かれており、そこに人名が刻まれている。戦没した画学生、絵描きの名前のようだ。いわば、声なきパレットだ。

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建物は、窓のほとんどない外観で、まるで教会のよう。鳥瞰すると、十字に見える構造になっており、もしかするとこの建物、美術館を創建された方はクリスチャンなのかもしれない。歴史は比較的新しく、20年ほど前に開館したようだ。1979年に開館した「信濃デッサン館」という美術館の分館として始められたとパンフレットにあった。信濃デッサン館は、大正から昭和にかけて夭逝した画家の作品を収めているらしい。

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所蔵の絵画、遺品の撮影は禁止されていた。

美術館のなかに入ると、全面の壁に作品が展示され、通路の中央に遺品類がガラスケースに収められていた。各々にライトが当たり、それらに集中することができるようになっている。雑音や会話の声は全く聞こえず。観覧者は20名前後だったろうか。時間をかけながら、一つ一つの作品に見入っていた。

作品の一つの裸婦像に目が行った。若々しい女性、でもモデルのようには見えない。だが、彼女の姿に美を追求しようとする画家の視線が感じられる作品だ。説明に、この画家は、あと5分、10分だけでも良いからこの絵を描き続けたいと述べて、出征していったとあった。そして、彼は戻ることはなかった。

火鉢を囲む、あたたかな家庭団らんの絵があった。のちに画家の兄が述べたところでは、この画家の家庭は貧しく、このような団らんを経験したことはなかった、おそらく、そうした団らんにあこがれていたのだろう、とあった。この画学生は、貧しい中、美術学校に行かせてくれた家族への感謝を忘れなかった、という。

戦場から戻ることのなかった彼らは、皆同じように、絵を描き続けたい、家族とともにいたいと考えていたのだろう。そうした作品を観ながら、目に涙があふれてきた。

若い画家、画学生は第二次世界大戦敗戦前の2年間に集中して亡くなっている。戦地で病没という方もかなりいる。第二次世界大戦では、300万人以上の方が命を失った。その半数以上が、病死ないし栄養不足による死だと言われている。名誉の戦死等と言うのは、国民を戦地に赴かせるためのスローガンに過ぎなかった。多くが兵站の不足、栄養不足による死であった。いわば、国家が彼らを殺したのだ。画学生、画家でいえば、大多数は、家に戻り絵を描き、家族と幸せに過ごしたいと渇望していたのだ。

また、この侵略戦争でアジア・オセアニアの若人も多く殺したことも記憶されるべきだろう。米軍・同盟軍で命を失った若人も多くいる。

この美術館の展示絵画、遺品は、声高に叫ぶ政治的なプロパガンダ以上に、戦争を繰り返してはならないことを、それを観る者に静かに語り掛けている。機会があれば、また訪れてみたい。

大学生時代に、夏休みに鹿教湯温泉の病院で、病院実習をした。その際に降り立ったのが、上田駅前だった。帰りに駅のコンコースを訪れてみた。当時の土産物屋は見当たらなかったが、駅前の雰囲気はその当時を思い起こさせた。もう半世紀近く経つのだ・・・。

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「夕焼け小焼け」 

陽が落ち始めるころ、草むしりを始める。刃にぎざぎざのついた草刈り鎌でさくさくと根っこから雑草を刈り取るのだ。田舎で土地が広く、春から夏にかけてかなりの仕事量になる。最近は、根を詰めてやると、腰に来るようになってしまった。それでも、放置しておくとすぐにぼうぼうになってしまうので、せっせと精を出す。

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道路を挟んで西側に中学校があり、放課後のブラスバンドの練習が聞こえてくる。太鼓に合わせて、スケールの練習。ついで、様々な曲の練習になる。不協和音を用いたなかなか難しそうな曲もある。我が家の娘も、このブラスバンドでホルンを吹いていた。熱のこもった練習が続く。

やがて、陽がさらに西に傾くと、ブラスバンドも運動部も練習を終える。東口で生徒たちの談笑の声が、ひとしきり聞こえる。やがて、その喧噪も聞こえなくなり、静寂が戻る。すると、6時を知らせる防災無線の放送が、童謡の「夕焼け小焼け」を流す。子供たちに帰宅を急がせるための音楽だ。

少し味気ないその放送を聴きながら、姉から聞いたエピソードを思い出した。もう60数年前、父は、青春時代を犠牲にさせられた戦争を生き延びて帰ってきた。やがて、母とここで家庭を持った。教育を受けていない父は、母の実家で「桶作り」の仕事をしていた。日中、父の仕事場に遊びに行っていた姉は、夕方になると父の背負う籠に乗って、自宅に戻って来るのを常としていた。その際に、この「夕焼け小焼け」を二人で歌いながら帰ってきた、ということだった。不遇な子供時代を過ごした父は、私たち子供たちに精一杯愛情を注いでくれたのだ。その情景が目の前にひろがるような思いだった。

限りない懐かしさをもって、その思い出を思い起こした。両親が逝って長い時間が過ぎた。私が逝くときまで、次の世代に残すべきことは何なのか、何ができるのか・・・。