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干し柿 

今年は柿が豊作だ。二つある甘柿の木も、一つの渋柿の木も、たわわに実をつけている。尊敬する志村建世氏も、そのブログで、柿が豊作だと述べている。今年の酷暑が柿を多く実らせる要因だったのか。甘柿はサラダの具にして、渋柿は干し柿にすべく干している。

腕が2m程度伸びる、柿の収穫はさみで渋柿を小枝ごと摘み取る。皮をむき、紐で2,3個数珠繋ぎにして、熱湯で短時間消毒してから軒下に干す。母が元気なうちは、この時期によく干し柿を作っていた。やがて、認知症が進行しても器用に同じように渋柿を軒下に干していた。でも、糖尿病があったので、姉や弟が来訪したときに、そっとその干し柿を隠してしまった。母はそれに気づかず、またその翌年同じことを繰り返していた。食べる楽しみもあったのかもしれないが、毎年この時期になると行うべき年中行事だったのかもしれない。その母ももういない。私がそれを受け継いでいることを改めて思い、こうして世代が交代してゆくのかと思った。母もきっと私の知らない、彼女の母、私の祖母から、干し柿づくりを教わったのかもしれない。

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「枯葉」 

庭に落ちたいがぐりを掃き集め処理をし、さて、これから木の葉が落ちる番だと思った。ふとシャンソンの「枯葉」を思い起こした。

実は、しばらく前に、イタリ―のフィレンツェの街角で撮影された、「枯葉」のジャズのセッションを気に入り、「枯葉」が頭から離れなかった。そのセッションは、旅行者の韓国人ベーシストが、街角で演奏する現地のミュージシャンに飛び入りで加わり、演奏したもの。ヨーロッパでは、人種間の対立が微妙な問題になっている。そこで、音楽を通して、このような即興のセッションが成立したことに感銘を受けた。もちろん、演奏も素晴らしく、とくにバイオリン奏者の即興演奏には感動だった。

で、「枯葉」のレコードを中学生時代に手に入れ、良く聞いたことを思い出した。イブモンタンの歌う「枯葉」。静かな語りから始まり、いつの間にか、あの美しい旋律に乗せて、「一つの歌がある」と歌いだす。youtubeで検索すると、彼の実況録画が残っていた。聴衆から語り掛けられ、それに笑顔で答え、すっと歌い始める。懐かしさでこころが溢れた。

こちら。

そのころ以来、この曲を聴くことはほとんどなかった。で、歌詞の意味も知らず、フランス語を真似て口ずさんだりしていた。

人生の晩年を迎えて、別れた恋人のことを思い出す。通りに北風が吹き、枯葉が吹き溜まりに集まっている。その頃は、時が輝き、太陽もより明るく輝いていた。・・・と過去を懐かしむ曲だ。老人の感傷と片づけられるのかもしれない。だが、そうした時が、老境を迎えると必要になるものだ。この恋人とは、過ぎ去った自分の青春そのものと言えるのだろう。

でも、まだ感傷だけに浸っているわけにはいかない。一時、その儚い過去の記憶を懐かしんだ後には、まだするべきことがある。この世界をより良いものにして、次の世代に受け渡すために、まだするべきことがある。

栗の木 

我が家には、栗の木が一つある。直径が40cmは優に超えそうな大木になった。我が家がここに越してきた時に、父が植えてくれたものだった。

毎年、無数ともいえるほどの実をならせる。例年、ごく一部を利用して、他は同じ栗の木の肥料にしていた。今年は、せっせと落下した実を拾い集め、一部はお世話になった方にお送りした。

弟、姉にも昨日送った。それを知らせるメールに記した文章の一部・・・

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渋皮煮をつくるために鬼殻をむいているときに、ふと、この木は父が植えておいてくれたのかと思いだしました。ご存知の通り、彼は実のなる木を大切にしていました。戦争中の飢餓を経験したためか、私がまだ幼児だったころ、うろ覚えなのですが・・・小豆島に、そうした実のなる木による農業を学びに出かけたことがありました。数日父が我が家に不在でした。そして、帰ってきたときのことをまざまざと思いだします。信愛園の前の雑木林から、「三輪車」を肩に担いで帰ってきたのです。その時、如何に幼かった私が喜んだか、その瞬間の思いを今も忘れることができません。

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親の愛情を改めて思い出し、それを彼らと共有したかった。

それに、地球温暖化による食糧難がそう遠くない将来襲ってくるだろうことも、常に忘れるべきではない。

大きく育った栗の木・・・

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無言館訪問 

先週末、長野県上田市の無言館という美術館を訪ねた。

先日、この美術館、その所蔵する作品についてあるテレビ番組で紹介された。それを観て、是非一度訪ねてみたいと思っていた。

この美術館の作品は、第二次世界大戦で戦没した画学生、若い絵描きによるものである。彼らの遺品も収められている。

絶好のドライブ日和。富岡まで高速道路を使って走り、そこから下の道に降りた。母と昔ドライブして、釜飯を食べた横川で昼食をとる積りだった・・・のだが、週末でレストランはものすごい混雑。諦めて下の道を走り続けた。碓氷峠を抜け、軽井沢へ。軽井沢でも渋滞。小諸から高速に再び乗り、上田に着いた。

目指す美術館は、上田市の近郊の小高い山の上にあった。数台駐車場に停まっていた。ナンバープレートを見ると、埼玉や神奈川からの車もある。決して入場者数は多くはないようだが、近隣の方々だけではなく、きっと全国から観に来る方々がいるのだろう。

駐車場から建物まで数十m。きれいに整備されている。

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建物の近くに、パレットの形をした大きな岩盤が置かれており、そこに人名が刻まれている。戦没した画学生、絵描きの名前のようだ。いわば、声なきパレットだ。

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建物は、窓のほとんどない外観で、まるで教会のよう。鳥瞰すると、十字に見える構造になっており、もしかするとこの建物、美術館を創建された方はクリスチャンなのかもしれない。歴史は比較的新しく、20年ほど前に開館したようだ。1979年に開館した「信濃デッサン館」という美術館の分館として始められたとパンフレットにあった。信濃デッサン館は、大正から昭和にかけて夭逝した画家の作品を収めているらしい。

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所蔵の絵画、遺品の撮影は禁止されていた。

美術館のなかに入ると、全面の壁に作品が展示され、通路の中央に遺品類がガラスケースに収められていた。各々にライトが当たり、それらに集中することができるようになっている。雑音や会話の声は全く聞こえず。観覧者は20名前後だったろうか。時間をかけながら、一つ一つの作品に見入っていた。

作品の一つの裸婦像に目が行った。若々しい女性、でもモデルのようには見えない。だが、彼女の姿に美を追求しようとする画家の視線が感じられる作品だ。説明に、この画家は、あと5分、10分だけでも良いからこの絵を描き続けたいと述べて、出征していったとあった。そして、彼は戻ることはなかった。

火鉢を囲む、あたたかな家庭団らんの絵があった。のちに画家の兄が述べたところでは、この画家の家庭は貧しく、このような団らんを経験したことはなかった、おそらく、そうした団らんにあこがれていたのだろう、とあった。この画学生は、貧しい中、美術学校に行かせてくれた家族への感謝を忘れなかった、という。

戦場から戻ることのなかった彼らは、皆同じように、絵を描き続けたい、家族とともにいたいと考えていたのだろう。そうした作品を観ながら、目に涙があふれてきた。

若い画家、画学生は第二次世界大戦敗戦前の2年間に集中して亡くなっている。戦地で病没という方もかなりいる。第二次世界大戦では、300万人以上の方が命を失った。その半数以上が、病死ないし栄養不足による死だと言われている。名誉の戦死等と言うのは、国民を戦地に赴かせるためのスローガンに過ぎなかった。多くが兵站の不足、栄養不足による死であった。いわば、国家が彼らを殺したのだ。画学生、画家でいえば、大多数は、家に戻り絵を描き、家族と幸せに過ごしたいと渇望していたのだ。

また、この侵略戦争でアジア・オセアニアの若人も多く殺したことも記憶されるべきだろう。米軍・同盟軍で命を失った若人も多くいる。

この美術館の展示絵画、遺品は、声高に叫ぶ政治的なプロパガンダ以上に、戦争を繰り返してはならないことを、それを観る者に静かに語り掛けている。機会があれば、また訪れてみたい。

大学生時代に、夏休みに鹿教湯温泉の病院で、病院実習をした。その際に降り立ったのが、上田駅前だった。帰りに駅のコンコースを訪れてみた。当時の土産物屋は見当たらなかったが、駅前の雰囲気はその当時を思い起こさせた。もう半世紀近く経つのだ・・・。

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「夕焼け小焼け」 

陽が落ち始めるころ、草むしりを始める。刃にぎざぎざのついた草刈り鎌でさくさくと根っこから雑草を刈り取るのだ。田舎で土地が広く、春から夏にかけてかなりの仕事量になる。最近は、根を詰めてやると、腰に来るようになってしまった。それでも、放置しておくとすぐにぼうぼうになってしまうので、せっせと精を出す。

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道路を挟んで西側に中学校があり、放課後のブラスバンドの練習が聞こえてくる。太鼓に合わせて、スケールの練習。ついで、様々な曲の練習になる。不協和音を用いたなかなか難しそうな曲もある。我が家の娘も、このブラスバンドでホルンを吹いていた。熱のこもった練習が続く。

やがて、陽がさらに西に傾くと、ブラスバンドも運動部も練習を終える。東口で生徒たちの談笑の声が、ひとしきり聞こえる。やがて、その喧噪も聞こえなくなり、静寂が戻る。すると、6時を知らせる防災無線の放送が、童謡の「夕焼け小焼け」を流す。子供たちに帰宅を急がせるための音楽だ。

少し味気ないその放送を聴きながら、姉から聞いたエピソードを思い出した。もう60数年前、父は、青春時代を犠牲にさせられた戦争を生き延びて帰ってきた。やがて、母とここで家庭を持った。教育を受けていない父は、母の実家で「桶作り」の仕事をしていた。日中、父の仕事場に遊びに行っていた姉は、夕方になると父の背負う籠に乗って、自宅に戻って来るのを常としていた。その際に、この「夕焼け小焼け」を二人で歌いながら帰ってきた、ということだった。不遇な子供時代を過ごした父は、私たち子供たちに精一杯愛情を注いでくれたのだ。その情景が目の前にひろがるような思いだった。

限りない懐かしさをもって、その思い出を思い起こした。両親が逝って長い時間が過ぎた。私が逝くときまで、次の世代に残すべきことは何なのか、何ができるのか・・・。

69歳の誕生日に 

昨日、60歳台の最後の歳に突入した。その前日まで、忘れかけていたのだったが、Bill K1YTから誕生祝と近況報告のメールを頂き思い出した。とくに、誕生日に感慨を深くすることはないが、この良い天候の日に生を授けてくれ、育ててくれた両親に改めて感謝の気持ちを抱く。育ち始めた野菜の手入れをしながら、庭に立つと、気持ちの良いそよ風が吹き抜ける。こころが洗われるような思いになると同時に、両親のいる世界にそう遠くない将来帰って行くことを改めて思う。それまでのもうひと頑張りである。

facebookでは、世界中の友人たち、とくに北米の方が多いのだが、50名ほどから誕生祝のメッセージを頂いた。facebookに半分強制されて(?)(笑)、メッセージを贈らせられたのかもしれないが、私のことを覚えて下さる方がいることに改めて感謝した。特に、ヨーロッパの友人たちとは間遠になっているのだが、何人もメッセージを下さり感謝。もちろん、他の地域の方々にも感謝であった。

戦争と平和とは、こころのなかから始まる、というのは本当だと改めて思った。あの友人、この友人がいる国、場所で争いが起きるとすると、それは耐えがたいことだ。戦争と平和は、政府が作り出すものではなく、我々のこころのなかにこそあるのだ。こころのなかでヘイトに凝り固まっているような人々から戦争は始まる。そう簡単に割り切れるものではないが、自分のこころにはいつも平和を保持していたいものだ。

さぁ、大台へ突入の一年だ。健康にきをつけて、一日一日を歩み続けて行きたい。

母の七周忌 

あと三日で、母の7周忌が巡ってくる。

時が経つと、美しいこと、楽しかったことばかり思い出されるようになる。母の晩年は、アルツハイマーに冒され、短期記憶が徐々に失われていった。本来知的な能力を持っていたので、その過程では不安と焦燥感があったのではないかと想像する。朝夕、母が住む離れに行くと、テーブルの椅子に腰かけて、新聞広告の紙を用いて、無心に漢字の練習をしていることがあった。その時には、なぜと思ったが、失われて行く記憶を維持するためだったのかと後で思った。

だが、周囲の人間に何も愚痴ることなく、いつも笑顔で接していた。朝食を離れに持って行くと、同じくテーブルの前に座り、頭を垂れて熱心に祈っていることが時々あった。その姿は私には神々しくさえあった。最後の数年、弟に引き取られ、宮城県で過ごした。見舞いに訪れると、こちらに戻りたい、すでに数年前に亡くなっていた父親がどうしているか、泣き顔で繰り返し尋ねた。家族の消息を尋ね各人が元気で過ごせるようにと語るのを常としていた。弟夫婦、施設のスタッフの方々は本当に良くしてくださった。

東日本大震災の後、体調を崩し、最後の入院をした病院のベッドでも、苦しみを訴えたりすることなく、繰り返し、こちらに戻りたいと述べた。手を取ると、笑顔を浮かべ、私の名を呼んだ。そして、ろうそくの灯がふっと消えるように亡くなった。

母の人生は、キリスト教信仰に支えられたといえ、悩みと苦しみの多い人生だった。だが、今はそれらから解放されていることだろう。父と相まみえることができただろうか。彼女の晩年は、下記のホイヴェルス神父の言葉をそのまま生きた時間だった。自分の存在を通して、最後のときはこのように過ごすのだと遺される我々に教え諭すかのようだった。この詩は、母の一周忌に姉が送ってくれたもの。その時にブログに転載したが、本当に希望を与えてくれるものだと思うので、再び引用する。

最上の業

この世の最上の業は何?
楽しい心で年をとり
働きたいけれども休み
おしゃべりしたいけれども黙り
失望しそうなときに希望し
従順に平静におのれの十字架をになう

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず
人のために働くよりも
謙虚に人の世話になり
弱ってもはや人のために役立たずとも
親切で柔和であること

老いの重荷は神の賜物
古びた心にこれで最後のみがきをかける
まことのふるさとへ行くために
おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつ外して行くのは
真にえらい仕事
こうして何もできなくなれば
それを謙虚に承諾するのだ

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる
それは祈りだ
手は何もできない
けれども最後まで合掌できる
愛するすべての人のうえに神の恵みを求めるために

すべてをなし終えたら
臨終の床に神の声をきくだろう
「来よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ」と

            春秋社「人生の秋に」
            ヘルマン ホイヴェルス著

さて、どうしたものか・・・? 

書こうかどうか迷っていたのだが、思い切って顰蹙覚悟で書いてしまおう。

CWのactivityがガタッと落ちていることはすでに何度も書いた。だが、それ以上に深刻なのは、ダイアローグにならぬ、一方向のモノローグのことが多いこと。自分の言いたいことだけを語り続け、話題のやり取りがない。これは、恐らくオペの高齢化が関係していると踏んでいる。高齢化すると、他者への関心が薄れるand/or他者の考えを理解できないことが多くなるのだと思う。高齢者が、今を生きるのではなく、過去を生きるようになるのはそれと関係している、ないし互いに因果関係にあるのかもしれない。

CWの交信では、通信効率が低いために、一方向のモノローグにとりわけなり易い。フルQSKにしたら、そうした事態を避けられるのかとも思うが、フルQSKでもモノローグを続ける方を知っている。やはり、知的な退行が始まってしまった場合は、なかなか意味のあるやり取りが難しくなる。

CW人口の高齢化によって、この一方向のモノローグが蔓延しているとしたら、もう改善の余地はないということになるのかもしれない。あまりに悲観的過ぎるだろうか。否、やはりそれが現実だ。Wのオペ達を見ても、大多数がモノローグの開陳を繰り広げている。

以前から65歳を過ぎると黄色信号、そして70歳を過ぎると赤が点滅する。80歳を過ぎると、まず間違いなく、この知的退行は進行する、という風に感じてきた。CWの世界を観察してのことだが、通常社会でも同様のことが言えるのではないか。そして、私も60歳台後半に差し掛かり、黄色から赤に変わる年齢に差し掛かっている。最近、相手がモノローグを始めると、心底ウンザリする。以前はもう少し我慢強かったし、もうちょっと神経を集中して聴かなくてはと思ったものがだった。だが、最近は、もういいやと投げ出したくなる。そして、時々自分がmonologistになっていることに気づき、ハッとする。

勿論、80歳を過ぎても知的にしっかりしており、楽しく会話をできる方もいる。だが、残念ながら、それはかなり例外的だ。

さて、どうしたものかと自問する。そろそろ、手を引くべきときか・・・。

ただ、CWで会話をすることは、かなりの知的な作業で、頭の訓練にはなる。本当に時々あぁ交信出来て良かったと思う方もおられる。一方で、大多数は、もうご免こうむりたい、という相手。そして、私自身がそう遠くない将来、相手の方に同じように思われるようになるかもしれない、迷惑をおかけするのではないか、という疑念がいつもつきまとう。

頭脳の訓練としては、SNSやメールで、外国の友人とやり取りをすれば良い。一方、無線から離れることは、多くの友人との直接の接点を失うこと。

だが、私も彼らも同様にこの加齢という坂道を降り始める。人生は大きな峠を歩むようなもの。峠を登り切り、見晴らしが開けてくると、あとは下降するばかりだ。それが人生の現実であることは間違いがない。

さて、どうしたものか・・・。

受験時代の思い出 

この時期になると、まだ受験時のことを思い出す。受験の前の年の秋ごろから、この時期にかけて、私は、呼吸困難に襲われるようになった。呼吸困難と言っても、全身性に障害が及ぶものではなく、空気枯渇感ともいうべきもので、吸気が十分できないという感覚だった。ときどき大きく肩で呼吸しなければならなかった。

どうも精神的な問題のようだという見立てて、父の知り合いの精神科医に診察をお願いした。一通り、話を聞き終えた彼は、私に厳しい叱責の言葉を投げかけた。何らかのアドバイスなり、治療を期待していたのにと思ったが、もうそうしたものは期待しないでやり抜く以外にないと腹をくくった。時々、肩で呼吸しながら、受験を乗り切った。受験が済み、平穏な生活が戻ると、その症状は徐々に消えていった。

今から思うと、あれはパニック発作の一種だったのではないかと思う。当時は、まだパニック障害・パニック発作という概念はなく、不安神経症とくくられていたのではなかったろうか。医師になってから、同じ症状の方、またはもっと典型的なパニック発作の方に時々出会い、適切な対応ができたと思っている。呼吸困難、多呼吸、頻脈等の呼吸循環系の問題を発作性に起こす場合は、この病気を考える必要がある。多くの場合は、ベンゾディアゼピン系の薬物の短期投与で改善する。ただ、この薬は、長期になると依存性があるので、注意すべきだ。この系統の薬、とくに短時間作用性の薬の場合、切れ味はよいのだが、依存性の問題が出やすい。場合により、SSRIの連用も行われるようだ。また、うつ病などを基礎に持ち現れるパニック発作の場合は、うつ病への対応が必要になる。心療内科・精神科の領域となる。

どうもこの病気には遺伝性の要因が大きいように思える。母が、しばしば「セルシン」を用いていたのを覚えている。母も同様の病態に悩まされていたのかもしれない。こうした精神身体的な疾患は頻度も多く、それに悩まされている方も多いのではないだろうか。そのような方が、進歩している医療の恩恵を受けて、その悩みから解き放たれることを望みたい。

受験時代の思い出から、こんなことを思い描いていた。今日、また患者になって、眼科受診だ。

余命数週間という知り合い 

FOCのMLで、Dave M0IKEからポストが1,2週間前にあった。彼とは交信したことがあったかもしれないが、とくに親しいという関係ではない。そのポストによると、大腸がんが全身に転移し余命数週間であること、リグやアンテナはもう処分したこと、クラブでは長い間皆に仲良くしてもらい感謝していることを彼は淡々と述べていた。いささかショッキングな内容であったが、覚悟を決めた様子が文面から読み取れる。

私は、ただそのポストに対する皆の返事を読んだだけだった。数名の方が、彼との交誼に感謝し、ご家族、彼をいつも思っている、という内容の返事をした。死に行く方へ、かけるべき言葉はなかなか見つからないものだが、皆の返信には、短い言葉に真情があふれていた。

一昨日、7メガでDon WB6BEEに会った。彼は、挨拶もそこそこに、Daveのポスト、スレッドを読んだかと尋ねてきた。Donは、彼と12回ほど交信し、いつもバグキーの話題等で楽しく過ごした。最後の交信で、彼が大腸がんの再発を知らせてきたので、気になっていた。そして、彼のポストを読んでいささかショックを受けたということだった。Daveのあの発言は、もっとも勇気のある発言だと思った、とDonは語った。Donのご両親、それに唯一の兄弟も、比較的若くして亡くなっており、他人ごとには感じられなかったのだろう・・・いや、私にとっても、同じだ。

Daveとはそれほど親しくなかったので、コメントを差し上げなかったことを申し上げた。一般論として言えば、死は苦痛と痛みを超えてゆかねばならぬ経験であり、怖くないと言えば嘘になる。死の先にあることが分からないからだ。だが・・・私の母親が認知症が進行してから、親戚の方の死を知り、「誰それさんは、もう苦しまなくていいんだね。」と独り言のように語ったことを思い起こし、死は地上の苦しみや悩みから解放されることでもある、とDonに申し上げた。また、現在は、ターミナルケアが進んでおり、Daveはそれほど苦しまずに最後を迎えられるのではないかと思うとも言った。それは希望的観測なのだが・・・あのようにしっかりしたポストを彼がアップできたのは、一つには彼の強靭な精神があるのだろうが、もう一方、適切なターミナルケアを受けているのだろう(と信じたい)。

それにしても、死に行く方には、ただ手を差し出して握りしめることしかできない、ということを改めて感じさせられたことだ。Donも同様な気持ちでいることだろう。それに、もう一つは、いつそのような事態になっても良いように、準備をしておくことだ。彼も、相続については、奥様が裁判所に行かねばならない手間が納得できないがと言いつつ、その準備をしている様子だった。

二人とも、毎朝のように1時間の散歩をかかさず健康な生活を送っているから、まだ20年以上、今お住いのPagosa Springsで二人で生活を続けるのではないか、と言ったら、そうだね、そうありたいとの返答だった。朝の散歩に早速出かけると言って、彼は交信の最後の挨拶を送ってきた。

最近、無線の友人たちの訃報やら、重い病気にかかったという報告が相次いでいる。自分がそのような事態になれば、それはそれで受け止めるのが大変なことだとは思うが、普段から準備できることはしておくべきだと改めて感じた。