復活祭の季節再び 

春分の日を過ぎ、日は日増しに輝きを増す。木々や草花が芽吹き、春の喜びに満ちる季節になろうとしている。

来月中旬の復活祭に向けて、キリスト教の教会ではいろいろな行事が開催されることだろう。

私は、この時期に、マタイ受難曲をとりわけ聴くことにしてきた。手元に、古いオイレンブルグ版のマタイのスコアがある。裏表紙の裏に、1975年5月に本郷で購入したと記録がある。本郷のアカデミアに行って入手したものだ。手垢で汚れ、背表紙は擦り切れている。このスコアを手にして、マタイを何度聞いたことだろうか。聞くたびにこころを揺り動かされる。以前、病院の慰問にこの曲から有名なアリアを抜粋して演奏したことを記した。その際には、このスコアからパート譜を作ったのだ。

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マタイの67、68曲(終曲)の演奏。リヒター指揮ミュンヘンバッハアンサンブルの名演。67曲でイエスに向かい安らかに眠り給えと祈る。そして、怒涛の生涯と、それからの安息を祈る終曲が続く。少なくとも、涙を実際に流すことはなくとも、こころのなかでは涙なしには聞けない音楽だ。



6年前の今頃、母が仙台の施設で最後の日々を過ごしていた。震災時にインフラがすべて失われ、暗闇と寒さのなかで体調を崩したのだろう。4月に母はそっと召されることになる。そうしたことと、自分のこれまでとを思い起こして、またマタイ受難曲に沈潜することにしよう。

両親の蔵書・日記 

引き続き、両親が残した書籍、日記、その他を整理し続けている。

無教会主義のキリスト教に熱心に帰依していた両親の蔵書には、同教の様々な独立伝道者、学者の著作集が多い。私も一時その聖書研究会に通っていた高橋三郎先生の著作集は、2セットもあった。一部は私の本棚に移した。それ以外に、内村鑑三の著作集、塚本虎二の「聖書知識」誌が1930年代から60年代にかけて、おそらく欠本はあるかもしれないが、合本されてあった。矢内原忠雄、酒枝義旗、中沢洽樹、岩隈直等々の著作集もあった。武祐一郎・長谷川保・藤林益三・堤道雄等の書籍もある。我が家には、すでに黒崎幸吉著作集、矢内原忠雄の「土曜学校講義」等がある。個人的に存じ上げている方もおり、懐かしい。これから折に触れて、読んでいきたいと思っているのだが、到底読み切れない。子供たちはおそらく引き継がないだろう。ある時期が来たら、どこかのキリスト教関係の図書館・施設、または伝道者、研究者の方に寄贈しようと考えている。

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父は、晩年、戦争責任問題、天皇制問題、慰安婦問題等々に関心を持ち、それらの問題に関するさまざまな書籍を残した。浩瀚な昭和天皇の伝記、ハーバート ビックス著「昭和天皇」二巻は、彼の本棚から持ち出し興味深く読んだ。以前、その読後感をこのブログに記した。今回の整理でも、これらのトピックスに関する、興味深い書物を多数見つけ出した。やはり、私の書庫に移動だ。現在の政治状況によって、第二次世界大戦前後の問題、戦争責任の問題をもう一度勉強しなおす必要を感じている。私の父は、戦時中中国に派遣され、悲惨な状況を目にし、また貴重な青春時代を、兵士として戦争のなかで費やさざるをえなかった記憶、それに侵略した国々の人々への思いから、こうした問題を考えざるを得なかったのだろう。私の知的興味よりはよほど強烈な、何故だったのかという疑問を抱いていたに違いない。

父親は(母もそうだったが)筆まめで、日記を長期間つけていた。以前にも記した通り、それらを読むことは、彼らの内面に入り込むことを意味するので、なんとなく羞恥のようなものを感じていた。ハードカバーの立派な日記を目にすると、父は将来家族の誰かが、それを読むことを予測し、または期待していたのかもしれない、と思うようになった。ちょっと読んでみると、私、私の家族についての記録、記述がかなりある。自分が家庭を持ち、仕事に明け暮れた時には、両親のことはいてくれて当然、時々手助けを頼む程度にしか意識していなかった。この年齢になり、彼らが生活、人生をどのように考えていたのか、一度日記を通して理解してみるべきだろうと考えるようになった。処分せずに、書庫の一部に収めた。

研修医時代に記した論文草稿も出てきた。研修医二年目に、鴨下教授に「ライ症候群」の総説を書くように命じられ、論文を多数集めて、本文だけで1万字を超える総説を「神経内科」誌のために記した。その手書き原稿が出てきた。ワープロはまだなく、まったくの手書き。参考文献だけはタイプされている。ライ症候群の症例を受け持ったことで、教授はその総説執筆の機会を下さったのかもしれない。出来はどうだったのか、自分では分からない・・・まだ臨床もおぼつかない駆け出しで、電顕を使った肝臓の形態学を少しかじり始めたばかりだった。論文の切り貼り作業だったような気がする。が、今でも、狭い官舎のリビングルームで炬燵に足を突っ込んで一生懸命記したことが思い出される。いろいろな事情があって、初期研修をした自治医大を辞め、この総説を書き終えた直後に母校の基礎の教室に戻ったのだった。戻って1年後、自治医大に戻るように声をかけて頂いたのだが、それに従わなかった。鴨下先生には、公私にわたりお世話になるばかりで、その恩にむくいることがまったくなかった。懐かしさとともに、鈍い痛みを伴って、こうしたことが思い出される。信念を持ちつつ、周囲の方へあたたかな思いやりをかけて下さる先生だった。生前一度お目にかかり、感謝を申し上げたかった。

すべてのことは、いつか終わりを迎える。そのための準備を少しづつ進めて行こう。

母の介護記録 

母は70歳台から認知症に冒され、94歳で亡くなるまで、徐々に短期記憶能力を喪失していった。幸運なことに、その人格の中心は最晩年まで保たれた。最近、両親の残した書類や書籍を処分し、また保存することを続けてきた。父が逝ってのち、母は離れで数年間を過ごした。デイケアに通う毎日、多くのヘルパーの方々、私の姉、弟それに義理の妹等が母の面倒をみる手伝いをしてくださった。ヘルパーの方が、家族あてに毎日記してくださった記録の束が出てきた。それには、二三行の短い文章であったが、母がデイケアに出かける前後をどのように過ごしたかが、的確に記されている。朝、デイケアに出かけるまでの時間、庭を悲し気な面持ちで眺めていたが、デイケアの迎えが来ると、元気いっぱいに出かけて行ったとか、「こぶしの花が咲くころに、サツマイモの苗を植えると良いんだよ。」とヘルパーの方に語り掛けたとか、当時の様子がまざまざと目の前に広がるような記述である。通りに面した花壇に腰を掛け、あたかもすでに亡くなっていた父の帰りを待つかのように、時折道行く人々や車を長時間見守っていたこともあった。姉や、弟夫婦が来る日は、とりわけ元気にしていたようだ。そうしたことも記されていた。

母がヘルパーの方々に愛され、ヘルパーの方々が母のために尽くしてくださったことが良く分かる。母の面倒を見てくれたヘルパーの方々に、そして遠くから通って母と生活を共にしてくれた親族に、こころが深い感謝の念であふれる。母の介護が私たちの手に負えなくなり、近くの施設にお願いしなくてはならなくなったときに、弟のたっての希望で母は、仙台に旅立っていった。あちらで弟夫婦、そして介護施設に2年間ほどお世話になった。そして、あの大震災に見舞われる。二、三日暖房のない施設で過ごし、それ以降徐々に健康を害し、震災の翌月に昇天したのだった。見舞ったのは、亡くなる前の日だったか、こちらに戻りたいと泣きべそ顔で懇願されたときには、正直申し訳ない気持ちで一杯になった。だが、それ以外の時には、家族を心配し、笑顔まで見せていた。親族が病室から席を外していたわずかな時間に、ふっとろうそくの灯が消えるように、永遠の旅に旅立っていったのだった。

以前にも記したことをまた繰り返してしまった。このヘルパーの方々の記録が、たかだか10年ちょっと前の日常の記憶を、まるで昨日の出来事であるかのように蘇らせてくれた。あの数年間の母の最晩年、母としては、ただ生かされた時間を生きただけだったのだろう。だが、残された我々には実に多くのことを語り掛け続けてくれているように思える。

時が何と早く過ぎ去ることだろうか。

お世話になった方の退職 

我が家のエアコンが一台働かなくなった。いつも修理や、新規購入でお世話になっている、近所のKさんに電話をした。ところが、お店の電話が通じない。彼の携帯に電話すると、昨年仕事を辞めたとのこと。高度房室ブロックを生じ、ペースメーカーを装着したためらしい。早速、お見舞いがてら彼の家を訪ねた。何度か訪ねたことはあったが、久しぶりでなかなか見つけられず。あまり交通量の多くない田舎道に面して建っている。以前はあった看板が下ろされていた。庭には子供の遊具があった。何度か呼び鈴を押して、ようやく彼のお嬢様らしい方が出てこられた。Kさんは、奥様の実家に越してしまったらしい。お見舞いを手渡して、早々に失礼した。

今朝、彼が我が家を訪ねてきた。その見舞い返しなのか、現在作っている農作物を持ってきてくださった。もうすぐ70歳ということだが、血色も良くお元気そうだ。彼のご両親が、私の両親と親しくさせて頂いていたこともあり、私が開業して以来、仕事場の電気関係のことは彼にいつもお願いしてきた。いつも快く、素早い対応をして下さり、ありがたかった。あの元気そうなKさんが、仕事を辞めねばならぬほどの病気と聞き、どんな具合だろうかと心配だった。

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仕事を辞めた理由を伺うと、感電することによりペースメーカーが作動しなくなる危険があるから、電気関係の仕事は辞めるように医師に言われた由。仕事の負担ではなく、そのリスクだったのかと納得した。義理の母上が90歳以上で介護が必要なため、上記の通り、奥様の実家に移り住み、自家用に野菜を作っているようだ。on demandタイプのペースメーカーらしく、運動すると、心拍数は上がる由。以前と変わらぬ人懐っこい笑顔であった。

彼の母上は、私の母が認知症になっても、何度も訪ねてきてくださった。我が家の離れで、二人が談笑していたことを思い出す。ある時は、二人を車に乗せて、県北の温泉場に連れて行ったこともあった。私の伯母が、第二次世界大戦直後ここで結核のサナトリウムを運営していたころ、私の両親とKさんのご両親は、そこで知り合ったようだ。そして、それほど頻繁に行き来する関係ではなかったが、Kさんにはその仕事を通して、私自身、最初に述べた通り、いろいろとお世話になった。今、ともに仕事を終える人生の時期に入った。これからの退職の時期、住むところと食べるものがあれば、何とかなると言い合って笑ったことだった。

時間があっという間に過ぎゆくことを改めて感じる。

彼は、あと十年だけ生きられれば良いと笑顔で言いながら、車に乗り込んで帰って行った。

八木重吉 

夜、寝る前に、寝床の中で、本を読む。雑誌「世界」や、音楽関係の書物、政治経済関係の本、それに原発事故に関する書籍等々。一頃、Jim N3BBの記した小説「Reunion」や、Bob W6CYXに紹介された「Carmel Impresarios」も読んだ。あまり難しい本は、続かない。だが、興味のもてる内容でなくてはだめだ。尊敬する評論家の方が推奨していた、当代売れっ子作家の小説も最近読んだが、後にあまり残るものがなかった。

本棚に、「八木重吉 詩と生涯と信仰」と題する新書版の本があったので、手に取った。関茂著、新教出版社、1965年初版、1976年発刊の第14版である。著者は、教会牧師で、八木重吉の人生を振り返り、そのキリスト教信仰とそれから発する詩作について、深い共感をもって記している。

八木重吉は、昭和2年、30歳の若さで世を去った夭逝の詩人だ。キリスト教信仰に学生時代に捉えられ、信仰に生涯を生きた。彼は、神に仕えるために、すべてを投げうたなくてはならないのではないか、という思いを抱き続けた。幸せな結婚をし、二人の可愛いお子さんに恵まれてからも、その思いは強くなったようだ。しかし、亡くなる一年少し前に、結核に冒されてから、イエスへの絶対的な信仰によって生まれ変わる。この最後の一年に、詩人としての豊かな詩作の時を迎える。しかし、その時期は長くは続かなかった。母上と奥様が見守るなかで、この世を去る。

彼の死後、様々な詩人が、彼の単純な言葉で自らの思いを端的に表現した詩に注目し、また信仰をそうした詩作によって表現したことで多くのキリスト教信者に積極的に受け入れられた。死への病であった結核に冒された人々にとって、彼の詩がもたらした慰めは大きなものがあったのだろう。

私が、十代後半から二十代前半にかけて、無教会主義の聖書研究会に毎日曜日通っていたころ、5、6歳年上のMさんという方と知り合いになった。透明な人柄の方で、農業関係の研究機関にお勤めだった。どのような経緯だったか思い出せないが、八木重吉の詩集を彼から頂いたことがある。「定本 八木重吉詩集」彌生書房刊である。これは、上記の本でも、八木重吉詩集の定番として紹介されている。簡明な言葉で、思いを率直に表現した詩が新鮮だった。今でも、覚えている詩がある。この詩集は、昭和40年に重版で出版されたもののようで、貴重な蔵書を彼が下さったのだと、改めて思う。

この本を読んでいて、この本は誰が購入したのだろうとふと思った。私が、大学生活を送っていた時代。両親は、私と弟への学費を稼ぐために、せっせと共働きをしていた。彼ら二人のうちどちらかが手に入れたのだろう。どのような気持ちで読んだのだろうか。あれから40年前後経って、私がこうして読むことを、彼らは想像していなかったに違いない。だが、そうとは意識していなかったかもしれないが、このように貴重な本を、残してくれた親に改めて感謝の気持ちを抱く。キリスト教信仰から離れてしまった私だが、あの時代を八木重吉の詩に親しみ、聖書を読む時があったことは、無駄では決してなかった。

これからの人生、残り少ない時間は、流行りの本ではなく、やはり時の経過に生き残った、このような貴重な本を読んでゆくべきだろうと改めて思う。

死にゆくときの孤独 

昨日、姉から便りがあり、以前ここにも記した若井晋氏の、奥様による現況報告のコピーが同封されていた。どこかの教会の雑誌に寄稿された文章だ。

病状は確実に進行し、寝たきりになっておられる由。コミュニケーションも取りにくくなっている様子。だが、お子さんが帰郷された際などには、関心を示されるようだ。

若井晋氏が自らの病気を公表したことを知らせるインタビュー記事、こちら。涙無くして読めないが、読む我々の方が慰められ、力づけられる。

たまたま、先日、義理の両親の見舞いに出かけた車中で、神谷美恵子女史の「ケアへのまなざし」という論文・エッセー集を読んだ。そのなかに「自己の死と孤独」と題する文章があった。死に行く際には、周囲の者と、死という隔たりができる、その時に死にゆく者は絶対的な孤独に陥る、という内容だ。神谷女史は、らい療養所で、精神科医を長く勤め、死に行く人々を多く看取った。そうした人々への静かであたたかなまなざしを、この文章から読み取ることができる。死のありようを三つに分類し、さらに死にゆく際の孤独感に付随する様々な問題とその対処について記している。しかし、基本的には、死という生とは別な次元に移る際の絶対的な孤独感は、精神療法で対処することはできない。この文章とは別の文章に記されていたことだが、そうした死にゆく人に対してできることは、そっと手を差し伸べることだけなのではないか、ということだ。

この死にゆくときの孤独感について読んだときに、私の脳裏に廻ってきたのは、マーラーの交響曲9番4楽章のyeddishによる旋律であった。ワルターによるマーラーの最晩年の記述によると、マーラーもその絶対的な孤独に苛まれた様子が記されている。9番の交響曲は、そうした事態になる前に作曲されたものだったと思うが、マーラーの人生を通じて最大の問題であった、死の受容は、この音楽にすでに表現されていたように思える。

若井晋氏・・・昔は気安く若井さんとお呼びしていた・・・も、その孤独を生きておられるのかもしれない。献身的に看病なさっている奥様に支えられ、彼が生涯をかけて生きてこられた信仰により頼み、平安な時間を過ごされることを、こころから祈りたい。



ブログ開設10年 

もうすぐブログ開始後10年が過ぎようとしている。最初のころのポストを拾い読みしてみた。今も結構ポストしているが、当時は、すさまじい頻度でアップしていた。開業後10年が過ぎ、仕事も流れるようになり、自分の考え、記録をどこかに書き留めたいという欲求が、あの怒涛の更新をもたらしていたのだろう。

ブログを書き綴っていて、大きな出来事がいくつかあった・・・大野病院事件、2011大震災、福島第一原発事故、母の死、そして私のリタイア。第二次安倍内閣での集団的自衛権容認というなし崩し的な実質的な改憲・右傾化も大きな出来事だ。私的な出来事では、もっといろいろあったが、ブログに記せた出来事の主要なものはこれくらいか。その時々に、考えたこと、思ったことを記してきた。当初、自伝的なことも書いたが、それの延長のようなものだ。周囲の出来事を通して、自分を語っているわけだ。

あとどれほど続けられることだろうか。ふっと風が吹くように、閉じて存在しなくなるのが良いなと常々思っているが、まだしばらくは自分語りを続けたい。体力的に、また知的能力の面でも劣化が進んでいるが、Browningの詩にあるように、良いことはこれからだ、という希望を抱いて、生き、記録をし続けたい。たいした内容のない、マンネリ気味のブログに訪問してくださる方にお礼申し上げたい。

桂の木 

我が家の桂の木。偶然、この木を見上げたら、見事に紅葉していた。もうだいぶ落葉している。

ここに引っ越してきた30年以上前から、ここにあった木だ。当初は、3、4mの高さだったものが、15m以上にまで成長した。この春、庭の仕事をお願いしたH氏が、この木の形が立派だと感に入ったように述べておられたので、注目するようになった。確かに、悠揚相迫らざる様相を見せている。

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我が家をこの30数年間見守り続けてきてくれた木だ。おそらく、私たちの方が先にこの世からいなくなる。でも、しばらくの間、ともに過ごす相方である。宇宙の時の流れからしたら、あっという間のことだ。だが、その間、この木と同行する。

田部井淳子氏逝く 

登山家の田部井淳子氏が亡くなられた。

彼女のことは、テレビやラジオの登山についての番組、それに福島原発事故後の福島の被災者を力づける活動などで知っていた。あたたかな人柄が、その相貌や語り口からにじみ出てくるような方だった。

2,3年前だったろうか、裏磐梯を訪れる番組で、卵巣がんに侵されたが、治療でよくなったことを語っておられた。やはり完全緩解とはいかなかったのだろう。徐々に体力を奪われ、今年の夏福島の子供たちと富士山に登った(彼女自身は7合目で止めたらしい)のが最後の登山だったと報じられている。

私自身、登山をするのではなかったが、彼女の自然を愛し、人々を愛した生き方に敬意を抱いていた。ご冥福を切に祈りたい。

歳をとるということ 

昨夜というか、今朝早く、ラジオ深夜便で澤地久枝がインタビューに答えていた。満州からの引き揚げの経験を語っていた。餓死と隣り合わせの生活である。酷い生活のなかで中国や朝鮮の方から受けた親切のことも述べていた。

そのような彼女の経験とともに、私にとって印象的だったのは、彼女が「言葉が逃げる」ということを語ったことだった。何かを記す際に、言葉が出てこない状況を彼女はそのように表現していた。そこにあったはずの言葉がない、どこかに逃げてしまった、後姿は見えるのだが、全体が見えない、ということなのだろう。

彼女は86歳。年齢のためだと本人は言っていた。その通りだと思う。私も最近それを頻繁に経験するようになってきた。最近、立て続けに、古くからの無線の友人と7メガで長いおしゃべりをした。彼は知的な能力とCW能力に優れたnativeである。だが、交信中にこちらの言っていることが理解できていない様子が何度かあった。混信か何かのためかと思い、少しスピードを落とした。それに彼は敏感に反応し、受信している際に意識が別なことに飛んでしまうことがある、また短期記憶が昔ほどよくなくなってしまった、そのために送受信に支障がでることがあると率直に語った。こうした自己認識ができているので、認知症では決してないと思ったが、でもやはり加齢現象から彼でさえ逃れられないのだと改めて思った。彼も、もう70歳代後半だ。

私自身も「言葉が逃げる」ことをしょっちゅう経験している。個人差はあるかもしれないが、電信による会話がちゃんと成り立つかどうか、またはその能力が大きく減退し始める年齢は、70歳前後なのかもしれない。特に我々non nativeにとっては、加齢とともに英語の知識が抜け落ちてゆく。さらに、相手への関心が持ちにくくなる。様々な老化現象が顕在化するわけだ。

それに抗するためにどうしたら良いのか。これも当たり前のことだが、電信での意味のある交信を続ける、相手への関心を持ち続けるように、相手の置かれた状況と相手自身への興味を持ち続けることだろう。慌てふためくことはないが、残された時間は長くはない。

それでも、能力は徐々に衰えてゆく。それは、大胆に受け入れることだろう。澤地女史も、「これが86歳なのよ」と言っていた。恐れず騒がず、加齢現象もありのままに受け入れることだ。