「Sacrifice」 

こちらで出てきた、Tarkovskyの「Sacrifice」という映画、Youtubeにアップされていたので、見た・・・暗い映画だ。Tarkovskyが死期を悟りながら監督した最後の作品。我々が毎日何事もないかのように平和に過ごすことができるのは、我々の知らないところで犠牲があるためなのではないか、と語っていた由。「Sacrifice」では、それが人類規模のこととして描かれ、イエスの十字架上の死とパラフレーズされている。最後の場面で、マタイ受難曲のあの有名なEr barme dichがpppから徐々にクレッシェンドされてバックで流れる。武満徹は、Tarkovskyの映画を愛し、彼の映画作品はそれ自体音楽のようだと語っている。そして、武満もマタイをこよなく愛し、とくにこのアリアを好んでいたらしい。

また、あの大震災の起きた日が巡ってくる。

『不安の夜』再び 

Face Bookで、Greg DF2ICが、「村上春樹の新作が出る、日本語の勉強を続けておけばよかった、この新作は翻訳で読むしかないか」と発言した。彼の息子さんは、日本に留学していたこともあり、大の日本びいき。日本語を勉強していたのは事実だろう。そこで、半分冗談だったが、「遅すぎることはない。私もアルブレヒト ゲースの『不安の夜』をドイツ語で読み始めなければ・・・」とコメントした。先日、本棚の整理をしていて、『不安の夜』の原書をコピーしたものが出てきたのだ。拙ブログを検索してみると、2011年に同書を入手していたことが記されていた。はなはだ頼りない装丁の本だったので、コピーを取っておいたのだった・・・読まずに、そのまま・・・。

読むものの心をとらえて離さない、この小説のことを、ググってみた。すると、「ムッシュKの日々の便り」というブログがヒットした。どうも著述業の方らしい。その方も、『不安の夜』に感銘を受け、原書でも読まれた様子。この小説を放送用の台本に書き換えられていた。こちらに、『不安の夜』の解説があり、その後連続して放送用の台本が掲載されている。当然のことながら、大分省略されているが、作品の雰囲気は十分に味わえる。私もまだすべて読み終わっていないが、あとでゆっくり楽しませて頂こうと思っている。

以前Gregに『不安の夜』のことを伺った記憶がある。Goesのことは知っていたが、この小説のことは知らないということだったような気がする。上記のブログを記されている方を存じ上げているわけではないが、彼がこうして感銘を覚えた小説の一つとして記されていることを知り、同じように感じておられる方がいることにひそかな喜びを感じている。

ドイツ語から離れて云十年、また一つ頑張ってみるか・・・。

AI技術のもたらすもの オバマ大統領の見識 

facebookで、アマチュア無線の友人がアップしていた記事。オバマ大統領の、AI研究者との対談である。こちら。興味深い内容だ。オバマ大統領が、AIについて優れた見識を持っており、政治家としてAI技術へコミットする仕方について語る内容は、一聴の価値はある。

AIは、知識の集積、それによる正確な判断はもたらすかもしれないが、最終的には、価値や人間関係については判断できないのではないだろうか。人が生きるうえで、選択をしなければならないわけだが、その究極のところは、生を賭けて選択することになる。そこでは、価値や人との関係が大きな意味をもつ。その最終的な選択には、AIは決定的な判断を下せないのではないか、ということを感じる。

AIは、人間の生活を便利にしてくれるかもしれないが、利用に関するセキュリティが大きな問題になる。政府や、独裁的な政治家、さらにはグローバル企業が、AIから得られる情報を独占することは危険極まりない。技術が独走をして、いつの間にかそれが特定の人間だけが利用できることになっては、まずい。そうしたセキュリティに幾重にも安全装置を施す必要があるのではないだろうか。

オバマ大統領の能力、見識に改めて驚かされる。上記リンクを張った記事はお勧めだ。

人類は絶滅の危機に瀕したことがある 

先月の地球の気温上昇率が、過去最高を記録したらしい。こちら。伸び方が確かに急峻だ。地球温暖化は、それを加速する要因と、抑えようとする要因によって支配されている。こちら。臨界点にはすでに差し掛かっているように思えるが、引き返し不能の地点にまで行くことがないように、対策を講じる必要がある。

最近知ったのだが、ミトコンドリアDNAの解析から、人類は過去に1万人のオーダーまで人数を減らした時期があったらしい。まさに絶滅寸前だったわけだ。その理由は良く分かっていないようだが、気候変動の可能性もあるらしい。現在進行中の地球温暖化は、人為的なものなので、それによって人類の生存が危うくなるとしたら、現在を生きる我々の責任は重大だ。これ以外に、様々な地域で起きている紛争、それの伴うテロリズムも、人類の生存を危うくする可能性がある。武器・軍事物資の貿易には、表の部分と裏の部分があるが、いずれにせよ、国家の安全保障とからむために秘密にされやすく、それによって腐敗が横行している。安倍政権は武器輸出にゴーサインを出した。これは、国際的な紛争を拡大、悪化させる方向に働き、かつ特定秘密保護法という隠れ蓑もあり、国際社会の裏の部分に関わる可能性が高い。将来の世代、そして紛争で苦しむ人々に対して、この武器輸出の解禁は絶対許してはならない。

人類がこれからも存在し続ける保証はどこにもない。むしろ、どこかで人類が滅亡する可能性・・・それも、近い将来に滅亡する可能性があるという緊張感をもって、我々は生きてゆかなくてはならないのではないか。

「ローマの休日」 

昨夜、映画「ローマの休日」について4人の論者が話し合う番組をNHKが放映していた。

この映画、有名なもので、私も、2,3回観たことがある。とある国の王女が、市中へお忍びででかけ、そこでアメリカ人記者と恋に落ちる。が、自らの責任に目覚め(だったよな・・・)、王女は記者と別れ、大使館に戻るというストーリーだったような気がする。

デジタルリマスター版が復刻され公開されるらしい。こちら。それに合わせての番組だったのかもしれない。

この番組で明かされたことで一番印象に残ったのは、この映画の脚本家は、これまで公表されてきた人物ではなく、ダルトン トランボという脚本家だったということ。1950年代初頭、マッカーシズムによるレッドパージが盛んで、共産党入党歴のあった、脚本家として絶頂の時期にあったトランボは、失脚し、投獄されてしまう。そうした時期に、影のライターとして、この映画の脚本を書いた、ということらしい。

この映画で、いつも最も感銘を受けた(受ける)のは、オードリーの美しさは置いておいて・・・、王女が大使館に戻って、記者達を相手に行う記者会見のシーン。国際情勢での平和を望むというメッセージの比喩として、友人との信頼関係(王女は、記者との恋愛を想定している)が永続することを信じると王女は述べる。それに対して、グレゴリーペック扮する記者が、信頼関係は続くだろうと答える場面だ。ゴシップの特ダネを棒に振って、王女との出来事を自分の記憶の中だけに仕舞っておく、記者の誠実さに打たれるのだ。いささか単純かもしれないが、何度見ても、感動させられる。

トランボの御嬢さんが、この同じ場面を観て、涙を流していた。おそらく、トランボ家はレッドパージで悲惨な目にあったことだろう。密告や、裏切りも映画界に渦巻いたらしい。その中で、人を信頼することを、このように謳った父トランボの脚本に、御嬢さんは、感情を抑えられぬ思いになったのではないだろうか。

この米国映画に、古き良き時代の、人間を肯定する思想を観ることができる。

Unruhige Nacht 

アマゾンで医学書を注文しようとして、ふと、昔読んだ小説をサイトで検索してみた。アルブレヒト ゲースの『不安の夜』。みすず書房から出されていた小ぶりの翻訳書で、三つか四つの中短編が納められていた。とっくに絶版になっていたことも知っていた。

案の定、翻訳書は絶版。中古本に、定価の10倍位の値段がついていた。あまりな値段なので、それはパス。原書のコーナーに行くと、ソフトカバーの『Unruhige Nacht』が、ヒットした・・・でも、このタイトルの表記と言うことは、ドイツ語である。値段もとても安い・・・安かったからというわけでもないのだが、注文ボタンをつい押してしまった。さて、ウン十年ぶりのドイツ語、原書で読めるかしらん・・・。アマゾンのサイトではUnruhigeが、Ururuhigeとなっていて、苦笑してしまった。

さて、この『不安の夜』を記したアルブレヒト ゲースという作家は、第二次世界大戦中、従軍牧師として仕事をし、戦後、戦争体験を、人間を深く洞察する眼差しで小説として書き記した。『バッハ頌』というバッハを褒め称える歴史上の人物の文章を集めた本のなかで、ゲースは、マタイ受難曲について記している。マタイ受難曲が、平凡な農村で演奏される様子を瑞々しいタッチで記していた。『不安の夜』を読んでしばらくしてから、『バッハ頌』のなかに、ゲースのこの詩的な文章を偶然見出して喜んだ記憶がある。

さて、『不安の夜』の内容は・・・記憶にある限りで記すと・・・第二次世界大戦中、ドイツ軍の戦況が不利になりつつあるころ、ある従軍牧師が、ある年若い兵士の軍法会議による銃殺刑に立ち会うために、ウクライナの某所に向かおうとしている。翌日の飛行敏を待つホテルで、その銃殺刑を受ける若者の人生を、受け取った書類から読み解こうとしている。その青年は、やむにやまれぬ事情から、戦線離脱をすることを選んだのだった。ホテルが混雑していて、カップルが牧師と同じ部屋でカーテンを隔てて、夜を過ごしている。レニングラードに明日飛び、そこでの絶望的な戦いに加わる将校と、その恋人だ。明日、銃殺される青年と、死地に赴こうとする青年将校と・・・。徹夜して、銃殺刑になる青年の人生を理解し、朝、レニングラードに旅立つ将校に、軍隊で何時も交わされる挨拶の言葉、「大たい骨骨折!」という表向き不吉な言葉を投げかけ(不吉さを予め言葉にすることでそのような事態に会わぬことを祈るのだ)、無事を祈って、別れを告げた。ウクライナへ向かう飛行機に搭乗し、流れる雲を見つめる従軍牧師。彼は、そこで全ての不条理と和解する・・・といった筋書きだったような・・・。

こうして短いヘタな文章で記すと、ゲースの詩情溢れる、人間への暖かな眼差しがちっとも生きてこないのだが・・・。学生時代にこの小説を読んで、震えるほどに感動したことを覚えている。他の短編も、珠玉の作品だった。

ほとんど忘れかけたドイツ語、辞書を片手に、もう一度チャレンジするか・・・。みすず書房にも是非翻訳書を復刊してもらいたいものだ。

祠 

先日、晴れ渡った朝、通勤時に日光連山が見事に見えたので、それを撮るためにわき道に入った。そこで、この祠か古墳と思われる場所を発見。畑の真ん中に、何気なく存在していた。

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このような祠を、この地域の人々は先祖代々敬い、また信仰の対象にしてきたのだろうか。例の弁天塚古墳といい、この祠といい、古の人々の生活を彷彿とさせる。

空気が澄み渡り、日差しが明るくなってきた。春はもうすぐ。

長生きだが、健康である意識に乏しい国民 

HOW CANADA PERFORMSというサイトがある。民間企業から投資を受け、調査研究しているグループにようだ。カナダが他の国々と比べて、経済・健康・環境等々の面で、どのような位置にあるのか、をまとめて提示している。ここ

健康面のデータが面白い。平均寿命では、日本は世界各国を抑えて第一位なのだが、健康状態を尋ねられて、良い・非常に良いと答える人々の割合は、ダントツに低い。

健康状態についての主観的な答えのデータは、あまりに主観的過ぎるという批判もあるが、様々な健康指標と良く相関することが知られている、という。日本で主観的な健康状態を良いと答える人々が少ないのは、高齢化が進んでいるためという説明もありうるが、1980年代から、やはりダントツに少なかったことも示されており、高齢化だけでは説明しきれない。

この一見相容れない結果をどのように考えるべきなのだろうか。

健康状態の主観的な判断は、生活の質を表している、という意見もあるようだ。しかし、生活の質が、高くないことが、このデータの主因であるとすると、それは必然的に平均寿命の短縮につながるはずだ。少なくとも、生活の質が低いことが事実だとしても、それだけでは説明しがたい。

国民性のようなものが、この結果を生んでいるのだろうか。医療の質との関連はどうなのだろうか。また、国民の医療への期待の度合いが関連していることはないのだろうか。

Wimbledonテニス大会女子決勝 

昨夜、ヴィーナス ウィリアムズと、マリオン バルトリの決勝を最後まで観た。ベテランの域に入ったウィリアムズ、若く物怖じしないバルトリ。2-0でウィリアムズの優勝に終わったが、とても見応えがあった。テニスは、サーブで決まることの多い男子よりも、ラリーの応酬が多い女子の方が観ていて楽しい。

優勝決定後、表彰があり、その直後に、両人へのインタビューがある。喜びと感謝の念、それに相手への賞賛を、きわめて率直に表現する二人。このインタビューは、いつもとても印象的だ。自分を、自分の言葉で表現すること、それを尊ぶバックグラウンドが社会にあるのだろう。

バルトリが、父親への感謝の言葉を述べた時に、彼は観客席で泣き崩れていた・・・分かるな、その気持ち・・・。

デューラーと現代 

過日、NHKの「新日曜美術館」で放映された「私の愛する画家(だったかな?)」という番組を録画してあったものを、次男坊と観た。東大で政治学を教えている韓国人二世のカン(漢字変換できぬ)教授が、デューラーについて語った。カン教授は、リベラルな視点から国際政治などについて論陣を張っておられる立派な研究者だ。

デュ-ラーの年齢の異なる時期に描かれた四つの自画像から読み取れるその精神的な遍歴を、カン教授は自身の精神的彷徨を重ね合わせて論じておられた。デューラーは、カン教授の言によれば、13歳という年齢で早熟な才能を見せ、21歳では明確な自我意識と世界を見据えることの出来ぬ悩みを伺わせ、26歳では画家としての自信をいくばくかの懐疑とともに表現し、さらに28歳で静謐な世界とキリスト教信仰に裏付けられた確固たる自己とを表現しているとのことだった。

カン教授は、韓国人二世としてアイデンティティの問題に悩んでいたときに、1500年に描かれた28歳時の自画像に、ドイツで出会った、そこで自己を見つめなおすことが出来た、とのことだった。生きるうえで、様々な問題は、すぐには解決できぬ、悩むことを受容することだということに気付かされた、とカン教授は言っていたように思えた。

また、1500年前後には、宗教改革や、様々な戦争が起こり、さながら黙示録が現出したかのような状況だったらしい。謂わば、足元が崩れ去るような状況だ。それも、現代と通じるところがある。デューラーにとっては、キリスト教信仰の原初に立ち返ることだという確信があり、カン教授にとっては、総体としてみると、人間の歴史は前進していると信じることが、そうした時代の危機を生き抜くために必要なことだとのことだった。

私には、納得できる、感銘深いお話だったが、さて息子にはどうだったろうか・・・。

足元が崩れ去るような危機の時代という意識を持ち、その時代を生き抜く知恵を得ることが必要なことなのだろう。