再免許申請 

8月に切れる無線局免許の再免許申請をネットを使って行った。パスワード等を得るのに1週間程度待たなければならないし、最終的な手続きはまだだが、手続きの本体と思われる部分は、総務省の当該ページを開いてい、2,3分で済んでしまう。要するに、これは再免許を得て無線を続けるかどうかの意思確認だけの手続きだ。便利になったものだと思う。

これと同じように、包括免許にしてもらいたいものだ。こちらは、再免許とは意味が異なるが、アマチュア無線家が、自作の機械で簡単に運用できないこと、既製品の機械であっても手を加えられないこと等々、アマチュア無線の本来のあり方からしておかしなことが多すぎる。

先日、WPXコンテストを前にして、その週末をどのように過ごすか、Steve N6TTと話した。彼は18メガ辺りのWARCバンドに逃げ出すという。私は、WARCバンドは10メガしか「免許されていない」と言ったら、きょとんとされてしまった。いやぁ、米国のように、免許は一つだけで、すべて包括免許というシステムの恩恵を受けていたら、この日本の免許制度の複雑さ・分かり難さは理解しがたいところだろう。従事者免許と、局免許が分かれており、局免許は固定と移動に分かれている。そして、ハイパワーでは検査に合格することが要求され、ローパワーでは、機械をペーパー上の「保障認定」を受ける。その保障認定には、天下り企業へ高額な認定料を支払わなければならない、となっているわけだ。

これで、また5年間は無線から離れないことになりそう・・・なければないで、無線に費やす時間を別なことに費やして、とも思わないでもないのだが・・・。

アマチュア無線の制度を、若い人々が入って来やすいものに変える努力をしてゆかなくてはなるまい。それが、アマチュア無線を半世紀近く楽しませて頂いた者の責務だろう。

産学共同体の学の一人、大橋教授 

東大工学部システム創生学科という講座に、大橋弘忠教授という方がいらっしゃる。彼のことは以前にもここで取り上げたことがある。プルサーマル計画の公開シンポで、小出京大助教と議論したビデオクリップが有名だ。

有名なビデオなのでここにさらす必要もないかもしれないが・・・



原子力発電所で重大事故の起きる確率は1億(年)分の一、プルトニウムは水道水から摂取しても無害(これは事実かもしれないが、摂取ルートを経口と言うことで、安全性について、誤った情報を流している)、と言い放ち、小出助教を冷笑しているのが印象に残る。

彼について、東電福島第一原発後に何も情報が伝わってこないと思っていた。北陸電力の原子力発電所の安全を議論する社外諮問委員会の委員になっておられるようだ。

最近、東電福島第一原発事故を経て、身内に感想を述べて、自らの大学のウェブに公開している。こちら

事後の批判だけをするのは生産的ではないかもしれないが、何が起きたのかを、彼は受け止められないのかもしれない。自然科学者は、事実をまず受け止めることから議論を始めないといけないのではないだろうか。東大のこの学科には、事故当時NHKで、事故を過小評価する論評を加え続けていた教授もいる。

東大工学部の原子力工学科の流れをくむこの講座は、原発産学協同体の主要組織として多くの人材を輩出してきた。大橋教授を含め、同学科全体が、原発政策への関与を真摯に反省すべきなのではないだろうか。

大橋教授も、元来東電の研究員の出身だそうだ。

弱きをくじき、強きを助ける 

AIJから、多額の饗応を受けていた、厚生年金基金の準公務員の方々は、その後どうなったのだろうか。その饗応は、社会的不公正であり、犯罪でもある。そうした饗応の背後には、様々な便宜の融通もあったに違いない。何かがあると思うが、追及の声はパタッと止んでしまった。

東電の利益の90%は、家庭から得られていたと報じられている。企業には、殆ど利益の出ない売電をしていたわけだ。家庭からはボッていたわけだ。それを今になって初めて知ったという、通産大臣。こうした茶番からも何か匂う。東電は、旨みのある天下り先だったのだろう。だが、原発事故でその旨みは消えたわけだ。

逆に、お笑い芸人の母親が生活保護を受けていた事実を公開の場で執拗に追及する、政治家・マスコミ。確かに、生活保護の支給には、問題のあるケースがかなりあることも知っているが、これは一種のリンチじゃないのか。その母親は10年前から支給を受けており、その頃はお笑い芸人も売れていなかったようだ。きっと、この事例をてこにして、生活保護支給を厳しくするという行政の意向が背後にあるのだろう。問題は、家族の支援が可能になっても支給を受け続けていた母親にあるのかもしれないが、それを放置してきた行政にもある。さらに、この母親は一私人。このような社会的リンチを、放置し、またそれに加担するマスコミにはウンザリだ。

行政・政治家・マスコミは、弱い者には強く、強い者にはこびへつらっている、ということか・・・。

Nifty Serveの思い出 

今から12、13年前のこと、ようやくパソコンを自宅に導入し、まずはパソコン通信に参加をしてみようと考えた。今から考えると、当時のWindows95機は、かなりいい加減で、アクセスがなかなかできない。できたとしても、すぐにフリーズする、といった体たらくだった。Win98になると、大分安定し、パソコン通信にも確実にアクセスできるようになった。

パソコン通信の大手は、Nifty Serveで、パソコンを購入すると、すでにニフティ用のソフトが入れられていた。パソコン通信を始めて、まず覗いたのが、FCLAというクラシックのフォーラム。それに、アマチュア無線のFHAM(だったか)というフォーラムだった。FCLAは、参加者のレベルが高く、なかなかついて行けなかったが、それでもオフ会等にも顔をだした。横浜の青葉台でオフ会があり、厚顔破廉恥にも、フォーレのエレジーを抱えて、乗り込んでいった記憶がある。まだチェロにカムバックして間もないころで、大分酷い演奏をしたようなおぼろげな記憶・・・。同オフ会の面々は玄人跣の方々ばかりで、難曲の室内楽をいとも簡単に、そして表情豊かに演奏されるので圧倒された。その後、大学時代の友人・後輩に声をかけ、さらに娘のバイオリン教室での姉弟子にあたる方にお願いし、いろいろな室内楽を演奏した。信州のUさんにもはるばる上京してお相手いただいたのもこのころだった。チェロのリハビリをもう少し前から始め、きちんと練習していればと思うこともあったが、充実した日々を送らせて頂いたものだ。FCLAの灯が消えたのは残念なことだった。

FHAMでは、当時、CQ誌等にCWの入門記事を書いておられた方が、常連の発言者としていらっしゃった。彼が、筆記受信を続けていれば、その内、CWが上手になるという自説を、雑誌上と同じくフォーラム上でも繰り返しておられたので、それにパクリとかみついた(笑。変なのが突然現れて、自分と全く異なる意見を述べ始めるので、びっくりされたことだろう。最初は、私が変り者と観られていたが、徐々に暗記受信の信奉者が増えて行ったように記憶している。テキストベースで議論してもかみ合わないことが多かったのだったが・・・。筆記受信派は、結局、プロとして一字一句を正確に受信するように教育を受けてきたのに対して、アマチュア無線ではコミュニケーションが主要な目的になるので暗記受信が勧められるというのが我々暗記受信派の考えであった。その根本的な違いを、いくら議論しても乗り越えることは難しかったようが気がする。電信党なる私設政党もあり、党首のKさん等ともいろいろ議論したりしたものだった。当時は、私もテキストベースの議論に慣れていなくて、ついカッカして、感情的な対応をしてしまったような気がする。でも、議論したことで、自分の考えを整理できたと思うし、暗記受信という発想自体が日本のアマチュア無線界にはそれまでなかったのではないかと、手前味噌になるが、今でも思っている。

やがて、パソコン通信は、インターネットに押されて、利用されることも少なくなり、10年前後前に姿を消したのだった。私も、そのちょっと前からインターネットに居場所を変えてしまった。パソコン通信は、通信速度も遅く(これは回線の遅さもあったが)、まるっきりのテキストベースのやり取りなので、いわばセピア色の映画みたいなものだが、確実に人生の一時期と同期した世界だった。

Nifty Serve開始後25周年を記念して、同サービス(と同じもの)が、ネット上で1年間だけ利用できるようだ。こちら。発言はTwitterを介してでないとできないので、私は発言する積りはないが、同サービス経験者の方は、一度覗いてみるのも良いかもしれない。

Alan KF3B 

Alan KF3Bから、鶏舎シャックの画像が送られてきた。この画像の右上にある小屋がそれらしい。これはまだシャックにする前のものだろうか。手前は、21メガの6エレ。

ニューヨーク育ち、リタイアするまでそちらで生活し続けていた彼は、田舎の農場暮らしにあこがれていたそうだ。それなりのアンテナを初めて上げられたのも、2000年にリタイアしてからだった。ペンシルバニアの田舎町に引っ込み、そこには隣近所との付き合いがあり、本当のコミュニティがある、と感じている様子。

リタイアまでは、Alanはコンピューターシステムを作る仕事をしてきた。そのシステムは、金融derivativesに用いられるもので、WINすることだけを目指して仕事をし続けてきた。が、その世界はコミュニティではなく、自分の欲するものとは違うと感じ、自分のすべてをそこに注ぎ込むことをしなかった、とのこと。多くの優れた人々が、同じ業界で敗れ去って行くのを見てきたと言う。

生き馬の目を抜くような世界で働いてきたが、そこは自分の居続ける場所ではないと感じていたのだ。


OldChickenCoop-1.jpg

冬に備えて、周りの林の木を薪にする作業を続け、冬を暖かく過ごすこと。立派な無線設備を作り上げ、維持すること。そしてお子さんやお孫さんと時々会うこと。周囲の人々と暖かな関係を結ぶこと・・・これが彼のリタイアメントのすべてなのだろう。

打鍵操作時の脱力について 

電鍵を用いる際の姿勢については、以前にも何度か記した気もするが、最近改めて実感したことがあるので、もう一度記す。

電鍵は何でも大体同じだが、ここではパドルの操作について記そう。

パドルは、短点・長点のレバーを交互に親指・人差し指で押すことにより、各々を送出する。その際に、中手骨と指の骨の関節(MPJ)、指の近位の関節(PIPJ)それに遠位の関節(DIPJ)を、迅速に屈曲・伸展させる(関節の省略形は特に記す必要もなかったか 笑)。特に、MPJの動きが大きい。特に、MPJの動きが大きい。何も打鍵しない状態では、各関節は、軽度の屈曲位にある。丁度、手の中に卵を持つような具合だ。

この手の動きに関して注目すべきことは、各関節の動きは、屈筋と伸展筋とがバランスすることによって適切な動きになるということだ。人の筋肉には、常時ある程度の緊張があり、それは無意識に錐体外路系によってコントロールされている。この打鍵操作での手の動きは、そのベースラインでの筋緊張が低い方が良い。筋緊張を減らすためには、上記のとおり、手の中に卵を持ち、さらに肘関節も軽く屈曲位を取った方が良い。筋緊張が高まると、微細な動きに対応できなくなる。打鍵操作で誤りを生じることが多いのが、短点・長点間の移動に際してであり、これは関係する筋群の微細な屈伸が短時間に行われなければならないためで、その運動は、ベースラインの筋緊張が大きいと相対的に阻害される可能性が高くなるからだ。

その昔、某ハム雑誌にパドルを用いた打鍵の仕方について記事が載り、そこでは上肢から手にかけて、緊張を強くすることが勧められていた。これは、大間違いである。上記の通り、筋緊張を緩める・・・脱力することこそが必要なのだ。

こうした脱力の重要性は、楽器演奏にも通じる。チェロの場合、利き腕である右腕で弓を持つ。実際に弓を保持する右手は、卵を持つような形になることと最初に教わる。肘関節・手首の関節は、ボーイングによって伸展と屈曲を繰り返すが、基本は軽い屈曲位だ(手首関節は中間位)。いずれにせよ、脱力の姿勢が基本になる。弓の操作よりも単純な打鍵操作も、基本は同じなのだ。

私の運用机は、食卓用のテーブルなので、少し高く、椅子にリクライニングすると、腕を伸ばし気味にしなければならなくなる。すると、脱力が十分でなくなり、打鍵操作の誤りが多くなるという結果となる。肘関節が伸展位気味だと、手の関節群の緊張が低くなりにくいことによるのだろう。リクライニングを諦め、きちんと座って、各関節がかるく屈曲位になるようにすると、打鍵操作での誤りが少なくなる・・・まぁ、当然のことなのだが、最近それに改めて気づいた次第。

後発薬(ジェネリック)は、先発薬とは異なる薬 

先日、米国人医師の記した小児神経学のテキストを読んでいたら、ある抗痙攣薬のジェネリック(後発薬品)は、効果が劣るので、それまで一般に用いられてきた先発品の薬品名をそのテキストでは用いる、と記されていた。テキストに堂々とそのように書かれていたので、いささか驚いた。医師としては、ジェネリックは、先発品と、別な薬であると考えて用いることが妥当だと常日頃感じていたので、この著者は、それを端的に述べているだけだと思い直した。

ジェネリックにも、先発品と同等かそれ以上の製剤もあるが、原則は、両者は別物ということだ。

多田智裕氏の下記の文章は、極めて穏当な発言だ。

現在、医療現場では、一件20円の加算が取れるからと、一般名処方にすることの是非が問題になっている。医師が処方をする際に、薬剤の商品名ではなく、一般名を処方箋に記すと、加算が取れるという新たな仕組みだ。その処方箋を受け取った院外薬局の薬剤師が、先発品にするか、または数多くある後発品のどれにするか決めて、患者に薬を渡すことになる。

ジェネリックと先発品は別な薬剤だという原則からすると、これは医学的に問題が多い。院外薬局が、最も優れた薬剤を選択してくれれば良いのだが、薬局としては薬価差が相対的に大きいジェネリックを処方することが多くなるのではないか。

実際的な問題として、薬剤師の判断で処方されたジェネリックで副作用が出た場合は、その副作用の責任はだれが取るのかという問題がある。厚生労働省の回答は振るっている。誰も責任を取らなくて良い、取るのは薬剤の副作用を補償する組織だ、という回答だ。でも、まずは医師が、患者とのやり取りと副作用の対処に関わることになるのは間違いない。

また、薬剤の適応症が、ジェネリックと先発品で異なる場合がある。医師の知らぬところで、ジェネリックを出され、その薬剤が患者に使えないことになっていた場合、厚労省は個別に対応するとしている。すなわち、処方した医師には、ジェネリックにした責任もなければ、その薬剤が実際処方された事実すら知らないのに、医師に責任が負わせられ、保険者が適応外使用として医師に薬剤処方に関わる診療費用すべてを返還することを求めることがある、というのである。これは論理的にも、社会通念上からも、認められる話ではない。

この一般名処方加算のような杜撰な制度を、厚労省がなぜ持ち出したのだろうか。表向きは、医療費削減という理由づけだが、どうもそれでは理解できぬことが多すぎる。Yosyanさんのブログで最近取り上げられ、そこで議論されたように(こちら)、院外薬局を救済することが目的のように思える。数多いジェネリックを取りそろえることは、院外薬局にとっては大きな負担になる。それを少数に絞ることができれば、経営的に院外薬局には大きなメリットになるわけだ。一般名処方加算制度によって、処方権を、医師から薬剤師に移せば、院外薬局は特定の(少数の)ジェネリックだけを揃えれば良いことになり、経済的な負担が大きく減ることになる。

厚労省は、ジェネリック使用促進と、先発品の保護とを同時に進めようとして、度ツボにはまっているという状況なのだろう。何が置き去りにされているか、それは素性のよく分からぬジェネリックをそれと知らされずに投与される国民である。厚労省は、ジェネリックと先発品各々の製薬企業の方を向いているのである。


以下、MRICより引用~~~

ジェネリックは「先発品と同じ薬」ではありません~短絡的すぎる「薬剤費の抑制=ジェネリックの使用促進」という図式

※このコラムはグローバルメディア日本ビジネスプレス(JBpress)に掲載されたものを転載したものです。
http://jbpress.ismedia.jp/

武蔵浦和メディカルセンター
ただともひろ胃腸科肛門科
多田 智裕

2012年5月22日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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東京都保険医協会が作成した、「ジェネリック(後発医薬品)は医者に相談して」( http://www.hokeni.org/top/download/pdf/2012generic_a4.pdf )と題したポスターに対して議論がわき起こっています。
このポスターではジェネリックは「新薬と同じ成分効能か?」と問いかけます。そして「ジェネリックの効能にはばらつきがあります」「効能格差は最大40%」と続き、「ジェネリックの中で効くものを医師と相談しましょう」と締めくくっています。
これに対して、日経新聞は4月22日「医療界は後発品普及を促せ」と題した社説を掲載。「医療費削減のために(ジェネリックを)主体的に普及を促 すべき医療界が、(中略)一部の医師の意識改革の遅れにより、(中略)誤解させる文言を含んだポスターを作成した」と、このポスターが“患者の正しい理解 を助けない”と論じました。

日本ジェネリック医薬品学会( http://www.ge-academy.org/ )も東京都保険医協会に対して内容の変更や回収を求める質問状( http://www.ge-academy.org/img/iken120326.pdf )をホームページに掲載しています。
特許が切れた医薬品をより安く提供するジェネリックの役割は十分に分かります。しかし、ジェネリックを「先発品と同じ薬で値段が安い」と説明することこそ、逆に患者の正しい理解を助けないばかりではなく、事の本質を見えなくしてしまうのではないかと私は思うのです。

●なぜ医師団体は「ジェネリックの使用は慎重に」と呼びかけるのか
4月から施行された「一般名処方」加算20円を算定している医療機関においては、処方された薬が商品名ではなく成分名で記載されます。
例えば、今まで発行される処方箋に「ガスター」(胃酸を押さえる胃薬の商品名)と記載されていたものが「ファモチジン」(ガスターの成分名称)となります。今までとは違う名称が処方箋に記載されていて戸惑われた方もいらっしゃるかもしれません。
医師が“商品名“でなく“成分名“で処方箋に薬を記載するようになると、実績重視で先発医薬品を選ぶのか、値段を考えてジェネリックを選ぶのか、のアドバイスは、薬の調剤を行う薬剤師に委ねられることになります。
ですから、「一般名処方」制度の本質は、これまで医師が独占してきた「処方権限」の一部が薬剤師に委譲されることに他なりません。
もしも、先発医薬品とジェネリック医薬品の効果が同じであれば、医師と同じ6年間の教育と実習を受けた薬の専門家である薬剤師が調剤できるようになるのは、効率が良い制度だと言えるでしょう。
しかし、欧米の例を見ても、血圧の薬やてんかんの薬などのジェネリック医薬品の中には、効果が不十分または不安定で、使用が推奨されていないものが存在するのはまぎれもない事実です(参考:メルクマニュアル医学百科 http://merckmanual.jp/mmhe2j/sec02/ch017/ch017c.html )。
「ジェネリック=価格の安い薬」と説明されていることが多い現状では、治療の最終的な責任を背負う医師団体が「ジェネリックの使用は慎重に」という呼びかけを行うのは、決して“意識改革が遅れている“からではありません。

アメリカではジェネリックは先発品とは「別の薬」と認識
そもそもジェネリックは「後発医薬品」とも呼ばれており、新しく開発された薬(先発医薬品)の20年間の特許が切れた医薬品を他の製薬会社が製造して発売したものを指します。
有効成分名とその分量が判明しているので、ジェネリックメーカーはほとんど開発費用をかけることなく薬を製造できます(新薬開発には約200~1500億円程度かかるのに対して、ジェネリックは1億円程度です)。
薬剤原価のみで製造できると言っても過言ではなく、そのため「先発品の2割から6割の価格で販売できる」という説明には間違いはありません。
でも、ジェネリックは「先発医薬品と同一の有効成分を同一量含有している」だけであり、添加物などは異なります。先発医薬品と決して「同じ」ではないのです
この議論の出発点は、厚労省および、ジェネリック医薬品学会も同じです。
話が変わってくるのはこれから先です。
厚労省およびジェネリック医薬品学会は、「添加剤の成分や配合量が先発医薬品と異なっていても、承認審査においては生物学的同等性試験を行なっている」から「先発医薬品と同等の安全性と有効性が担保されている」と結論づけます(「ジェネリック医薬品への疑問に答えます」 http://www.mhlw.go.jp/bunya/iryou/kouhatu-iyaku/dl/02_09.pdf 厚生労働省)。
分かりやすく言うと、「(省略しても良いと思われる試験は省略しているが)必要とされる試験は行った上で承認しているので(先発品と同じと思って)問題ない」ということです。
考え方の違いと言えばそれまでですが、アメリカにおいては、ジェネリックは先発品とは「別の薬」と認識されています。そして、承認基準項目が少ない以上、発売後に第三者機関による「先発医薬品と同等かどうかの品質再評価」が必要と考えられています。
ジェネリックに変更して薬の効果が明らかに低下した症例や、添加物による副作用と思われるアレルギー症例を経験している医師は、私を含めて数多くいると思われます。
実際に一人ひとりの体内に取り込まれてどのように作用するかについては、承認基準だけですべて判明するわけではないのです。
東京都保険医協会が冒頭のジェネリック医薬品学会の質問状に対して答えた文面はこちら( http://www.hokeni.org/top/public/generic/2012/120416generic.html )で確認できます。厚労省の求める承認基準にこだわることなく、発売後の品質評価の結果の公表を積極的に行い、基準に満たないジェネリックのランク付けが必要である、という意見は十分理解していただけるのではないかと思います。

●特許切れ先発品価格の価格を引き下げるのがベストの解決策
それよりも私が一番の問題だと思うのは、「質を落とさない薬剤費の抑制方法=ジェネリックの使用促進」という短絡的な図式が、多くのメディアおよび世間一般において当然とされていることです。
これまで述べてきたように、ジェネリックは先発品と“同一”ではありません。ですから「質を落とさない薬剤費の抑制」の一番正当な方策は、「特許切れの先発品価格をジェネリックと同じ程度の価格にする」のはずです。
先発品は臨床試験も行われていますし、副作用情報も十分に揃っています。また、20年間の特許期間中に開発費の回収は終わっています。
そして、先発品メーカーにしてみても、ジェネリックメーカーにシェアを奪われるよりは、特許終了後は価格を安くしても売り上げと利益を上げた方が、新薬開発の研究費に回せる金額が多くなるのは間違いないでしょう。
調剤薬局が在庫を揃えるのに四苦八苦するほどの数多くの種類のジェネリックを製造するより、特許切れ先発品の薬価を下げることこそが、“同一”の薬品をみんなが安く利用できるベストの方法だと私は思います。

歳をとること 

最近、リタイアする前後から、医学関連の書籍を専門であるかいなかを問わず読み返す、ないし初めて読む作業を始めた。仕事のサイズは小さくなるが、でもアップデートを怠りなくしておきたいと言う思いと、精神科医である弟が母の認知症の進行が比較的遅かったのは、知的な「リザーブ」があったためではないかと言った言葉に触発されて、私も遅まきながらリザーブを増やしておきたいと思うようになったからだ。

医学は、数学等と異なり、経験の科学だ。理論的に演繹される事象も多くなってきているが、生命現象の様々な相を、その都度別な切り口で切り取り、議論しているというのが医学の本質のような気がする。生命現象や、変化して止まない個体の複雑さからすると、それは致しかたないことだろうし、またそれが学問としての魅力を生み出してもいる。

医師として長い間(でもないかな)仕事をしてきて、読み進めている書籍のなかで、様々な医学領域のことについて記されたことに、以前にもまして納得したり、著者がどのような問題意識をもって書いたのかがより深く推測できるようになった気がする。Panic Disorder(PD)についての原書を読み進めると、この疾患が臨床現場でどれほど多く見られる疾患であるのかが改めてわかる。広場恐怖は、PDから二次的に生じる病態と言われているが、疫学的にそれを疑問視する知見があり、論争がある、等面白いことだと改めて思った。また、小児の発達についての書物(この世界では高名な上田礼子氏の著作)では、小児は可塑性と強靭さをもって、遺伝的な背景のもと、環境との相互作用で発達をすることを改めて学んだ。発達評価をする際には、その結果をどのように用いるのかを念頭におかないと意味が乏しくなることも改めて知った。本質的なことではないが、小児が発達を遂げるのは当然のこととして、大人から老人になっても、発達が続くという知見が得られていることにも妙に感心した。

これまで、老化という現象は、坂を転げ落ちるように、様々な能力・感性を失い、やがて何も出来ず、感じない存在になって行くのではないかという考えに捉えられていたが、それだけではない、という思いを得た。勿論、老化とは喪失の過程であるという主要な流れは変えようがないのかもしれないが、それだけではない。実際のところ、世の中で大切に思われていること、自分自身大切だと思ってきたことが、そうでもないと思えるようになってきた感じがする。大切でないことから、自分が自由になりつつあることを実感するのだ。そうした視点から、様々な事象を見渡すと、世界が改めて異なる様相を呈して自分の眼前に広がるように感じる。

二日前に一つ歳を重ねた、初老期に入りつつある人間の負け惜しみなのかもしれない。でも、この生き方で行けるところまで行こうと改めて思っている。

英語による電信での意思疎通 

電信での英文による交信に必要な知識・言語能力は、英語の読み書きであることは以前にも文献を示して、述べたことがあった。電信符号が、英語のアルファベットと一対一対応する記号体系であるから、電信固有の文法もなければ、電信固有の語彙もない。

平均的な日本人は、高校・大学受験でかなりの読み書きの訓練を経てきているのに、なぜスムースに電信での意思疎通の世界に入れないのか。その疑問を最近づっと考え続けてきた。一つの理由は、社会人になると、英語の読み書きからぱったり離れてしまうからではないだろうか。学生時代から、英語の読み書きに接しないでも済んでしまうことが多い。わが国には、壮大な「翻訳社会・文化」があり、英語での読み書きをしなくても済んでしまうのだ。東南アジアでは、ちょっと専門的な勉強をしなければならなくなると、翻訳書がないために、原書にあたらなくてはならなくなる。で、あちらの方々は、英語の読み書きに堪能にならざるをえない、という状況らしい。勿論、欧米の学術書が必ずしもベストというわけではないが、学術書・専門の論文は英語でかかれていることが多い。「翻訳社会・文化」にあたかも守られている我々は、言い方を変えると、スポイルされているとも言えるのかもしれない。

もう一点、上記の事柄にも関係するのだが、「英語で考える」ことに近づく訓練を殆ど受けていないことも挙げられる。本当は、ネーティブのように英語で考えること自体ができると、良いのだが、母国語の言語体系が頭の中に堅固に構築されてしまった成人では、それは無理なことのようだ。母国語の「呪い」というらしい。で、次善の策としては、英語で考えることにできるだけ近づくことが考えられる。文法等は、やはりまず日本語で構成することになるが、語彙や、表現に用いる定型的な連語・構文は、外国語としてではなく「そのまま」の形で自由に使えるようになることが必要なのだ。自由に使えるとは、間髪を入れずに、瞬時に置き換えられるということだ。学校での教育ではこうした訓練はまずない。これは、自覚的に訓練しなければならないのだろう。

もう一つ、所謂英会話は、電信での意思疎通には、あまり寄与しない。電信での会話は、あくまで「読み書き」がベースとなる。それほど難しくない英文を速読する能力と、英文の手紙で言わんとするところを、短時間に記すことができる能力が必要になるように思える。

私も、「英語で考える」こと自体は無理だが、それに近づける、またはそれに近い「読み書き能力」が身に着くように、少しずつ努力してゆきたいと思っている。日本の「翻訳文化」は、国の発展に寄与した側面もあるだろうが、副作用も結構あったのではないだろうか。それは国民をスポイルし、国際社会で活躍する条件を国民から奪ってしまいかねない、のだ。

Anne Waters, NW FOC Weekend 

昨日、朝の21メガで、Alan KF3Bと、Bill W7GKFがラグチューをしていた。雑用をしながら、耳を傾けた。Billは、今年の夏シアトルで開かれる、FOCの集まりの首謀者のお一人。奥様が絵画展を開くので、作品を会場に運び込む作業をしなければならないと仰っていた。水彩画でプロの活動をなさっているらしい。Anne Watersでググルと彼女のサイトにたどり着ける。彼らのラグチューに耳を傾けながら、Anneの作品・経歴を眺めた。15年前に、仕事を辞めて、絵画の制作に打ち込むようになった、とのこと。若いころから伯母から水彩画を教えてもらっていたらしいので、制作は続けていたらしいが、仕事を辞めて絵画に打ち込み、それを本職にしてしまうところが素晴らしい。

彼らの交信が終わりかけたところで、ブレークをかけ、彼女の作品を観たとBillに申し上げた。色彩のハーモニーが素晴らしい、と。Alanにも、鶏小屋を改造したシャックの写真を待っていると申し上げた。仕事に出かける時間が迫ってきたので、一言二言交わしただけでお別れした。

North West FOC Weekendの参加者を見ると、無線をやっている連中(奥様方を除いた全員)すべて、とても良く知っている方々ばかり。メンバー外で招待参加される、N6ZIもWA6MCLももう20年来の友人である。まだ参加者は増えるらしいが、楽しみなことだ。Steve N6TTは、息子さんのホッケーのトーナメント戦の様子次第で参加できるかもしれぬとのこと。Steveも私も、Social Phobiaチックなところがあり(笑)、あまりこうした晴れ晴れしい社交は苦手なのだが、お互い、出てみようではないかと話し合っている。きっと会場では隅っこに座り込むことになるのかもしれないが。

PS;Billの奥様のサイト名はAnne Waters Fine Art。URLは、こちら

新人医員 

勤務医としての初出勤。自分の職場を閉じる前から、病院での非常勤もやってみたいと考えていて、たまたま近傍(といっても車で1時間ちょっとかかるのだが)で小児科の非常勤を募集している病院があることを知り、そこに応募してみたのだった。事務長がわざわざ前の職場まで面談に来て下さった。感じの良い方だった。ただ、やはり車で1時間ちょっとかかることと、閉院前後での猛烈な忙しさのために、お断りした。

で、リタイア後1か月して、少し余裕ができ、毎日を草むしりと料理と無線とチェロ(笑)で過ごすことに飽きた(もっとも、これまでの仕事場にも一日非常勤で行っているのだが、そちらはこれまでの仕事の延長みたいなもの)ので、一旦お断りした病院だったが、行かせて頂けるか尋ねてみた。すると快諾をくださり、昨日の初出勤となったわけだ。経済的な理由よりも、自分がこれまで培ってきた技術・知見を、患者さんのために生かしたいという気持ちから、この就職を決めた。本当は、福島にボランティアに行きたいところなのだが、体力的な問題と、あちらでも永続して勤務する医師を求めている様子なので、今のところ断念。こちらはまた機会を見つけてみたい。

病院での仕事は、ふた昔前に経験したことがあるだけなので、大いに緊張した。200床前後の中規模の病院で、かなり大手のフランチャイズ化された病院の一つになるらしい。ご覧の通りの立派な外観。内部もホールや、廊下が広々している。消防法のために昔よりも広い廊下にしたらしい。まだ出来て間もないこともあり、スタッフも若い方が多いようだ(というか、私が老化しただけか?)。タイムカードまであるのに驚いた。小児科は、常勤の若い医師が一人いるが、近々お辞めになるらしい。どこの病院でも同じかもしれないが、小児科は不採算部門であり、患者数もあまり多くなさそう。初めて使うオーダリングシステムも、事務の方が午前中つきっきりで教えてくださり、午後には何とか一人で打ち込めるようになった。来春には、電子カルテ化されるらしい。

鼻汁スメアの検査等、これまで行われていなかった検査等にもすぐ対応してくださり、フレキシブルな対応ぶりに感心。院内処方をまだ行っている。事務長に聞くと、院外処方にすると患者負担が増えることを経営陣が心配しているからだ、とのことだった。院内処方の経営的な不利さを考えると、なかなかできることではない。小児科のための在庫薬の数は多くないが、まぁ、必要十分だろう。やはりジェネリックが多い。特に、気管支ぜんそくで用いる交感神経刺激薬の貼付剤が、評判の芳しからぬジェネリックであるのが残念だった。これは、この病院連合全体で仕入れているものなので、変更不可らしい。新たに導入してもらいたい薬は、手続きをすれば大体入れてもらえるらしい。

非常勤の小児科医を雇う病院の目的の一つは、予防接種を行ってもらうことらしい。最近大幅に増えた予防接種を、こなすためには、複数同時接種が必須になるようだ。常勤医の方に伺うと、これまでは一度に一種類だったらしい。同時接種の予定を立てるようにして進めなければならないのだろう。

この病院は、外科系診療・在宅医療に力を入れているらしく、恐らくそれで経営が成り立っているのだろう。それで、不採算の小児科も存続しているというところなのだろう。小児科は患者数が多くなく、一人当たりにかけられる時間が長いので、ていねいに診察・説明をすることができた。小児科では、何でも「風邪」ですまし、出す薬といえば、鎮咳剤・抗ヒスタミン剤・去痰剤の組み合わせに、時々抗生物質というステレオタイプなものになっている気配があり、これは20年前と変わっていないなと妙な感慨を抱いた。所謂風邪症候群には、様々な病態と病因があることが見過ごされているような気がする・・・と、大風呂敷を広げたが、他のスタッフの邪魔にならぬ程度に、患者第一での診療を心がけてゆく積りだ。何時辞めても良いという気持ちで、やれるところまで・・・。

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指導・監査・処分の「3つの不幸」(その3/3) 

行政による指導・監査・処分の問題は、制度の改善をしなければ解決しない。

石川弁護士が、最後に述べているように、そうした行政処分に弁護士が帯同することを保険医に保証するのが改善への一歩になるのだろう。

それとともに、行政や、法律は、医療の様々な状況を、扱えない、即ち、医療の妥当性について、両者は、経済的・法的な妥当性を問題にすることはできるが、医学の実践としての医療の妥当性は扱えない。だから、細分化された医療にまるで網を張り巡らすような医療法・診療報酬体系を築くのは意味がない。それだけでなく、医療の活力を削ぐ。医療の妥当性は、専門家による第三者組織だけが検討できる。そうしたpeer reviewの組織を立ち上げる必要がある。その上で、医師の裁量権を大きく認めるべきだ。


以下、引用~~~

指導・監査・処分の「3つの不幸」(その3/3)

この記事はm3.com医療維新に2012/4/18に掲載されたものです。
http://www.m3.com/

弁護士 石川 善一

2012年5月12日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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(その2/3より)

7.健康保険法改正(規定)の両面
憲法31条は、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めている。多数の学説は、その「法律」は「適正な法律」でなければならならず、かつ「手続」のみならず「実体」も同様であって、その趣旨は、「刑罰」のみならず「行政上の不利益処分」にも及ぶべきであると解している。したがって、保険医等に対する取消処分について定める健康保険法も、次のような両面の改正が必要である。

(1)適正な実体規定への改正(病理現象の原因最小化)
ここで実体規定というのは、取消処分の要件を定める規定のことである。
健康保険法80条と81条は、取消処分の要件を全く限定せずに、極めて広範なもの(厚生労働省令違反)にしている。このことが、前記のような病理現象を生じさせる原因となっている。

筆者が考える「適正な実体規定」とは、不利益処分(取消処分)の要件が、同処分による不利益の重大性に比例した違反内容その他諸事情の悪質性がある場合に限定されているものである。

行政庁の裁量権の逸脱・濫用がされないように、取消処分の要件=行政庁(担当官)の裁量をできる限り限定(前記原因を最小化)し、担当官による行政(「人の支配」)から、法律による行政(「法の支配」)へ、転換していかなければならない

上記裁量を限定する方法としては、(1)前記東京高裁判決が考慮した諸事情を取り入れること、(2)各事情の考慮の仕方を点数化・ランク付けすること――などが考えられる(一つの参考となるものとしては「一級建築士の懲戒処分の基準」がある(国土交通省のホームページPDF:560KB  http://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/build/syobunkizyun.pdf  を参照)。なお、現状では、保険医登録・保険医療機関指定の停止処分を導入するような改正は、あってはならない。厚生労働省の「広い裁量」の権限拡大にしかならないからである。

(2)適正な手続規定への改正(病理現象の予防)
実体規定について、要件をいかに詳細に定め、裁量を限定しても、無限に存在するすべての場合を想定した要件は定められないから、裁量(評価的判断)の余地は残り、またその前提となる事実の認定(認識的判断)が必要である。

ここで手続規定というのは、取消処分に至るまでの手続(すなわち上記判断をする手続)を定める規定のことである。

健康保険法は、取消処分に至る手続として、監査と社会保険医療協議会への諮問を定めており、同法の運用においては、(1)指導も監査に直結する手続となっているが、指導・監査いずれの手続についても、保険医等の権利(手続上の防御権)を全く定めておらず、適正ではない。また、(2)聴聞の手続については、行政手続法による権利保障があるが、十分ではない。さらに、(3)社会保険医療協議会への諮問とその答申の手続については、社会保険医療協議会法が定めているが、保険医等の権利(手続上の防御権)を全く定めていない

筆者が考える「適正な手続規定」とは、不利益処分(取消処分)の要件を具備するか否かの判断(事実認定と評価)をする過程において、同処分によって不利益を受ける者(保険医等)にとって、その不利益の重大性に相応した十分な防御権(手続上の権利)が保障されたものである。

行政庁の裁量権が広範な現状では特に(将来、裁量権が限定された場合であってもなお)、その逸脱・濫用がされること(すなわち前記病理現象が生じること)を予防するために、保険医等の十分な防御権(手続上の権利)が保障されなければならない。

保険医等の手続上の権利としては、(1)健保法改正によって、指導・監査における立会人(弁護士)の選任権を法律上与え、(2)行政手続法改正により、聴聞において不利益処分の具体的事実を特定する資料全部の閲覧・謄写を拒否できないことを明記(すなわち閲覧権の除外事由を限定)する、(3)社会保険医療協議会法改正により、地方社会保険医療協議会に出席して陳述・資料提出する権利を保障することなどが考えられる。

8.健康保険法改正の理念
ここまで表面的には、指導・監査・処分の対象者たる保険医(医師)の権利(人権)の観点を中心として、健康保険法改正の必要性等を述べてきた。しかし、その観点にとどまっていたのでは、いわば一業界の権益を確保するのと同様に誤解されて、国会議員の多数が法改正に向けて動くことにはならないであろう。

そこで、考えてみるに、第一に、溝部訴訟について、提訴前の本件各取消処分を受けての記者会見の時から、地元マスコミが相応の理解を示してくれたのも、最終的な判決で、裁判所が行政庁の裁量権の逸脱を認めてくれた(すなわち裁判所が理解を示してくれた)のも、溝部医師が「患者のためを思って」診療をしていたことであった。判決についてそのように考えられるのは、次のような判示内容があるからである。

すなわち、甲府地裁と東京高裁は、前提として、「処分理由となった行為の態様、利得の有無とその金額、頻度、動機、他に取りうる措置がなかったかどうか等を勘案して、違反行為の内容に比して」その処分が社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかか否かを判断するという基準を示した。その上で、本件各処分の理由となった行為について、プラスに勘案した事情として挙げたのは、「患者のためを思っての行為であり、悪質性は高いとまではいえないものが占める割合が多いこと、その金額は多額ではないこと、また、不正・不当請求も被控訴人自らの利益のみを追求するようなものではなく、いずれも患者の希望や要請に基づいて、患者のためを思って診察ないし処方を行っていること」などであった。

第二に、そもそも医師(保険医)は何のために診療(保険診療)をするのか、という根本から考えてみると、患者の健康のためである。溝部医師に限らず、医師の本能は、患者の生命・健康を護ることにあるはずである(弁護士の本能が依頼者の権利を護ることにあるのと同様に)。

第三に、そのような医師が自死したり、違法な取消処分を受けたり、さらに前記の萎縮診療が広まること(前記の病理現象)によって、本当に困るのは誰であるか、考えて見ると、患者(広くは国民全体)である。

以上のように考えてくると、前記の健康保険法の改正の理念は、医師の人権にとどまらず、憲法25条が保障する国民(患者)の「健康で……生活を営む権利」(健康的生存権)の実現にあるというべきである。すなわち、憲法が保障している国民の「健康的生存権」の理念を実現するためには、国民の保険による「療養給付を受ける権利」すなわち「受療権」「療養権」(保険診療受給権)が確保されなければならず、国民の「受療権」のために医師(保険医)の「診療権」(保険診療実施権)が保障されなければならない(ちなみに、報道機関の報道の自由は、憲法上規定されていないが、最高裁判決でも「国民の知る権利に奉仕する」ものとして保障されており、また、弁護人の弁護権も、憲法上の被疑者・被告人の弁護人依頼権・防御権のために保障されているものと解される)。

●終わりに~最初の一歩に向けて~
筆者は、溝部訴訟の東京高裁判決が確定した後、「指導・監査・処分取消訴訟支援ネット」「保険医への行政指導を正す会」共催のシンポジウムや幾つかの保険医協会等の団体に招かれて、同判決の意義と今後の課題について講演する機会を与えられた。そこでは、現在の指導・監査において同判決の内容をどのように活かせるのか等について説明するにとどまらず、健康保険法改正を訴えてきたが、その中でも、指導・監査における保険医等の立会人(弁護士)選任権については、試案も提示してきた。

筆者が特にこの点について試案までも提示した理由は、次の(1)健康保険法上の規定および(2)運用上の実績から、もう一歩だけ進んで、この選任権を同法上保障する改正が、最も早く実現する可能性が高いからである。

すなわち、既に(1)同法上「学識経験者をその関係団体の指定により指導に立ち会わせる」規定(73条2項、その監査への準用規定が78条2項)は、存在する(ただし、「厚生労働大臣は、……必要があると認めるときは、……立ち会わせる」のであって、保険医等の権利ではない)。したがって、学識経験者が立ち会うのに加えて、適正手続上の権利を護る弁護士が立ち会うことには、すべての保険医等に異論がないはずである(仮に「不正請求は許されないから、行政庁が幅広く厳しく処分できるように、行政庁を信頼して、その広範な裁量を維持すべきである」という考えの保険医等がいたとしても、指導・監査に関して保険医が自死する不幸を少しでも防止するため、この点の改正には、異論がないはずである)。また、(2)各地の保険医協会の弁護士帯同運動などの成果により、保険医等が弁護士を「帯同」することは、健康保険法の指導・監査の運用において認められている。そこで、保険医等が弁護士を同法上明確に「立会わせることができる」権利として、これを保障することには、大きな障害はないはずである。

また、今般、かねてより医療問題全般について積極的に提言をされてきた井上清成弁護士から、溝部医師と共に、健康保険法改正の研究会設立の呼びかけを受け、小嶋勇弁護士、根石英行弁護士、礒裕一郎弁護士も加わって、「指導・監査・処分改善のための健康保険法改正研究会」を立ち上げ、2月23日に「指導・監査・行政処分の改善のための健康保険法改正に関する基本的提言」を発表した。その中でも、基本原則の提言と同時に、研究会の一致した結論として「現在も保険医(医師)の人権侵害が継続している状況に鑑み、まずは、必要最小限、指導・監査における保険医(医師)の弁護士選任権を確立させねばならない」と提言し、具体的試案も提示しているところである。

指導・監査における保険医等の弁護士(立会人)選任権を定める改正は、実体上の行政庁の「広範な裁量」を制限する改正(最も実現が困難な根本的な改正であるから、いわば最終目標)とは異なり、手続上のささやかな権利を保障する改正ではある。

しかし、その改正は、上記の理由の通り、本来、最も早く実現されてしかるべきものであるから、これが実現しないようであれば、「広範な裁量」を制限する改正は、夢のまた夢ということになる。そのようなことにならないよう、小さな一歩ではあるが、健康保険法上、指導・監査・処分に関する初めての保険医等の権利として、弁護士(立会人)選任権を定める改正をすべきである。

指導・監査・処分の「3つの不幸」(その2/3) 

保険診療を始めて最初にビックリしたのが、保険診療報酬を請求する際に、病名を付け忘れると問答無用にその診療報酬は削られることだった。院外調剤の場合には、院外調剤薬局に支払われた診療報酬も、医療機関が被ることになる。薬局・患者さんはその処方で利益を得ているのに、病名の付け忘れという往々にして起きる単純ミスのために、大きな不利益を、医療機関が受けることになるのだ。行政が、行政上の誤りを犯して、医療機関に不便をかけても、行政には何もペナルティは当然課せられない。この類の不合理は、保険診療上たくさんある。

その極め付けが、ただ経済的な理由だけで、個別指導を受けさせられることだ。医療機関にとっては、個別指導を受ける煩わしさと、そのあとに来るかもしれない処分を恐れて、委縮診療を行うことになる。

下記の論文筆者の石川弁護士は、こうした不合理がよってくる原因は、行政に与えられた「広範な裁量権」であると指摘している。広範な裁量権といえば聞こえが良いが、要するに、極端なことを言えば、行政の思うがままに何事もできる、ということだ。これは法治国家にあるまじきことだ。この行政の「広範な裁量権」が、実際上問題を起こしているとすれば、それは法律によって制限されるべきだ。個別指導・処分を行い・下すうえでの必要な具体的要件、さらに医療機関側からの反論を受け、第三者がその裁定をする制度が作られなければならない。

石川弁護士も最後に言及しているように、日本医師会の出番だと思うのだが、動く気配がない。

この行政の「広範な裁量」は、巡り巡って、社会的な不公正をもたらすだけでなく、委縮医療という形で患者さんに降りかかることも忘れてはならない。


以下、MRICより引用~~~

指導・監査・処分の「3つの不幸」(その2/3)

この記事はm3.com医療維新に2012/4/11に掲載されたものです。
http://www.m3.com/

弁護士 石川 善一

2012年5月11日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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(その1/3より)

4.3つの不幸の根底にあるもの
筆者は、溝部訴訟を遂行する過程で、前記1、2の不幸を知り、本件各取消処分との間に関係性があることは、直感的には分かりながらも、まさに「間抜け」なことに、その関係を明確に説明できないでいた(いわば3つの不幸の関係を証明する「補助線」を引けないでいた)。

しかし、その解(補助線)は、溝部訴訟における国の控訴理由書の中の下記の根本的主張(プラス、その結果当然に生ずる保険医の「恐怖」)にあった。

甲府地裁判決は、裁量権逸脱の判断をする前提として、「処分理由となった行為の態様、利得の有無とその金額、頻度、動機、他に取りうる措置がなかったかどうか等を勘案して、違反行為の内容に比してその処分が社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかである場合には、裁量権の範囲を逸脱し又はその濫用があったものとして違法となると解するのが相当である」という比例原則に沿った判断基準を示した。

国は、これを不服とする理由として、「健康保険法80条、81条は、(1)保険医療機関又は保険医に療養担当規則等に違反する事実があったかどうか、(2)その違反事実に照らし、当該保険医療機関又は保険医が・・その指定又は登録の取消しに値するかどうかを、厚生労働大臣又は・・地方社会保険事務局長の・・広範な裁量にゆだねる立法政策によっている」((1)(2)は筆者が挿入)との根本的主張をした。その上で、「裁量権の逸脱、濫用の有無の判断にあたって、処分理由となった行為の動機をはじめとする上記の各事情を勘案することは、健康保険関係法令の趣旨・目的との関係で考慮に値せず、あるいは考慮すべきでない事情を考慮するものである」とし、甲府地裁の判断基準を批判した。

確かに、健康保険法(すなわち国の立法政策)を見ると、72条1項で「保険医は、厚生労働省令で定めるところにより、健康保険の診療に当たらなければならない」とした上で、保険医が同項の規定(結局、厚生労働省令=療養担当規則)に違反しただけで、81条により保険医の「登録を取り消すことができる」とし、80条により当該保険医が診療に従事する保険医療機関の「指定を取り消すことができる」(また、同条によれば、診療報酬請求について「不正があったとき」も、保険医療機関の「指定を取り消すことができる」)としている。すなわち、同法は、行政庁が「取り消すことができる」要件を限定することなく広範にし、「取り消す」か否かを行政庁の広範な裁量に委ねている

健康保険法の沿革を調べてみると、このような同法の構造は、1942年(当時の総理大臣は東条英機)の改正により行政庁が保険医を指定する制度となった当初から、変わっていないのである。当時の同法43条ノ4は「保險醫…ガ療養ノ給付ヲ擔當スルニ關シ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム」とし、翌年3月の命令(厚生省告示)で「保險醫療養擔當規程」を定め、同法施行令の75条2項は「保險醫…ガ療養ノ給付ヲ擔當スルノ責務ヲ怠リ其ノ他保險醫…トシテ不適當ト認トムベキ事由アルトキハ地方長官ハ前項ノ指定ヲ取消スコトヲ得」としていた。

そして、本件各取消処分(裁判所が違法と判断した処分)がされたのも、国(行政庁)が自ら主張する通り、その立法政策による「広範な裁量」があるからであった。

また、厚生労働大臣または地方社会保険事務局長(現在は地方厚生局長)の「広範な裁量」は、現実には、同局長の下で指導・監査・処分を担当する行政官(担当官)に事実上多くを委ねられている。少なくとも、局長は、保険医等と直接対面することはなく、指導・監査を行う担当官からの報告に基づいて、指導・監査の必要性ないし処分を判断する。

その「広範な裁量」によって「(1)保険医療機関又は保険医に療養担当規則等に違反する事実があった」と判断され、「(2)その違反事実に照らし、当該保険医療機関又は保険医が……その指定又は登録の取消しに値する」と判断されることを知ったとき、保険医等は、大きな「恐怖」に陥る。

前記1の個別指導における各担当官の発言(「こんなことをしておられると、医者ができんようになるかもしれないな~」、「こんなことをして、おまえすべてを失うぞ!」)は、いわば死刑の予告である。「指定又は登録の取消し」は、保険医療機関・保険医にとっては、死刑に相当するにもかかわらず、担当官の「広範な裁量」によって判断されるのである

違法な取消処分についての国(厚生労働省)の正当化根拠が「広範な裁量に委ねる立法政策」であり、地方厚生局長(現実には対面する担当官)の「広範な裁量」に対する保険医等の「恐怖」から、保険医の自死や、贈収賄事件(いわば健康保険法の構造的な病理現象)が生じているのである。

このことは、例えば、自動車運転免許の取消・停止の行政処分における裁量(いわゆる点数制度により処分要件が限定されている)、または運転免許者(自動車運転を生業としている者を含む)が警察官によって道路交通法令違反を指摘されたときの「恐怖」の有無・程度と比較してみれば、理解されやすいであろう。

保険医は、個別指導歴も、措置歴・処分歴もないまま、初めての個別指導で、それまで医師として正当だと判断して行っていた診療について、担当官によって厚生労働省令(療養担当規則)違反の疑いがあると判断されれば、監査になり、そこで同規則違反の証拠があると判断されれば、行政庁の「広範な裁量」によって、直ちに取消処分にもなりうる。

すべての保険医は、保険診療において厚生労働省令に反する(保険医療機関は、「診療報酬の算定方法」との関係で正しくない)可能性がある以上、保険医の登録(その保険医療機関は指定)を取消される可能性があり、しかも、指導・監査の手続によっては、その可能性が大きくなる。

例えば、溝部医師の場合は、情報提供を受けて(どの保険医も、それぞれの事情によって、何らかの関係者や組織から情報提供を受けるリスクは一般的に存在する)、初めての個別指導は、本来の指導がされないまま、直ちに中断(患者調査後)再開・中止となった。次の監査でも、弁護士のいないまま(筆者は聴聞での代理人選任権に基づいて代理人となった)、担当官の裁量によって(1)「療養担当規則等に違反する事実があった」(患者を対面診察していない「不正」や「不当」な検査など)とされた事実の一部については、溝部医師の記憶と真実に反して「認める」という調書(自白調書)が作成された。そして、監査後、地方社会保険事務局長が、(2)「その違反事実に照らし、当該保険医療機関又は保険医が……その指定又は登録の取消しに値する」と判断し、本件各取消処分がされた。

要するに、現行の(行政庁の「広範な裁量」という構造は1942年改正以来変わっていない)健康保険法の下では、すべての保険医は、個別指導はもちろん、監査・取消処分の潜在的対象者であり、そのうち誰が監査・取消処分の対象となるかは、行政庁(ないし担当官)の「広範な裁量」によって判断されるのである。

5.健康保険法の構造的な病理現象の広がり
「広範な裁量」を原因とする病理現象として考えてみると、保険医の自死も、贈収賄事件も、違法な本件各取消処分も、いわば氷山の一角であり、それぞれの水面下には、山のような病理現象がありそうだ。

第一に、保険医の自死についても、その多くの遺族は「自殺」であることや指導・監査を受けたことを知られたくないと考えるので、前記のように公になった例は、ごく一部のはずである。また、自死は、精神的に追い詰められた最後の選択であるから、その選択に至らないものの、「広範な裁量」による処分を背景とした、指導・監査における「恐怖」によって(誘因となる場合を含む)うつ病になったり、精神的なダメージを受けた保険医は、数多くいるはずである。

第二に、贈収賄事件も、両当事者はこれを隠すので、有罪となった(すなわち証拠によって証明できた)例は、ごく一部ではなかろうか。また、贈収賄とまでは言えない私的な利益の供与と公的な便宜(情報も含む)の供与とのやり取り(癒着)は、贈収賄事件として明るみになった例よりも多く存在するのではなかろうか。

第三に、確定判決によって裁量権の逸脱または濫用を理由として違法と判断された保険医や保険医療機関に対する処分は、筆者が知る限りは、本件各取消処分だけであるが、他にも同様に違法な処分は存在したはずである。少なくとも、一審判決で同様な理由で違法と判断された2件(神戸地裁2008年4月22日判決、福島地裁2009年3月24日判決)の行政処分については、各控訴審は(特に後者は「訴えの利益がなくなった」という全く別の理由で)一審判決を取消してしまったものの、筆者は、いずれの処分も違法であったと考えている。また、現在まで毎年多数の処分がされてきた中で、処分取消請求訴訟を提起した保険医・保険医療機関は一部であるから、同訴訟提起を諦めた多くの処分の中には、比例原則に照らして違法な処分もあったと思われる。

第三の「違法処分」に関しては2つの方向で延長線を見ると、さらに広がりがある。
1つは、「処分」にとどまらず「指導」「監査」を見ると、裁量権の逸脱・濫用とは別の、手続上の違法がある。指導医療官等の脅迫的発言だけでなく、個別指導において「厚生労働大臣は……職員に……保険医療機関若しくは保険薬局について……診療録、帳簿書類その他の物件を検査させる」(監査について定める健康保険法78条1項)と同様の手続が行われていることなどである(正確には、後者は実体上の「広範な裁量」を原因とするものではなく、手続上の違法の問題である)。

もう1つは、「違法」にとどまらず「不当」な処分(加えて個別指導・監査)を見ると、その数ははるかに多くなる。すなわち、行政庁の「広範な裁量に委ねる」健康保険法の下では、処分は「社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らか」(判例)である場合だけが違法となるのであるから、これに至らない「不当」な処分は、多数存在するはずである。また、指導・監査についても、健康保険法は、行政庁の裁量で(指導は無条件で、監査も「厚生労働大臣は……必要があると認めるときは」)できるとしているので、個別指導・監査による保険医等の負担(事実上の不利益)を考えると、違法とは判断されなくとも、その不利益に相応する理由のない「不当」な個別指導・監査も、多数存在するはずである。

法改正のために踏み込んで言えば、前記第一および第二に共通する人間の自然な心理(安心を求め、権力者に迎合する心理、「長いものには巻かれろ」という処世術)の延長線にあるのが、いわゆる萎縮医療(日常的な保険診療における萎縮)であり、萎縮していない保険医・保険医療機関に対する行政処分が、第三の違法な処分であるとも言えよう。
 
例えば、「みぞべこどもクリニック」について、山梨社会保険事務局長が厚生労働省保険局長との内議を経て、「1シーズンに3回目のインフルエンザウィルス抗原迅速診断検査は、保険診療上必要な限度を超えた不当な検査に該当する」として、「検査料について、保険診療上必要限度を超えた検査を行い、診療報酬を不当に請求していた」ことを理由の一つとして本件各取消処分をしたことは、診療(診断のために必要な検査)の萎縮を招くものであった。

6.東京高裁判決(法解釈)の限界と法改正の必要性
溝部訴訟の東京高裁判決は、その結論において、本件各取消処分を取消す司法救済をしただけでなく、その理由において、(1)事実認定に関しては、「不正」「不当」の事実の証明責任は国にあることを前提にした上、例えば「これらの検査が一定の期間内に3回以上行われた場合には保険診療上必要な限度を超えた不当検査となることを認めるに足りる証拠がない」と判示した。国が主張する「広範な裁量」を、まず事実認定において制限したものである。

また、認定された「不正」「不当」の事実を前提としても、(2)裁量権の逸脱・濫用の判断基準に関しては、甲府地裁判決の「処分理由となった行為の態様、利得の有無とその金額、頻度、動機、他に取りうる措置がなかったかどうか等を勘案して、違反行為の内容に比してその処分が社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかである」か否かという判断基準(諸事情の考慮と最低限の比例原則を取り入れた判断基準)を引用した。

さらに、「保険医療機関の指定及び保険医の登録の各取消処分が事実上、医療機関の廃止及び医師としての活動の停止を意味する極めて重大な不利益処分であることに鑑みると、健康保険法の解釈として、処分の際に考慮すべき事情がこれらに尽きるということはできず、処分理由とされるべき行為の動機をはじめとする上記の諸事情も処分に当たって考慮しなければならないと解すべきであるから、控訴人の上記主張を採用することはできない」と判示した。このような法解釈によって、考慮すべき諸事情の拡大と最低限の比例原則を導入した限りで、国が主張する「広範な裁量」を制限したものである。

しかし、同判決も、前記(2)の裁量に関しては、健康保険法80条と81条が、「保険医療機関の指定取消及び保険医の登録取消の可否を、厚生労働大臣又はその委任を受けた地方社会保険事務局長の裁量に委ねている。そして、……不適任である保険医療機関・保険医の指定・登録を取り消すか否かについては大きな裁量がある」と確認し、「広範な裁量」を「大きな裁量」と言い換えただけで、根本的には国の立法政策を否定することはできなかった。

また、この東京高裁判決が出ても、今後、「広範な裁量」に基づく病理現象が違法な行政処分(裁量権の逸脱・濫用)として現れたときだけ、しかも、その保険医等が司法救済を求めたときだけ、東京高裁判決の判断基準によって救済できる場合に限って、事後的に個別の違法処分が取消されるにとどまる。

なお、東京高裁が法解釈として判断基準を示して、本件各取消処分を取消した以上、今後は、行政庁が同判断基準に従うことにより、同様な違法処分をしないようになることが望まれるが、法改正ではない以上、行政庁が従う保証はない

したがって、東京高裁判決が確定しても、健康保険法に基づく「広範な裁量」を原因とする他の病理現象は、根本的には変わらない。すなわち、裁判所は、国会が定めた法を前提(ただし、違憲無効な法だけは例外)として、具体的事件の解決に必要な限りで、法を解釈する(行政庁の法解釈が誤っていれば、結果的に、その解釈を正す)にとどまり、法を改正することはできないのである。
 
そこで、前記病理現象を根本的に小さくするには、行政庁に「広範な裁量」を委ねている立法政策(健康保険法)を国会で改める他ない

以上、要するに、指導・監査・処分の前記「3つの不幸」(法構造的病理現象の氷山の一角)に象徴されるように、保険医(医師)個人は、行政庁の「広範な裁量」の下で、「恐怖」に弱く、また、恐怖が現実化した違法な行政処分(国家の行政権力の行使)を覆すのは極めて困難であり、かつ司法権によって覆されたとしても、個別の処分の取消にとどまるので、同様な処分がされる「恐怖」は消えない
そこで、三権分立の法治国家においては、そのような保険医(医師)個人は、集団(団体)として、立法府に働きかけて、立法(法改正)によって行政権力を縛る他ないのである(法治国家でなければ、国民代表の立法府を形成する民主革命から始めなければならないが、幸い現代の日本は、法治国家である)。

(その3/3に続く)

指導・監査・処分の「3つの不幸」(その1/3) 

医療機関に対して、行政は圧倒的な権力を振るう。保険診療に関して、指導を行い、監査さらに処分を行う権力が、行政に与えられており、医療機関側にはそれに対抗する権限が実質的に与えられていないからだ。これは、保険診療という、本来、医療機関と患者・保険者・国の間の対等な契約関係に基づく事業をゆがめるものだ。これらの行政の権力の根拠が、戦前の法律に基づくものであることに驚かされるが、現在も、行政は権力の行使を恣意的に行っている。

先日、私の仕事場を継承してくださった医師が、厚生局に出向き、煩雑な手続きをようやく終えた時、担当の行政官は、「これからは個別指導もありますから」と唐突に述べ、にやりとしていた、と聞いた。権力を与えられた者には、その行使が公正に行われる制度的な保障・監視体制が必要だ。現時点では、実施的にその保障がない。行政訴訟を起こしたところで、一医療機関・医師が、行政とその背後にいる国に勝てる可能性は限りなく小さい。厚生局の行政官に、細分化された医療を指導できるだけの力量がない。また、指導は専ら経済的な理由で行われており、医学的な観点からして適切でないことが横行している。こうしたことから、現行の行政による指導・監査・処分は、根本的な見直しが行われるべきだと考える。

この厚生局には、不祥事でつぶされた社会保険庁の役人が多数入り込んでいるという。年金を食い物にした投資会社から、年に2000万円の供応を受けていたのも、同じく社会保険庁から横滑りした年金基金の連
中だ。こうした行政の腐敗を、徹底的に追及すべきだ。


以下、MRICより引用~~~

指導・監査・処分の「3つの不幸」(その1/3)

この記事はm3.com医療維新に2012/4/5に掲載されたものです。
http://www.m3.com/

弁護士 石川 善一

2012年5月10日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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●はじめに
保険診療をした後の法律関係(権利・義務関係)には、大きく分けて、2つの局面がある。保険医療機関からの診療報酬請求の局面と、保険医・保険医療機関に対する指導・監査・処分の局面である。

前者の法律関係を定めているのは、健康保険法および厚生労働省告示(「診療報酬の算定方法」)であり、その告示の別表(点数表)は、詳細に定められ、かつ2年ごとに改定されている。このことは、医療関係者が広く知るところである。

他方で、後者の法律関係を定めているのは、健康保険法および厚生労働省令(「保険医療機関及び保険医療養担当規則」)であるが、指導・監査・処分に関する同法令の根本的構造は、1942年の同法改正以来(すなわち大日本帝国憲法下から)、変わっていない

本稿では、後者の法律関係の問題の深刻さを医療関係者に広く知っていただくために、まず、指導・監査・処分における「3つの不幸」、すなわち保険医の自死、保険医・指導監査官等の贈収賄、保険医等に対する違法処分について、振り返りたい。そして、「みぞべこどもクリニック」の溝部達子医師に対する保険医療機関指定取消処分および保険医登録取消処分に関する行政訴訟の代理人を務めた弁護士の立場から、「3つの不幸」の原因・関係は何か、今後そのような「不幸」が繰り返されないようにするために何を改めたらよいか、筆者の認識している問題の所在と意見の概要を、計3回の連載でお伝えしたい。

1.開業医(保険医)の自死
2011年、新潟市内の開業医が地方厚生局の個別指導10日後に自殺したことは、日本医師会の臨時代議員会で報告され、多くの医療従事者の注目を集めたが、このような不幸は、以前から繰り返されてきた

矢吹紀人著『開業医はなぜ自殺したのか』(あけび書房)によれば、古くは1952年、長崎県と広島県で厚生省の監査が行われ、「20数人が処分されて自殺を出す『高松技官事件』が起きた」ほか、1959年には、埼玉県と宮城県で、監査を受けた直後に保険医が自殺し、1965年には、山口県で保険医が監査直後に焼身自殺し、1993年には、富山県で、開業医が個別指導で「こんなことをしておられると、医者ができんようになるかもしれないなー」などと言われた後(約2カ月後であるが、「毎日、注射を受けにくる腰痛や肩痛の患者さんを、どうやってへらしたらいいんか」などという「悩みの2カ月」の後)、自殺している

また、2007年9月には、個別指導で「こんなことをして、おまえすべてを失うぞ!」などと言われていた東京の歯科医師(保険医)が監査の直前に自殺した(東京歯科保険医協会の東京社会保険事務局に対する同年10月4日付け「抗議文」。詳細は同協会のホームページを参照)。

さらに、同年には、7月の個別指導から鬱の症状を呈していた鳥取市の開業医が、10月に保険医登録と保険医療機関指定の各取消処分を受けた後の特異な経緯も経て、12月に自殺した(日本医事新報2012年3月3日号16ページ)。

このような不幸が繰り返されていることは、その原因が当該個別指導・監査の担当官個人ないし保険医個人の問題ではなく、すべての個別指導・監査ないし保険医に関係し得る問題であることを示している。

2.保険医・指導監査官等の贈収賄
指導・監査に関する不幸には、もう一つ別の一群がある。
2007年には、地方社会保険事務局の指導医療官が保険請求への指導をめぐり有利な取り計らいをした見返りに、大学同窓会役員である保険医から現金を受け取ったとして、いずれも逮捕され、有罪判決を受けた。

2010年には、厚生労働省(本省)の特別医療指導監査官(逮捕時は課長補佐)がコンタクトレンズ診療所に指導・監査に関して便宜を図った見返りに、同診療所を系列に有するコンタクトレンズ販売会社の役員から現金を受け取ったとして、いずれも逮捕され、有罪(医療指導監査官は実刑)判決を受けた。これらは、自らの犯罪行為について逮捕され、各判決を受けただけとも言えるが、このような犯罪行為に至ったことは、当該保険医・指導監査官等の各個人にとっても、指導・監査という制度自体にとっても、不幸なことである。

これらの贈収賄の原因が当該個人のモラルの問題にとどまらないことは、誰しも思い至るところ(すなわち、過去の日本を見ても、現在の世界の各国を見ても、法治制度の進化の問題)であるが、厚生労働大臣は、本省課長補佐にかかる2010年の事件を受けて初めて、「保険医療機関等に対する指導・監査の検証及び再発防止に関する検討チーム」の設置を指示した。しかし、その同年12月17日付け「中間とりまとめ報告書」を見ても、「指導大綱・監査要綱等の体系に基づき行われている指導監査業務について、不正行為の発生を防止できるものとなっているかという観点から確認を行う。……指導対象の選定方法等そのあり方について見直しを行う」という程度にとどまっている。

3.保険医等に対する違法処分
保険医・保険医療機関に対する指導・監査の後の行政処分においても、不幸はある。
2005年11月、当時の山梨社会保険事務局長は、溝部達子医師に対する保険医登録取消処分と「みぞべこどもクリニック」の保険医指定取消処分(以下「本件各取消処分」という)をした。しかし、同医師は、本件各取消処分の取消請求訴訟(以下、「溝部訴訟」という)を提起し、2010年3月31日の甲府地裁判決は、「本件各取消処分は、社会通念上著しく妥当性を欠くことが明らかであり、裁量権の範囲を逸脱したものとして違法となり、取消しを免れない」と判断して、各処分を取消した。

国は控訴したが、2011年5月31日の東京高裁判決は、甲府地裁判決の理由を一部改めながら、国の控訴を棄却し、同判決は確定した。

このような違法な本件各取消処分により、保険診療がいったんできなくなり(2006年2月に甲府地裁が執行停止決定をした後は、保険診療ができるようになっていたが)、東京高裁判決の確定により同処分が取消されるまでに、5年半余り(初めての個別指導が中断され、患者調査が実施されてからは、6年半余り)を要したのは、不幸なことであった。

本件各取消処分に至った原因は、その違法な処分をした当該地方社会保険事務局長ないし担当官等の個人的な問題にとどまらないはずである。「人による行政」ではなく、「法律による行政」の下では、個人的な事情があったとしても、本来、法律に違反する行政処分はできないはずである。

(その2/3に続く)

嘆き節 

このところ、バンドが爆発的に開けることはないが、それなりにワールドワイドに開けている。特に、14メガは、一日中どこかが聞こえてくる。北米に関して言えば、朝・午前中は21メガ、午後から夜にかけては14メガ、そして夕方から夜にかけては7メガという具合だ。

ところが、(ここでいつもの嘆き節になってしまうのだが)海外と「普通の交信」を楽しむ方が少ない。いや、これは日本だけのことではなく、世界中でそうなっているように思える。SSBですらそうなので、CWは言わんおや、というところ。深夜、14メガが、北米西海岸に安定して開ける時間帯にSSBで聞こえてくるのは、Seymour W6CCPだけなどということもしょっちゅうである。

あのYemenへのパイルも、厳しいと言う声を北米の局から聞くが、せいぜい10KHz幅に広がるだけであり、このところはそれも大分縮小してきている。DXの「醍醐味」の一つ、他を出しぬくという楽しみも減り、DX人口の減少に拍車をかけることだろう。

私が、無線を始めたころ、それに14AVQ一本でカムバックしてきたころ、1960年代、80年代は、「普通の交信」を探して、たくさんの局が出ていた。私自身にとっても、海外との窓口は、無線だけだったので、必死の思いで、交信相手を探した。冬場各バンドがスキップ状態になると、唯一海外であるVK・ZLと開けている14メガに居座り、あちらのオールドタイマーが出てくるのを待っていた。

今は、海外とのやり取りの窓口は、ネットを介していろいろあるし、無線などと言うレトロで不確実な通信形式を用いなくても、簡単に海外に窓が開ける。団塊の世代が無線を楽しんでいる、楽しんでいたことが多かったのは、何と言っても、過去へのノスタルジー故なのかもしれない。

で、何を言いたいか・・・やはり無線の将来は、狭まって行くだろうなということだ。その狭まった無線の場所の一画をお借りして、この趣味の放つ最後の光芒に加われたら良いなと思っている。

でも少ないな・・・「普通の交信」をする方々・・・。ぼやきで御免。

送信能力と受信能力 

言ってしまった。

もう10年以上の付き合いになる、ある北米のハムに、「キーを替えた方がいい」と言ったのだ。

彼は、長年、縦ブレを使っている。だが、キーイングの長点が短いことが多く、短点と区別がつかない(ように私には聞こえる)。さらに、短点の長さが不定で、時に長点と区別がつかないことがある(ように私には聞こえる)。一昨日お目にかかったときに、あまりに理解しがたかったので、縦ブレではなく、バグキーかエレキーを用いたらどうかと言ったのだ。

私は、これは禁句としてきた。

キーイングは、1対3という比率が機械的に正確に出されれば良いと言うものではない。それが理想と言う方もいるかもしれない。その方は、キーボードをお使いになることだ。が、電信に多少なりとも長くかかわってくると、微妙に変化するキーイングの方が疲れないことが分かってくる。微妙なリズムの変化が、聴くものに心地よさを感じさせてくれるのだ。だから、1対3の原則を機械的に求めることには反対なのだ。

キーイングが、そのように機械的なものではないということになると、キーイングへの評価は、送信者と受信者の間の相対的な関係になる。ある「崩れた」キーイングが、ある受信者に取りにくかったとすると、それは「崩れ」具合が酷いことと、受信者の受信能力に問題があることと両方があり得るのだ。送信の「崩れ」が、あるエキスパートにとっては、心地よいリズムでもありうるのだ。電信を始めて間もない方々は、この点に関して謙虚になるべきだろう。

勿論、送信者に問題があることも大いにある。縦ブレを用いたキーイングの場合、否、キーボード以外ではどのようなキーであっても、送信者がキーの操作を如何に訓練してもうまくできな場合がありうる。特に老齢になってくると、それが目立つ。場合によっては、神経系の病気のためなのかもしれない。そうした、いわばハンディキャップを抱えつつ、電信に出ようとされているのかもしれない、ということを、受信者は常に念頭に置くべきだ。

先に述べた北米の友人のキーイングを、別な友人はよく理解できるのである。だから、私は、彼にキーイングについてコメントすべきではない、と自分に言い聞かせてきたのである。その禁を自分で犯してしまったということだ。

その二人の電信マンである友人に共通するのは、英語のネーティブであるということだ。電信を受信する際に、ある程度コミュニケーションをとるようになると、符号と文字を一対一対応させることは意識のなかであまり行われなくなる。むしろ、意味を理解することに意識が集中する。その際に、それまで送出された内容の理解から、これから送出されるかもしれぬことの予測を無意識のうちに行う。丁度、本を読むときに、文字一つ一つを追うのではなく、文章の意味を理解し、次に来るかもしれぬ言葉・文章を予測しつつ読み進めるのに似ている。この作業が、電信でコミュニケートする際に、我々を引き付ける一番のポイントではないのだろうか。電信は、聴くのではなく、読むのだ。彼の符号を良く読み取る友人は、英語が母国語であるために、それが可能になっている可能性が高い。

和文でもキーイングの「崩れ」が問題にされるが、あれはやはり和文そのものへの習熟度が高い方に多く、そうした方同志では、その高い習熟度から、先に送信されるであろうことが予測できるために「崩れ」を感じないのではないだろうか。

私が禁句を吐いてしまったその友人は、何かバツが悪そうな様子で、かなり速度を落として別れの挨拶を送信してきた。

悪いことをしてしまったものだ・・・。

鈴木寛議員の医療政策 

民主党の鈴木寛議員が、MRICで発言をしている。今回の診療報酬改定の自画自賛である。こうした表面的な見方しかできない政治家が、医療政策を決める中枢にいるのだから、日本の医療の将来は暗い。

なぜこうも美辞麗句を並べ、紋切型の結論だけを出すのか。現実を見る能力に欠けるのか、それとも、現実を理解しつつ、何らかの勢力によって、こうした発言をするのか。理解に苦しむ。

以下、MRICより引用~~~

勤務医の負担を減らす診療報酬改定、国民の命と健康を最優先。

今回の内容はロハスメディカル3月20日号に掲載されています

医療現場危機打開・再建国会議員連盟幹事長
民主党政策調査会副会長 鈴木寛

2012年5月2日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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先に告示された平成24年度の診療報酬改定。介護報酬との同時改定ともなり、関心を集めてきました。

注目は、基本方針である「病院勤務医など負担の大きな医療従事者の負担軽減」をいかに達成するかです。これについては例えば、一病院で2つの診療科を同時受診する患者さんに2科目も再診料を請求できる(当然のこと。これまでがおかしかった。再診料も二つ目の科は、今なお半分に値切られている。)ようにしたり、夜間・休日の電話対応の充実をねらって評価体系を整備する(開業医にも365日24時間労働を強制する積りか?)などし、医療従事者の働きを適切に評価する(労働基準法を守る体制にしなさい。そちらが先だ。開業医に、これまでの勤務医と同じ労働をさせる制度作りをするな。)一方で軽症患者さんの時間外受診の減少を促す方策が示されました。

改定率は診療報酬全体0.004%増(天文学的に微小な数字。これとて、実際上加算できぬ新たな加算を多くの医療機関が取ると仮定しての増加だろう。)。手術料などの「本体」項目は、計5500億円の増額となります。前回(平成22年度)改定での5700億円増とあわせると、1.1兆円のプラス改定です。そのうち今回は4700億円が医科に充てられ(前回とあわせて9500臆円)、勤務医の負担軽減策に1200億円が割り当てられる計画です(m3によるアンケートでは、勤務医の収入面での改善があったのはたった2割。減収が1割。大多数はかえって忙しくなったとのこと。負担軽減策なるものが、どれだけ実効があるのか、行政ではない第三者に検証させるべきだ。自画自賛はいい加減聞き飽きた。)。

限られた医療資源をどう分配していくか。医療崩壊を食い止めるための施策と予算の確保は、まさに政権交代による方針転換の成果と言えます。今回の改訂では再診料のベースアップをめぐって意見の対立もありました。しかし、現在そして未来の患者の立場から、まずは命に直結する医療に従事する人々と、そのための医療体制や病診連携ネットワークの強化等を正当に評価し、重点的に守っていこうという精神は貫かれました(医師の技術料をこれほど低く抑えておいて、ネットワーク作りもへちまもない。再診料がコーヒー一杯分にも満たない額であるとは、国際的にみても、恥ずかしい話だ。こうした医師の技術料の抑制は、薬剤・調剤・医療機器等周辺への医療費のばらまきのためなのだ。)。

社会保障政策は、その政党の価値判断体系によって、「所得再分配の観点を優先」「政府の干渉は最小限に(これを本気でやれば、医療もだいぶ良くなるのだが、行政による医療支配は強まるばかり。きれいごとを並べないでもらいたい。)」等、優先順位が明確に分かれます。我々は「国民の健康維持が最重要」という信念を持ち、全国民がそれぞれにとって最善の医療を受けられる体制づくりを目指しています。

根底にあるのは、アジア初のノーベル経済学賞受賞者アマルティア・セン氏が提唱した「潜在能力アプローチ」。個人が福祉を達成するための手段・自由をいくら持っているか(=潜在能力)、その獲得が大切だという考え方です。仮に所得が多くても医療や福祉制度が不十分なら、病気・障害により潜在能力は大きく損なわれます。経済最優先あるいは功利主義ではなく、国民の皆様の“潜在能力を高める”政策を追求してまいります(医療で言えば、需要と供給のうち、供給側が困窮しているのが実体。選挙民に聞こえの良い、国民のための医療という偏ったスローガンは、現在の医療の問題を言い表していない。このセンスの無さが、医療を崩壊させる)。

閑散・・・ 

いやぁ、バンドは閑散としている。CONDXもあまり良くはないのかもしれない。ハイバンドの元気がない。

7メガに居座って、CQを出し続けるが、応答は極めて少ない。でも、21時半頃7メガでZS6EGBに呼ばれた。フラッターがかかっているが、しっかり入ってきた。あちらは秋真っ盛りなのだろう。いろいろとおしゃべりをしたいと思ったが、CWにあまり慣れていない方らしく、さっさと終了。

CW、SSB問わず、アワード集めのためのコールの交換だけという交信が多い。あれでどれだけの期間続けられるのだろうか。早晩、飽きが来るのではないだろうか。

でも、余計な節介は止めておこう。

また、せっせとCQを出し続ける。

日本調剤、大躍進! 

医療機関が、一般名処方で一件当り20円の加算をどのようにして取るかあくせくしている一方で、調剤薬局は、桁違いの増収増益を得ている。日本調剤(株)は、社長が数億円の年収を誇り、さらに子会社にゾロの製薬企業を従え、飛ぶ鳥を落とす勢いなのだ。日本の医療制度は社会主義的な、いわば計画経済だったが、その計画のなかでも、彼らの事業は例外的な存在なのか。

いや、私企業だから儲けることは悪いことではない。が、医療機関がこれまで経済的にがんじがらめに絞り上げられてきたことを考えると、違和感を覚える。我々が10円、20円の単位で苦労している一方で、厚労省・財務省の計画経済でとりわけ優遇されている調剤薬局にメスを入れる政治家やマスコミはいないのか。これだけの利益誘導が行われる背景には、業界と政治・行政の裏でのつながりがあるはずだ。

また、診断名も分からずに、患者さんに指導するという院外調剤の薬剤師の指導には問題がないのか。どれだけ、意味のある指導がされているのだろうか。この件については、医師患者関係を壊すような「指導」が薬剤師によってなされているという話を時々耳にする。

また、医療費削減を目的とした院外調剤・後発薬の使用がどれだけ実質的な効果をもたらしているのだろうか。この数年間の医療費増加の大半が院外薬局・製薬企業の増収であることが分かっている。それで一体良いのだろうか。


以下、引用~~~

日本調剤がストップ高カイ気配、13年3月期予想の連続2ケタ増収増益を好感

11時50分配信 モーニングスター


 日本調剤 <3341> が500円ストップ高の3050円カイ気配で前場取引を終了し、差し引き5万株弱の買い物となっている。1日引け後に12年3月期連結決算と13年3月期業績予想を発表。13年3月期も2ケタの増収増益見通しとなり、好感されている。

 13年3月期連結売上高予想は前期比20.6%増の1568億7800万円、営業利益予想は同29.9%増の71億円。主力タイプである大病院前の調剤薬局の安定的な出店を継続しつつ、特定の医療機関に依存しない調剤薬局(面対応薬局)の積極出店を進める。年間配当予想は前期予定比10円増の80円(中間、期末各40円)。12年3月期連結売上高は前期比16.0%増の1300億4100万円、営業利益は同14.2%増の54億6400万円だった。

 同時に、13年3月期からの3カ年中期経営計画を発表。15年3月期のグループ総売上高(連結消去前)4000億円以上、連結売上高営業利益率10%以上を目標数値として掲げた。面対応薬局を中心とした新規出店ペースの加速やジェネリック医薬品の徹底的な使用促進などを進めるとしている。

提供:モーニングスター社

RUNは、走るだけではないという話 

昨夜、北米全体に大きく開いた14メガでのお話し。旧知のVic W9RGBと数週間ぶりの交信をした。彼は、2,3か月前にテキサスで行われたFOCのミーティングに出かけた際に、ホテルのシャワー室で足をすべらせ足を骨折してしまった。で、奥様の介護を受けながら、車でインディアナの自宅に戻り、静養に努め、杖を使いながら歩くこともできるようになったようだった。

デイトンのハムコンヴェンションが近いうちにあるのだが、そこのflea marketで”run”すると言うのである。そのrunにだけ注目を向けてしまい、無理はしないでと申し上げた。すると、どうも話が違う。stallを出店して、それをrunするというのである。走るのではなく、マネージメントするという意味だ。

それを聞いて、苦笑・・・。stallという単語を知らなかったので、いい加減に理解したのが、とんでもない誤解につながったわけだ。まだまだ勉強・・・こうして恥をかくと、この単語はしばらく記憶から消えないことだろう。

彼が出店する説明をした後で、flea marketの通路をあちこち走り回る、runするのは、やはりまだ無理だけれどね、と言っていた。ニンマリしていたことだろう。

財務省のやりたい放題 

財務省は、政治家を動かし、マスコミを利用して「世論」形成をしている。医療に関しては、財務省の意向にとって都合の良いことだけを、マスコミを使って流している。

下記の新聞社の記事にもどれだけ信憑性があるのかは疑わしいが、財務省は、自分に都合が悪くなると、ホームページで抗議文を掲載するらしい。

財務省よ、自らがマスコミを利用して、「世論」形成したりすることを反省する方が先ではないのか?



以下、引用~~~


朝日新聞記事に事実誤認、財務省が異例の抗議文

2012年5月1日(火)18時10分配信 読売新聞


 朝日新聞が先月5日に掲載した民主党政権に関する記事に複数の事実誤認があったとして、財務省は1日、同社への抗議文をホームページ(HP)に掲載した。

 同省が報道機関への抗議をHP上で表明するのは初めて。同省は、これまで2回、同社に抗議して謝罪・訂正を求めたが、納得のいく回答が得られず、掲載に踏み切ったとしている。

 同省が問題としているのは、朝日新聞が先月5日の朝刊1、2面に掲載した連載「民主党政権 失敗の本質」の1回目。記事では「鳩山(元首相)は(政権交代前の)総選挙直前、同省幹部とひそかに接触を重ねていた」「野田(首相)は財務相に昇格すると、財務官僚の仲介で自民党の財務相経験者と会合を重ねた」「野田内閣になると、官房副長官に、東大在学中から財務次官の友人である前国土交通次官が就任」などとしている。

 これに対し、同省広報室は「『接触を重ね』た事実も、『仲介』した事実もない。財務次官と前国交次官は学生時代全く面識はない。そもそも財務次官に取材がなかった」と話しており、HPでは「記事には明らかに事実と異なる点が認められ、厳重に抗議するとともに、内容の訂正などしかるべき対応を求めた」などとしている。

 同省が、記事の内容について新聞社に抗議文を送るのも1998年以来という。

 朝日新聞社広報部は「当社の取材で得られた情報と認識の違いがあり、その点について財務省に説明しているところです」としている。


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