予防接種の同時接種 

小児科医師のメーリングリストで、小児への複数予防接種の同時接種の可否が話題に上がっていた。この1、2年の間に、これまでの予防接種に加えて多数の予防接種が始まり、それらを適応となる短い時期にどのように打つかという問題が、現実問題として小児科の臨床現場に立ちはだかっている。欧米では、同時接種が一般的に行われている。

議論の発端は、某大学の研究者から、同時接種は控えるべきだという見解が出されたことのようだ。肺炎球菌と他の予防接種同時接種後に、死亡例があり、サイトカインという免疫系の反応物質の量を測ると、同時接種群でそれが高値となる、なので副作用の生じる可能性が高いから、同時接種をすべきではない、ということのようだ。

だが、この見解に対しては、批判が多い。その研究者のサイトカインについてのデータは、サンプル数が少なく、統計的な処理がされたいない。元来、サイトカインの高値を悪い指標と捉えるべきなのか、むしろ免疫反応が起きていることを表しているだけなのではないか。予防接種後の死亡例は、必ずしも予防接種のためである可能性が高いわけではない(因果関係が不明である)。・・・といったことだ。私も、同時接種肯定の議論に賛成だ。

東京都立小児総合医療センターの医師から、この問題に関連して興味深い発言があった。同センターは、東京都西部をカバーする小児医療の第三次救急医療機関で、重症例が多く集まるらしい。乳幼児期の細菌性髄膜炎の主要な原因菌である、インフルエンザ桿菌と肺炎球菌の予防接種が開始して以来、細菌性髄膜炎の症例が激減した、ということだ。予防接種の効果が上がって、予後の良くない、細菌性髄膜炎が減ったということは、とても良い知らせである。また、予防接種後の死亡例に限らず、来院時に不幸にして亡くなってしまったケースに対して、死因究明のための解剖(行政解剖)が余り行われないらしい。行政解剖の費用をカバーする公的予算がついていないためのようだ。予防接種後の死亡例については、徹底して死因究明を行う必要があるのではないだろうか。そうしないと、極めて少数の予防接種後死亡例のために、予防接種を躊躇する親御さんが出たり、行政が予防接種の中止をしたりすることになりかねない。

予防接種の同時接種によって、発熱等の頻度の比較的高い副反応は、「相加的」に増えるが、「相乗的」に増えることはない。さらに、予防接種によって得られる利益は計り知れぬほどに大きい。細菌性髄膜炎の悲惨な経過を知る者としては、インフルエンザ桿菌・肺炎球菌を始めとする新しい予防接種群を同時接種で積極的に打つように、親御さんに勧めようと改めて思った。

上記医療センターを始め、大学他の第三次救急医療機関で、今夜も寝ずに仕事をなさっている医師諸兄姉に改めて感謝の意を表明したい。一睡もできずに夜が白々と明けてくるくるのを、同じようにかって経験していた者として、本当にお疲れ様と申し上げたい。

原子力損害賠償支援機構 

タイトルの名の特殊法人がある。原発の事故に際して、損害賠償をするための保険を扱う組織だ。毎年電力会社から、1000億円を超える金(保険金)を集めている。その事業は、保険金集め、保険金支払い以外に、東電福島原発事故以来始まったであろう、被害者への無料相談を行っているらしい。事業内容としては、複雑なことはない。扱う金額が大きいだけの組織である。

こちらにこの組織の役員、職員給与、役員の履歴等が掲載されている。理事長こそ大学から特殊法人を経由して、この組織に席を得た人物のようだが、常勤理事は見事に天下り官僚が占めている。特殊法人の役員給与としては(あくまでこの限定つきだが)、それほど高給ではない。が・・・驚くべきことに、常勤理事の年収が、理事長年収を上回っている。恐らく、理事長職は名誉職であり、実務は理事が担当しているためなのだろう。それにしても、天下り官僚の天下である。

また、職員の内、特別職という12名の職員の給与が、1300万円超ととびぬけている。恐らく、彼らが、管理職で第一線の仕事を統括しているのだろう。こうした職員の出身も知りたいところだ。

東電福島原発事故が起きてからは、さすがに多少は忙しくなっただろうが、それまでは、電力会社から保険金を収納するだけが仕事だったのではあるまいか。それが、この給与レベルとは恐れ入る。

原発を再稼働しようという動きが、様々なところで見受けられる。この組織等は、原発が稼働して初めて仕事になる組織だから、原発再稼働に向けて組織を上げて運動しているのではなかろうか。天下り官僚をこうして養うために、原発が再稼働されようとしているのかもしれない

いじめについて 

一頃、いじめによる中高生の自殺が連続して起きた。小児期のいじめは、以前からあった問題だ。それが自殺にまで被害者を突き動かしてしまうようになったのは、どうしてなのだろうか。それを何とか理解し、対応を考えてゆかねばならないと思う。

学校医をしていて、保健委員会のあるたびに、先生方にいじめがないかということを伺ってきた。が、返事は、いつも、そのようなことはない、ということだった。田舎の小学校で平和なのだろうかとも考えたが、それを信じるのは難しかった。残念だが、医師としてのコミットの仕様はあまりなかった。

この問題について思うことは二つ。

一つは、問題は学校だけにあるのではないだろう、ということだ。識者・教育関係者がすでに述べていることだが、問題は家庭と、さらには社会そのものにあるのだろうと思う。ケースによって状況が変わるので、一つ一つのケースできめ細かな調査が必要なのだと思う。問題は学校だけにあるのではない。これは、子供たちを取り囲む大人がいつも認識すべきことだ。学校とこどもたちだけの問題ではないだろう、ということだ。

もう一つ、これもネット上で読んでなるほどと思ったのだが、いじめる子、それにいじめられる子以外に、第三者の子供たちがたくさんその周囲にいる。その子供たちが、いじめに関して傍観者でいることが大きな問題なのではないだろうか。坂本義和氏の「人間と国家 上下」の最終章の最終パラグラフに「他者への無関心を克服する」という文章がある。彼が、自らの政治学者、市民運動家としての人生を振り返ったあと、後に続く若い人々に書き記した文章の最後に、他者への無関心を克服することの大切さを訴えるこの文章が置かれていることが、とくに印象に残る。世界的規模、ないし国家内部での「競争」が、格差を拡大し、人間性を喪失させる。無関心やアパシーを克服することによって、そうした格差、差別さらに人間性喪失んい対処できるのではないか、と彼は説いている。いじめの現場を遠くからただ見るだけ、ないし目をそむけている周囲の子供たちの無関心がどのようにして生まれたのか、如何にしたら、いじめを受ける友人へ関心を持たせることができるのか、それを教育界、社会そして家庭で考えてゆかねばならないのではないだろうか。

いじめを限りなくゼロに近づけなければならない。ただ、それは社会の多様性、個々人の個性の多様性から難しいことが多い。むしろ、いじめへの社会の対応力resilienceを伸ばすことが、いじめへの直接的対応と同等か、それ以上に必要なことなのではないか、と考える。

「規制委、現実路線に修正」 

日経の20日版が、「規制委 現実路線に修正」というタイトルで、原子力規制委員会が「夏の電力不足」に対応した「現実路線」に転換したと報じた。

元来新しい安全基準で、現在稼働中の大飯原発も稼働を続けるかどうか、再確認をするとしてきた。が、新しい基準は、社会への影響を考えて、余裕を持たせて運用しなければならない、と規制委の田中委員長が19日の記者会見で述べた、のだ。これは、大飯原発の稼働を続けることを意味しているとのことだ。今年1月には、大飯原発新基準の適応に関して「大飯原発は例外にはならない」と言明していた。

もう一点、原発立地地域での活断層の調査についても、規制委は「柔軟化」した。規制委は、活断層の判断基準である、地層のズレが生じた時期を、12から13万年前以降から40万年前以降に拡大する方針だった。だが、新安全基準骨子案では、12から13万年前以降という現行規定を続けることを原則とした。

日経の記事でも、政権交代による原子力政策の違いが、規制委のこの軌道修正にも影響しているのではないかと結論付けている。規制委は、本来、その時々の政権の方針から独立して、科学的に原発の安全性を検討し、規制する組織ではなかったのだろうか。現在の経済界と極めて近い政権の方針によって、このように左右される規制委では存在意義がなくなる。

活断層の判断基準の「柔軟化」も理解し難い。どのような根拠で、こうした判断基準の変更をするのだろうか。規制委の議事録にざっと目を通してみたが、素人には分からない議論を延々としている。東日本大震災クラスの震災は、数百年毎に生じるとされている。さらに、南海トラフによる巨大地震が、ごく近い将来に予測されている。東日本大震災の発生機序はこれまで想定されていなかったものだと言う。地震予知が、現実には無力であることをさらけ出した。さらに、まだ知られていない活断層もあるはずである。とすると、厳密な地震予知は不可能であり、ただ過去の経験から、確率的に大震災がまた近い将来起きる可能性が高いということが言えるだけなのだろう。地震予知について、我々が知りうることは限られている。それが科学的な認識だ。

現状認識としては、日本が地震多発地帯にあり、また地震活動が活発な時期に入っていることは確実に言える。となれば、安全基準の判断を「柔軟化」する等は愚の骨頂であるように思える。

もう一度震災が起き、原発の数基が深刻事故を起こさなければ、日本の指導層は覚醒しないのだろうか。

レセプトオンライン請求にまつわる疑念 

レセプト(診療報酬請求書)をオンラインで送ることになってしばらく経つ。当初は、このシステムで診療報酬を削ることなど一切ないとの触れ前だった。が、大多数の医療機関がこのシステムに移行したら、結局、コンピューターで自動的に「事務的なミス」を切ることをおおっぴらに、支払基金と保険者がやり始めた。

「事務的なミス」にはいろいろあるが、医療機関にとって我慢がならないのは、薬の「能書」に記されている適応症以外で薬剤を投与した場合、バッサリその診療報酬を切られることだ。その際には、薬局が受け取った指導料・処方料等々も医療機関が負担することになる。これについては、以前から公序良俗に反する手法だと考え、何度か記してきた。「能書」に記された適応症は、限られており、それ以外の病気に対してもある薬を用いるケースは往々にしてあるのだ。こうした機械的な査定を行うから、レセプトにはヘンチクリンな疾患名が並ぶことになる。

オンラインシステムという行政の医療費節減策を、自らコストを負担して実行した医療機関は、それによって行政に一杯食わされたのだ。行政にしてみると、医療機関は首に縄をかけ、思うが儘にできる家畜のように見えるのだろう。

で、最近知ったのが、VPNシステムの問題。オンライン請求のセキュリティを確保するVPNシステムを用いるために、医療機関は、設定料以外に、毎年2、3万円のメンテ料を支払うことになっているらしい。オンライン請求になれば、紙レセプトないし電子媒体レセプトを郵送する手間が省け、そのコストが削減できる、という触れ込みだったはずである。VPNのメンテ費用で、そのコスト削減は吹っ飛び、医療機関の持ち出しが生じる。まぁ、大した額ではないのだが、これにはおまけの話しがある。このセキュリティシステムを導入すると、「オンライン請求時」に、「健康保険証番号の間違い=大多数は旧健康保険証で受診したケース」を教えてくれるというのだ。

しかし、レセプトを作ってから教えられても、医療機関にとってはありがたくない。知りたいのは、患者が受診したときに、提出された健康保険証が有効かどうか、なのだ。ちびりちびりと医療機関からせびり取り、さらにオンライン請求の本当の利便性を医療機関に与えぬやり方に、開いた口がふさがらない。

私がこの話を知って、まず感じたことは、行政と、VPNを扱う電気事業者が、情報(健康保険証番号情報)を共有している、とすると、その電気事業者は、行政の天下りを受け入れている、という直感的な推測だった。詳細を調べる気もしないし、もう私には直接関係ないが、こうやって、行政は医療機関が得るべき正当な収入をネコババしているのだろう。行政は、昔から、健康保険証をコピーすることを、医療機関に厳しく禁じてきた。個人情報の保護のためという理由づけであった。ところが、こうやって、自らに都合の良いケースでは、健康保険証番号の情報を、電気事業者に与える。これは、おかしい。こうした行政の、やりたい放題にチェックを入れる組織はないのだろうか。

オンラインセキュリティにそんなに金がかかるものなのかねぇ?行政は、いよいよ専門医の資格認定、それにかかわる医師の人事事業・配置事業にも手をだすらしい。

こうやって、いよいよ、行政は、肥え太るわけだ。

フィルムスキャナー 

フィルムスキャナーを手に入れた。昔撮った写真のネガをデジタル化するためだ。

ありふれた表現になるが、昔懐かしい画像が、ディスプレー上にぽっと出現する。耐えられぬほどの懐かしさ。

子供たちに最善を尽くしたか。生命の流れを絶やさずに、のちの世代にきちんと受け渡すことに最善を尽くしたか。問いかけは、いつまでも続く。

次男が三歳位のころ。「はーい」と言っている。


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日本維新の会、西田譲議員の質疑 

日本維新の会の西田譲議員の国会質疑の模様。

こんな人物が、国会議員になれるとは驚きである。ネット情報では、トンデモ論客のトンデモ見解を鵜呑みにして、自説をぶち上げてるようだ。

福島の浜通り、避難せざるをえない地域に住むのは、問題がない、ということらしい。

避難区域では、まだまだ高線量が続き、これからは内部被曝が問題になるはずだ。山野に降った放射性物質が、里に流れ来るのもこれからだろう。

何のために、このようなトンデモ質疑(というか、独演会)を行うことにしたのだろうか。住民のことを考えてのことではなさそうだ。脱原発を志向する人々に敵対し、さらに避難を余儀なくされている人々への補償を減らすことによって利益を上げる勢力、党派へのエールなのだろうか。この思い込みの激しさは薄気味悪くさえもある。

日本維新の会は、その時その時で、自らに有利になるように、主義主張をカメレオンのように変える、無脊椎動物のような政党だ。本質は、超保守主義であり、グローバリズムを是とする、烏合の衆だ。



以下、新聞報道、Youtue画像、それにネットにあった、彼の主張のまとめを引用する。

「低線量セシウムは人体に無害」 維新・西田議員が質問

朝日新聞デジタル 3月13日(水)21時32分配信



 日本維新の会の西田譲衆院議員は13日の衆院予算委員会で、福島第一原発事故の放射能汚染について「低線量セシウムは人体に無害。医学を無視し、科学を否定する野蛮な『セシウム強制避難』を全面解除すべきだ」などと質問した。

 西田氏の質問に対し、党所属議員の事務所などに抗議があったため、小沢鋭仁国会対策委員長らが対応を協議した。党執行部は西田氏の質問内容を詳細に把握していなかったという。

 西田氏は原発事故で飛散したセシウムは「線量は微量だ。個人の外部被曝(ひばく)線量は年間実績でわずか数ミリシーベルト。しかし、これまで進められてきた政策を振り返ると、あたかも日本経済の発展を阻害すべく、反原発を宣伝する手段として、反医学的な福島セシウム避難を考案し、実行したように思われる」とし、被曝の影響は「問題にならない」と主張。安倍晋三首相に避難者の即時帰宅を認めるよう求めた。

 除染についても「セシウムしかない福島県でなぜ除染が必要だと考えるのか。住民を排除して民間業者に委託する。何らかの政治的意図から採用したとんでもないやり方だ」と持論を展開。民間業者による農地の除染について「田畑を破壊する。農作物、特に稲にとってセシウムの被害はほとんど考慮に入れる必要はない」と問題点を指摘した。





1.福島第一原発事故では、原子炉からではなく、建屋の爆発から微量なセシウムが飛散した。しかも、広範囲に飛散したのはセシウムのみで、ストロンチウムもプルトニウムも 広範に飛散していない。
2.飛散したセシウムは微量で、個人被曝線量は、年間数mSvである。
3.外部被曝線量は空間線量の約10分の1であるから、問題とするような数値ではない。
4.低線量セシウムは人体に無害で、ベータ線は皮膚で遮断されており外部被曝の問題にならない。また、内部被曝は生物学的な半減期が短く、結果、ほとんど短時日に消えてし まう。
5.従って、除染の必要はないので、無駄な除染をやめて避難している人をもとに戻すべきだ。
6. 福島の除染や住民の避難は放射線医学の多くの専門家が、医学無視の暴挙と言っている。

CW受信についてのノート 

CW受信についてのノート

CW受信プロセスでは、受信された信号が、受信者の聴覚から中枢へ信号が伝達される過程で以下のように変化する。

符号>文字>単語>文章>意味

但し、これがあたかも流れ作業のように、一方通行の同じ順序で行われるわけではない。意味を取るのは、正確には、単語のレベルで行われる。ここで意味というのは文章全体の意味を指す。

単語を取るときには、意味を即座に理解し、それがそこまでの文脈で適切かどうか、妥当かどうかを判断する。さらには、それまでの文脈、さらに現在進行する文章の途中までの理解から、そこで発せられるであろう、単語を推測する作業も行っている。いわば、ポジティブフィードバック。

また、時によっては、文章全体の意味を把握した時に、特定の単語の理解が誤っていたことを把握することもある。いわば、ネガティブフィードバック。

各時点で連続するフィードバックの輪によって、理解が進むとも言える。

このプロセスについてのいくつかの誤解について記しておく。

会話と同じはずだから、単語の流れを一塊として理解する、という考え。会話は、文字ベースではないのと、CW受信が読むことと相同であることから誤りである。確かに、会話では単語・文章を構成する文字は意識に上らず、音であらわされた単語・文章によって行われる・が、CWでの会話は、あくまで文字が基礎となっている。

単語を「一塊」として受信するという考え。この場合、一塊とは、短点長点の集合としてとらえるという意味だ。これも、頻用される幾つかの単語で、例外的に意識されることがあるが、意識に上るだけであって、意味を理解する流れには関係しない。

QRQになると、単語単位で意識される(だからQRSの段階から単語単位で訓練する)という考え。QRQでは、確かに、文字単位では意識されないが、意識されないから、それを感知していないということにはならない。あくまで文字を基本とする通信手段なので、文字から単語への流れは、認識過程に必ずあるはず。だが、意識に上るのは、単語単位になる、ということ。

最後に、実地練習がやはり一番だ。理論は、実地訓練過程で壁にぶち当たったり、振り返ってどのように受信しているのかを理解するためには有用だろうが、最初に完璧な理論武装をしようとすると、本末転倒になりそうな気がする。

病院は、社会的なインフラ 

福島県のある老人病院で震災時に患者を置き去りにしたという誤報が流され、その病院スタッフがマスコミに叩かれた。その後、その誤報の原因が、行政の瑕疵と、さらにマスコミのバイアスであることが判明した。が、その後きちんと訂正・謝罪報道がなされた様子がない。

医療機関は存在し続け医療を行い続けるのが当然であり、自然災害等でも医療従事者は自己の危険を顧みず医療活動を続けるのが当然だという、社会的な暗黙の合意があるかのようだ。この考えは間違っている。医療機関は災害に特段強いわけではなく、そこで仕事をする医療従事者も、普通の社会人である。それが、社会にとって都合よく、医療機関は災害には強く、医療従事者は社会のために自らを犠牲にするのが当たり前だとする風潮があるのだ。それは是非改めなければならない。そうしないと、災害のときに、国民自身が医療を受けられぬことになる。

さらに、医療機関が持つ社会的機能が守られるべきなのは災害だけではない。医療をただ利益追求の草刈り場にしようという、市場原理主義からも守られるべきだ。そうしないと、医療が国民の手の届かぬものになる。医療を市場原理に任せて、効率と利潤を最高にすべきだという主張は、医療の成立根拠を根底から危うくする。


以下、引用~~~




倫敦通信(第6回)~病院:ネグレクトされる社会インフラ

星槎大学客員研究員
インペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院客員研究員
越智 小枝(おち さえ)

2013年3月16日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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2か月間お世話になりました相馬中央病院を離れ、現在ジュネーブにあります世界保健機関(WHO)本部で、4か月のインターンとして研修させていただいています。

きっかけは、ロンドンでお世話になっているVirginia Murray教授が突然、
「私今からWHOに行ってくるけど、あなたインターンやってみる?」
と言い出したことにあります。数日後帰ってきたときには本当に話が決まっていた、という冗談のような話ですが、運と縁と恩は大事にしていきたいと思った一件でした。

WHO本部は物理的にも社会的にも、現場から最も遠い医療機関です。しかし面白いのは、ここのスタッフが常に
「ジュネーブで現場を議論してもしょうがないよ。」
と言っていること。彼らもまた、現場からの距離感にもどかしさを感じているようです。なるほど、現場→役所だけでなく役所→現場という情報においても、数値化・公文書化される中で色々なものが失われてしまうのだな、と感じました。以下はその1例としての雑感です。

私がインターンをさせていただいているのはEmergency Risk Management(災害危機管理部門)という所で、勤務内容は主に5月に行われる国際プラットホーム(1)の準備のお手伝いです。その中で、「Hospitals Safe from Disasters(災害に強い病院を)」(2)というものに主に参加しています。

このプロジェクトの理念について簡単に説明させていただくと、
・災害時、医療は災害対応の中心に据えられるべきである
・全ての災害医療の中心は被災地にある医療機関を中心に行われるべきである
・そのためには被災するリスクのある全ての医療機関は災害から守られている必要がある
というものです。

並べてみると当然のようですが、この活動はあまりメジャーではなく、意外なことに日本とのつながりも殆どないようです。その理由として、この2週間で少し分かってきたことがあります。
1.WHOなど医療の分野では、災害はマイナー分野であること。
2.逆に世界の災害専門機関、例えば国際防災戦略(ISDR)などにおいて、医療はあまり重要視されていないこと。
3.災害医療の関係者の間では、病院機能を保つことは、ほとんど話題にのぼらないこと。
4.特に日本では、災害対策は万全なので世界と比較しても仕方ないと思われていること。

例えば2005年にISDRが出したHyogo Framework for Actionという災害対策のフレームワーク(3)では、医療・病院に関してはほんの数行しか述べられていません。また他の機関では、「災害の時には病院なんかより子供たちのいる学校を守る方が大事じゃないか」という意見の方もいらっしゃいますし、逆に安全な病院、というと病院という建物の耐震構造のみを語るエンジニアもいらっしゃいます。

今の上司のジョナサン・アブラハム氏は、こういう議論の後には
「病院がなかったら子供だって救えないんだ!」
と、かなり大きな独り言をつぶやいています。(飲み屋でグチる日本人との文化の違いを感じます。)
彼はまた、
「学校が『学校』という建物ではなく『教育の機会』を指すのと同じで、病院は建物でも病気の為の場所でもなくて『社会に健康を提供する機会』なんだ」
ということを熱く語っています。

しかしこのように、病院を社会のインフラとして見る方はあまりいないようです。例えばですが、日本が国としてこのようなプロジェクトに力を入れるには、
1)世論が高まる 
2)有力者からの働きかけがある 
3)使わなくてはいけないお金が余っている(あまりあり得ませんが) 
のどれかの条件が必要なようですが、病院の災害対策というのは、社会の関心も低ければアカデミア・医療関係者からの要望も低い部分なので、国として力を入れるには魅力のない分野なのでは、という意見も伺いました。

しかし例えばですが、ある災害で50人の村につながる橋が落ちたとします。すると、「全国の橋の耐震構造を強化しなければ」という世論は比較的容易に広まるでしょう。しかし、震災時に50床の病院の1つが閉鎖した時に、何故「全国の病院の災害対策を強化しなければ」という運動にはつながりにくいのでしょうか。

実際に東日本大震災では、被災3件の380の病院のうち300がダメージを受け、11件が全壊、84の病院が震災直後に機能を停止しました(4)。更に復興庁の調査では、災害関連死と認定された1,950例のうち、「病院機能停止による既往症の増悪」は283件、その他の初期治療の遅れを合わせると300人以上の方が、医療機関へかかれなかったことにより亡くなっているのです(5)。未曾有の震災であったから仕方ない、と言ってしまうには大きい数字ではないかと考えます。

先ほど触れました、「病院は社会のインフラである」という言葉は、実は相馬市長が言われていたものをそのまま流用させていただいたのですが、正鵠を射た言葉だと思います。電気や水が断たれるのと同様、医療が断たれることは大勢の死につながります。それは何も「病人」という特殊な人間にとっての問題ではなく、持病がある方や風邪を引いた方のような、「一般の」方々にとっても深刻な問題なのです。この当たり前のことが世間ではあまりに認識されていないと思います。

更に医療関係者の間でも、「災害医療」とそれを支える「病院」とを関連づけて考えていない場合もあります。そして、これが重要なことですが、この病院という一括りの単位の中には、病院スタッフと患者、という要素が組み込まれていること。これはほとんどの場合意識されていません。

病院スタッフが災害時に最後まで現場に留まる事を、社会は無意識に要求しています。今回の震災では病院関係者が時に英雄に、時に罪人に仕立て上げられました。しかし病院は他の会社と同じく複雑な集合体であり、個人の頑張りでは支えられない、あるいは支えてはいけない組織です。例えば医療事務・厨房・安全点検管理・清掃・リネン・在庫管理・救急車両の運用・物流etc.、突き詰めれば社会の機能そのものが病院機能に直結しています。そして災害弱者である患者さんを大勢抱えている病院という組織は、どの部門が欠けても、長期に機能を保つこと、ましてや災害後に増加した患者さんに対応することは不可能です。先ほどの例えになりますが、橋が崩れかけた時、橋を作ったスタッフが命を懸けて橋を支えるなどということはありません。むしろ個人がそんなことをしようとすれば笑われるだけでしょう。これを病院に当てはめると、私の申し上げたいことがお分かりいただけると思います。

それでも、病院は復興・支援の優先順位の上位にはこないだろう、というのも事実です。個人的な意見を言えば、医療や病院がコミュニティを差し置いて「単独で」優先事項の上位に立つ、ということには反対です。しかし、復興活動や支援活動、教育活動の全ての活動はどこかで必ず医療というシステムにつながっていて、その足元には道路と同じように、健康へとつながるインフラとして医療機関やそのスタッフがいるということ。このことを、健康な全ての人に認識していただければいいな、というのが、WHO勤務2週目の感想です。

参考文献
(1) http://www.preventionweb.net/globalplatform/2013/
(2) http://www.who.int/hac/techguidance/safehospitals/en/index.html
(3) http://www.unisdr.org/we/coordinate/hfa
(4) http://www5.cao.go.jp/npc/shiryou/goudou/pdf/3.pdf
(5) http://www.reconstruction.go.jp/topics/240821_higashinihondaishinsainiokerushinsaikanrenshinikansuruhoukoku.pdf

略歴:越智小枝(おち さえ)
星槎大学客員研究員、インペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院客員研究員。1999年東京医科歯科大学医学部医学科卒業。国保旭中央病院で研修後、2002年東京医科歯科大学膠原病・リウマチ内科入局。医学博士を取得後、2007年より東京都立墨東病院リウマチ膠原病科医院・医長を経て、2011年10月インペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院に入学、2012年9月卒業・MPH取得後、現職。リウマチ専門医、日本体育協会認定スポーツ医。剣道6段、元・剣道世界大会強化合宿帯同医・三菱武道大会救護医。留学の決まった直後に東日本大震災に遭い、現在は日本の被災地を度々訪問しつつ英国の災害研究部門との橋渡しを目指し活動を行っている。

紅梅 

両親がかって住んでいた離れの南側に紅梅が一本植えられている。その花が満開だ。

父が20年以上前に植えたものだろう。その香りと、可憐に華やぐ美しさに、春の到来を改めて知らせるかのようだ。我々が、こうして春ごとに、この紅梅の開花を待ち望み、そして咲き誇るさまを楽しみにすることを父は予測していたのだろうか。

家族も一人また一人とここを去っていく。やがて、我々夫婦だけになるのだろう。家内が望んでいた、花壇とデッキを、近くの業者に依頼した。あとせいぜい20年程度しか、ここで生活することはないだろうから、今のうちに、楽しめることを実現させてあげたいと思ったのだ。

毎年同じように春は巡ってくるが、内実は決して同じではない。

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単語から文章へ 

昨年秋始めた、CWについてのメーリングリストで、いろいろな方と様々な議論をさせて頂き、いろいろと教示頂いている。最近、ある方から、単語は(暗記)受信できるのだが、文章の受信(理解)につながりがたいということを伺った。

それに対する、私の応答は、以下のようなものだった。

CW受信のプロセスが、文字で読むことと相同、ないし近似の現象であるとするならば(この仮定は、すでに論文になっており、このブログでも紹介済み)、英語を読む際に、単語は分かるのだが、文章理解につながらないということなのだろう。

受験時代に、単語帳で単語を詰め込んだが、長文読解の成績が上がらぬ、という良くあるパターンである。英語の専門家でもない私が言うのだから、話半分に読んで頂きたいのだが、この壁を突き抜けるために必要なことは、平易な文章を速読することなのではないだろうか。

文章を読み進めて行くときに、文章の構造を、ほぼ直感的に把握し、さらにそれまでの文脈を参考にして、その文章の意味を短時間のうちに(というか読むと同時に)把握する、という訓練だ。CW交信で送られてくる文章は、留まっていない。すぐに意味をとらないと、過去の時空のなかに消えてゆく。

繰り返すと、そこに至る文脈から、そこで議論されていることを推測すること、さらに同時に文章の構造を直感的に把握する力を養うことだ。往々にして誤解されるのは、英文法の詳細な知識をもとに、文章を解析し、そのうえで正確な訳を行うという行き方だ。これは、英文学や、大学受験の英語では必要になるのかもしれないが、それほどにsophisticateされた英語は、普段使われない。また、nativeが良く用いるslangなども、知っていればそれに越したことはないが、普段の交信では不要だ。分からなければ聞けば良いだけ。ある単語が、文脈全体を理解するうえで必要なものかどうかを判断できれば十分だ。

誤った訓練は、専ら送信をモノローグで繰り返すこと、それにCWの音の塊として単語を取れるようにすることといったことだ。基本は、平易な文章を即座に読めるようにすることだ。

と、以上は英語の素人の戯言である。

TPPは、社会的共通資本を破壊する 

今夕、安倍首相が、TPP交渉参加表明を行い、その様子がテレビで放映されていた。

交渉中のTPPの内容は、明らかにされていない。が、その大半が、国の在り様に関わる制度の問題だという。単なる関税自由化は、問題のごく一部に過ぎない。

特に社会的共通資本である、医療・農業・教育等ではグローバリズムの掛け声のもと、規制が撤廃される。自国に固有の文化であるこうしたシステムが、米国流のやり方に強制的に変えられることになる。こうしたシステムは、わが国固有のものであり、市場経済化することにはなじまない。

農業は、その生産手段が移動不可であり、固有の自然環境、歴史的条件によって成立している。また、農業は、国民の生命に直結する産業であり、自国民の防衛に一義的な意味を持つ。日本の農業は、1952年に成立した農業基本法のもと、大規模化が推奨されてきたが、その結果は、現在の衰退だ。下記の現政権が推し進めるであろう「強い農業」即ち農業の大規模化、株式会社化が、日本の風土・歴史からうまく機能しないことが、すでにこの農業基本法による施策の失敗によって示されている、という。

TPPによって、わが国の社会的共通資本がことごとく破壊されようとしている。これは、米国にしか目を向けられぬ官僚と、GDPの20%を生み出すに過ぎない輸出大企業にしか目を向けない現政権の仕業である。



以下、引用~~~

日経・CSIS バーチャル・シンクタンク 第2部会
今後の通商政策に関する提言
2011 年11 月30 日

http://www.csis-nikkei.com/doc/%E9%80%9A%E5%95%86%E6%94%BF%E7%AD%96%E6%8F%90%E8%
A8%80.pdf

1.21 世紀型貿易システムに関するルール・メーカーになる。
21 世紀型貿易では、企業による国境を越えた生産工程間の財・投資・サービスの双方向の取引が中心であり、TPP で交渉されているパフォーマンス規制の禁止などの投資ルール、加盟国の取締規定を定める知的財産権などのルールが21 世紀型貿易ルールのスタンダードになる。日本企業が継ぎ目のないグローバル・サプライ・チェーンを構築し、さらには、卓越した技術を持つ国内の中小企業が世界に飛躍する道 を開くためには、日本がTPP 交渉に参加して21 世紀型貿易のルール作りに加わらなければならない。同時に、日本がTPPに参加して、望ましい21 世紀型貿易ルールを作ることで、インド、中国などの成長新興国がルール・ベースの21 世紀型自由貿易体制に加わるよう促すことができる。

2.環境・エネルギー・食糧安全保障の観点からも多角的な自由貿易体制を強化する。

3.若者が担う強い農業を創る。
高関税による保護の下、日本の土地集約型農業は、農地の集積が進まないために生産性が低く、高齢化と新規就農の減少により担い手が不足し、衰退しつつある。貿易自由化を契 機として、国内農業の構造改革を行うべきである。農地の転用許可の厳格化、農地利用権の信託制度の整備・証券化などにより、農業の担い手である大規模農家、農業法人、集落 営農へ農地を集積し、生産性を高める。同時に、価格支持政策から農業の担い手に集中した所得補償政策へ転換し、農地についてのリバース・モゲージによる高齢農家の終身年金 制度など農家の痛みの緩和と退出を可能にするセーフティーネットを整備し、若者の新規就農を促進することで、農業の担い手を育てる。さらに、貿易自由化を通じて、日本の高 品質な農産物への潜在的な海外の需要を取り込み、若者にとって魅力ある強い農業を創る。

近未来の救急医療 

2013年、TPP交渉にようやく参加できたわが国は、201*年に晴れてこの地域内貿易協定を批准することになった。政権与党の公約(もうマニフェスト等と言う時代遅れな用語は死語になっている)通り、批准後公的保険はそのまま残った。だが、先進医療はすべて自費となり、重大な病気、慢性の経過の病気にかかると、自費分が増え続けることになった。国民の多くは、私的医療保険に加入しようとしたが、収入の限られた人々、老人、すでに慢性疾患等の診断を受けている人々には、その保険料はとても支払える額ではなかった。

医療保険に入れない人々は、急性疾患にかかったときには、救急車を呼ぶことが多かった。が、元来救急医療は、保険診療上赤字になるようになっていたことと、医療訴訟の頻度が増えて行ったことから、救急病院は減少の一途をたどっていた(これはすでに事実)。救急出動にかかるコストが膨大となり、財務省は、何とか救急医療のコストを下げる算段をしようとしていた。そこに、米国の医療資本が日本での救急医療活動への参入に向けて動き出した。同資本は、その参入に、公的な救急事業が障壁となると判断した、彼らは、TPPのISD条項に則り、参入障壁を設けて新規参入を障礙しているとして政府を訴えた。財務省・政府は、その訴訟に勝ち目はないとし、また内心は医療費削減を実現できる、渡りに船と考えて、公的保険による救急医療活動から撤退、その医療企業のわが国の救急医療活動への参入を認めた。

その結果、救急車を利用するたびに、ベラボウな金額のコストがかかることになった。救急車を利用するには、救急隊にまず預金通帳を見せなければならなくなった。その結果、救急車の不要不急の利用は減り、さらに・・・。

という状況が、すぐそのまで来ている・・・。



以下、引用~~~



12年の救急出動580万件 3年連続で最多更新
13/03/11
記事:共同通信社
提供:共同通信社

 2012年の全国の救急出動が前年比1・7%増の580万2039件で、3年連続で過去最多を更新したことが、総務省消防庁の速報値で8日、分かった。同庁は高齢化が進み、急病のお年寄りの搬送が増加したとみている。

 全国790消防本部のうち、出動件数が増えたのは521本部だった。増えた理由を複数回答で尋ねたところ、急病人の増加を挙げた本部が70・8%、高齢者の増加が66・8%に上った。軽症で救急車を呼ぶ不適正な利用を指摘したのは21・5%だった。

 件数が減ったのは268本部。減った理由(複数回答)に市民への適正利用の広報を挙げた本部が41・4%で最多だった。

 都道府県別では岩手、宮城、福島、茨城、宮崎の5県が東日本大震災の影響などで伸びた前年を下回ったものの、ほか42都道府県で前年を上回った。増加率が最も高かったのは三重県の4・6%、北海道が3・8%で続いた。

 救急搬送した人数も前年比1・3%増の524万9088人となり、3年連続で過去最多を更新した。

3月11日を迎えて 

今日は、東日本大震災から2年目。当時の私の経験と思いの一端を思い出して、英文ブログに記した。圧倒される出来事であったことは間違いがない。こちらにもかいつまんで、感想を記しておきたい。

当日、しばらく目の調子が悪かったので、近くの眼科に昼過ぎにでかけ、診て頂いたところだった。年齢からくる白内障と診断され、少しがっくりきたような、深刻な問題ではなくて安堵したような心地でいた。窓口での支払いを終えようとしたとき、その揺れが突然やってきた。ものすごい地鳴りだった。そして、大きな横揺れ。見える範囲では、室内のものが倒れたり、棚からものが落ちたりはしないようだったが、受付の方などは立っていられぬ様子で、悲鳴を上げ、床にしゃがみ込んでいた。揺れが収まりかけたところを見計らって外に出てみた。電柱がゆらゆらと揺れていた。自分の仕事場に戻ると、スタッフが全員駐車場でうずくまっていた。玄関のガラスは割れ、カルテ棚からカルテがすべて落ちていた。二階の自室に上がると、足の踏み場がなくなっていた。本棚は倒れ、テレビは落ち、チェロがその下敷きになっていた。交流電源は落ちており、水道も使えず。患者も殆ど来なかったと思うが、来院した数名の患者には薬だけをだしたのだったと思う。

暗くなる前に自宅に戻った。自宅の中も、落下物で散乱していた。食器が棚から落ち、ガラス製の品は悉く割れていた。離れの瓦が落ちていた。夜は、トランジスターラジオに耳を傾けて過ごした。水道は2,3日出なかったが、電気は翌日夜には通じたのだったと思う。テレビで繰り返される津波による惨状と、刻々と深刻さを増す原発の状況を、何もする気力がわかない状態で見つづけた。ネットに接続できるようになると、世界各国、とくに米国の友人たちから見舞いのメールが届いた。その一つ一つが心情のこもったもので、涙なくしては読めなかった。1週間ほどして、無気力な状態から脱することができ、無線機を床に並べて運用し始めた。無線機も机が壊れて、床に無残に落ちていたのだが、きっとゆっくり落ちたためか、機能的には問題がなかった。多くの友人から呼ばれ、現状を報告した。中には、これから日本に救援に向かうまで言ってくださる方や、家を開放するから来るようにと言ってくださる方もいた。

結局2万人以上の方が亡くなった津波の被害も甚大だったが、福島原発の事故の進展は、この地域ではまさに自らが関わる事故だった。次男が、原発から60km西の福島にいた。我々の住処も、原発から南西に120kmしか離れていない。原発の爆発時に、SPEEDIによる予測を公表しなかった行政の隠ぺい主義は、今後ともに糾弾されるべきだろう。水戸にある茨城県立小児病院では核医学施設のアラームがしばらく、鳴り続けていたと報告されている。原発事故により飛来した放射性元素による反応だったのだろう。放射能プルームは、飯館村方面北西方向と、海岸沿いに南下したと言われている。原発爆発後2週間程度の各地での被曝状態の記録が残っていない。折しも、福島県当局は、各地での原発事故直後の被曝記録を削除してしまった、と先日公表した。この最初の外部被ばくによる、小児への影響は、今後とも慎重に観察し続ける必要がある。

丁度放射能プルームが当地を過ぎ去る頃、私は、必死になって草むしりをしていた。何かへの怒りをぶつけるかのように。その後の政府、地方自治体の対応には、疑問となることが多い。特に、原発については、この事故により、重大事故の場合には対応不可能になることが明らかになったわけだから、原則廃炉にすることという結論になるべきはずだ。だが、発電コストの問題等から、原発発電を何とか続けようとする蠢きが、政財界ではまだ見られる。時が経つに従い、それはよりあからさまになってきている。パラダイムの変換が必要とされるのに、である。

だが、この災害は、私自身の生き方にも大きな変化を要求してもいるのだろう。1万5千人nの方々がまだ避難生活を余儀なくされ、そのなかのかなりの方が故郷を失おうとしている。想像に絶する負担と悲しみなのだと思う。それをどのように受け止め、自らの生き方に反映させてゆくのかが重く問われていると、痛感している。

しっかりした土台に立って 

過日、ネット上某所に、福島県の小児に3例の甲状腺がんが見つかったという報道に関しての記事があった。小児での甲状腺がんは、極めて頻度が低く、罹患率では100万人に一人程度になるらしい。なので、この福島での有病率は異常と言えるかもしれない。が、罹患率と有病率を比較し、年齢等も考慮しないのは、問題があるだろうと思った。この現象が、原発事故に伴う放射性ヨードの子供たちへの影響である可能性もあるとは思うが、そう結論付けることは科学的には不十分だというのが感想だった。政府・福島県は、適切な統計的検討を加え、事実を早急に明示すべきだ。一方、反原発の立場の市民運動も、科学的に処理さされていない数値だけを取り上げて、プロパガンダのように扱うのは、得策ではない。それでは、後で足をすくわれる可能性がある。

下記のMRICに載った社会システムデザイナーという方の文章には説得力がある。科学的、学問的に言えることとそうでないことを峻別し、さらに社会のなかのシステムとして原発問題を根本的にとらえている。何が分かって、何が分からないのか、をきちんと区別して、しっかりした土台に立って、議論してゆきたいものだ。原発問題は、まだ終わりどころか、始まったばかりなのだ。

福島県では、まだ15万人の方が避難しており、内5万人は県外で生活をされているらしい。そうした方々のご苦労を思うと、こうした事故は決して繰り返してはならないと今も痛切に感じる。忘れてはならない。あと一週間ほどで、二回目のあの日が巡ってくる。


以下、引用~~~


国会事故調で言う『人災』とは何か(その1/3)

社会システム・デザイナー
横山 禎徳

2013年3月8日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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この講演録は2012年11月7日に学士会館でおこなったマッキンゼーMBI(マルチナショナル・ビジネス・インスティチュート)の同窓会での講演を基に加筆修正したものである。最終的には「社会システム」の視点からの「原発システム」のデザインを目指しており、その途中経過である。今後も加筆、修正することがありうる。(2013.2.18)

《講演概要》
■国会事故調と『国会事故調報告書』について
「事故調」というのは、「政府事故調」、「国会事故調」、「民間事故調」、「東電事故調」があり、そして大前さんの「一人事故調」があります(笑)。それぞれの立場があると思いますが、「国会事故調」は国会に委託された作業であり、その先に国民がいる、ということです。
それで、「国会事故調」は他の「事故調」とどこが違うのかというと、「国会事故調法」という法律が特別に作られたことです。法律に則ってやり、法律に書いてあることしかできません。良い面と悪い面があります。その法律には、第12条に「請求権」というのがあり、資料の提出を要求することができ、当該要求を受けた者はそれに応じなければいけません。
また、第15条には「国政調査権」というのもあります。「国政調査権」は国会事故調が発動するのではなく、国会に行って国会が発動するもので、実際には「国政調査権」は使いませんでした。第12条の「請求権」はかなり使いました。東電の資料は、見なければいけないものはまず全部見たと思ってください。持ち出し厳禁の資料は、東電の部屋を借り、担当のチームが全部見ました。ビデオも全部見ています。
電事連(電気事業連合会)にも、「資料を出してくれ」と要求しましたが最初は拒否され、結構もめましたが、最終的にはこの「請求権」を行使して、原発に関係ない記録以外は全部出していただきました。
そういう意味では、かなりの資料を見ましたし、考えられる関係者にはほとんどインタビューしました。例えば東電でかなりの被曝をした社員が数名いましたが、彼らにもインタビューしました。
このように、最も幅広く、普通出さない資料も出してもらったということで、かなり網羅的に調査できたと思います。その結果が『国会事故調報告書』です。
『国会事故調報告書』は、委員長の黒川清さんの「はじめに」を含めて英語に全訳されたのですが、この「Preface」中に「この事故はJapanese Cultureだ」、「Made in Japanの事故である」と訳されました。彼の意志なのかどうなのか、"Japanese Culture"と"Made in Japan"という表現は日本語版にはありません。
私は作業が終わってアメリカにいたときアメリカ人と話しをしたら、「ちょっと自己憐憫がひど過ぎるんじゃないの?」、「何でそこまで言うの?」と言われました。ジェラルド・カーティスという日本にいるアメリカ人の政治学者がいますが、彼は「原因が日本のCultureだったら何も変えられないじゃないか。Cultureのせいにするな」と『Financial Times』で批判しています。
“Made in Japan”というのもおかしな話です。あるアメリカ人は「原発事故の原因を“Made in Japan”だと言うんだったら“Made in USA”も同じだよ。“Made in France”も多分同じだろうし、“Made in Korea”もそうじゃないの。皆、隠蔽体質なんだよ、この原発分野は」と言いました。だから、“Made in Japan”というのもあまりいい表現ではなかったと私は思います。
私は、「社会システム」の問題だと思います。つまり、文化は変えられないが「社会システム」 だったらそれを自国の文化に沿って作り直せばいいのです。何でそう言わないのかな、と私は思ったのですが、私の専門である「社会システム・デザイン」という考え方は他の委員には受け入れられないようなので、委員会で主張することはやめておきました。しかし、本日は「社会システム・デザイン」的な観点から原発の問題をお話しします。それはこの「国会事故調」、あるはその他の事故調の報告をうけて、今後、日本としてどういうステップで原発という課題を議論し、意思決定すべきかを考えることにつながると思うからです。

■はじめに
「国会事故調」の設置は「憲政史上初めての試み」であり、これが先例になって電力業界だけでなく、日本の政治と行政のシステムに新たな動きが出てくるきっかけになることを期待していました。黒川さんもそれを期待していたと思います。そういうことを通じて、日本のこれからの色々なものを決めていくやり方の変革のきっかけになれば、と期待しておりました。しかし、「国会事故調」の作業結果について議論が広く巻き起こらないまま、すでに風化が始まっています。
私は原発とはシステムとしてとらえるべきだと思います。「原発がシステムだ」ということは当たり前じゃないかと思われるかもしれませんがそうでもありません。みんなが思うような意味での単なる技術的システムというだけでなく、それを理論構築し、設計し、組み立て、運営する学者やエンジニア集団の経営管理システム、そのような人々を育成、訓練するシステム、そして、原子力分野の全体的枠組みを決める政治の政策決定システム、安全第一を最も重視した危機管理システム、重大事故対応システム、住民避難システム、住民健康管理システム、それらを支える法体系というシステムなど、あらゆるシステムの組み合わせなのです。その多くは人的システムです。その人的システムに問題、もっと言えば欠陥があった。そういう視点から国会事故調は今回の事故を「人災」だとしたわけです。少なくとも私はそう考えています。
だから、例えば、「原子炉が地震で壊れたかどうか」ということだけ、言い換えれば、ハードウェアに必要以上にこだわった議論は、極めておかしいと思います。地震で「全交流電源喪失」したということになり、残っているのは全く多様性のない並列配置の非常用電源一系統に頼るしかなくなるようなデザインであったということ自体、あの原発は先ほどのべたような意味での「システム」としてもう駄目だった、ということなのだと思います。これは「原発システム」のシステム欠陥としてとらえるべきなのです。
他にも色々な欠陥がありましたが、全てGEの設計のせいにする訳にはいかないと思います。原発完成後も、新た技術的知見を基に、日本の状況に合わせて改善、改良する時間は約40年と十分あったのですから。そのような意思決定をする「システム」が機能していなかったということです。
過去見てきたような部分的対応では不十分であり、先ほどのべたような定義での「システム」全体としての対応が必要です。このような状況を徹底的検証することなく放置すれば、これまでの「原発システム」という、時代に合わないだけでなく、多くの欠陥も含んでいる日本の「社会システム」に何の変化も起こらないまま、この「憲政史上初めて」の試みは風化し、消滅しかねません。
そういう状況を避けるために、今回の「国会事故調」としての結論を変えるというのでは全くないのですが、「社会システム・デザイナー」として、『国会事故調報告書』を「社会システム・デザイン」的視点から組み立て直し、今ここでやる気になればちゃんと改善できる、日本の「社会システム」的課題として改めて提示することはできないかと考えています。
まずその前に、私の考える「社会システム」及び長年開発してきた「社会システム・デザイン」のアプローチとは何かについて簡単に説明しておきます。世間では「社会システム」という表現が、定義のあまりはっきりしていないまま結構使われていますし、まして、それがデザイン可能とも思われていないようなので、ここで私の通常使っている定義をしておきます。
「医療産業」と「医療システム」は違いますね。「医療産業」というと、銀行や保険会社は入りません。まして建設会社も運輸会社も入りません。IBMもマイクロソフトもグーグルも入りませんが、「医療システム」というと全部入ります。ですから、産業間の「横通し」、すなわち、伝統的な「産業」という縦割り、縦糸に対する横糸というのが「システム」ということです。何のために「横通し」するのかというと、「消費者、生活者に対して価値を創造し、提供する」ためにやる。それが私の定義する「社会システム」です。
そのように定義すると、それはデザインすることが可能です。ここでは詳しくは述べませんが、デザインの方法論も長年開発してきました。その方法論を簡単に説明すると、
1.対象分野に内在する「悪循環」を発見して定義する
2.その状況を変える「良循環」を「悪循環」の裏返しでなく、新たに発明・創造する
3.それを「駆動」するサブシステムを複数抽出する
4.サブシステムをアクション・ステップに分解する
5.サブシステムを複数層に分け、具体的に細かく記述する
という5つのステップからなるアプローチを使います。そういう視点から、私は、「国会事故調」での自分の持ち分の作業をしました。
私が崎山委員と共同でやってくれと言われたのは被災者のところです。被災者の問題については被ばく、除染、健康管理、食品汚染など短期、中期、長期のありとあらゆるテーマをカバーしました。その中で、事故発生直後は被災者にとって情報入手が大きな問題でした。
「通信回線が断絶した」、「情報が繋がらなかった」などから、「政府がこういう情報をタイミングよく提供しないままだった」、「県庁が混乱し、情報提供できるような状況になかった」というような話までたくさんありました。私はそれらの表現を「危機的な状況の時、どうするか、どちらに避難するかの行動判断のための情報がすぐに欲しかったが、県からも国からも手に入れることができなかった」というように私の担当部分はチーム・メンバーに頼んで全部書き直しました。
要するに、被災者の側からの等身大の視点で「何々が欲しいのに、それが手に入らなかった」という表現に変えたのです。「政府が提供しなかった」のではなく、「政府から手に入れることが出来なかった」というふうに、被災者にとってどう見えたのかという被災者視点にこだわっています。641ページの報告書を最後までお読みいただければ分かるのですが、多分お読みになることもないと思います(笑)。「そういうふうに書いてあるよ」ということを知っていただきたいと思います。

■国民の関心事について
まず、多くの国民が関心ある問題について、考えを述べておきます。それは、「放射能ってどういうことなの?どんなに怖いの?」ということと、「今の原発は大丈夫なの?」という二つの問題についてです。
“放射能”というのは放射線を物質が出すパワーのことですが、放射線というのは物質から出るので、衣服などについたその物質をパッパッパッパッと払ってやると衣服からは放射能は無くなってしまいます。何となくフワーッと空気中に放射能があるのではなく、特定の物質から放射線は出ているのです。

◎放射線汚染による人体の影響
放射線汚染による人体の影響は100mSv以下の場合、確率の問題であり、個人差があります。というか、あると考えられています。というのは100mSv以下の信頼できる被ばくの人体への影響データが無いからです。これがこの分野の極めて難しい問題なのです。
スリーマイル・アイランドの事故で、転んで怪我したような人はたくさんいるのでしょうが、少なくとも放射線の影響で死んだ人はいないのです。だから直接放射線の影響を受けたことによる因果関係が分かる統計データが無いのです。
チェルノブイリは、後で図をお見せしますが、巨大な規模の事故でした。だからフランスまで放射性物質は拡散したのですが、チェルノブイリの色々なデータは統計的に信用できないところがあるのです。統計学というのは専門性のある分野ですので、きちんとやらないと統計的信頼性が無いのです。
事故があったのは1986年で、ソ連邦の崩壊時期でした。しかも場所はウクライナとベラルーシの国境辺りなのです。被害は二つの国にまたがっています。従って色々なデータがしっかりとした形で取れていなかったようです。データを取っていたのは統計学的には素人です。その多くはお医者さんです。お医者さんは真面目に危機感を持って色々なデータを取っていて、「こういう影響があるぞ」ということを示す資料はたくさんあります。
私はチェルノブイリまで行き、現地のお医者さんにインタビューもし、議論もしました。そこで私は何度も「これはどういうデータ・ソースなのか。貴方たちが集めたのだったら、どうやって、どういうサンプルでデータを取ったのか」と聞いても、明快に答えられないのです。だから、間違っているとは言えないが、IAEA(国際原子力機関)がオフィシャルに使うという訳にいかないのです。従って、そういう意味での信頼できるデータが無いのです。
そういうことだとすると、今どのデータを使っているかご存知ですか?原爆を投下された広島と長崎のデータです。放射線の影響で多くの人が死んだのは広島と長崎だけだからです。チェルノブイリでもかなりの数の人が死に、また、健康被害を受けましたが、今述べたように、信頼できるデータがありません。広島と長崎ではABCC(原爆傷害調査委員会)がデータを取っていました。全部は公表されていませんが、アメリカによって設置され、のちに日本も参加した公的機関がきちんとデータを取っていたのです。そういうことなので、原爆と原発では状況が違うなど議論が分かれる部分が結構あるのです。
先ほど話したように、100mSv以下というのは、確実なデータがない状況ですが、基本的に放射線の閾値はなく、これ以下であれば人体に影響がないということはいえないというのが一般的理解です。従って、みんなが期待するような「これ以下だったら安全」という基準はだれも作れないのです。
「がんが発生するのでは」とよく言われますが、がんの発生確率は100mSv被ばくして30年後くらいに0.5%であるとされています。一方、日本人の癌死亡率は1000人に対し300人だから、それが305人になる、ということです。30年という長期だとその人の生活習慣からくる影響もあるでしょう。放射線の直接的影響かどうかは分かりにくくなります。100mSv以下の被ばくによる放射線被害の問題の深刻さは個々人の判断によります。

私は昭和17年広島市生まれだから原爆手帳を持っています。しかし、個人的には特に影響を感じていません。しかし、私の周りにはつらい話はたくさんあります。どのくらい放射線汚染が人体に影響を与えるかは、なかなか言い難いのです。個人差があるというのが一番大きな問題です。男女だと女性の方がなぜか影響されます。そして当然、若者、子供はやっぱり危ないのです。
それから遺伝的に放射能感受性が高い人が100人に1人程度いるのです。ある種の遺伝子欠陥で影響を受けやすい人がいます。こういうことがあるというのがどうして分かったかというと、やはり広島と長崎のデータ分析からです。100人に1人、そういう人がいるとすると、福島県30万人のうち3000人くらい、あるいは30万人全部対象にしていいのかどうかわかりませんから、1000人くらいかもしれませんが、それでも結構な数の放射線に過敏な人がいると考えられます。
ということは、放射線の問題は個別対応が必要なのです。「ここはみんな入っちゃいけませんよ」というのは初期段階の話で、段々と個別対応に移行する。すなわち、「この人はどういう人か」によって違う対応をしていかなければいけないのですが、ちゃんとやっていません。政府がそういうことを被災地域の住民全員に対して長期的、継続的にやると決断し、動いているという話をきいたこともありません。

今後は体外被ばくの問題より、食事を通じての体内被曝の問題が長期にわたって存在します。これはチェルノブイリの経験で言えることです。チェルノブイリの周りは25年経った今でも放射線汚染は結構あります。体内被曝に何が影響しているかというと、ウクライナ、ベラルーシの辺りではキノコです。森林の土壌汚染の結果です。ロシア人はキノコが大好きですから、色々なキノコの料理があります。山に行けばタダで採れますから、安直なので食べます。「私はこんな齢だからもういいわ」みたいなお婆さんが食べるので、体内被曝が結構あります。ということは、今後、日本も同じように森林で取れた作物、特にキノコに影響されるということはあり得ます。
しかし、どう言う食物が体内被曝になるのかならないのか、皆さんの中で「この程度は大丈夫だ」という判断基準はありますか?国が「何mSv以下は安全」とし、それに応じて検査しているので、その基準を守った食品であればいいと思いますか?国は個別対応をしてくれないので、やはり、個々人が体内被曝に関する知識を持つべきです
魚は、小魚を大きな魚が食べるという食物連鎖で大きな魚に放射能が溜まっていくのではないかと思われるかもしれませんが、それは違います。何故かというと、セシウムというのは、周期律表で見ると、カリウム、ナトリウムと同じ系列なのです。従って、海水だと浸透圧の関係でセシウムは魚の体から出ていくようですが、川魚のほうはセシウムが蓄積するかもしれないと言われています。だから海魚は食べても大丈夫なのです。

一番難しいのは森林です。これは困った問題で、除染が出来ません。チェルノブイリ周辺も除染をしていません。やってもしょうがないからです。だから、ベラルーシのある州にはほとんど住めません。彼らが一番心配しているのは、山火事です。放射性物質というのはバイ菌ではないので、当たり前のことですが、熱では死なないのです。だから、山火事で木が燃えて煙がでると、放射性物質が拡散するので、大変怖いのです。風でも広がります。
それから汚染した葉っぱが地表に落ちると、土壌汚染が始まりますが、25年で15センチくらいしか土中に浸みこみません。だから地下水が汚染し広がるというのは案外ないのです。日本もないだろうと言われています。しかし、汚染が広がらないまでも近くの木々が汚染水を吸い上げていって、5年後くらいからあの辺の木の汚染が始まるだろうと言われています。だから一番の対策は、今森林を切って埋めるというのがいいのですが、そのような決断が出来る組織、というより、人がいません。
また、避難対策とその伝達も大きな問題でした。多くの被災者は的確な情報も手に入らないままもろもろの理由から避難所を転々としました。図1( http://expres.umin.jp/mric/mric.vol62.pptx )を見ていただくと、浪江町、双葉町、楢葉町というのは原発のある町なのですが、震災後の1年間にこれらの町の6割の人は4回以上避難所を変わっています。これは結構しんどいことで、その間に亡くなった方は結構あります。

一番ひどかったのは、双葉病院に100人ほど寝たきりで、24時間点滴受けなけている人たちが、取り残されたことです。そこには、自衛隊と警察しか入れず、消防は入っちゃいけない。ということは救急車や消防車が入れない。だから通常のバスで搬送したのですが、どういう理由か、すぐには目的地のあるいわき市のある南に向かわず、まず北に行って、西に向かい、その後、南下し、最後に東に行くというように大回りして230キロ走り、やっといわき市にセンターにたどり着いたわけです。その間に60人くらいの人たちがお亡くなりになりました。

◎100mSvを超えた人はいないと認識
東電関係者数人を除くと、福島第一原発事故での直接被ばくで100mSvを超えた人はいないのではないかと思われています。事故直後にきちんと測定していないので詳しく分からないのは大いに問題です。特に、半減期が8日と短い放射性ヨウ素をどのくらい浴びたかはよく分からないのです。だがセシウムCs134やセシウム137は、100mSvを超えていないというのが関係者の理解です。

◎耐震基準と「バックフィット」「ストレス・テスト」
日本が原発を多く作り始めたのは1970年代ですが、その当時、原発用耐震基準はありませんでした。耐震基準が出来たのは1981年です。1981年というのは建築基準法の耐震基準を変えた年でもあります。建築分野でこの成果はすごく、1981年以前の基準とそれ以降の基準とでは、地震によって崩壊する建物の数が大きく違いがでています。ですから1981年の建築基準法の新耐震基準は明らかに効果があったと思います。
原発に関しても耐震基準が1981年に出来て、2006年に改訂されています。当然、改訂された耐震基準に照らし合わせて、今まで出来ている50幾つの原発を全てチェックし、新しい耐震基準に合っていることを確認しなければいけません
そのチェックをすることを、日本語英語ですが、「バックチェック」と言います。そして問題が見つかればきちんと対策を打つことを「バックフィット」と言います。「バックフィット」という英語は無かったのですが(英語では“retrofit”)、日本が「バックフィット、バックフィット」と言うので、世界的に「バックフィット」(backfit)で通ることになりました(笑)。
しかし、この2006年に改定された新耐震基準に照らし、バックフィットするのが本来の手順ですが、実施されていませんでした。東電はバックフィットの予算、約800億円を取っていましたが、達成時期の先延ばしをし、福島第一の原発事故までに約6億円しか使っていませんでした。要するにちゃんとバックフィットしていなかったのです。
「バックフィットがされていない」とは最新の耐震基準に沿った改善がされていないということであり、建築で言う「既存不適格」な施設なのです。いま議論されている活断層の有無には関係ありません。大型の地震が来た場合、十分な耐震性がないかもしれないのです。
にもかかわらず、バックフィットをきちっとやるということに電力会社の関係者は皆逡巡しているようです。実際にやり始めてみると、すべての対策をちゃんとは出来ないということが分かり、しかし、既存不適格のまま置いておくわけにはいかないので、結局は廃炉の決断をしないといけなくなるからやらないのではないでしょうか。多くの原発はこのバックフットをやっていないので、厳密な意味では十分な耐震性が無いかも知れないこともあまり議論されません
一番驚いたのは、電力会社で一般的にいう「原発のリスク」とは事故のリスクではなく、諸々の理由で稼働率が下がることをいうのであり、原子炉を止めてバックフィットをやるだけの?リスクを取る」インセンティブが存在しないことです。
そこへ欧州の「ストレス・テスト」が持ち込まれたのです。では、欧州が作ったストレス・テストと日本の改訂版耐震基準とはどういう関係になるのか。耐震の項目はありますが、関係ある訳はないのです。ストレス・テストは欧州で作ったものですから。だから何はともあれ、日本の2006年に改訂された耐震基準にまず合っていることが前提なのです。そのうえで、念のためというのがストレス・テストなのです
当時、菅首相はそういう背景を説明せず、突如ストレス・テストを持ち込み、それを通れば再稼働していい、と言ったのです。それで、日本の改定版耐震基準と整合性などの問題で混乱が生じています。いや、いるはずですが、そういう議論はされません。
また、大飯原発再稼働は事故後、保安院の決めた技術的知見30項目のうち15目のチェックだけで、原子力科学や技術のリテラシーがあるとは思えない野田総理大臣以下数人の大臣で最終判断し、決定しました。「バックフィットをちゃんとやらなければ原発は既存不適格なんだよ」と私は言いたいけれど、「技術的知見を通ればいいじゃないか」ということになってしまいました。しかも、全項目でなくてもいいというのは誰が考えてもおかしいはずです

◎チェルノブイリとの比較
福島の汚染規模はチェルノブイリに比べればかなり小さいのですが、除染の難しさは同じです
図2( http://expres.umin.jp/mric/mric.vol62.pptx )は福島とチェルノブイリの関係です。これを見ると、チェルノブイリはいかに巨大な汚染かが分かります。これはチェルノブイリの25年後の汚染地図ですが、汚染度合いはほとんど変わってないのです。彼らの現在の生活は、要するに「放射能と一緒に生きる」です。チェルノブイリに行きましたが、線量計が結構な数字をしめしていても皆、平気です。そのような場所の建物の中で長々とお昼をご馳走になりました。
近くには石棺してある4号炉が見えます。説明してくれた責任者に「どういう生活なの」と聞くと、「このレベルまで累積被ばく量が溜まったので、今年の後半はキエフで生活して」という指示をだすのだそうです。
それから「ミルクは飲まないけどバターはいいんだ」ということです。先ほど話したようにセシウムは水溶性で油には溶けないので、汚染している牛乳をバターにすると、セシウムを含まない、すなわち、汚染が除かれる訳です。それから「粉ミルクにして半減期の30年置いといたらいいんじゃないの」といって置いてあるとか。彼らは与えられた現実にしぶとく対応しています。
もっとしぶといのは、四つ炉があった内、一つが爆発したのだが、すぐに敷地内を除染して、6カ月後から2000年初頭まで後の三つの原子炉を運転していたことです。凄い国ですよ。

「夕張モデル」の怪 

「夕張希望の杜」が、財政破たんした夕張市の医療を劇的に改善した、という報道が、NHK・日経等で最近なされた。

その内容が、医学的にみてどうにも理解しがたいものであることが、m3等医師の間で話題になっている。例えば、ピロリ菌除菌で胃がんのケースが劇的に少なくなったというが、ピロリ菌が胃がんを起こすには10年程度かかるはずで、ピロリ菌除菌の効果などではない、とか、「夕張希望の杜」が設置されてから、医療費が劇的に下がったと報道では記されているが、医療費の動きを見てみると、最初の2年間で下がり、その後は徐々に上昇、最近少し下がっているだけである、即ち医療内容の効果というよりも、人口構成の変化等による医療費の減少なのではないかと、批判されている。実際、「夕張希望の杜」では、糖尿病による透析の症例は、診ないことにしている、ということらしい。高コストの症例を市内で診なければ、医療費は下がるわけだ。

上記の批判は、m3での意見の受け売りに過ぎない。どこまでその妥当性があるのか、厳密な検証が必要だ。だが、常識的に考えて、夕張モデルというような劇的な医療費の効率化が行われたとは考えにくい。それをあたかも事実であるかのように、マスコミに売り込む(という刺激的な表現をあえてつかわせてもらう)関係者、それを無批判に報道するマスコミは一体何を意図しているのだろうか。マスコミは無能なのか、それとも行政のからむこうした宣伝に無批判に乗る体質があるのか。「夕張希望の杜」の背後に、天下り法人が控えていて、その存在意義のPRのためではないか、という意見もあるようだ。

財政破たんの地方自治体で、医療が奇跡的に復活するなどという夢物語は、あくまで夢の世界のことだ。その夢を、あたかも現実であるかのように喧伝し、何事かの意図を実現しようとしているとしたら、それは地道に地域医療で苦労し、何とか踏みとどまっている人々に対する卑劣な行為だ。



2月26日の日経に載った記事から引用~~~

5年前、夕張市は財政破綻に伴い、171床の総合病院を19床の診療所に縮小しました。救急機能の維持には、医師や看護師を24時間配置し、検査体制も整備しなければなら ず、予算も人員もない市は救急指定を外さざるを得ませんでした。

閉鎖された病院の後を受けた「夕張希望の杜」は限られた資源を最大限に生かすため、病気の予防と、生活を「支える医療」に特化。ワクチンや早期発見で予防を進め、総合病院 から退院した身体の不自由な患者や、糖尿病などの慢性期医療の患者へのケアを主体にしました。急性期医療は近隣の総合病院に頼らざるを得ないので、患者が急性期に移行する のを未然に防ごうとしたのです。

そして市民の健康はどう変わったのでしょうか。私たちがこのほどまとめた、5年前と現在を比較したデータから見えてきたのは財政破綻の危機から生まれた“夕張モデル”が持 つ可能性です。

この5年で死因の第1位であるがんの死亡率(SMR、標準化死亡比)は低下していました。なかでも胃がんの死亡率は3割以上の低下でした。これは「ピロリ除菌での胃がん予 防」や「がん検診を通じたがん全般の早期発見」など、市民の努力の成果です・・・・。

S&Pが警告した高齢者医療費はどうでしょうか? 日本の1人あたりの高齢者医療費は上昇を続ける一方で、もちろん夕張の高齢者にかかる医療費も以前は右肩上がりに上昇していました。しかし5年前を境に徐々に低下し、現在 では当時より1人当たり約10万円も安くなっています