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死・臓器移植 

先日、昔所属していた医局で病棟医長をなさっていた方から、分厚い封書が届いた。当時の医局で一緒に仕事をさせて頂いていた方が、肝不全の状態になり、肝臓移植以外に助かる途がなくなった。米国で移植を受けられるので、その費用のカンパをお願いしたい、という文面だった。

その医師の方は、明るく誰とでも分け隔てなく接する方で、誰からも好かれる方だった。その医局から離れて以降お付き合いは全く無かったが、恐らく専門領域で優れた仕事をなさってきたのだろう。現在は、とある大きな医療施設で、ご自身の専門領域の責任者をなさっておられる。すでに50歳代半ばを過ぎているのではないだろうか。

肝不全の状態に徐々に病態が進行するに伴い、どのようなことを考えられたことだろうか。ご家族、そして仕事を抱えて、どれほど重い日々を過ごされたことだろうか。

折りしも、小児科医のMLで、臓器移植の問題が議論されていた。日本では、脳死をさえ死と認めぬ立場があり、小児科領域では移植に関わる死の定義がなされていない。一方で、臓器移植をするために海外に渡る患者さんを肯定的に報道する(一般論としては、そのような報道には正直疑問を感じる)。そうした事例の報道は、国民が、臓器移植を肯定し、臓器移植を受ける側としては、積極的に行ってもらいたいという意思の反映なのだろう。いわば、ダブルスタンダードなのだ。

米国では、心臓死を人の死として、心停止後数分以内に移植の手続きを始めることになっているそうだ。移植可能な臓器が手に入りにくいことと、移植により生きうる生命をより尊重する考えが、そのような移植を行わせているのだろう。

日本では、移植医療に対して、国民はダブルスタンダードの態度を取っている。海外で臓器移植を受けなければならない同胞の患者さん、それに貴重な移植臓器を外国の患者に優先させてくれる彼の地の患者さんに対して、それで良いのだろうか。

最初に述べた、元同僚の肝移植のために、翌日僅かながらドネートさせて頂いた。具体的な知り合い、それもお世話になった方の窮状に対しては何ら躊躇することはなかった。海外での臓器移植報道に感じる違和感と、私のこの行動は背反するが、それは私の中での矛盾を反映しているのかもしれない。

人の死をどのように捉えるのか、私にも問われていることなのだ。

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