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ハンセン病をめぐって 

ハンセン病という病名を耳にすると思い出すことが二つある。

一つは、多摩全生園の近くで生活していた、私がまだ子どもの頃のことだ。当時は、同園は、結核療養所のある地域の更に奥まったところにあった。周囲が雑木林に囲まれた静かな場所だ。看護師をしていた母が、同園の生垣沿いの道路を通勤路にしていた。夜間、自転車で帰宅するときに、同園の入園者が生垣を抜けて出てくるようだと言って、母は怖がっていたのを覚えている。

母のそうした言葉に、本当の恐れとともに、ハンセン病患者へのかすかな差別意識が隠されていることを、子どもながらに感じた・・・後者は、後にハンセン病を良く知ってから感じるようになったのかもしれない。いずれにせよ、同園には何か穢れたものがある、という気持ちが、子供心に植えつけられていった。

母は、医療従事者であったし、リベラルな考えの持ち主だった。そのような彼女にしても、隠れた差別意識というべきものを持っていたと考えると、当時の社会の平均的な人々の意識が、ハンセン病を理解し、その隔離政策が間違っていることを理解することから程遠いところにあっただろうということが分かる。当時には、ハンセン病の治療法も確立し、恐れるに足らない病気であることが分かっていたはずなのに、だ。そうだからこそ、ハンセン病患者・元患者の隔離政策を根本的に改めることが、1990年代半ばまで遅れることになったのだろう。

ここで学ぶべきは、社会のなかで、忌み嫌われるような病気の者、さらには特定の属性を持つもの、特定の人種の人々を、穢れたものとして疎外し、時には迫害する傾向が、何時の時代にもあるということだろう。恐らく、私自身にもそれはある。そうした差別によって、社会内部の葛藤・軋轢のエネルギーを消し去ろうという個々人のこころのなかでの動き、さらに社会全体の動きに、我々は常に注意しなくてはならないと感じる。

もう一つ、学生時代に読んだ神谷美恵子女史の書物に、彼女がハンセン病患者に初めて出会ったときの様子が記されていた。彼女は大きな衝撃を受け、その療養所からの帰路、何故彼等が(ハンセン病にかかり)、何故自分ではなかったのかという問いが心に渦巻いていたと記されていた。センチメンタリズムのように聞こえるかもしれないが、そのように本当に感じた、というのだ。それが契機となって、神谷女史は、そのハンセン病の療養所、長島愛生園、で医師として長らく働くことになる。この啓示のような思いは、決してセンチメンタリズムではなく、彼女の医師としての生き方を変えた出来事だったのだと思う。

ハンセン病の患者に寄り添い、ともに戦った人々は、数多くいる。根本的な治療がなく、社会から蔑まれていた時代に、それらの方々が、そのように生きられたことに感銘を受ける。医療制度研究会草津セミナー報告として、医療制度研究会 中澤堅次氏 井上法律事務所 井上清成氏が、そうした人々の一人について報告し、病者の権利を重視する立場に改めて立つべきことを述べられている。


以下、MRICより引用~~~

病人権利とハンセン病の歴史
-医療制度研究会草津セミナー報告

医療制度研究会 中澤堅次
井上法律事務所 井上清成

2010年5月11日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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■ ハンセン病療養所栗生楽泉園見学
 ハンセン病療養所栗生楽泉園は、残雪に輝く白根の山々のふもと、高原の温泉地草津から2キロほど離れたゆるやかな台地の南斜面にあります。門を通過し台地の斜面を南に下りてゆく車道の突き当たりに療養所があり、取り囲むようにハンセン病に罹患した人たちの住宅が並んでいます。低層でこぎれいな集合住宅は塀がないせいか、芝生に囲まれどこか欧風で開放的な印象を受けます。ここには、平成8年菅直人厚生大臣のときに廃止になるまで続いた、らい予防法により隔離され、治療法が確立した今でも、皮膚の後遺症と長かった療養所生活で社会に戻れない高齢の方たちが住んでいます。

 門を入ってすぐ右側、木立に囲まれた小道を200mほど入ったところに重監房跡地があり、ここには隔離療養中に脱走や療養所の規律に反した人たちが全国から集められ収容されたそうです。林の中にポッカリ空いた200坪ばかりの空間に、複雑な住居の土台だけが残っています。とても狭い廊下と、部屋の間仕切りがいくつもあり、明り取りの窓だけだったという個室は、逃げられないように造られていたことが良く分ります。わずかな米と水ものだけが支給される生活は、病人を標的にした収容所のようなもので、極寒の当地ではかなり過酷なものだったと思います。楽泉園設立の目的は隔離により社会から、らいを根絶するという当時の政策によるものでしたが、病人であるがゆえに自由を奪われ、正当な主張でも罪人とされてゆく、悲しい歴史を物語る貴重な医の遺産ということができます。

■ 療養自治区湯之沢とコンウォール・リー女史による救済
 古来ハンセン病の人たちは社会から差別を受け、流浪の末各地に集落を形成しました。楽泉園ができる大分前から、上信越山中の草津には温泉の効能を頼って多くの人たちが集まっていました。はじめは他の湯治客とは別に、場所と時間を分けて同じ地域で療養していましたが、町の観光色が強まるにつれ、町外れの湯川下流にあたる湯之沢地区に集められ、財力のある罹患者は旅館や商店を経営し納税義務も果たす、いわば療養自治区のようになっていました。自治区とはいえ病気の人にはお金が無く、病気が進むとさらに困窮が深まり、悲惨な人々の暮らしがありました。

 湯之沢に来ていた、キリスト教徒でもある療養者の熱心な願いに応えて、聖公会の宣教師であるイギリス人女性コンウォール・リー女史が湯之沢に入り、聖バルナバミッションと呼ばれた救済活動が開始されました。リー女史は聖バルナバ教会を建てて活動の拠点とし、最終的には三十数棟にも及ぶ病人用のホームを建造したそうです。家族から仕送りがあり働ける人でも、病気が進むと最終的には救済が必要となり、両親が病気で養育者を失った子供、被害を受けやすい婦人、罹患者が多く自力での生活がままならない独身男性などが救済の対象になりました。聖バルナバ医院と呼ばれる病院も日本人の女性医師と看護師の献身で開設され、湯之沢ではじめての医療施設となりました。これらの大規模な事業は、イギリスはもちろんアメリカの篤志家の寄付に依ったようであり、日本でも藤倉電線が聖バルナバ医院の増築に資金を提供したといわれます。

 女史は、当時は投げ捨てられるようにして葬られていた病死者に花を手向け、化膿してぼろぼろになった衣服を脱がし皮膚を清めて弔いました。また湯之沢住民と変わらない清貧な生活ぶりで人々の感動を呼び、精神的にもすさんだ人々のよりどころとなり“くさつのかあさん”と慕われ、59歳で草津に入ってから活動は80歳まで続けられました。

 昭和7年政府の隔離政策で国立療養所栗生楽泉園が開院し、湯之沢の人々はここに集められることになりました。反対運動が起き湯之沢はその後も存続しますが、昭和11年、80歳を迎えたリー女史は健康上の理由で厳寒の草津を離れ、その5年後の昭和16年には、日中戦争で悪化する国際関係で資金が枯渇する中、湯之沢の人々は楽泉園に大多数が移住し、部落が取り壊されると同時に聖バルナバミッションもその役割を終えました。

■ 病人権利と栗生楽泉園と聖バルナバミッション
 感染症として社会から疎外され、科学の恩恵を受けることの無かった時代の人々の悲しみは、リー女史を中心とした多くの人々の献身により救済が行われましたが、後に近代国家として日本は国立療養所を作り、人々を収容隔離することで吸収してゆきます。社会の利益のための隔離政策は別の形の人権侵害を産み、治療薬ができた後も、何回となく行われた療養者や医師や官僚による廃止運動をよそに、つい最近まで続きました。日本の例は特殊と評される背景には、上からの目線で社会の繁栄や安全には着目しても、病を背負った人の悲しみに思いが至らない日本人の思考過程が関係しているようです。

 今回の4月24日から25日にかけてのセミナーの主題は病人権利で、病を得た人々の人権に着目し、病人であるがゆえに生きる権利を侵害されたハンセン病の人々の歴史に思いをはせるというものでした。病人であるがゆえに、故無くして社会から疎害され、国家の大義や社会の安全のために犠牲になった人々の悲劇があり、近代人を自称する私達がつい最近まで気づかずに過ごしたことも驚きでした。湯之沢におけるリー女史の大規模な救済事業とともに、この事実は良い悪いを言わずに、大切に後世に伝えたいと思います。

参考文献:
1)写真集・コンウォール・リー女史物語、コンウォール・リー女史顕彰会編、2007年
2)草津「喜びの谷」の物語、コンウォール・リーとハンセン病 中村茂 教文館 2007年

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