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小松秀樹氏 朝日新聞批判 (3/4) 

朝日新聞がんワクチン報道事件 第四の権力“悪意”の暴走(その3/4)

小松秀樹
2011年2月9日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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■規範的予期類型と認知的予期類型

 新聞社が自らの制御を不得意とするのは、制度の問題ではなく、認識の前提にあるように思える。 ニクラス・ルーマンによると、人間に関するすべての事象の関連を整理して理解するのに、ホッブズの登場まで、規範を基準に概念が整理され、世界が理解されてきた。これは、論理的帰結ではなく、社会を運営するのに、機能的に不可欠だったからである(ニクラス・ルーマン:「世界社会」Soziologische Aufklarung 2, Opladen, 1975. 村上淳一訳・桐蔭横浜大学法科大学院平成16年度教材)。

 家族と部族がいてそこで生産がほとんど成り立つような分節分化の時代、封建社会や資本家と被搾取階級という分類が可能だった階層分化の時代を経て、現代社会は、社会システムの機能分化の時代になった。
 現代社会では、医療を含めて、経済、学術、テクノロジーなどの専門分野は、社会システムとして、それぞれ世界的に発展して部分社会を形成し、その内部で独自の正しさを体系として提示し、それを日々更新している。例えば、医療の共通言語は統計学と英語である。頻繁に国際会議が開かれているが、これらは、医療における正しさや合理性を形成するためのものである。今日の世界社会は、このようなさまざまな部分社会の集合として成り立っている。

 それぞれの部分社会はコミュニケーションで作動する。ルーマンはコミュニケーションを支える予期に注目し、社会システムを、規範的予期類型(法、政治、行政、メディアなど)と認知的予期類型(経済、学術、テクノロジー、医療など)に大別した。規範的予期類型は、「道徳を掲げて徳目を定め、内的確信・制裁手段・合意によって支えられる」(ルーマン)。違背に対し、あらかじめ持っている規範にあわせて相手を変えようとする。違背にあって自ら学習しない。これに対し、認知的予期類型では知識・技術が増大し続ける。ものごとがうまく運ばないときに、知識を増やし、自らを変えようとする。「学習するかしないか―これが違いなのだ」(ルーマン)。
 ヨーロッパにおける科学の進歩は、宗教による規範化を脱して、「学問がその理論の仮説的性格と真理の暫定的な非誤謬性によって、安んじて研究に携われるように」(ルーマン)なったことによる。

 それぞれの部分社会は独自に進化発展する。学問における業績、高速鉄道の正確な運営の獲得や喪失、医療における患者の治癒は、それぞれのシステムの作動の中で決められていく。こうした部分社会間に矛盾が生じ、その衝突が社会に大きな影響を与えるようになってきた。短期的には合意の得やすい規範的予期が優位であるが、長期的には、規範的予期が後退するのに対して、適応的で学習の用意がある認知的予期が優位を占める
 ルーマンは「規範的なことを普遍的に要求する可能性が大きく、その可能性が徹底的に利用されるときは、現実と乖離した社会構造がもたらされる」と警告する。例えば、耐震偽装問題に対する過熱報道をうけて、建築基準法が改正された。07年6月20日に施行されたが、あまりに厳格すぎたため、建築確認申請が滞ったままの異常な状態が続き、建築着工が激減した。多くの会社が倒産に追い込まれた。日本のGDPが1%近く押し下げられたとする推定もある。耐震偽装そのものによる実被害は知られていないが、過熱報道は日本経済と建築業界、そして日本国民に大被害をもたらした。

■ジャーナリストの認識

 朝日新聞は『事件の取材と報道』(朝日新聞社, 2005)で、朝日新聞が考える「正しい報道像」を提示している。手元にある本は2005年版だが、ネットで検索した限り、その後改定はなされていない。『医療崩壊 立ち去り型サボタージュとは何か』(朝日新聞社, 2006年)の執筆中に、編集者からこの本を提供された。当時、この本を読んで、認識に対する用心のなさに驚いたことを記憶している。

 この本によれば、調査報道とは「公権力の疑惑を報道機関の責任において追及することである」。例として挙げられているのは、ベトナム戦争のソンミ村事件、ウォーターゲイト事件、田中角栄研究、リクルート事件などである。調査報道の目的として、「疑惑のどこに問題があり、それが構造的不正などとどうつながっているかなど、報道する目的をはっきりしておく必要がある」とする。
 この本の記述から、調査報道が善悪のフィルターを通した予断に基づく認識で成り立っているということがよく理解できた。朝日新聞の花形記者だった本田勝一氏の『戦場の村』と開高健氏の『ベトナム戦記』は、共に、ベトナム戦争のルポルタージュとして有名である。私はこの両者に圧倒的なレベル差があると感じた。この差は、善悪のフィルターを通した予断の有無に由来するように思う。

 朝日新聞が、自らを、公権力を追及する立場だとすることには、違和感を覚える。日本の新聞社は、政府から様々な特権と優遇措置を得ている。記者クラブを通して、政府から提供された情報を社会に発信する。政府にとって都合の悪い情報が記者クラブで提供されるとは思えない。記者なら、それを自覚しているはずである。政府とマスメディアは、互いに利用しあっているように見える。インターネットの発達で、個人が社会に向かって意見を発信しやすくなったとはいえ、社会に流布する言説の大半は、マスメディアが発信している。結果として、マスメディアは大きな影響力を持つ。このため、立法、行政、司法に続く、第四の権力と呼ばれる。影響力の大きさから、第一の権力と呼ばれることさえある。
 個人的な経験から判断して、朝日新聞社に冷静な認識能力を持つ優秀な記者が存在することは間違いない。しかし、社内の大勢は、規範のフィルターで認識が歪んでいるように思える。得意であるはずの規範について、自他で使い分けているように見えるのも、厳密な認識の欠如に由来するのではないか。
 新聞の言説を注意深く観察すると、人間の認識は、自らを正義の立場において甘やかすと、どこまでも幼稚になり、歪むことがよく理解できる。新聞は、巨大な権力ゆえに、悪いのはあいつだと安易に決め付けても、めったに問題にならなかった。

 医学論文の校閲は、その研究領域を熟知していなくてもある程度可能である。分野を問わず、チェックすべきことが決まっているからである。仮説が妥当なものとして記載されているか、方法が信頼できることが証明されているか、対象は適切に選択されているか、結果の解釈は妥当か。科学者の訓練に共通するのは、方法を通して得られた結果から何が言えて、何が言えないのかを厳密に考えることである。記者と科学者の本質的な違いは情報の多寡ではなく、認識の厳密さにある。記者の認識の甘さは、メディアが規範に拠って立つものであり、知識や物を生産したり、原子力発電や航空運輸のような高度なシステムを運用したりする、認識が決定的な重要性を持つ専門領域とは思考様式が根本的に異なることに由来する。
 現代の科学、医療、運輸、経済などは、規範とは無関係に、あらゆる方法を駆使して状況を認識する。医学で発達してきた認識方法には、生体内の物質を突き詰める生化学的方法、分子レベルまで可視化するにいたった形態学的方法、生体の動的活動を観察する生理学的方法、社会の中での疾病の状況を観察するための疫学的方法などがある。さらに臨床医学では、CTやMRIなどの画像診断が加わる。いずれも、薬剤の有効性を証明するための無作為割り付け前向き試験と同じく、一切の予断を許さない。予断は目を曇らせるというのが医師の常識である。医師から見ると、『事件の取材と報道』の著者には、規範的言明と認知的言明を区別する能力がないとしか思えない。

 法律家も、規範に重点をおくため、しばしば予断で認識が歪む。例えば、東京女子医大事件では、院内事故調査委員会の報告書のために、佐藤一樹医師が逮捕・拘留され、7年間の長きにわたり、刑事被告人としての立場に置かれた。この事件をめぐるいくつかの裁判で明らかになった事実を総合すると、児玉安司弁護士は、東京女子医大院内事故調査委員会が佐藤医師の意見を聴取することなく非科学的な報告書を作成・公表したこと、すなわち、権利の侵害があったことを知りつつ、その活動にコミットした、あるいは、放置したと推定される(小松秀樹:「東京女子医大院内事故調査委員会医師と弁護士の責任を考える」m3.com, 2010年4月26日から2010年4月30)。前述の朝日新聞10月15日社会面の「光石忠敬弁護士の話」にも正当な根拠のない非難が含まれている。まずは、光石弁護士が本当に発言したことかどうか確認した上で、人権を最優先価値として掲げる弁護士会がこの記事をどう判断するのか、懲戒請求で確認するのも一つの方法だろう。

 朝日新聞は、言説の基準を「正義」に置くとしているように見える。しかし、「正義」を、ひとつの言葉でひとくくりにすることは、機能分化の進んだ現代社会では、非現実的といってよいのではないか。「正義」をめぐるせめぎあいの当事者それぞれの「正義」、外部の観察者から見た「正義」、上から見下ろす者の「正義」、最下層から見上げる者の「正義」等々、これらはひとくくりにできるようなものではない。しかも、「正義」は怒りと攻撃性を秘めている。このため「正義」を実現しようとする努力が、しばしば、社会にとって有害な結果をもたらす。
 異端審問官たち、クロムウェル、ロベスピエール、ヒトラー、スターリンなどはいずれも正義のために大きな災いをもたらした。小悪人が社会制度を損ねることはめったにないが、正義はしばしば多くの人々を不幸にし、社会の営みを阻害する。

■博物館におくべき補助人工心臓

 世界における日本の医療機器のシェアは下がり続けている。とりわけ、人体に与える影響が大きい治療機器は、壊滅状態である。経済産業省の肝入りで、国産ペースメーカーの開発が試みられてきたと最近聞いた。くしが抜けるように、参加会社が減少し、2010年、最後の一社が開発を断念して計画は頓挫した。

 開発が進まないことには、いくつか理由がある。日吉和彦氏は、財団法人化学技術戦略推進機構でこの理由を調査してきた。日吉氏によれば、無過失補償がないこと、PL法による訴訟リスクなどは主たる原因ではない。
 第一の理由は報道にある。医療機器の市場は、大手の化学・電機電子産業にとって、相対的に小さい。「微々たる事業のために、万一のとき会社全体をPL風評被害にさらすリスクをおかす気はない。まっぴらごめんだ。PL法またはPL訴訟が怖いのではなく、報道されて社名に傷が付くのが、嫌なのだ」というのが、アンケートに応じた東証一部上場大手の化学・電機電子企業40社の偽らざる本心だとのことである。
 第二の理由は、行政にある。日本では、製造承認に至る過程がいじめのようになっている。ルールが明確でなく、極めて不透明だという。しかも、治験用の機器にも関わらず、本生産設備で作られたものでないといけない。経済合理性を無視している。ある会合で、厚労省の課長補佐が「私どもは、国民の安全のために審査するところでして産業振興・育成は経産省の仕事と思っています」と述べたという。これでは開発するなというに等しい。このような行政の動きが、報道に影響されたものであることも認識しておかなければならない。

 日本企業の機器開発が停滞しているだけでない。外国の優れた機器もしばしば使用できない。
 2010年9月13日、九州大学病院で補助人工心臓のチューブが外れる事故があり、患者が死亡した。
この人工心臓は20年前に製造承認された「国立循環器病センター型」である。
 2010年3月22日の朝日新聞グローブ記事で、ドイツのアルソグル医師は「今はまず第一に米国ハートウエア社のHVAD、続いてソラテック社のハートメート2です。日本のテルモ社のデュラハートはその次ですね。」と語る。「日本では、デュラハートの製造承認が待たれています」という問いに対し、「08年あたりまでは優先的に使っていました。その時点でベストな製品だと思っていたからです。でも今は主役ではありません」と答えた。さらに「日本の臨床現場では、国立循環器病センター型と呼ばれる体外型の古いタイプの人工心臓しか事実上使えません」という問いに、「世界でも最も質の悪いポンプです。正直言えば、博物館行きです」と衝撃的な発言をした。

■マスメディアの黄昏

 日本のマスメディアは、「被害者」が、悲嘆にくれたり、強い怨念を語ったりするのをそのまま伝えることをためらわない。恨みつらみの感情露出は、論理的な根拠を示すことなく、悪いのはあいつだというメッセージを人々の意識に刻印する。突き詰めると情動しか残らない大衆メディア道徳とでも呼ぶべきものが、立派に規範として機能してしまうことがある。
 新聞やテレビの記者は、自分の判断を書かないよう訓練され、評価部分については、常に引用で記事を書こうとする。このため、刺激の強い情動を揺り動かす記事は、個人の良識による制御が及ばず、引用が引用を生むことで、機械的反復現象を惹き起こす。恐るべきことは、記者がこの反復される言説を自分でも信じてしまうらしいことである。私は、『医療崩壊 立ち去り型サボタージュとは何か』(朝日新聞社, 2007)で、これを「暴走」とした。「この過程に個人の責任と理性の関与、すなわち、自立した個人による制御が及んでいないからである」。

 内田樹氏はロハスメディカル誌上の私との対談で、日本のメディアは庶民社会を前提にしているのであって、市民社会を前提にしていないと語った。庶民は、堅牢な指導システムを想定し、社会システムの不備に対し不平不満をいうことが善であり、社会をよくすることにつながると思っている。いくら文句をいっても壊れるとは思っていないし、自分が負うべき責任を想定していない。日本のマスメディアは、庶民の立場に立ち、責任を自覚する市民からなる社会を前提に記事を書いてこなかった

 従来、報道被害があっても、被害者は発言の方法がなかった。マスメディアの一方的な報道の中では、訴訟に持ち込むことすら難しかった。インターネットの発達で状況が変化した。個人が、社会に対して意見を発信することが容易になった。

 インターネット上に発信される個人の意見には、感情的で一方的なものもあるが、そもそも、意見に権威が伴っていない。必ず反対意見が登場する。あらゆる方向の意見が行き交い、最終的にそれなりに妥当な方向が共有される。新聞には到底期待できないような、専門性の高い意見も次々に登場する。量のみならず、質の上でも新聞やテレビを圧倒している。
 インターネットを利用できれば、専門情報に簡単にアクセスできる。2009年のインフルエンザ騒動では、WHOが新しいインフルエンザについての知識を増やし、対応していく過程が、個人のパソコンでつぶさに観察できた。WHOの考え方と行動様式が、日本の厚生労働省の対応と異質であることも、容易に理解できた。いずれも、日本のマスメディアは伝えなかった。

 日本のマスメディアを通すと、世界が歪んで見える。マスメディア無視が、若い世代から年長世代に広がりつつある。マスメディア不信はもはや過去の状況である。若者はテレビを見なくなり、新聞を読まなくなった。マスメディアの広告料収入が減少した。
 マスメディアは、インターネットを利用した多様なコミュニケーション・ツールを駆使する知的専門家を、その意見を無視した形では、抑え込めなくなりつつある。

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