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相馬市の復活を祈る 

相馬市市長の立谷秀清氏が行った、震災孤児のための義捐金の呼びかけを4月に知り、ここでも記した。こちら。その義捐金を扱うNPOを立ち上げた報告が、MRICに載っている。最後に引用する。

細田満和子女史が、被災地を訪れて、見聞きしたことを、MRICで「ボストン便り」として報告している。その中に、相馬市での社会行政活動についての記述がある。

相馬市では、この震災前から、高齢者が孤独に陥らないように活動を展開し、震災を経てから、なお一層共助活動を進めているようだ。

細田女史の記述から引用開始;

相馬市では、従来から高齢者が閉じこもりや寝たきり、孤独死になってしまわないように、いろいろな試みをしていました。その一つが「ライフネット相馬」です。市民である限り、誰からも声をかけられないという状況がないよう、高齢者同士が声をかけ合い、希望者には昼食を届けるというサービがス行われていました。この試みをしばらくやっているうちに、声をかけられている人が、自分から声をかける人になるという現象も起こってきました。
まさに軌道に乗ってきた時に、この災害が降ってきたのです。災害直後は合計4400人の方々が避難所で過ごしました。立谷市長はすぐに、孤独死を絶対に出すまいと心に決めました。直ちに被災者全員の生活状況を調査すると、110人の方が単独世帯になったことが分かりました。最高齢は93歳の男性で、こうした方々の中には、自分だけが助かったことを悔やんでいる方もいたとのことです。
かねてから、高齢者が互いに支えあえるような共助生活を構想していた市長は、この構想を基に、震災仮設住宅ではなくて、復興永久住宅を提供したいという意欲を語ってくださいました。プライバシーを尊重した個室が、食事のできる集会所を取り囲む空間。食事は高校生がクラブ活動として作ったらどうか。お互い声をかけ合える暮らし。介助が必要となった時もずっと暮らせる仕組み。避難してきている他の自治体住民も受け入れる。立谷市長はこれを「新しい村」と呼んでいます。この「新しい村」の構想が実現することを願っています。

引用終わり

原発事故が起きた時に、立谷市長は、避難命令を出すかどうか一旦迷ったが、避難しないことを決めたあとは、「籠城」してでも相馬市に住み続け、故郷を守るとネット上でも宣言した。その事情を細田女史は、次のように記している。

引用開始;

相馬市は避難命令を出していないのです。相馬市の立谷秀清市長は、避難命令を出すべきかどうかという選択を迫られた時、出した時の混乱の方が大きいと即時に判断し、避難命令を出さなかったのです。市長室でお話しする機会があった時、立谷市長は、それでもその時、頭の中では避難すべきか否か、その結果どうなるのかをいろいろ考え、かろうじて避難すべきでないという考えが6割だったとおっしゃっていました。そして「避難はしない」と口に出した時から、避難しない気持ちが10割になったそうです。そしてそれは、「判断ではなくて決心だった」ということでした。
立谷市長はこの決心の後、毎週発行しているご自身のメール・マガジンに「ろう城」と題する記事を載せました。「米と味噌と梅干さえあれば、生きてはいける」という言葉で締めくくられるこの文章は、多くの人の心を打ちました。これは、市長が市民と共に、この地にとどまり、この地を守ってゆく覚悟を表明したものでした。

引用終わり

これだけの覚悟をもって、故郷を守ろうとしている政治家が、他の土地に、また国全体にいるだろうか。共感を覚えて、私もわずかな寄付をさせていただいたが、彼が手書きで署名した丁寧な返信(もちろん、内容は寄付者全体への返礼の一般的な記述)がしばらくして届いた。

あのひなびた、静かで平和であったろう相馬市には、ぜひ復活してもらいたいものだ。そうでなければ、日本という国自体が生き延びることができないのではないだろうか。


以下、MRICより引用~~~

被災した子どもたちの将来のために

今回の記事は相馬市長立谷秀清メールマガジン 2011/06/06号 No.253より転載いたしました。


福島県相馬市長 立谷秀清

2011年6月13日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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お陰さまで、震災孤児・遺児らへの支援金が日本中・世界中から寄せられるようになった。中には私が直接お話しをさせてもらって意気に感じていただき、お帰りになってから広く募金運動をしてくださった方もいる。
また少額ながらも、気持ちですと伝えて来られた方もいる。
出来るだけ御礼状をと考えているので、口座に送金いただいた場合はメールでお名前とご住所のご連絡をいただきたい。もうひとつは、子どもたちが成長した時まで私が生きていたら、お世話になった方々の名簿を一冊の本にして彼らの旅立ちへの花向けにしたいから。

この震災の復旧・復興作業の指揮を執り続けてきた中で、私自身、大きな勉強をさせてもらった。
瞼に浮かぶ原釜の、生まれ育った家の周りの温かい光景が、すでに消えてなくなっていることを、現地が変わり果てているぶん納得できず、3か月も経とうとするのに、私は現実を心から受け入れることが出来ないのだ。
しかし、被災して人生が築き上げてきた全てを失った方々を前に、悲しみや感傷に浸っている余裕など無いから、気持ちに流されないで公務しなければならないことや、冷静に先々の展開を読んで早め早めの手を打っておくことを学習した。何より仕事をしている時が一番落ち着くことも分かったし、本当に苦しい時に支援を受ける有り難さも知った。こんなにお世話になるほど、私は他人に頭を下げて来なかったから、これからの人生でその分の埋め合わせをしなければと思っている。

私が本心では、今回の震災の甚大な被害を受け止め切れていないように、悪魔のような津波に追われた子どもたちも、恐怖体験から抜け出せないでいる。
加えて家族や友達を亡くした虚脱感が、本来あかるく多感であるべき子どもたちの感性をむしばんでいるのだ。学校が再開した4月18日以降、対策会議のたびに教育長から被災小中学校の様子を報告してもらっているが、PTSDはやはり深刻である。
対応策として臨床心理士によるケアを考え「相馬フォロアーチーム」を結成し、きめ細やかな心のケアを始めたのが4月の末だったが、開始後からその仕事量の大さへの対応と継続性をどのように確保するかが課題だった。対象は幼稚園から高校生までだから、一人ひとりじっくりとケアをして成長の記録をとどめて、さらに最長15年経過を追うとしたら、人材と財源を長期的にマネジメントしなければならない。

6月2日、この活動を理念と継続性と、透明性をもって着実に行っていく目的で、NPOとしての設立総会を行った。理事長には相馬市教育委員の山田耕一郎先生が、副理事長には立教大学教授で「難民を助ける会」理事長の長有紀枝先生が就任された。その他、相馬市内の有識者の方々と、福島から近藤菜々子弁護士が理事になられた。法人格を持つことによって相馬市としても支援しやすくなるし、寄付も集めやすくなる。何より目的と予算執行の間に客観的な検証を加えることが出来る。被災した子どもたちへの支援を長期間しっかりと継続するとともに、彼らの成長過程でアドバイザーになってもらえればとも考えている。

ところで、このNPO活動は孤児・遺児への支援制度と表裏一体である。
子どもたちを残して死んでいった親たちの無念に応えるためには、金銭的な支援だけでは足りないと思うので、高校卒業後の高等教育の奨学金の分もと思って世界中に支援を呼び掛けているが、忘れていけないことは、豊かな心と学力が充分に身につくようサポートすることである。
よって、いずれ体制が整い次第、NPO活動のメニューに学力向上部門を加えてもらおうと考えている。そして孤児・遺児だけではなく、被災した相馬市のすべての子どもたちに、支援していただく方々の善意が着実に行きわたり、最も有効に活かされるよう、一同、知恵を絞り努力を傾注していきたい。

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