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生きた英語を学ぶこと 

榊原英資氏の「日本をもういちどやり直しませんか」という本を読み始めた。それまで読んでいた、金子勝氏のグローバリズムに関する本と違い、大変読みやすい。榊原氏は、もと財務省官僚だけあって、官僚を高く評価する傾向があり、その点がいつも引っかかっていた(いる)のだが、広やかな視点で現在の日本の財政経済状況を分かりやすく解説している。内容の紹介はまた読了してから・・・。

とても印象に残ったことがある。日本が、これまでの米国に追随する外交政策で行きづまり、アジア諸国、特に中国とインドだが、の勃興(歴史的に見ると、19世紀以前の状況に回帰したといえるとのこと)と、米国の経済的な低落の狭間で困惑し、内向きの思考に陥っているということだ。それとともに、英語での意思疎通能力が落ちているということも書かれていた。英語の力に関して言えば、国民の内向きの精神状況と合わせて、外国語習得の問題があるという。

日本の外国語習得は、専ら翻訳文化によって支えられ、翻訳文化そのものが大きな位置を占めているという。明治以降に用いられるようになった頻用される言葉、例えば、社会・経済・正義・市民といった語句、が、翻訳によって作られた抽象的な言葉であると言う。本来、こうした言葉は、具体的な言葉が歴史を経て、生まれれてくるはずのものだが、その過程が欠けているといのだ。英語を生きた形で学ぶことに欠けている、と榊原氏は指摘する。

英語が、外国との意思疎通の道具になっているのは紛れもない事実だが、日本の教育では、生きた英語教育がおざなりにされ、さらに内向きの志向により、海外に留学する若い人々が減っているということだ。私は、医学論文の検索をネットを使って行うことがあるが、英語による論文の抄録に載る中国人と思しき名前の研究者が急増している印象がある。それに反して、日本の研究者の名前を見出すことが少なくなっている。榊原氏によると、日本人のTOEFLによる英語能力は、アジアの中でカンボジアについで下から二番目だそうだ。中国や、韓国では、英語圏を中心とした外国に若い人々が留学することが一般的で、そうした留学組が、社会の主導的な役割を果たすようになってきている、というのだ。

さて、自分を振り返ると、英語を学ぶことは好きなのだが、生きた形でどれだけ学んできたかを考えると忸怩たるものがある。別に、英会話でペラペラになりたいとは思わないし、英会話であっても話す中身が大切だといつも考えている。だが、外国語を学ぶ上で、翻訳という日本語への置き換えに重点を置いていなかったか、改めて反省させられた。外国語の単語は、日本語の翻訳語に一対一対応していない。また、文法内容を箇条書きにし、さらに例外までも暗記しても、文法概念を包括的に理解することにならない。外国語で思考することは、もうとっくに無理な年齢になっているので、英語それ自体を理解すること、英語の生き生きとした姿に接することが大切なのだろう。

ここからは手前味噌になるが、CWでの交信は、テキストベースによる、リアルタイムの会話であり、生きた英語に接する良い機会になる。単語の用法、表現の仕方に分からないこと、印象に残るものがあれば、ログに記録し、できるだけ調べることにしている。会話のなかで、関心を持ったことについての事項だと、海馬が活性化されるのだろうか、記憶に多少残りやすい。早速、無線机の上にLONGMANの辞書、仕事場には、OXFORD PEDを備え付けた。交信中に英英辞書を引くのは少し手ごわいが、交信終了後の反省には使えるだろう。

また、英語でのブログも、仕様もない内容を書き連ねているが、できる範囲で続けるつもりだ。ほとんど校正せずにぶっつけで書いているので、幼稚な内容になっているかもしれないが、自己研修の積りだ。時に、交信中に思わぬ方から読んでいるとコメントされることがあり、それはそれで嬉しいことだ。そうした出会いが増えるように、研鑽を続けてゆきたいものだ。

でも、ザルのようになった記憶力との戦いというのが実相なのかもしれない・・・。

若い人々には、生きた英語の能力をつけて、世界に雄飛しようと訴えたい(自分のできなかったことを勧める、初老期老人の繰り言と取られてしまうかもしれないが)。

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