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若き日の日記 

手元に、茶色の表紙のノートがある。20歳台前半に記していた日記だ。仕事場の整理を始めようと、蔵書に触れたら、どこからかぽとっと現れた。10年に一回程度目の前に現れて、若い時期に記した文章にさっと目を通して、こそばゆいような、恥ずかしくなるような気分に陥る。今回も、ざっと目を通して、同じような感慨に耽ったのだが、今回は、若い生硬な文章に辟易するのと同時に、あれ以来、あまり変わり映えしていない、即ち変化が私の中で見られない面があることに気付かされた。日記に、その日その日に聴いた音楽の曲名を記しているのだが、その内容が、今と変わり映えしないのだ。確かに、当時は、フランス近代や、マーラー・ブルックナーの類を聴いてはいないので、多少の変化はあったのかもしれないが、聴くレパートリーが、当時と驚くほど変わっていない。

これは、当時と嗜好が変わっていないというよりも、私の嗜好、それに思考体系が当時出来上がって、そのままという面があることを意味しているのだろう。人間関係等についても驚くほど同じように感じ、行動しているのが分かる。意外だったのが、政治的な関心を殆ど持っていなかったか、二の次になっていた様子であることだ。当時、吹き荒れた新左翼の学生運動が落ち着き、身の回りでも、政治的な関心を持つ人間が殆どいなかった(教養部の元自治会関係者に残党みたいな連中がいたのだったが)。

当時の私からすると、私の現在の世代の人間は、一種別世界の人間であり、あの彷徨う精神状態とは無縁な存在のように見えていた。が、現在、その世代に達しても、自分の内実はあまり変わらない。むしろ、先に残された時間が少なくなったことを日々感じることにより精神の底における逡巡はより深まっているというべきなのかもしれない。でも、毎日の表面的な繰り返しと、一応の生活上の安定が、日常を何事もないかのように送ることを可能にしているのかもしれない。多少の変化があるとすると、残された日々が少なくなったことから、現実への様々な執着が、少しずつ軽くなってきたことか(そうであって欲しいものだ)。

この茶色のノート、もういい加減廃棄して、若い日を思い出すなどという悍ましい出来事からおさらばすべきなのかもしれないが、また10年後にひょこっと現れるように何処か奥深いところに仕舞い込むことにしよう。

それにしても、発達していないようだ、私・・・やはり落ち込む。

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