FC2ブログ

行政の論理と、医療の論理 

産科医療補償制度は、医療機関から集めた300億円の内、60億円程度しか補償に回さず、40億円を事務手数料として使い、残り200億円を毎年内部留保としてため込んでいる。ため込んでいる組織とは、これまで医療機関の認証という怪しく無意味な事業を展開し、医療機関から多額の手数料をせしめてきた、日本医療機能評価機構である。これらの制度を当面変更するつもりはないらしい。

行政は、この成功体験を医療全般に広げようとしている。医療事故調を立ち上げ、それにともない産科医療補償制度を医療事故補償制度に拡大するのだ。それにより、何百億円という内部留保を毎年獲得し、さらに天下り先を確保しようとしている。

行政が、医療を正しく統御し、そこで生じる問題を行政が処理するのだ、それに対する対価として、その程度はあってしかるべきだ、というのが行政の意向なのかもしれない。しかし、10円、20円の収入に右往左往させられてきた開業医だった立場からすると、こうした不正な集金機構、天下り先確保のための仕組みは、到底許されるものではない。特に、医療事故調という医療裁判に直結する仕組みを背景に、このような不正を行うことは、許されない。

さらに、この行政による医療支配は、医療と行政の論理構造の違いから、医療の荒廃をもたらす。それを、小松秀樹氏がMRICで述べておられる。医療は、経験科学として、常に「より正しいもの」「より個別的な解」を求めて試行錯誤しつつ進むものだ。が、行政の思考は、規範から演繹的にものごとを判断する。往々にして、そこには誤った権威主義と、強制力がついて回る。そのような場では、医療の論理は成立しがたくなる。

行政は、民主主義を成立させる社会的なコストと考えるべきだと思うが、行政の組織としての自己目的化と、その論理の及ぶべきでない領域への強制、支配は目に余る。

この中央集権行政が、日本を潰すことになる。



以下、引用~~~


医療事故調問題の本質6:日本のアンシャンレジーム

この文章は月刊「集中」1月号から転載しました。

小松 秀樹

2013年1月14日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
---------------------------------------------------------------------
●科学は認識であり、多様である
日本の学者は行政に極めて弱い(1)。原発ムラの科学者が行政に支配されていたことが、原発事故の要因の一つだった。文部科学省は、混乱を招くことはいけないとする規範を理由に、SPEEDIによる放射性物質の拡散の試算を公表しなかった。このため、原発から北西方向の高度汚染地域に住民が避難した。SPEEDIには科学者が関わっていたはずだが、科学者の声は一切出てこなかった。行政が科学を支配していたため住民の被ばく量が増大した。

学会は本来知的生産の場である。科学は規範ではなく認識である。学会の目的は知的活動を活発にして、知的生産量を増やすことにある。このためには、学問の自由を尊重し、正しさの決め方を、権威ではなく合理性に求めなければならない。科学的議論では、方法と条件が厳密に規定される。科学、特に医学や工学のような実用を目的とした科学では、あらゆることについて適用できるような真理が学問的に成立することはない。学問的真理は、仮説的であり、暫定的である。多様性と批判精神が科学の進歩に必須である。規範を背景に学会の権力者が正しさを決めると、科学と程遠いものになる。例えば、神学的規範は、残虐な刑罰を背景にした宗教裁判によって地動説を退けた。

日本産科婦人科学会の診療ガイドラインは、出産の全過程について望ましい方法を記載している。根拠となるデータが挙げられたとしても、医学論文は、煎じつめれば、一つの条件を変えたときの、二つの群間の比較検討に過ぎない。特殊な条件下での議論であり、想定の幅を広くとれない。多くの選択肢がある中でのベストを示せるような性質のものではない。学問的に、多様性を排除することは不可能としてよい

2012年7月22日、NPO法人医療制度研究会主催による公開討論会の場で、岡井崇医師(昭和大学産婦人科主任教授)が診療ガイドラインについて説明した。学会の委員が提案をして、学会誌で異論を求め、異論があれば議論をし、異論がなければ、異論がないことをもって正しさの根拠としているという。これは政治的権威付けの類であって、科学的正しさの証明ではない。ムラの寄り合いで長老が意見を述べ、異論を雰囲気で抑圧しつつ、強制力のある方針が決められるようなものではないか。討論会の後、知人の外科医が、「つくづく、産婦人科医でなくてよかった」と感想を述べた。私も、学生時代、産婦人科を進路の選択肢に入れなかった理由を思い出した。産科医療補償制度には、日本産科婦人科学会の古い体質が表れているのかもしれない。

●病腎移植
2007年、宇和島徳州会病院での病腎移植が、日本移植学会、日本泌尿器科学会、日本透析医学会、日本臨床腎移植学会によって断罪された。
当時の医療現場では、小径腎癌でも部分切除術ではなく、腎摘出が選択されることが多かった。4学会は、摘出した腎を捨てずに腫瘍部分を切除した上で移植したことを、あってはならないことだと非難した。当時、私は、移植免疫の強さからみて、腫瘍の再発が臨床的に問題になることはほとんどないだろうと推測していた。その後の世界での治療成績は、私の推測が正しかったことを裏付けた。
尿管狭窄では、狭窄が判明した時点で、皮膚-腎実質を通して腎盂にチューブを留置し、尿を体外に誘導して腎機能を温存する(腎瘻)。狭窄部に対するカテーテル治療が成功しなければ手術を考慮する。手術に耐える体力がない、あるいは長期生存が見込めなければ、そのまま腎瘻を温存する。手術する場合は戦線をどこまで広げるのかが問題になる。狭窄が短ければ狭窄部を切除して尿管を吻合する。下部尿管で狭窄が長い場合、膀胱壁を筒状に形成して長さを稼ぐ。私は推奨しないが反対側の尿管に尿管を吻合する方法もある。狭窄が上部尿管に及び距離が長ければ腸管を利用する。自家腎移植(摘出した腎を自分の骨盤内に移植)では膀胱と血管に戦線が広がる。それぞれのメリット、デメリットを患者に説明して、最終的に患者の合意を得て実施すべきものである。私は2001年、手術の教科書に以下のように記載した(2)。

「原則的には戦線を可能な限り広げないほうがよい。手術操作を加える臓器は少なければ少ないほうがよい。健常側を巻き込む手術は望ましいものではない。健常側の腎機能が合併症で失われると取り返しがつかない。剥離の範囲も可能なら狭いほうが望ましい。当然のことながら、吻合も少なければ少ないほどよい。」
当時の日本泌尿器科学会の奥山理事長に、腎摘出を非とする論理が乱暴すぎること、適切な医療の範囲を絞りすぎていること、この問題を学会で討論すべきであることを手紙で伝えた。
「3例の尿管狭窄についてすべて、腎摘出は不適切であるとしています。実際に、尿管狭窄に対して、回腸代用尿管を安全に実施できる経験と能力のある医師は、紹介されてきた患者の経験を通して感じていることですが、大学病院にもめったにいないと思います。また、このような症例に自家腎移植を行ったことのある医師も数少ないと思われます。
ましてや膀胱全摘人工膀胱吻合部の狭窄の再吻合は、経験者として申し上げますが、ほとんどの泌尿器科医には不可能な手術だと確信します。私も途中で断念しました。」
「治療方法を決定する権限を持つのは、本人だけです。腎摘出術を選択肢として提示せずに、回腸代用尿管、自家腎移植、あるいは、人工膀胱尿管再吻合を実施することこそ許されることではありません。教科書には腎摘除も選択肢の一つであると書きました。」

残る腎が健常なら、片方の腎を摘除しても何の問題も生じない。リスクも限定されている。一方で複雑な手術は、戦線に応じた合併症のリスクを伴う。
丁重な返事だけで、実質的には無視された。私自身、当事者ではなかったこともあり、本気で争うことはしなかった。
宇和島徳州会病院での病腎移植については、手続きに問題があった。私は、瀬戸内グループの一部の医師について、移植とは関係のない患者とのやり取りから、手術に固執し過ぎ、患者への説明が不足していると感じていた。手術に固執することと説明不足は大学病院も同じではないか。違いは、大学病院が概して手術が上手でないことである。腎摘出についての合意形成、レシピエントの選択の手続きが適切ならば、病腎移植は有用な方法である。しかし、瀬戸内グループが学会内で正当な手続きを踏んで病腎移植を申請していたとしても、学会の権力者たちが許したと思えない。その後、世界で行われた病腎移植の結果から、有用性はすでに証明されたとしてよい。
2007年の「病気腎移植に関する学会声明」(日本移植学会、日本泌尿器科学会、日本透析医学会、日本臨床腎移植学会)の冒頭には「わが国で行われている生体腎移植は、日本移植学会倫理指針に基づいて、健康なドナー(臓器提供者)から家族を救うために腎臓を提供する移植であり、腎臓も健常であることが前提である。」と書かれていた。自ら決めた倫理規定を根拠に、病腎移植そのものを全面否定した。他者との論争で、自分の決めた倫理指針を自分の正しさの根拠としても説得力はない
そもそも、健康なドナーから健常な腎を摘除すること自体、倫理的に大きな問題がある。家族間の生体腎移植にも大きな問題があり、病腎移植より倫理的に正しいと安易に決め付けることはできない。当たり前のことだが、学会で決めれば、倫理的問題がないということにできるわけではない。
この事件は、ギルドの中で生じた政治権力が、自らの権威の維持のために学問研究の進歩を阻害した不祥事として記憶されることになろう
当時、日本病理学会の代表が、「病気腎移植に関する学会声明」の議論に参加していたが、最終的に名前を連ねなかった。これは、称賛されてよい。

●アンシャンレジーム
フランス革命はアンシャンレジーム(旧体制)を嫌悪しこれを打破した。中間団体が徹底的に排除され、国家と個人が直接対峙することになった。以下に示す1776年のテュルゴ勅令に反対するパリ高等法院次席検事アントワーヌ=ルイ・セギエの演説が、旧体制の雰囲気を見事に示している。
「陛下、陛下のすべての臣民は、王国にさまざまな身分がありますのと同じように、多くの社団に分かれております。聖職者身分、貴族身分、最高諸院、下位諸法院、これら諸法廷に所属します官職保有者、大学、アカデミー、金融会社、貿易会社、これらすべてが、あらゆる分野におきまして、活力に充ちた社団を構成しているのであります。それは恰も長い鎖の一つ一つの輪にも当たるべきものでありまして、その鎖の最初の輪はまさしく陛下の御手の中にあるのであります。このような貴い鎖を打ち砕こうなどという考えは、耳にしただけでも身の毛がよだつでありましょう。商人や手工業者のギルドも、王国の全般的なポリスに貢献するこの分かちがたい全体の一部をなすものと言わねばなりませせん。(3)」。
高村によれば、「絶対王政期の社会は、このように多様な『社団』をその構成単位とする社団的編成を取り、国王は直接に臣民を支配することなく、臣民を何らかの『社団』に属させ、これら『社団』を媒介として初めて統治を実現できたのである。『社団』とは、行政・司法・租税上の『特権』を国王によって許可され、その限りで「自由」を保障されている法人格のことである。(3)」
旧体制下では、社団が特権と引き換えに中央集権を支えた。トクヴィルによれば、旧体制下で、行政的中央集権によって、パリへの一極集中、思考の画一化が進んだ(4)。「行政的中央集権は旧体制の産物であり、付け加えるなら、革命後に残った旧体制の政治制度の唯一の部分である。」「自らの問題を自らの意思で処理し、自らの財産を自由に管理することのできるもの‐都市、町村、小集落、施療院、工場、修道院、中学校‐など一つもなかった。それゆえ、今日と同じく当時も、行政はすべてのフランス人を後見的監督下に置いていた。」「農業改良が進捗しないその責任は、主として、十分な助言も援助も行わない政府にある、と信じる傾向にあった。」「各個人は極度の困窮状態に陥ったとき、政府に助けを求めるのが当然のこととなった。だから、つねに公益を建て前にしながら、実は小さな私益のことしか考えない莫大な数の請願書が現われるのである。」「農民たちは、自分の家畜の被害や家屋の損害を補償するよう求めている。裕福な地主たちは、自分の土地のいっそう有利な開発を援助してくれるよう要求している。企業経営者たちは、不利な競争を回避する特権を地方長官に懇願している。」
フランス革命は、旧体制を嫌悪したが、旧体制のもたらした行政的中央集権をさらに強めた。旧体制以上に、思考の画一化が多様性と自由を奪った
トクヴィルは1835年『アメリカの民主政治』を出版した。以下の文章は行政的中央集権が未来を切り開く個人の活力をいかに削ぐかを雄弁に語っている。日本の衰退の原因について書かれた現代の文章と見まごうほどである。
「中央集権は、日常の事務に規則正しい様子を加味したり、社会的警務の詳細事を巧みに指導したり、軽度の無秩序と小軽罪とを抑制したり、本来退歩でも進歩でもない『現状』に社会を維持したり、行政官たちが良秩序、公安とよびなれている一種の行政的半睡状態を社会のうちに育成したりすることには容易に成功する。つまるところ、中央集権は進んで行うのでなく、防止することではすぐれている。ところが、社会を深くゆり動かしたり、社会を速く前進させたりすることが必要な場合に、中央集権は全く無力なのである。(5)」
「ある権威があるとする。それは、わたくしの歓楽が平穏に満たされるのを見張っており、わたくしの行く先々を先廻りして、わたくしが心配しないでもすむようにすべての危険を免れるようにしてくれる。この権威はこのようにしてわたくしが通過する途上でどのような小さなとげも除いてくれると同時に、私の生活の絶対的な主人でもある。そしてまた、この権威はそれが衰えるときにはその周囲ですべてのものが衰え、それが眠るときにはすべてのものが眠り、それが亡びるならばすべてのものが死滅するにちがいないほどに、それが運動と生存とを独占している。(5)」

●医療事故調問題の本質:全体を通しての結論
日本医師会、日本病院会、日本産科婦人科学会はフランス革命以前の旧体制を彷彿とさせる。国家にすり寄り、国家の僕として、憲法によって国家が行使することを禁止された強制力を、国家に代わって行使しているように思える。産科医療補償制度への参加の実質的な強制、診療記録の提出の実質的強制は、法律に記載されたものではない。行政が行えば、憲法違反になりかねないことを任意の形で強制している
厚労省は、産科医療補償制度に倣って医療事故調を創設し、規範を掲げて、医学会の支配層を介して日本の医療を統制下に置こうとしている。規範は画一化を強い自由と多様性を奪う学問の発展を阻害し、しばしば患者の利益を損ねる。何より活力ある個人の未来を切り開く自由な活動を阻害して、社会を停滞させる。認知的予期類型である医療システムを規範的予期類型である行政システムの統制の下に置くと、医療システムが変容し、進歩が阻害され機能を発揮できなくなる。
医療事故調をめぐる対立は、社会システム間の言語論理体系の違いに起因する。しかも、医療事故調を運営するには、膨大な労力と資金を必要とする。関係者の幅広い賛同なしに無理に制度化を進めると、大きな弊害が生じかねない。

文献
1.小松秀樹:行政から科学を守る. MRIC by 医療ガバナンス学会. メールマガジン; Vol.408, 2012年2月20日. http://medg.jp/mt/2012/02/vol408.html
2.小松秀樹:医原性尿管損傷.馬場志郎,松田公志編,外傷の手術と救急処置.pp29-40,メジカルビュー社,東京,2001.
3.高村学人: フランス革命期における反結社法の社会像 ル・シャプリエによる諸立法を中心に. 早稲田法学会誌, 8, 105-160, 1998.
4. アレクシス・ド・トクヴィル: 旧体制と大革命. ちくま学芸文庫, 1998.
5.アレクシス・トクヴィル: アメリカの民主政治. 講談社学術文庫, 1987.

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/tb.php/2801-d2f8cb44