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3月11日を迎えて 

今日は、東日本大震災から2年目。当時の私の経験と思いの一端を思い出して、英文ブログに記した。圧倒される出来事であったことは間違いがない。こちらにもかいつまんで、感想を記しておきたい。

当日、しばらく目の調子が悪かったので、近くの眼科に昼過ぎにでかけ、診て頂いたところだった。年齢からくる白内障と診断され、少しがっくりきたような、深刻な問題ではなくて安堵したような心地でいた。窓口での支払いを終えようとしたとき、その揺れが突然やってきた。ものすごい地鳴りだった。そして、大きな横揺れ。見える範囲では、室内のものが倒れたり、棚からものが落ちたりはしないようだったが、受付の方などは立っていられぬ様子で、悲鳴を上げ、床にしゃがみ込んでいた。揺れが収まりかけたところを見計らって外に出てみた。電柱がゆらゆらと揺れていた。自分の仕事場に戻ると、スタッフが全員駐車場でうずくまっていた。玄関のガラスは割れ、カルテ棚からカルテがすべて落ちていた。二階の自室に上がると、足の踏み場がなくなっていた。本棚は倒れ、テレビは落ち、チェロがその下敷きになっていた。交流電源は落ちており、水道も使えず。患者も殆ど来なかったと思うが、来院した数名の患者には薬だけをだしたのだったと思う。

暗くなる前に自宅に戻った。自宅の中も、落下物で散乱していた。食器が棚から落ち、ガラス製の品は悉く割れていた。離れの瓦が落ちていた。夜は、トランジスターラジオに耳を傾けて過ごした。水道は2,3日出なかったが、電気は翌日夜には通じたのだったと思う。テレビで繰り返される津波による惨状と、刻々と深刻さを増す原発の状況を、何もする気力がわかない状態で見つづけた。ネットに接続できるようになると、世界各国、とくに米国の友人たちから見舞いのメールが届いた。その一つ一つが心情のこもったもので、涙なくしては読めなかった。1週間ほどして、無気力な状態から脱することができ、無線機を床に並べて運用し始めた。無線機も机が壊れて、床に無残に落ちていたのだが、きっとゆっくり落ちたためか、機能的には問題がなかった。多くの友人から呼ばれ、現状を報告した。中には、これから日本に救援に向かうまで言ってくださる方や、家を開放するから来るようにと言ってくださる方もいた。

結局2万人以上の方が亡くなった津波の被害も甚大だったが、福島原発の事故の進展は、この地域ではまさに自らが関わる事故だった。次男が、原発から60km西の福島にいた。我々の住処も、原発から南西に120kmしか離れていない。原発の爆発時に、SPEEDIによる予測を公表しなかった行政の隠ぺい主義は、今後ともに糾弾されるべきだろう。水戸にある茨城県立小児病院では核医学施設のアラームがしばらく、鳴り続けていたと報告されている。原発事故により飛来した放射性元素による反応だったのだろう。放射能プルームは、飯館村方面北西方向と、海岸沿いに南下したと言われている。原発爆発後2週間程度の各地での被曝状態の記録が残っていない。折しも、福島県当局は、各地での原発事故直後の被曝記録を削除してしまった、と先日公表した。この最初の外部被ばくによる、小児への影響は、今後とも慎重に観察し続ける必要がある。

丁度放射能プルームが当地を過ぎ去る頃、私は、必死になって草むしりをしていた。何かへの怒りをぶつけるかのように。その後の政府、地方自治体の対応には、疑問となることが多い。特に、原発については、この事故により、重大事故の場合には対応不可能になることが明らかになったわけだから、原則廃炉にすることという結論になるべきはずだ。だが、発電コストの問題等から、原発発電を何とか続けようとする蠢きが、政財界ではまだ見られる。時が経つに従い、それはよりあからさまになってきている。パラダイムの変換が必要とされるのに、である。

だが、この災害は、私自身の生き方にも大きな変化を要求してもいるのだろう。1万5千人nの方々がまだ避難生活を余儀なくされ、そのなかのかなりの方が故郷を失おうとしている。想像に絶する負担と悲しみなのだと思う。それをどのように受け止め、自らの生き方に反映させてゆくのかが重く問われていると、痛感している。

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