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不幸の均霑 

先日、所用があって高松に出かけた。夕食にありつこうと、夕暮れを過ぎた高松駅近くをうろついたが、一杯飲み屋しか見つからない。夕飯はホテルで摂ることに決め、本屋に入った。本屋の本棚から本を手に取り眺めるのは久しぶりだ。三冊ほど文庫本を購入。その一冊が、角川oneテーマ21という変なシリーズ名の一冊「戦争と日本人ーテロリズムの子どもたちへ」だった。加藤陽子と佐高信の対談である。

戦争と国民の関わりを、わが国の近代史から論じたもので、大変面白い内容であった。特に、印象が残ったのが、日本で戦争責任を正面から国民が論じようとしない背景についての議論だ。日本では、戦前徴兵制だったが、徴兵されるのは当初30人に1人程度だった。だが、戦争遂行とともに徴兵はどんどん拡大され、最後は学徒出陣まで進むことになる。その徴兵の拡大を行う際に、当局は、表面上徴兵を「公平に」行うようにして、対象を拡大していった、ということだ。いわば、「不幸の均霑」を実現していったのだ、という。

これは、官僚機構の好む手法であり、現在のセーフティネットの引き下げの議論等にも、しばしば登場する論法だ。年金受給者の方が、生活保護受給者よりも、受給金額が少ない、だから、生活保護をもっと減らそう、という類の議論だ。「不幸の均霑」の論法は、大衆の支持を得やすい。そこを利用するわけだ。

で、私が以前から疑問に思ってきたことの一つも、この本に記された議論から学ぶことができた。わが国においては、戦争責任がなぜ国民的な議論にならなかったのかという問題だ。徴兵されることによって、一人前の国民と認められるという側面もあったが、国民の大勢は、できれば徴兵されたくないという意識が強かったようだ。特に戦争末期一年半ほどは、徴兵により、国民は酷い目に会うことになる。それで、自分の意志とはかけ離れた戦争という意識が国民に植え付けられ、そのために戦争責任を自らの問題として考えることがなくなってしまったのではないか、ということだ。

中国や韓国では、日本の戦争責任を問う声が今でも多くある。その一部は、当局が、自らへの批判をそらすためであるのかもしれない。また、経済的な困窮から、比較的裕福なわが国に経済的な見返りを求めて、ということもあるのかもしれない。だが、戦争責任を国民が考え、きちんとその総括を行うことが、まだわが国で行われていないことは確かだろう。それが、安易で薄っぺらなナショナリズムが唱道される背景になっている。国家権力とどのような距離を置き、また国を本当に愛するためにどのようにしたら良いのか、改めて、考える必要があるのではないだろうか。それを行わないと、また「不幸の均霑」の論理で、徴兵制が復活し、戦争への道筋を歩みだすことは十分あり得る。自民党は、その憲法草案において、軍法会議の設置を謳っている。徴兵制を見据えていることは明らかだ。国家権力の論理に絡め取られる前に、この歴史からの問いかけに答える必要がある。

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