歩く 

このところ、チェロを練習する自分の姿をデジカメで映像化することに少し凝っていた。やはり運動不足、それに過剰カロリー摂取のためだろうか、体重が増えているのが分かる。体重計の電池が切れて、計測しなくなってしばらく経つ、庭仕事で汗だくになるが、やはり体重移動を伴う運動でなければ、カロリー消費はさほどないのだろう。

以前行っていた、夜間の散歩を再開した。夜、むっとする大気のなか、一陣のそよ風が吹き抜ける。杖替わりの木刀を手にして、ひたすら歩く。余計なことを考えずに歩くようにする。この散歩は、お気軽な短距離でしかないが、もしかすると、四国遍路も、本質的には、歩くことに集中するという点で同じことなのか、と考えた。四国遍路の旅には惹かれるものがあるが、私がそれを行うとすると、一種の過剰宗教性に陥ってしまうのではないかという思いもある。当面は、この田舎でせっせと歩くことだ。

もう20年以上前に亡くなった、藤枝伯母のことを思い出した。彼女の人生と、彼女が起こした結核サナトリウムのことは、このブログの最初の方で記した。彼女は仙台で学校に通っていた頃、結核に自身が冒され、それを契機にキリスト教の信仰に誘われた。やがて、病も癒えて、この生まれ故郷に戻り、松林のなかに小さなサナトリウムを開いた。今私が住んでいる場所だ。冬至は、戦争中であり、さらに結核の治療薬がなく、結核は死の病と恐れられていた。身寄りのない結核患者を引き取り、数名のスタッフで彼らを看護し、その生活を援助した。敗戦となり、やがて結核の治療薬が出現、そのサナトリウムの社会的必要性がなくなると、彼女は、施設をたたみ、愛知県渥美半島のとある小さな町に新天地を求めて移住した。日本地図を眺めて、日本の丁度中間部にあたる辺りということで、身寄りも何もないところに移住先を決めた、と後になって聞いた。そこで、子供相手の塾を開きながら、キリスト教の伝導を行って残りの生涯を過ごした。もう身内の少数の者しか彼女のことは覚えていない。が、身内のひいき目を排除しても、やはり傑出した人物であったと思う。彼女は、一族の精神的な柱のような存在だった。私は中学から高専の時期、夏休みごとに、遊びにでかけしばらく彼女のもとで過ごした。

前置きが大分長くなったが、彼女は朝夕付近の畑道をせっせと歩いた。小柄な体で、少し前かがみになり、せっせと歩くのだ。当時の渥美半島は、痩せた砂地の地質で、畑もあまり多くはなく、荒れ野になっているところもあった。時には、半島を横断して、太平洋岸に出ることもあった。人家は殆どない。緩やかな起伏の痩せた土地の間の細い道を、せっせと歩くのだ。私も何度か一緒に歩いたことがあった。あの当時は、健康を考えて、歩いていたのだろうとしか思わなかったが、あの集中して歩くことにはそれ以上の意味があったのかもしれない、と今になって思う。彼女を理想化するわけでは毛頭ないが、彼女は、世の中の名声や富等とは無縁で、それらを求めることは微塵もなかった。自らの信念に忠実に生きたのだと思う。あの集中して歩く姿は、その生き方を反映していたのだと今になって思う。

さて、信念を持って生きてきたとは言い難く、意志薄弱な私だが、どれだけ続けられるか。今のところ、歩くことを楽しく感じられるし、できる範囲で歩き続けて行こう。

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