Carmel Impresarios 

Carmel Impresarios とは、「カーメルの興行師たち」という意味だ。そのタイトルの本がある。サンフランシスコから南に車で3時間程走ったところにある、リゾート地、カーメル。そこで、1935年以来、戦争中の一時期を除いて毎年夏、綿々と開催されてきたバッハ音楽祭の記録である。

この音楽祭のことは、サンノゼ在住の旧友Bob Warmkeから教えて頂いた(この経緯は、すでにこのブログでも記したはず・・・)。バッハのマタイ受難曲が彼との間で話題に上り、私は、学生j時代に、シュトットガルトバッハアンサンブルを率いたヘルムートリリングの演奏を聴いて、感動したことをBobに話した。すると、彼が、この音楽祭で、リリングの指揮するマタイを聴いたことがある、というのだ。当時リリングは、オレゴンの大学で教鞭をとっており、この音楽祭に定期的に指揮をしに来ていたらしい。リリングのあたたかな演奏にこころ動かされたことを話すと、Bobは、リリングが結構陽気な方でワインを飲みつつ談論風発だったという思い出話をしてくれた。レギュラーに聴衆として参加する方には、演奏者と食事を一緒にするように招待されるらしい。リリングとマタイの思い出を通して、Bobとはさらに親しくなったような気がする。

一昨年だったか、Bobから、この本が発刊されたことを教えてもらい、私も取り寄せた。読み始めたのは、昨年夏。少しずつ読み進め、1昨日読了した。David J Gordonというテノール歌手が、関係者からの聞き取り、様々な資料、特に新聞記事等を丹念に集め、カーメルバッハ音楽祭にかかわる出来事、人物・・・とくに、創始者の二人の女性・・・についてまとめた力作である。本の紹介はこちら。原書というと、残るページ数が早く減らないかと思いつつ読むことが多いが、この本は、そうではなかった。あとこれだけで終わってしまうと思いつつ読み進めた。この前に読んだ、Reunionに対するのと同じ気持ちだった。

筆者のGordonが、1982年6月、サンフランシスコからレンタカーを借り、101号線を一路南下、カーメルに向かう場面の記述から、この本は始まる。この道は、これまで二度ドライブしたことがある。サンタバーバラのelmer Merle K6DCを訪れるためだった。懐かしい道とその周囲の情景が目の前に浮かび、私は、物語に引き込まれていった。彼が、カーメルでバッハ音楽祭のオーディションを受けるために向かっていたのだ。その後、バッハ音楽祭に深くかかわるようになった筆者は、カーメルバッハ音楽祭の歴史と、それが成立し継続したのはなぜなのかを探求し、それをまとめた。

カーメルの記載された歴史は、スペイン人がモントレー湾に来航した16世紀に始まる。19世紀になって、ゴールドラッシュが始まり、それに伴い、この音楽祭の二人の創始者Dene Denny, Hazel Watrousの祖父母が東部からやってくる。最初は、パナマを経由した長旅だったようだ。また、わずかな資産を持ち、例の幌馬車で二か月もかけて西部にやってくる人々もいた。比較的恵まれた青年期を過ごした、二人の創始者はベイエリアで教育を受け、Deneはピアニスト、音楽教師として、Hazelもデザイナー、教師としてキャリアーを始める。、やがて、サンフランシスコで出会った二人は、共同で様々な事業を始める。カーメルで、当初演劇の興行を始めるが、やがて音楽興行に重点を移す。音楽演奏を楽しむ機会を提供するだけではなく、周辺住民の教育、音楽参加を試みるようになる。毎年夏定期的に行っていた、音楽会を、1935年、バッハ生誕250周年記念の年にバッハの音楽を主に演奏するバッハ音楽祭を開催することになる。驚いたことに、バッハにしたのはたまたまだった、ということだ。Deneはピアニストとして、現代音楽の演奏に力を入れており、西海岸でのシェーンベルクの作品演奏を最初に行ったりしていた。最初は、演奏者、楽器ともに不足しており、またアマチュアが主体であったコーラスは力不足で、難しい曲目は演奏できない、ということもあった。が、徐々に、演奏者、楽器編成ともに充実し、また優れた指導者にも恵まれ、安定した音楽祭に成長した。DeneとHazelは1950年代に相次いで他界した。それ以降も、良い指導者のもと、ボランティアに支えられ、アマチュアとプロの演奏家の混成の演奏家が、この音楽祭を維持、発展させている。・・・といった内容。

この本を読んでの感想をいくつか・・・

まず、この二人の女性の志しの高さ、さらにエネルギーに圧倒される。当時、米国に会っても、女性は家に入り子育てと家事に専念するというのが、世の中の常識的な女性の生き方だったのではなかろうか。そうした、常識を超えて、自らが大切に思うことにまい進していった、彼らに驚かされる。彼らのバイタリティを受け入れ、共鳴するものが、当時のアメリカ社会のなかにあったことも見逃せない。

1930年代は、ご存じの通り、大恐慌時代であり、この音楽祭の運営も厳しい面があったようだ。恐らく、音楽家の多くが苦しい生活を送らざるをえなかったのではあるまいか。Deneは経済的に恵まれていた様子だが、当時のルーズベルト大統領は、Federal Music Projectという政策を打ち出し、各地に公立のオケを立ち上げ、そこで音楽家を雇用した。このプロジェクトに、当時のバッハ音楽祭で指揮を執っていた方も参画している。それは、音楽家を経済的に救済すること以上に、音楽によって社会の可能性を引き出そうとしたのではなかろうか。こうした政策を打ち出す政府を許容し、支持する社会の懐の深さもあったに違いない。それと、同じように社会が音楽文化をはぐくみ、それによって活力を得ようとする社会の奥行が、この音楽祭を生み、育んでいったのではないだろうか。筆者も、最後のパラグラフで述べているが、社会とともにある、ということによって、この音楽祭が続き、発展していったのだろう。

クラシック音楽演奏が、20世紀初頭当時どのような位置にあったのかも、興味深かった。ヨーロッパに音楽の勉強にでかけたような、当時の優秀な演奏者であっても、単独の演奏会を開くということはあまりなく、ヴォードヴィルのプログラムの一つとして、演奏をする機会を得ていた、ということのようだ。恐らく、1930年代以降、徐々に、音楽がより大衆化し、広範な人々から支持されるようになり、クラシック音楽の音楽会が開かれるのが普通のことになっていったのだろう。上記のFMPによって設立された公的なオケのいくつかは、その後地域立や私立のオケになり発展していった様子だ。

20世紀初頭は、所謂現代音楽が現れた時期でもある。Deneは、シェーンベルクを始め、現代音楽に造詣が深く、そうした現代音楽を好んで演奏していた。当初、Cowellという作曲家も、DeneやHazelの事業に深くかかわっていた。それ以外にも、多くの現代音楽作曲家の名が現れては消えてゆく。作曲という芸術活動は、何時の時代も同じだったのかもしれないが、そうした現代音楽作曲家が、やがて時間が経つとともに、忘れ去られてゆくことを、この本を読みつつ、改めて確認し、何とも言えぬ寂寞とした思いに囚われた。とびぬけた才能が、適切な機会を得て、初めて世の中に受け入れられ、さらに時間の検証に耐えて残る。それはごく少数の作曲家だけだ、ということだ。

バッハ音楽祭では、先に記したように、演奏家、楽器の制約から、オリジナルの楽器を別なものに置き換え、さらに演奏する部分を限定して、当初出発した。驚いたのは、オーボエ奏者が手配できず、しばらくクラリネットで代用していたということだ。でも、徐々に体制が整い、1950年代になるとロ短調ミサ全曲をオリジナルの楽器編成で演奏するようになったとある。最初、宗教曲の多くの歌詞が英語への翻訳で演奏していたものも、やがて原典通りになってゆく。米国の演奏家、徴集のプラグマティズム、それに根気強さも感じることができる。

だらだらと書き連ねてしまった。今も、多くのボランティアに支えられ毎年夏開催されるこの音楽祭。これまで続き、発展してきた要因は、先にも述べた通り、皆とともにある、ともに演奏し、ともに聴くという、Dene、Hazelお二人の生き方にあるのだろう。いつか、Bobとともに、この音楽祭にでかけてみたいものだ。

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/tb.php/3454-52403813