障害者を排除するという思想 

相模湖近傍の障害者施設で、悲惨な事件が起きた。容疑者には、何かしら精神病質な偏りを感じるが、重度障害者は抹殺されるべきだという強固な意思があったようだ。殺害された方も、重複障害の方ばかりであったという。

小児科医として、また人間として、このような障害者を排除すべきだという考えは到底容認できない。その理由は;

○人間の優劣の判断は、あくまで相対的なものである。とくに、資本主義社会にあっては、生産活動に携われるかどうかという点のみで判断されることが多く、それは人間の属性の一つを相対的に見ることでしかない。一度きり、一個だけの生命という点からしたら、そこに差異はない。

○人は、すべて何らかの遺伝子上の異常を保有している。遺伝子レベルでは、大きな差異はない。遺伝子の表現型に若干の差異があるだけで、誰であっても遺伝疾患による障害者に生まれる可能性がある。

○障害を持つお子さんと接してきた経験からすると、障害児を持つ大多数のご両親、特に母親は、お子さんを育てることに心身をささげ、家族も団結している。これは、普通の家庭ではあまり見られぬ特徴だ。逆説的な言い方になるが、障害児がそのご家庭に生まれることによって、家族がまとまり、障害児を中心に生きている姿は、神々しくさえある。

以上から、障害者を差別することは断固として反対である。

障害者を虐殺した政治体制は、ナチスである。ナチスは、優秀な形質のドイツ人を残すためと称して、障害者を多数抹殺した。この容疑者の思想は、ナチスのそれそのものだ。優秀な形質を残すなどというのは、根拠のない無意味な考えに他ならない。

容疑者は、極右の政治家、文化人をツイッターでフォローしていた、と報じられている。直接の関係はないのかもしれないが、極右の人間たちと、この容疑者は、深いところでつながっている可能性がある。

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Re: 命の尊さの理由を問う

コメントをありがとうございます。おっしゃられる通りだと思います。我々の命に意味を与えるのは、この世を超えた超越的な存在しかありえないと私も思います。もしかしたら、貴兄は私のことを個人的にも知っていらっしゃる方ではないか、と想像していますが・・・私は、20歳前後、無教会の高橋三郎先生の集まりに4、5年通わせていただいたことがあります。最終的に、「この世の中の事」に忙しくなってしまったのと(そんなの理由になりませんね)、もう一つは、自分が選ばれた存在ではないのではないかという疑いに抗しきれず、集会から去ってしまいました。あと、一部のクリスチャンに見られた過剰宗教性にも反感を持っていました(これは今ではどうでも良いことだと思えるようになりましたが)。今も、シモーヌ ベイユではありませんが、エクレシアの入り口に佇んでいるような立ち位置におります。

もう一つ、宗教的信念でものごとを片づけると、ものごとを簡単に済ませすぎるのではないか、という思いもあります。キリスト教から離れて長い時間が経ち、その信仰について学ぶこともなくなってしまったものが、生意気なことを言うようですが・・・。

いつかブログにも記してみたいと思うのですが、戦前の体制、そして戦争が現実のものとなる前に、日本は経済的に立ち行かなくなるのではないかと思っています。じゃぶじゃぶに市場に金を注ぎ込み、国の借金は膨らむばかりという状況で、安倍政権はさらに金融緩和と財政出動を続けるつもりです。その時がいつ来るのかは分かりませんが、経済的破綻が生じる、その時に未来の設計が描けるのか、描くとして何を描くのか、我々が次の世代のために考えておくべきことなのではないでしょうか。

いつも拙ブログ、お読みくださっているようで、恥ずかしいような、うれしいような・・・またコメントを下さると嬉しいです。ありがとうございました。

宗教の危険

ご返答をありがとうございます。
おっしゃる通り、信仰者の独善的な言動の行き過ぎに、私自身辟易する所があります。もちろん自戒を込めてですが。
 また「宗教的信念でものごとを簡単に済ませてしまう」という指摘も、痛感する所で、見事に宗教の陥りやすい危険を見抜ておられます。バルトがキリスト教は「宗教」ではない、と言う時、そのあたりを念頭に置いていたのでしようか。また、森有正がその著書「内村鑑三」の中で、彼を「原型的人間」また内村を「全能の神の前に責任を負う霊魂」と呼んだように、真の信仰の原点、行きつく所はそこにあるのでしょうか。
 「自分が選ばれていない存在」という意識は、無教会特有の厳しさ、ある意味過度の選民意識に押しつぶされたからでしょうか。
 特定の神を信じないが、「超越的存在」はいるという意識は、かなりの人の共通感覚ではないかと思います。しかし私は思うのです。「名前」で呼ぶことのできない存在は、私たちにとって「観念」ではないか、と。それはその人にとって直接かかわりのない存在ではないか。名前で呼び合うことが出来なければ、人格的・個人的な交わりを持つことが出来ません。
 私も親がキリスト者で、いやおうなしに聖書の神を知らされて育ちました。私は何と疑いもなく、教えられるままに信じて60の坂を登っています。母の後ろ姿に、母の信じる救い主を認めることが出来ました。しかしここ数年、自分の信仰のなさをつくづく痛感している所です。今頃になって、主イエスの・キリストの福音というものは、到底理性では受け入れがたい者であることを痛感します。だから信仰を持ち続けられるとしたら、それは神の恵みによるのだと思います。関根正雄が、「無信仰の信仰」という言葉で、自らの信仰を表現しており、量義治がそれを「無教会の論理」「無教会の展開」で論じています。私は初めは、「無信仰の信仰」がビトン来ませんでしたが、最近少し、実存的にわかるようになりました。
「無教会の展開」の中で、高橋三郎と興味深い対話(高橋の「十字架の言」の中で戦われた議論)が記されています。高橋は、どうも納得していないように受け取れました。―高橋氏は、私が直接教えを受けていない歴史的人物なので、敬称をつけないこと、ご容赦ください。-
 長々と駄文を記しました。私は曲がりなりにもいや恵みによってキリスト者である、と思いますが、管理人様に共感・同感いるところが多々あります。このブログの愛読者として、少々管理人様の歴史に深入りしたかもしれません。信仰者だからと言って、何もかもが鮮明なのではありません。「生きるとは」これを残された人生で問い続けることと思います。

Re: 宗教の危険

深い消息のお話をありがとうございます。たしかに、名前で呼べぬ超越者は、観念の産物なのかもしれません。私の微温的なところをしっかり突いていただいたような気がしています。時間がかかるかもしれませんが(残された時間は長くはないのですが)、また「最後」に属する事柄についても学んでゆきたいと思います。父親が残してくれた「十字架の言葉」も書庫に眠っていますから・・・。無信仰の信仰という地点に立てることが果たしてできるものでしょうか・・・。ありがとうございました。

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