マーラー 交響曲第九番 

マーラーの交響曲9番を、最近しばしば聴く。かなり長大な曲なので、正直なところ、緊張感をもって聴きとおすことは難しい。が、終楽章が白眉の音楽だと思う。第10番が未完成に終わったことを考えれば、この交響曲が彼の最後のまとまった作品と言えるのだろう。それでも、終楽章は、マーラーがいつもやるように、手を加えることが少なかったようで、彼のオーケストレーションの重厚さに欠けるところがある、と解説には記されている。だが、それだからこそ、彼の飾らぬ思いがこの楽章に表現されているともいえるのかもしれない。

この音楽のテーマは、死からの解放だったのだろう。当時の時代思潮も、「死」にまつわる思索、表現にあったと言われている。それに加えて、マーラーのやや強迫的なまでに死からの救いを音楽に求める生き方が、この交響曲に結実したと言える。終楽章の第四小節に初めて現れる16分音符からなる動機が、全体を通して繰り返し現れる。これが、人の呼吸または何らかの生命現象を表現しているように思えてくる。索漠とした響きが、慰めと表裏一体になって、音楽が進行する。最後は、曖昧模糊として意識が遠のく状況を表現しているかのようだ。チェロのソロが最後の呼吸の動機を繰り返し、消え入るように音楽は終わる。最後の小節の表情記号は、eresterbend・・・あたかも死ぬかのように・・・である。この表情記号をマーラーはほかの作品でも用いているらしいが、この曲では、最終的な場面で大きな意味をもつ指定になっている。

アバドが2010年、亡くなる3年ちょっと前に残した録画がYoutubeで視聴できる。ルツェルン音楽祭という夏の間スイスのルツェルンで開催される音楽祭のオーケストラの演奏。錚々たる面々が参加していることが分かる。アバドは、死は生の実存の一側面に過ぎないと述べたと言われている。この曲を振る彼の表情は、死と抗うことなく、生きることを示しているように見える。時に微笑みを浮かべて・・・。終楽章の最後は、明かりを徐々に暗くし、指揮を終えてから2分間ほどの沈黙を守る。

この歳になり、人生の有限性を改めて感じる。身体的、知的能力が徐々に衰えてゆく。その最後は死である。アバドが、この作品の演奏で死を受け入れたように、自分も死を受け入れらるか・・・分からない。だが、若いころのように、死と抗うことはしなくなるのではないだろうか。若い時代の死の観念は、その苦しみと恐怖への思いは、自分の人生が完成されぬままにこの世界を去ることであった。だが、人生が完成したとはとても思えないが、十分に生きたという思いは、現在ある。もちろん、死が差し迫ってくれば、私を構成する細胞の一つ一つが死に抗い始めるのかもしれないが、若い時ほどには無念の思いは強くないのではないか、と思える。マーラーの死の観念をアバドが受け止めたように、自分も受け入れることができるだろうか・・・。

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