歳をとるということ 

昨夜というか、今朝早く、ラジオ深夜便で澤地久枝がインタビューに答えていた。満州からの引き揚げの経験を語っていた。餓死と隣り合わせの生活である。酷い生活のなかで中国や朝鮮の方から受けた親切のことも述べていた。

そのような彼女の経験とともに、私にとって印象的だったのは、彼女が「言葉が逃げる」ということを語ったことだった。何かを記す際に、言葉が出てこない状況を彼女はそのように表現していた。そこにあったはずの言葉がない、どこかに逃げてしまった、後姿は見えるのだが、全体が見えない、ということなのだろう。

彼女は86歳。年齢のためだと本人は言っていた。その通りだと思う。私も最近それを頻繁に経験するようになってきた。最近、立て続けに、古くからの無線の友人と7メガで長いおしゃべりをした。彼は知的な能力とCW能力に優れたnativeである。だが、交信中にこちらの言っていることが理解できていない様子が何度かあった。混信か何かのためかと思い、少しスピードを落とした。それに彼は敏感に反応し、受信している際に意識が別なことに飛んでしまうことがある、また短期記憶が昔ほどよくなくなってしまった、そのために送受信に支障がでることがあると率直に語った。こうした自己認識ができているので、認知症では決してないと思ったが、でもやはり加齢現象から彼でさえ逃れられないのだと改めて思った。彼も、もう70歳代後半だ。

私自身も「言葉が逃げる」ことをしょっちゅう経験している。個人差はあるかもしれないが、電信による会話がちゃんと成り立つかどうか、またはその能力が大きく減退し始める年齢は、70歳前後なのかもしれない。特に我々non nativeにとっては、加齢とともに英語の知識が抜け落ちてゆく。さらに、相手への関心が持ちにくくなる。様々な老化現象が顕在化するわけだ。

それに抗するためにどうしたら良いのか。これも当たり前のことだが、電信での意味のある交信を続ける、相手への関心を持ち続けるように、相手の置かれた状況と相手自身への興味を持ち続けることだろう。慌てふためくことはないが、残された時間は長くはない。

それでも、能力は徐々に衰えてゆく。それは、大胆に受け入れることだろう。澤地女史も、「これが86歳なのよ」と言っていた。恐れず騒がず、加齢現象もありのままに受け入れることだ。

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