死にゆくときの孤独 

昨日、姉から便りがあり、以前ここにも記した若井晋氏の、奥様による現況報告のコピーが同封されていた。どこかの教会の雑誌に寄稿された文章だ。

病状は確実に進行し、寝たきりになっておられる由。コミュニケーションも取りにくくなっている様子。だが、お子さんが帰郷された際などには、関心を示されるようだ。

若井晋氏が自らの病気を公表したことを知らせるインタビュー記事、こちら。涙無くして読めないが、読む我々の方が慰められ、力づけられる。

たまたま、先日、義理の両親の見舞いに出かけた車中で、神谷美恵子女史の「ケアへのまなざし」という論文・エッセー集を読んだ。そのなかに「自己の死と孤独」と題する文章があった。死に行く際には、周囲の者と、死という隔たりができる、その時に死にゆく者は絶対的な孤独に陥る、という内容だ。神谷女史は、らい療養所で、精神科医を長く勤め、死に行く人々を多く看取った。そうした人々への静かであたたかなまなざしを、この文章から読み取ることができる。死のありようを三つに分類し、さらに死にゆく際の孤独感に付随する様々な問題とその対処について記している。しかし、基本的には、死という生とは別な次元に移る際の絶対的な孤独感は、精神療法で対処することはできない。この文章とは別の文章に記されていたことだが、そうした死にゆく人に対してできることは、そっと手を差し伸べることだけなのではないか、ということだ。

この死にゆくときの孤独感について読んだときに、私の脳裏に廻ってきたのは、マーラーの交響曲9番4楽章のyeddishによる旋律であった。ワルターによるマーラーの最晩年の記述によると、マーラーもその絶対的な孤独に苛まれた様子が記されている。9番の交響曲は、そうした事態になる前に作曲されたものだったと思うが、マーラーの人生を通じて最大の問題であった、死の受容は、この音楽にすでに表現されていたように思える。

若井晋氏・・・昔は気安く若井さんとお呼びしていた・・・も、その孤独を生きておられるのかもしれない。献身的に看病なさっている奥様に支えられ、彼が生涯をかけて生きてこられた信仰により頼み、平安な時間を過ごされることを、こころから祈りたい。



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