母の介護記録 

母は70歳台から認知症に冒され、94歳で亡くなるまで、徐々に短期記憶能力を喪失していった。幸運なことに、その人格の中心は最晩年まで保たれた。最近、両親の残した書類や書籍を処分し、また保存することを続けてきた。父が逝ってのち、母は離れで数年間を過ごした。デイケアに通う毎日、多くのヘルパーの方々、私の姉、弟それに義理の妹等が母の面倒をみる手伝いをしてくださった。ヘルパーの方が、家族あてに毎日記してくださった記録の束が出てきた。それには、二三行の短い文章であったが、母がデイケアに出かける前後をどのように過ごしたかが、的確に記されている。朝、デイケアに出かけるまでの時間、庭を悲し気な面持ちで眺めていたが、デイケアの迎えが来ると、元気いっぱいに出かけて行ったとか、「こぶしの花が咲くころに、サツマイモの苗を植えると良いんだよ。」とヘルパーの方に語り掛けたとか、当時の様子がまざまざと目の前に広がるような記述である。通りに面した花壇に腰を掛け、あたかもすでに亡くなっていた父の帰りを待つかのように、時折道行く人々や車を長時間見守っていたこともあった。姉や、弟夫婦が来る日は、とりわけ元気にしていたようだ。そうしたことも記されていた。

母がヘルパーの方々に愛され、ヘルパーの方々が母のために尽くしてくださったことが良く分かる。母の面倒を見てくれたヘルパーの方々に、そして遠くから通って母と生活を共にしてくれた親族に、こころが深い感謝の念であふれる。母の介護が私たちの手に負えなくなり、近くの施設にお願いしなくてはならなくなったときに、弟のたっての希望で母は、仙台に旅立っていった。あちらで弟夫婦、そして介護施設に2年間ほどお世話になった。そして、あの大震災に見舞われる。二、三日暖房のない施設で過ごし、それ以降徐々に健康を害し、震災の翌月に昇天したのだった。見舞ったのは、亡くなる前の日だったか、こちらに戻りたいと泣きべそ顔で懇願されたときには、正直申し訳ない気持ちで一杯になった。だが、それ以外の時には、家族を心配し、笑顔まで見せていた。親族が病室から席を外していたわずかな時間に、ふっとろうそくの灯が消えるように、永遠の旅に旅立っていったのだった。

以前にも記したことをまた繰り返してしまった。このヘルパーの方々の記録が、たかだか10年ちょっと前の日常の記憶を、まるで昨日の出来事であるかのように蘇らせてくれた。あの数年間の母の最晩年、母としては、ただ生かされた時間を生きただけだったのだろう。だが、残された我々には実に多くのことを語り掛け続けてくれているように思える。

時が何と早く過ぎ去ることだろうか。

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