歴史的な転換点 包摂型社会から排除型社会へ 

世界的に見られるマイノリティ、社会的弱者を排除する社会的な動きは、大きな潮流になりつつあるようだ。

それが生じた理由の一つは、資本主義社会が突き当たっている壁だ。資本主義社会の原動力は、利潤の追求だ。その追求の場が、地理的なフロンティアからネット空間に移行した。現代の資本主義の先端は、ネット空間の金融資本主義にある。だが、それもリーマンショックをもたらし、金融機構の信用不安を生じた。現在、再びネット金融資本主義はバブルを生じつつあり、米国トランプ政権の銀行金融業の規制緩和によってそれが加速し、やがてリーマンショック以上の金融破たんが生じる。こうした資本主義社会の直面する壁は、低成長と長期金利の低下に如実に表れている。先進諸国は、おしなべて低金利、場合によってはマイナス金利に陥っている。これは、資本主義社会の利潤追求が壁にぶち当たっていることを示している。

20世紀の二つの世界大戦を契機に、国民国家は、国民福祉を主要な目的としてきた。だが、上記のような経済社会的な限界に突き当たり、国民を包摂する社会を放棄しつつある。代わって登場しているのが、少数者・社会的弱者を排除する排除型社会だ。社会福祉は縮小され、すべてにおいで自己責任が強調される。そこで、経済格差に苦しむ国民は政権に対する批判を行い、場合によっては犯罪が横行するようになる。

こうした動きは、国際社会のなかでも同様な構造で起きる。宗教・文化的対立、資源確保の争いも混じり、テロリズム・宗教原理主義の武力抗争が局地的に進行する。

そのような文脈で見てみると、「安保法制、特定秘密保護法、共謀罪、緊急事態条項を含む憲法改正」という一連の流れが、明瞭な歴史的意義をもって目の前に現れる。わが国の場合、天皇制に宗教的な意味を付与し、それを中心に国民をまとめようとする歴史修正主義にたつ政治家が政権を握っている。彼らは、その戦前の皇国史観に立つ国家主義によって、この歴史的な変換点を乗り切ろうとしているのではないだろうか。その具体的な社会の在り方は、思想的な管理を伴う排除型社会となる。そこでは、国民の主権はおろか、基本的人権は認められぬ社会だ。

権力を持つ側は、いわば歴史的な転換点にたって、自らの信じるところを実現しようとしている。それを、国民の側はどう理解し、対応するか、だ。これまで通り、権力者と官僚とに無批判の信頼をおき、すべて預けていて良いのかどうか、という問いだ。この先に進むと、引き返すことができなくなる。

朝日Web Ronzaより引用~~~

続・「共謀罪」が成立すると、どんな社会になるか
恐怖が、究極の監視社会への原動力(一部引用)
斎藤貴男

 エドワード・ルトワク(引用者注・アメリカの歴史学者)によれば、包摂型社会から排除型社会への移行から、次のような二つの事態がもたらされる。すなわち、一方では貧困層がたえず相対的な剥奪観を抱くようになり、そのために犯罪が増加の一途をたどっている。他方では、比較的裕福な層の人々も不安定な状態に置かれて不安を抱くようになり、法を犯すものにたいして不寛容と処罰をもって処すべきという意識が高まっている。犯罪の増加と処罰の厳格化という、私たちの社会が直面している二つの事態は、同じ根っこから生じたものである。

 ヤングの議論は、世界を席巻し、あらゆる国々の階層間格差を広げている新自由主義イデオロギー分析の延長線上にあった。家庭環境や経済力次第で人それぞれスタートラインが異なる現実を無視し、あたかも正当な競争のように見せかけ、にもかかわらず自己責任原則を絶対のルールだと演出する新自由主義のシナリオは、イコール社会ダーウィニズムと同義と言って過言でない。ダーウィンの進化論を人間社会に丸ごと当てはめ、社会的地位の高い人間は優れた人間、低い人間は劣った人間と見なし、“劣った人間”を排除していけば世界も人類も進化するという思想潮流は、19世紀後半から20世紀前半における欧米列強の帝国主義や植民地支配、あるいは労働者の搾取を正当化した。

 権力者や巨大資本にこうまで都合のよい理屈も珍しい。そこに医学や遺伝学の装いを凝らしたのがナチスの優生学で、第2次世界大戦の終結とともに国際社会では一時的にタブー視されたのが、いつの間にか蘇っていた構図だ。

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