いのちは自分自身だけでは完結できない 

自由の森学園高等学校という学校は、今まで知らなかった。そのサイトを見ると、1985年に創設された学校で、生徒の個性を尊重し、自ら経験し考えるための教育を行っているらしい。

その校長先生の卒業式での言葉。最後に引用されている吉野弘さんの詩とともに、こころに響く。このような先生に教育を受けた若者たちは、幸せなことだ。

我々が、健康に社会生活を送れるのは、ほんとうに僥倖に過ぎない。誰が優れている、どの民族が優れているといったことは、ない。あるのは、遺伝的・社会的・歴史的に決定されたほんのわずかな「差異」だけ。それをもって優劣を競い合うというのは馬鹿げたこと。その差異ゆえに我々は互いに寄り添いあう。が、時代の潮流として、その差異をもって、差別したり、社会を分断したりする動きも、政治そして社会にある。それは憎しみと諍いしか生まない。若者には、それを乗り越えて行ってもらいたいものだ。

この祝辞を述べた校長先生・他のスタッフに教育された若者は、その差別・分断を乗り越えて行ってくれるだろう。世の中を良い方向に動かしていってくれるのは、そうした若者だ。

以下、引用~~~

3月12日付2016年度 自由の森学園高等学校 卒業式 校長の言葉 - 自由の森日記

卒業生のみなさん 卒業おめでとうございます。
保護者のみなさん、お子さんの卒業おめでとうございます。
そして、これまでの学園に対するご支援とご協力に感謝申し上げます。
自由の森学園において授業というものの持つ意味は深く重いものだと思っています。
ここで話すいわゆる校長の言葉も、みなさんにとっての最後の授業というつもりで私は臨んでいます。
私は昨年の夏からずっと「 生命( いのち )の重さ 」について考え続けていました。
昨年の7月に起こった相模原の事件、何の罪もない無抵抗の障害者の方々19名が犠牲になり、
また多くの方々が深い傷を負い、そしてまた、私たちの社会に大きな衝撃を与えました。
みなさんの中にも、この報道に接してどのように考えていったらいいのか立ちつくしていた人もいたかもしれません。
私もその一人でした。
9月の全校集会では、この事件について共に考えていこうといった呼びかけが教員の中からありました。
この事件の根底には様々な考え方が複雑に絡み合っていると言われています。
その一つとして「 優生思想 」があげられています。
「 価値がある人間・ない人間 」「 役に立つ人間・立たない人間 」「 優秀な人間・そうでない人間 」といった偏った考え方で人間をとらえ、人間の生命に優劣をつける思想です。
また、この事件は「 ヘイトクライム 」( 憎悪犯罪 )の特質も持っていると言われています。
ヘイトクライムとは、人種・民族・宗教や障害などの特定の属性を持つ個人や集団に対する偏見や差別にもとづく
「 憎悪 」によって引き起こされる暴力等の犯罪行為を指す言葉です。
この事件の問題を「 常軌を逸した加害者の問題だ 」として、
軽々に判断し押し込めてしまってはいけないように私は感じています。
全盲と全ろうの重複障害を持つ 福島 智( さとし )さん( 東京大学先端科学技術研究センター教授 )は次のように書いています。
「 こうした思想や行動の源泉がどこにあるのかは定かではないものの、
今の日本を覆う『 新自由主義的な人間観 』と無縁ではないだろう。労働力の担い手としての経済的価値や能力で人間を序列化する社会。
そこでは、重度の障害者の生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。
しかし、これは障害者に対してだけのことではないだろう。
生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは、徐々に拡大し、
最終的には大多数の人を覆い尽くすに違いない。 」
「 役に立つ/立たない 」といった人間や生命を価値的に見ていく考え方は、
いずれは自分も含めた全ての人の生存を軽視・否定することにつながっていくのだと福島さんは述べています。
人間の価値、生命の価値、生きる価値、そもそも人間や生命という言葉に「 価値 」という言葉をつなげるべきではない、
私はそう思っています。人間には、そして生命には「 尊厳 」があるのです。
尊厳とは「 どんなものによっても代えることができないもの・存在 」と言うことができるでしょう。
ここにいるみなさん一人ひとりもそうです。
あなたは何ものにも代えられないのです。あなたの代わりはどこにもいないのです。
人間をそして生命をも、取り替えることが可能なものとして「 価値的 」に見てしまう現代社会において、
「 価値 」ではなく「 尊厳 」という言葉で自分をそして自分の人生を見つめていくことが大切だと私は思っています。
当然その視線は、自分以外の他者やその人生をも見つめることにもなるでしょう。
そしてそれは「 どのような社会を目指していくのか 」ということにもつながっていくと私は思っています。
自由の森学園は、かけがえのない子どもたち若者たちをテストという一元的な価値で人間を序列化し評価するといった
価値的に人間をとらえる教育のあり方をやめ、一人ひとりの学びを大切にした学校をつくりだそうとして誕生しました。
自由の森に集うわたしたちは、人間をそして生命を価値的に見るのではない
「 ものの見方 」を、そして「 人間の尊厳 」を、学び続けていると言っていいでしょう。
今、社会には、ヘイトクライム、ヘイトスピーチ、ヘイト文書など、ヘイト・憎悪という言葉があふれています。
この「 憎悪 」に対するものは「 学び 」だと私は思っています。
学ぶということは本来、さまざまなことをつなげていく・結びつけていくことだと思います。
学ぶことによって、自然とつながり、社会とつながり、芸術とつながり、他者とつながり、そして、自分とつながる、
そんな学びをみなさんにはこれからも続けていってほしいと願っています。
最後に、ある詩をみなさんと共有したいと思います。
吉野弘さんの「 生命( いのち )は 」という詩です。
有名な詩なので、みなさんも出会ったことがあるかもしれません。
私は昨年の夏以来この詩が胸の中にあります。
   『 生命 ( いのち ) は 』        作:吉野 弘
  生命 ( いのち )は
  自分自身だけでは完結できないように
  つくられているらしい
  花も
  めしべとおしべが揃っているだけでは
  不充分で 虫や風が訪れて
  めしべとおしべを仲立ちする
  生命 ( いのち )は
  その中に欠如を抱き
  それを他者から満たしてもらうのだ
  世界は多分 他者の総和
  しかし 互いに
  欠如を満たすなどとは
  知りもせず 知らされもせず
  ばらまかれている者同士
  無関心でいられる間柄
  ときにうとましく思うことさえも許されている間柄
  そのように 世界がゆるやかに構成されているのはなぜ?
  花が咲いている
  すぐ近くまで
  虻 ( あぶ ) の姿をした他者が
  光をまとって飛んできている
   私も あるとき
  誰かのための虻 ( あぶ ) だったろう
  あなたも あるとき
  私のための風だったかもしれない
卒業おめでとう。みなさんの健闘を祈ります。
自由の森学園高等学校
校長 新井達也

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