「平穏死」 

終末期の医療が、これからますます大切になる。積極的な医療を受けず、自然のままに、苦痛少なく平穏に亡くなることが、終末期医療のあるべき姿になってゆくのだろう。石飛医師は、この記事で終末期医療の在り方を端的に述べているように思える。

ただ、問題は、誰がこうした終末期医療を患者、そのご家族に提案するのか、ということだ。国家が、ただ医療費を削減するために「ガイドライン化」するのはご免こうむりたい。国家なり、医療機関側がどこかで線を引くと、様々な問題が出てくる。死とは、個別的で、人の人生を本当に総括するできごとなのだ。そこに国家、権力が入ると、軋轢や不満が生じる。

私たち一人一人が、どのような終末を望むのかを事前に考えておくことが必要だ。我々は、生きる上で、自由意志による選択をしてきたが、死の在り様も同じ側面がある。苦痛少なく平穏な死を迎えることを、具体的に選択しておくべきなのだろう。これはきわめて個別的で大切な選択なのだ。

以下、引用~~~

下り坂ゆっくり「平穏死」 終章をがんばらない 「私たちの最期は」「ともに考える」医師・石飛幸三さん
17/04/12記事:共同通信社

 50年近い血管外科医としての人生で、私は人体の優秀な「部品交換屋」であり「修理屋」だった。当時には珍しい血管移植術で多くの命を救ってきた。

 「治すのが医者」。そんな自負は2005年、特別養護老人ホーム(特養)の常勤医になって大きく揺らいだ。着任した特養は全くの別世界。人生の最期の坂をゆっくり下っていく人たちの心を支える仕事だと思った。

 外科医時代は「(痛みを抑える医療用の)麻薬は徹底的に使え。ためらうな」と部下に指示していた。特養の入居者はいずれ、みんな死んでいく。そのときは苦しいだろう。今度は自分が麻薬を使わなければならない立場になったと思った。

 でも老いて衰えた人生の最終章っていうのは、自然の麻酔がかかる。食べられなくなったら、眠る。一口でも多く食べさせようとか、「がんばれ」って無理にたたき起こすとか、そんなことはしなくていい。静かに逝けると気付かされた。そうした亡くなり方を「平穏死」と名付けた。特養に来て12年になるが、麻薬は一度も使っていない。

 「胃ろう」も同じ。おなかにチューブを埋め込み栄養を入れる処置で、回復が見込める人に一時的に付けるのは否定しない。だが私の着任前は、眠り続けて静かに逝けるはずの人に胃ろうで無理やり栄養を注入していた。結果的に残された時間をかえって苦しめてしまっていた。

 もちろん、胃ろうを付けるべきか家族はものすごく迷う。迷っていい。目の前に横たわっている肉親にいま何をしてあげるのがいいのか、親子やきょうだいで徹底的に話し合うことだ。どんなに言い争ったって結局人間は死ぬ。だけど、みんなで肉親の最期がどう在るべきか真剣に議論したという事実、誠意を尽くしたという思いは残る。それこそが大切だと思う。

 人が老いて朽ちていくとき、医療がどれだけの意味を持つのかを考えなきゃならない時代がやってきた。いつのまにか医療は人間をモノ扱いし、命が長いほど意味があるとされるようになった。

 でも本来はそうじゃない。一回きりの人生をどう生きるかが大切なんだ。人にはモノにはない「心」があるんだから。

   ×   ×

 いしとび・こうぞう 広島県出身。慶応大卒。東京都済生会中央病院副院長などを経て05年から世田谷区立の特養・芦花ホームの常勤医。81歳。

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