JA1XKM 

楽器の弓の修理ができたと、伊藤弦楽器工房から連絡があり、昨日、お昼前に桐生市に向けて車を走らせた。50号線を西走すると、桐生市の手前に足利市がある。栃木県の南西部ではもっとも大きな町だ。渡良瀬川が東西に走り、北の山々が迫る平地に、その町はある。そこを走るときに、いつも思い出す方がいる。杉田氏JA1XKM(現在のこのコールの持ち主ではない)。このブログに彼のことを記したと思い込んでいたが、検索しても出てこない。彼の思い出を記しておきたい。

彼とは、1980年前後私が無線にカムバックしたころに初めてお会いした。冬場、21メガが完全にDXに死んだ夜中、か細い電波で彼が呼んできてくれたのだった。足利市とは、大平の山が途中にあるため伝搬があまりよくないのと、彼も私も当時バーチカル一本で運用していたので、たかだか30、40km程度の距離だったが、地上波信号は減衰し、弱かった。ノイズすれすれだったが、リグのこと等で話が弾んだ。私が小児科の研修を始めたばかりの医師であることを告げると、彼が驚くべきことを私に告げた。彼は北大の医学部を出たのだが、体調を崩し、医師国家試験を通らないでいる、という話だった。慢性的な病気の性格から、主治医に医師になることは諦めるように忠告された、とのことだった・・・その主治医の方を私も存じ上げており、生半可にこうした深刻な忠告をなさる方とは思えなかった。だが、何としても医師になるという彼の気持ちを伺い、そして病気を抱えているからこそ良い医師になるのではないかと私も考え、何も具体的な力にはなれなかったが、応援をさせて頂いた。

彼の手作りのカード。最初にお会いして1年経った頃か。アンテナは、町中の店舗兼住宅だったご実家の屋根すれすれに建てた12AVQ。7メガは、エレメントが曲がりくねったダイポール。

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当時の杉田氏。

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彼の当時のリグ。FT101ZDだったか。奥に見えるのはBC348だったか・・・。

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その後、定期的にお会いし、私たちの住む狭い寮に泊りがけでおいでくださったこともあった。当時、東北本線に自治医大駅はまだなく、彼を迎えにでかけた小金井駅のコンコースで、トレンチコートを着た彼が笑顔で待ち受けていた様子を今でも思い起こす。その後、1,2年かかっただろうか、努力の甲斐あり、彼は見事国家試験に合格なさり、都内の大学の消化器内科の医局に入局された。その後、忙しい研修期間を経て、美しい奥様と出会われ結婚なさった。新宿のレストランで開かれたその披露宴に駆けつけたのが、昨日のことのようだ。

地方の病院勤務を経て、埼玉に新居を構え、近くの病院に常勤医として勤務されていた。二人のお子さんにも恵まれた様子だった。仕事が多忙だったためだろうか、無線にはあまり出てこれなくなり、年賀状を交換するだけの付き合いが続いた。

彼の奥様から、突然悲しい知らせが届いたのはもう10年以上前になる。脳幹部の出血を起こして、突然亡くなったのだった。50歳台半ばのことだった。かなり厳しい仕事の負担が続いていたある日、帰宅直後に意識を突然失ったのだ。奥様の腕のなかで絶命なさったらしい。埼玉の彼の自宅に訪れ、最後のお別れをした。ご自宅にはタワーが経ち4エレの八木、そしてシャックにはR390等といったビンテージリグが並んでいた。彼の表情は穏やかなものだった。無線にしろ、医学に関しても、いつも冷静で知的な対応をなさる方だった。実現しなかったが、お互い隣接した場所で開業しようかと相談したこともあった。若い時期からの慢性の病気は、歳が経つにつれて少しかるくなっていった様子だったが、それでも時々増悪期を経験し、そのなかで仕事を続けられるのは大変なことだったろう。無線の上でも、医師としても尊敬できる友人のお一人だった。

足利市を通るたびに、彼の実家を訪ねたことを思い起こす。彼のご両親も彼が医師になられた時には、とても喜んでいらっしゃった。ご両親ももう他界されたに違いない。人生の戦いを終えて、この世から去っていった友人、知り合いを、折に触れて思い起こすことが多くなった。次は自分の番だろうか。彼らに恥じぬように残された時間を歩んでゆきたいものだ。

それにしても、JA1XKMとコールサインを言う彼の声を最後に聴いてから月日の経ったものだ・・・。

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