死にゆく孤独 

夕食を作りながらかけているCDは、このところ、マーラーの9番。クッキングのお供にはいささかふさわしくなさげだが、それでも聞き入っている。

以前何度かアップした4楽章のYiddishの旋法による旋律。その元となる動機が、3楽章に長調で出てくることに気づいた。いかに漫然と聞いていたかの証明のようなものだ。あの4楽章の静謐な世界に流れてゆく必然をここでマーラーは言いたかったのか、と納得した。

Yiddishの印象的な旋律を聴くたびに、「死に行く孤独感」を感じる。もちろん、それは想像でしかないのだが、恐らく、この音楽はそれを表現しているのではないか、と思う。

先日、「矢内原忠雄」という東京大学出版会から出版された、矢内原忠雄の伝記を読んだ。矢内原の弟子だった鴨下重彦先生が、彼の生涯を記しておられる。鴨下先生の飄々とした人柄がにじみ出るような筆致だ。懐かしい。生前の鴨下先生には、不義理を重ねてしまったということを改めて思った。

その本のなかに、矢内原が「富士登山」をした折に記したエッセーがある。矢内原が東大総長を務めたときに、山岳部の学生が数名富士山で遭難死する事件があった。矢内原はこころを痛め、彼らの追悼のために富士山の登山をすることにした。総長を辞める前後のことだ。若い時代に登山を楽しみ健脚で鳴らした矢内原だったが、すでに60歳台になっており、さすがに富士登山はきつかったらしい。彼の前後を、東大山岳部の方が彼を守るように歩く。何も言葉をかけたりはしない。ただ、黙々と彼を見守るようにして歩くのだ。矢内原は、死出の旅もこのように孤独な、ただキリスト教信仰によって立つ彼の場合は、天使に見守られながらの旅になるのではないか、と思ったそうだ。孤独だが、不思議とこころ落ち着く旅・・・。死に行くときには、誰しも絶対的な孤独のなかを歩むことになる、ということなのだ。

矢内原のこの文章を読んだときに思い起こしたのが、マーラーのあのYiddishの旋律である。すさまじいまでの孤独感にあるが、それでいてこころ落ち着く、という心境。我々は皆そこに向かって歩んでいるのだ。

でも、これは「最後のこと」。そこにたどり着くまでに行わねばならぬことが残っている。

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/tb.php/5337-04d615a7