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悲しみ・喜びの対比の彼岸にあるもの 

吉田秀和という音楽評論家のことを何度かここで記した。

彼の評論集の一つに「たとえ世界が不条理だったとしても 新 音楽展望 2000-2004」という本がある。

朝日新聞に1971年から寄稿してきた音楽評論のうち、2000年から5年間分をまとめたものだ。このタイトルは、2003年に半世紀近く連れ添ってこられた奥様に先立たれ、世界の不条理に直面した経験から来ているのだったと思う。奥様の死から時間がたち、普段の生活、楽しみ等が戻ってきた。だが、奥様との死別というような不条理と思われることと同様に、そうした日常はやはり故あることではない、という心境に至ったことも彼はどこかで記している。

そうした不条理のなかで生きる上で、音楽が条理の存在を指し示しているように思えた、という心境になった。それで、再び評論の筆を執った、ということだった。音楽が生きる力を与えてくれたという消息だったのだろう。

というのは前置き・・・この評論の最初に、「長調と短調」という題の文章がある。高名な政治学者丸山真男とある集まりで隣り合う。丸山は、吉田にモーツァルトの長調の作品を取り上げ、モーツァルト作品の晴れやかさについて語った。小林秀雄の「走る悲しみ」というフレーズを念頭においてのことだ・・・吉田自身は、この小林のフレーズが気に入らないようで何度か別な評論で批判をしている・・・。丸山のその言葉を受けて、吉田は、音楽において長調と短調が存在し、それらが混然一体となって、悲喜・明暗といった対比の彼岸にある音楽を形作ることを述べている。長調の音楽であっても、悲しみをたたえている作品がある、というのだ。以前、私がバッハの管弦楽組曲2番に抱いた感想そのものだ。対比の彼岸かぁ、言いえて妙な表現だなと改めて感心した。

人生、生きていくと、悲しむべきことと喜ばしいことが隣り合わせ、一体になっていることをしばしば経験する。そうした事情を、音楽は反映しているのかもしれない。

管弦楽組曲のポロネーズ、とくにそのドゥーブルを聴いてみる。優雅に踊るなかに、悲しみの感情が隠されている。あぁ、また流れるようなフルートに合わせてみたいものだ・・・。練習、練習・・・

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