大学オケに入ったころ 

昔話・・・。

大学に入った当初は、軟式テニスに毎日明け暮れていた。本当はオケに入りたかったのだが、女子大との合同オケということで何か気恥しかったのか決心がつかず。寮で同室になった友人がオケに入ろうと言い出して、それに乗って私も入る決心をした・・・大学1年の秋だった。某女子大のおんぼろ部室が、松林の真ん中にポツンと立っており、そこに、楽器を受け取りに行った。緊張していた・・・木々の葉は落ち、寒風がキャンパスを吹き抜けていた。

今から考えると、鈴木の一番安い楽器だったかもしれない。手渡された、その楽器は布製のケースに収められていた。それを小脇に抱えて、少しハイな気分で最寄りの地下鉄の駅に急いだ。当面は、弦のトレーナーをなさっていたM先生に師事、週一度レッスンを受けた。楽器を始めて、数か月もすると、大学寮で楽器を弾く(吹く)連中と夜な夜なアンサンブルの真似事。四国の某大学薬学部の教授になった同級生S君と、ヘンデルのソナタを合わせた。千葉で開業しているバイオリン弾きは、自慢のオールドの楽器で時にアンサンブルに加わった。メンコンの出だしを弾いて聴かせてくれた。チェロのウェルナーのテキストを1年半程度で終えた記憶・・・でも、今思うと、余りしっかりさらわなかった・・・。すぐに曲を弾くことばかりを考えていた。あの頃に、もっとスケール等の基礎的な訓練を積むべきだったと、今になって思う。

その後、1年ほどして安物のドイツ製の楽器を入手した。その楽器はしょっちゅうネックのところで折れた。安物とはいえ、親の一か月分の給料に相当する額だった・・・ドイツ製といっても、こんな楽器があるのだと学習した。親は、イヤな顔をせずに楽器代を出してくれた。やがて、先輩が弾いていたクラブ所有の鈴木の楽器が使われずに部室にあるのを眼にし、いつの間にか自分専用にしてしまい、卒業までそれを使い続けていた。高音域はイマイチでだったが、C線は深い音がする楽器だった。結婚式に「夢のあとに」を家内と合わせたのも、その楽器。

翌春、新入生が入ると、大学オケでは楽器の初心者を集めて、「ジュニアオーケストラ」略して「ジュニオケ」が組織されるのが通例になっていた。私たちの時も、ジュニオケが組織された。歯学部を卒業したばかりのバイオリン弾きT先輩が指導をしてくださった。彼は、大学からバイオリンを始め、オケで1stを弾くまでに上達なさった方・・・1stを弾くバイオリニストは、すでにそれだけで憧れの対象。チェロには、1年遅れの私を含めて5名。うち、3名は女子大の学生。私が上記の経過で少し早く始めたので、先輩づらして、学年が一年下のその連中の楽器の調弦を手伝ったりしていた。確か、週末に練習があり、母校の階段教室で練習をした。弾ける方も時々参加し、何かうまくなった気になっていた。練習していたのは、ハイドンの驚愕2楽章や、ヘンデルの水上の音楽。練習が終わると、時々皆で食事に出かた。不思議と飲み会はなかった・・・まぁ、貧乏学生だったからか・・・私、大学に入るまではコンパとか飲み会というものに参加したことがなかったのだった・・・その後、オケにドップリはまることになるのだが・・・。お茶の水のキッチンジロー等に足しげく通った。

お茶管ジュ二オケ 於白馬 やまや
毎夏8月下旬に開催された白馬での夏合宿。ジュニオケの練習風景。食堂で譜面台なし。メンバーの総数は20名前後だったか・・・。ビオラの調弦をなさっているのは、トロンボーンが専門のH先輩。このH氏、いつも飄々として、世の中の汚れたことから縁遠い人物でした。夜ごと部室に遅くまで残り、そこに居合わせる部員で即席のアンサンブルをすることがあった。その中心人物がこのH氏だった。バッハの「フーガの技法」の第一曲を、ブロックフレーテ、ビオラ、ファゴットしれにチェロ等という編成で合わせた記憶がある。その後、彼は、私のために八木重吉・室生犀星の詩に寄せるピアノトリオを作曲してくださった。それをきちんと音にせず仕舞いで、ご無沙汰を続けている。右端にいるのが、音楽科のMさん。病院に慰問に行ったときに、マタイ受難曲のEr barmeをアルトで熱唱してくださった方。ピアノもとてもうまく、指が回るだけでなく、あたたかみのある演奏を聞かせてくれた。一頃、ブラームスのソナタの伴奏もお願いしたことがあったような記憶・・・。

オケに入る前に入部していた軟式テニスは、二年目で教養部の部長を仰せつかった(とんでもなく下手だったのだが、練習に欠席することが殆どなかったので、熱心だと見込まれたのだろう)、この年は、テニスとチェロの二刀流。都内某大学の医学部とテニスの定期戦があった。まだ木造の校舎だった同大学のキャンパスにあるテニスコートに、チェロを抱えて行ったことがあった・・・顰蹙だったろうな・・・、当時はお構いなし。徐々にテニスから足を洗い、秋が深まるころには、もっぱらオケだけの活動に・・・。

牧歌的な生活を謳歌した教養課程の2年間を終え、寮を退出する時期になった。ジュニオケの練習が終わり、丸ノ内線で、チェロの同年の二人、それに同じ音楽科のバイオリンの名手の方と一緒に帰路についたことがあった。このバイオリン弾きの方は、あとでMさんとともに、Er barmeのソロを弾いてくれた方で、後に、オケのコンミスも2年間ほどなさっていた。私は、週末は東京都下にあった我が家に帰ることにしていたのだった。その帰り道の丸ノ内線車内で、チェロの二人が、寮に興味をもったらしく、私たちが寮を退出する前に、一度行ってみたいと言いだした。バイオリニストの彼女も無邪気に、「私も」と・・・。我らがむさくるしいあの寮の部屋に女性3人が来る、かなり躊躇したが、オーボエ吹きの同室の友人と迎撃した。その時、一体何をしたのか思い出せない。バイオリニストの彼女に、その寮の部屋で何か弾くように所望したら、やおら「ビターリのシャコンヌ」を演奏し始め、あの冒頭の重音の旋律が部屋に鳴り響いた。あの深刻なシャコンヌの主題、今でも忘れられない。ビオラの同級生を交えて、モーツァルトの初期のクワルテットを2nd Vn無しで弾いた記憶もある。出来はさっぱり思い出せない・・・。でも、室内楽が良いなと思った一つのきっかけになった。

この楽しいジュニオケも、年末のクリスマス会という名の忘年会で発表演奏し、打ち上げ終了となった。今から考えると、その後の大学オケの数年間と比べて、音楽的には未熟だったが、親しい仲間で一緒に音楽をやる楽しみに溢れた時期だった。親睦がメインの集まりでは決してなく、やがてオケデビューを飾るために、皆必死に楽器をさらっていた。でも、気心の知れた仲間と合わせるのは、とても楽しかった。音楽的な向上を気心の知れた仲間と共に目指す、それ以上の楽しみはない。

あれから40数年。皆元気にしているだろうかと時折思い出す。

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