FC2ブログ

オウム死刑囚大量処刑 

昨日のオウム真理教死刑囚の処刑のニュースを聞いて、なんとも気分が悪かった。

現在の司法制度で死刑の判決が出たら、それに従うのが原則だが、オウム真理教事件はまだ解明されていないことが多い。

特に、再審請求を出している井上死刑囚の問題。彼は、他の容疑者の罪状を重たくする内容の陳述を繰り返していた。それは、検察の意向に沿ったものだったと言われている。再審において、彼は本当のことを話すのではないかと言われていた。が、その機会が永遠に失われた。

勿論、松本死刑囚に本当のことを話させることも必要だった。他の死刑囚についても同じだ。地下鉄サリン事件を起こした本当の理由は何だったのか。

後継のカルトにまだ若い人々が入っているようだ。彼らをどうしたら、カルトから奪回できるのか、オウム真理教事件の本態を明らかにしないと、その糸口が見つからない。

そして、今回の死刑執行で一番の問題は、処刑現場は見せないが、まるで公開処刑の様相を呈していたこと。「死刑執行が行われる予定、誰それが執行準備に入った、誰それが執行された、執行された人間の画像に「執行」というシールを張る、残るは何人」・・・等々。これは異様な光景だった。死刑は、公権力執行の究極の形だ。公権力が人の命を奪う強権的行為。その重さを、マスコミ、そしてマスコミにリークする当局、政府の人間は感じていないようだ。

死刑の是非には、様々な意見がある。だが、人の命を公権力が強制的に奪うことの重みを、公権力が受け止めないのは大きな誤りだ。死刑制度は、近代国家では徐々に廃止される方向にある。その大きな理由の一つが、冤罪が確率的に起きること。社会心理学者の小坂井敏晶はその著書「責任という虚構」において、社会心理学的に責任をとるということの虚構性とともに、冤罪が生じることを死刑制度の問題として指摘している。米国では、冤罪率が1.3%と報告されている。一旦起訴されると90数%が有罪になるわが国では、冤罪の確率はもっと高いはず。冤罪によって、人を殺すことがいかなる理由で正当化されるのだろうか。

さらに、同書では、死刑制度が殺人のような犯罪を抑止する効果がない社会学的な研究も示している。殺人を犯す瞬間には、それがどのような刑罰をもたらすか、殺人者の意識には上らない。

死刑制度反対の先頭に立つのが、死刑を執行する現場の刑吏であることはあまり知られていない。人の命を殺めるということは大きなストレスを彼らにもたらす。執行のボタンが三つ準備されていて、三名の刑吏がボタンを同時に押す。誰が本当の執行のボタンを押したか分からぬようになっている。だが、そんなことで、人を殺めることへの自責の念は消えない。このことも死刑を廃止すべき理由の一つだ。

被害者とその家族の無念さ、報復感情についても考える必要がある。これは当事者でなければ分からない経緯なのかもしれないが、殺人者を殺すことで、家族の無念は本当に晴らされるのだろうか。オウム真理教信者によって殺された坂本弁護士一家の坂本氏の母、さちよさんが、次のようなコメントを出している。


『 私も麻原は死刑になるべき人だとは思うけれど、他方では、たとえ死刑ということであっても、人の命を奪うことは嫌だなあという気持ちもあります。

 事件が起きてから今まで、長い時間だったなあと思います。堤、都子さん、龍彦には「終わったね。安らかにね」と言ってあげたいです。 』


最後に、戦前わが国の国民は、国家神道というカルトによって、無謀な戦争に突き進み、多くの犠牲者を国内外に出した。オウム真理教というカルトによって、極悪非道な犯罪を犯した信者たちは、「あちらがわ」の問題ではない。この処刑報道で、もっと残酷に殺せとか、もっと多く殺せとかというネット上の発言を見ると、オウム真理教信者のメンタリティは我々自身の問題でもある。カルトを主導して、ほくそ笑んでいる勢力がいる。

一昨日、この大量公開処刑が行われる前の日の夜、安倍首相、上川法相等は、他の議員と宴会を開き、満悦の表情だった。

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/tb.php/6399-18d5396c