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司法と医療 言語論理体系の齟齬 

上記の表題の論文が、MRICメールマガジンによって送られてきた。少々難解な部分があるかもしれないが、非医療関係者の方に是非読んでいただきたく、転載させて頂く。

医療と法曹の間に、どのような問題横たわっているのか、どのように解決すべきなのかを、深い洞察力で論じた文章だと思う。

ここで記されていることが、受け入れられなければ、医療関係者・非医療関係者の思いとは裏腹に、医療は崩壊することになる。

以下、引用

著者;小松秀樹
   虎ノ門病院 泌尿器科部長

はじめに】

 「診療行為に関連した死亡に係る死因究明等の在り方に関する検討会」が07年4月に発足した。いわゆる「医療事故調」設立のための検討会である。検討会では、議論のキーワード、例えば「医療関連死」、が立場によって別のイメージで並行的に使われるような状況で、駆け足の議論が行われ、一定の方向性を見出せないまま、第一段階の議論を終了した1。筆者自身、07年5月11日、第2回検討会で意見を述べる機会を得た。近未来での実現性の有無はあえて考慮せずに、できるだけ議論内容を広く、かつ、根源的にすることを心がけた。現在の医療危機の最大の原因が、考え方の齟齬にあり、徹底した議論の過程がなければ、制度を作っても解決にならないと思ったからである。

 議論の方向性は大きく二つに分かれる。検討会座長の刑法学者前田雅英氏と筆者は、07年8月14日の読売新聞朝刊の紙上で医療事故調の役割について議論したが、新聞社がつけたそれぞれの主張に対する見出し、「法的責任追及に活用」と「紛争解決で『医療』守る」が、方向性の違いを如実に示す。本稿では、医療事故調をめぐる二つの方向性について、原理的な考察をする。


【1 背景】

 医療とは本来どのようなものかについて、患者と医師の間に大きな認識のずれがある。患者は、現代医学は万能であり、医療行為が適切であれば、病気はたちどころに発見され、治癒するものと思いがちである。医療では有害なことは起こり得ず、医師や看護師は、労働条件がいかに過酷であろうと、誤ってはならない、過誤は費用(人員配置)やシステムの問題ではなく、善悪の問題だと思っている。

 これに対し、医師は医療に限界があるだけでなく、危険であると思っている。適切な医療が実施されても、結果として患者に傷害をもたらすことが少なくない。統計学は同じ医療を行っても、結果は単一にならず分散することを示す。手術など多くの医療行為は身体に対する侵襲(ダメージ)を伴う。死は不可避であり予測できない。

 一方で日本では世界に類をみない医療費抑制政策がとられてきており、2004年には医療費の対GDP比は先進7カ国で最低になった。とりわけ入院診療には費用がかけられていない。これを、医療提供者、とくに、勤務医の法令無視の苛酷な労働で補ってきた。しかし、医療への攻撃が強まる中、医師は、患者の無理な要求を支持するマスコミ、警察、司法から不当に攻撃されていると感じるようになり、士気を失い病院から離れはじめた。このため、医療が産科や救急など脆弱な部分から崩壊し始めた。

 過去には医療が無謬であるという前提があった。このため、医療過誤に対応するための制度が医療に組み込まれておらず、その結果、医療側の対応が歪み、「隠蔽し謝らない」と非難されるような状況が続いてきた。

 また、民事裁判では患者側に立証責任があること、勝訴しないと訴訟費用がでないことから、患者側にとって裁判に持ち込むことが難しかった。さらに、裁判を行うには、膨大な時間とエネルギーを要する。このため、多くの医療過誤で公平な賠償、補償がなされてこなかった。その結果、医療への不満が社会に蓄積され、現在の医療への攻撃の遠因になっている。

 一方で、司法は科学を苦手とする。医学を含めて科学的知識生産者は、常に方法を意識する。科学的真理は、対象と方法によって条件付けられた仮説的真理である。仮説的真理の表現型と限界は、方法に大きく依存する。司法は、科学的知識生産者の持つ、方法と不可分の仮説的真理という醒めたイメージを共有できないため、判断が、倫理規範を振りかざしたメディアの感情論に引きずられやすい。必然的に、法廷での判断には大きな振れ幅が生じる。こうした司法判断の方法と精度が、医師の士気を削ぎ、医療の崩壊を助長している。

 患者側、医療提供者の双方を納得させ、社会制度への信頼感を取り戻すことが医療の崩壊を食い止めるために必要である。


【2 言語論理体系の齟齬】

●演繹と帰納

 司法と医療という社会の基盤となるシステムの間に大きな齟齬が生じている。司法や医療は、その内部と外部を峻別しつつ発展し、それぞれ、独自の巨大なシステムを形成している。社会システムの作動は常に内向きである。司法は医療を扱う場合にも、医療の言語をそのままでは使用しない。内部化のための手続き、すなわち、医療の事象を司法の言語論理体系に組み直す作業を必要とする。両者の齟齬を扱うためには、大きな時間の流れの中で、両者の言語論理体系の成り立ちを俯瞰する必要がある。

 司法の持つ言語論理体系の特徴とはいかなるものか。例えば、日本の刑法はドイツ観念論の系譜にあり、理念からの演繹という論理構成をとる。福島県立大野病院事件では、多くの医師の団体が警察・検察に抗議した。その理由は、医療における因果関係の判定方法、正しいとされる医療行為の分布のありよう、労働環境の医療従事者への影響などを十分に認識することなく、「違法性」(死亡結果を惹起したこと)と「責任」(死亡結果を予見すべきで避けるべきだったこと)があれば処罰できるという、あまりに狭小な論理に基づいて医療における犯罪を認定しようとしたところにある。医療現場は刑法の理念をそのまま適用できるほど単純ではない。筆者は「刑法を落ち着いたものにするには、帰納による理念の妥当性の検証が必要である」と「医療崩壊 立ち去り型サボタージュとは何か」(朝日新聞社)に書いた2。

 具体的なイメージを提示する。警察・検察がある地域である時期に、いくつかの事例に対し、業務上過失致死傷が成立すると判断した場合を考える。当該地域で当該時期の全医療事例の集合を全医療事例集合とする。警察・検察の捜査により、全医療事例集合から、業務上過失致死傷集合が切り取られたことになる。「医療事故の全国的発生頻度に関する研究報告書」(06年3月)は、退院患者の診療録の後ろ向き調査で、入院患者の7%程度に有害事象が発生することを示す。業務上過失致死傷集合は有害事象集合に含まれる。業務上過失致死傷集合の切り取り方(業務上過失致死傷の理念、警察・検察の捜査)の正当性、信頼性や精度は、いくら業務上過失致死傷集合を調査分析しても分からない。非業務上過失致死傷集合に過失がどの程度あるのか、それはなぜ起こるのかを検討しなければならない。非業務上過失致死傷集合に多くの過失があるとすれば、業務上過失致死傷の理念、あるいは、抽出方法(警察・検察の捜査)に問題があるかどうか検討しなければならない。

 実際、日本医療機能評価機構の医療事故防止センターに報告されているヒヤリハット事例(過誤はあったが身体傷害にはつながらなかった事例)は1病院、1ヶ月あたり50ないし60件報告されている3。これも報告の集め方でもっと多数になると想像する。ちなみに、筆者の勤務する虎の門病院ではヒヤリハット事例は年間約5000件報告されている。

 理解のために、さらに単純なモデルを示す。フォン・ヒッペル・リンドウ(VHL)病という遺伝子疾患では、腎癌が高率に発生することが知られている。VHL遺伝子の異常がこの病気の原因だということが1990年代に判明した。VHL病患者のVHL遺伝子に異常があることを示すだけでは、この事実を証明したことにはならない。同時に、VHL病でないヒトのVHL遺伝子に異常がないことを示さなければならないのである。


●規範的予期類型と認知的予期類型

 法学の世界にも似たような議論がある。法社会学者のグンター・トイブナーは、05年9月、東京での「日本におけるドイツ年記念・法学集会」で基調講演4を行った。冒頭で、1971年のニクラス・ルーマンの予言どおり、現在の世界社会では規範的予期類型=政治、道徳、法ではなく、認知的予期類型=経済、学術、テクノロジーが主役を演ずるようになり、世界社会の法はそれぞれの社会分野ごとに形成され、極端な分立化に至ったとする認識を示した。

 規範的予期と認知的予期について、ルーマンは以下のような説明をしている5。「規範的予期は、違背にもかかわらず予期を堅持する決意として示され、それに応じたリソース、たとえば内的確信・制裁手段・合意によって支えられる。これに対して認知的予期は、学習の用意があるという様式をとり、違背を受けて自己修正し、それに対応したリソース、とりわけ違背を受けた状況において予期変更の方向を十分迅速かつ明確に決められるという予期を、自己の支えとする。認知的予期は自分自身を変えようと努め、規範的予期は対象を変えようと努める。学習するかしないか、これが違いなのだ。」規範的予期と認知的予期の科学に関す
る態度については以下の説明が示唆に富む。「学問がその理論の仮説的性格と真理の暫定的な非誤謬性によって安んじて研究に携われるようになるまで、学問研究の真理性は宗教的に規範化されていた。」

 世界社会の専門分野ごとに形成された認知的予期類型としての部分社会は、それぞれ大きく発展し、独自の合理性をその内部で形成している。トイブナーは、分野ごとの合理性の衝突の解決が世界にとって大きな意味をもつようになってきたとしている。分野ごとの正しさの衝突となると、法がすべての部分社会を統括するような規範の大体系を提示できるはずもなく、法はそれらの矛盾を解消できない、互いの合理性を尊重し、自律的部分社会同士の相互観察で共存を図るしかない、とする。

 具体的例として、ブラジルでの、特許を無視したエイズ治療薬の製造販売について言及した。この問題では、経済と保健の合理性が衝突したが、結果的には保健の合理性が優先された。

 法史学者の村上淳一は、トイブナー講演に対するコメント6で、国家と法の関係の歴史を振り返り、「ヨーロッパ中世においては、地域的諸権力が自力行使に訴えてでも主張するさまざまの個別的権利の、相互的義務づけとしての契約複合が、法であった」、「初期近代においてようやく、法とは権利者たちの契約複合ではなく支配者ないし国家の命令であるという見方が、徐々に優勢になる」とする。この方向は、国民国家の成立で頂点に達し、国家法は国家内部で強大な規範となった。しかし、グローバル化が進んだ現代社会では、専門分野の進化発展は「国家なき世界法」(村上)をもたらした。

 日本では、現在のような司法レジームは、明治期に形成された。現在の刑法は明治41年(1908)に施行されて以後、本格的改正はなされていない。原則的な対象として国内の個人を想定した1世紀前の古い法律が、国際的な部分社会内で合理性が形成され、日々更新されている医療レジーム、航空運輸レジーム、産業レジームなどと対立し、ときに破壊的な影響を与えているようにみえる。対立の共通構造は、現実を十分に認知しないまま、規範としての法を行使することにある。

 法学はしばしば神学になぞらえられる。地動説に対する宗教裁判は、規範的予期類型と認知的予期類型の齟齬を象徴する。村上は先述のコメント6で、ルーマンの言葉を引用した。

 「国家もまた、特殊的組織として普遍主義的に振舞うという要請に服する。...国家が機能的分化と特殊的普遍主義の論理に従わないとき、...世界政治のアドレスとしての資格をみずから減少させることになる」。

●専門領域における「正当な業務」

 福島県立大野病院事件は演繹と帰納、あるいは、規範と認知のせめぎあいとも捉えうる。ルーマンの認識に従えば、この状況は司法がその資格が問われかねない問題になりうる。

 幸い日本の刑法は解決の鍵を持っている。刑法35条は「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」とする。「正当な業務」が何かを、当該認知的予期類型の持つ言語論理体系の判断にゆだねることで、多くの問題が解決する。人間の性質上、ヒューマンエラーは避けられない。エラーが事故につながるかどうかは、システムの問題が大きい。また、医療に伴う有害事象の評価は、医療についての該博な科学的知識、科学的判断能力を必要とする。専門的業務の制御のルールを、司法の言語で規定することは安全を向上させない。相応の言語論理体系の制御にゆだねるべきであろう。


【3 医療事故調の目的】

 医療事故調は紛争解決を主たる目的とすべきである。医療の危機的状況を打開して、将来の日本社会に健全な医療制度を残すために、医療事故について、第三者が科学的調査と科学的評価を行い、これを患者・家族に説明することが必須と思われる。

 条件が整えば、調査結果を公平な被害救済のためにも使用する。

 安全対策は日本医療機能評価機構の医療事故防止センターが担当する。医療従事者の能力や仕事量には限界がある。したがって、安全対策のためには、優先順位を考慮すること、すなわち、総合的なバランスが重要であり、個別事例にとらわれることは適切ではない。これ故に、患者・家族の安全対策の立案や監査への参加は、安全対策を非現実的なものにする可能性がある。

 医療事故調を責任追及の場とすると、事故の原因究明が冷静に行えず、医師‐患者間の軋轢を拡大する方向に働く。紛争の解決と責任追及を同時に行おうとすると、互いに悪影響が生じるので、制度上、切り離すべきである。

 安全を含めて医療の質を高めるためには、医師の再教育や処分が必要であることは間違いない。医療の質との関連でいえば、医師の処分は、不適切な行動を理由に実施すべきものである。処分の契機を被害が伴う事故に限定するより、門戸を広くして、不適切な行動全般を契機にできるようにすべきである。過去の責任の追及というより、将来のための処分なので、刑事司法が担えるものではない。弁護士と同様、医師の団体による自律的処分制度の創設が望まれる。


【4 医療事故調をめぐる対立点の具体例】

 具体的イメージ形成のために対立点を例示する。医療関連死の届け出を義務化し、違反に対し罰を科すという意見が、法的責任追及の立場から出されている。何をもって医療関連死とするのか、判断を一致させるのは難しい。このような医療関連死の届け出を義務化して、これに罰則を設けると、現在の医師法21条をめぐる警察と医療側の紛争をさらに拡大することになる。日本の状況では、届け出そのものが、患者側の疑心暗鬼を誘発し、患者と医療側の軋轢を大きくする。罰則を伴う届け出制度は、まさに、取締と責任追及の発想の産物である。関係するのは取締機関と医療機関のみであり、ここに患者側が関与しないことになる。

 必要なことは、医療提供者と患者側の軋轢の軽減である。この観点からは、患者側からの訴えでも、調査に着手できるようにしておけば十分である。病院が患者側の納得を得るために虚偽の説明をするかもしれないと心配する向きがある。しかし、虚偽は、発覚すれば、別の大きな制裁を受けることになり、野放しになるものではない。


【5 システム間の齟齬は多段階で時間をかけて解消すべし】

 責任追及の在り方についての司法と医療の齟齬は、双方の考え方が異なる以上、考え方の変更なしに、一気に解決することは不可能である。一段ずつステップを重ねていく方が、認識の変更を活かしやすい。法律が存在する以上、業務上過失致死傷による責任追及も、当面、医療事故調と関係なく、今まで同様に実施せざるをえない。個々の事例で認識の違いが生じれば、その都度、社会に見えるところで議論すればよい。少なくとも、この問題は、ステークホールダー間の利害調整や、合理的判断を越えた権力の行使で無理に解決すべきではない。医療は、そのような危うい決定方法に委ねるには、重要すぎる。互いに双方の立場を理解しつつ、多段階で時間をかけて解決していくべきである。

 司法の、規範(実体法)と対立(手続法)の中に実状を押し込める習慣は、問題解決のための、普遍的というより一つの特殊的態度のように思える。有益な場合もそうでない場合もある。司法が権力機構であるがゆえに、法曹人はこの点に気付きにくい。

【文献】
1)診療行為に関連した死亡に係る死因究明等の在り方に関する検討会:これまでの議論の整理. 2007年8月24日.
2)小松秀樹:医療崩壊 立ち去り型サボタージュとは何か. 90pp, 朝日新聞社,東京, 2006.
3)財団法人日本医療機能評価機構 医療事故防止センター:医療事故情報収集等事業 平成18年年報, 2007年7月18日.
4) グンター・トイブナー(村上淳一訳):グローバル化時代における法の役割変化 各種のグローバルな法レジームの分立化・民間憲法化・ネット化. ハンス・ペーター・マルチュケ. 村上淳一(編):グローバル化と法, 3pp, 信山社, 東京, 2006.
5)ニクラス・ルーマン:世界社会 Soziologische Aufklarung 2, Opladen,1975. (村上淳一訳・桐蔭横浜大学法科大学院平成16年度教材)
6)村上淳一:歴史的意味論の文脈におけるグローバル化と法. ハンス・ペーター・マルチュケ, 村上淳一(編):グローバル化と法, 25pp, 信山社, 東京, 2006.


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コメント

この文章はなかなか難解ですが、宗教裁判の例が最もわかりやすいように思います。

法律はまず「かくあるべき」があり、その「あるべき」ものから外れた場合、問題視する。
一方、科学(医学を含む)はさまざまな事象の観察から「かくあるべき」を構築していくため、その「かくあるべき」に当てはまらない事象を認めたときに、その事象を問題視するよりも、その前提である「かくあるべき」が是か非かを考える。

これほどに考え方の違う、システムにもかかわらず、大した議論も無いままに医療事故調がすすめられることは断じて許されないだろう。

論理体系の違いは、確かに大きな問題ですね。

さらに、強制力のある権力機構としての法曹と行政機構と対峙しなければならいことも、医療にとって大きな問題ではないかと思います。そうした強制力に対抗するために、ストライキの権利を、医師を含めた医療従事者にも認められるべきだと思うのですが、患者の生命が一種の人質になって、それを実行することがなかなか難しい。

しかし、こういう状況になると、最低限の医療機能を残して、ストライキを実行することも必要なのかもしれません。

規制改革会議が、またぞろぞろ滅茶苦茶な提案をしています。医療をそろばん勘定だけでしか見ることの出来ぬ彼等の言うことは、滑稽ですらあります。彼等の言うとおりの医療「改革」を実行して、人の生命が失われた時に、一体誰が責任を取るのでしょうか。彼等は、経済の問題だけを議論していて欲しい、また自らの利権にからむことには関与しないフェアさが何としても必要です。

実務へのドイツの影響

実際はドイツ刑法理論は輸入されたが、実務ではあまり採用されていないというのが実務の扱いのようです。
旧制高校卒のひとがかいた教科書ではドイツ観念論の影響がつよいようですが、平成以降にでたものではあまりつよくないです。また、実務でもドイツとはかなり扱いはことなり有期懲役の場合は3分の1程度の量刑となっています。
過失概念等についてもどうも昭和30年代にかかれた刑法の教科書の理解にもとづかれている気がします。

コメントをありがとうございます。

その刑法理論の変遷を踏まえて、小松氏の議論にどのような感想を抱かれますか。

私なりに、単純化して、法曹と医療の間の齟齬の問題を表現しますと・・・

法曹は、事実が出揃い結果が明らかになってから、独自の医療水準に照らして、後方視的に物事を判断する。独自の医療水準とは、問題の起きた時点では、医学的に共通認識になっていなくても、一部の研究者・医師が主張している医療水準、または医療現場のマンパワー・医療環境を無視して、理想的な状況で初めて可能になるような医療水準を指します。

一方、医療現場では、限定されたマンパワーと医療環境下、限られた情報をもとに、起きつつあることを予想し、確率と重要性を勘案しつつ、前方視的に判断して行きます。結果が出たときに、それを現在の状況に絶えずフィードバックしつつ、柔軟に方向を変える。その連続の過程が医療です。不幸にも、患者さんが亡くなられた時には、臨床経過と病理所見をつき合わせて、何が間違いであったか、何が足りなかったのか、次に同じような症例を診るときにどうしたらよいのかと常に反省してゆく。これも、次の同じような症例に経験を生かす、前方視的な行き方です。

すでに、ご存知のこととは思いますが、この基本的な立場の違いを、どのように乗り越えるべきなのでしょうか。法曹には、国家権力が背後にあります。もし、法曹が、自らの判断の仕方を変えないのであれば、医療は存在し得なくなる。これが、医療現場の危機感なのだろうと思います。

最近、埼玉と群馬で、弁護士による、医療事故の無料相談会が開かれ、盛況であったと報道されていました。正直申し上げて、医療に携わる者としては、複雑な感慨を持たざるを得ませんでした。

議論のための議論ではなく、率直な印象をお聞かせいただけると幸いです。

腎がん完治を目指して

拝見させていただきました。
またお邪魔します。
癌についての情報を集めていますので、よろしければいらしてください。

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