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秋葉原通り魔殺人事件 

秋葉原の通り魔殺人事件、ネットやマスコミで盛んに取り上げられている。やり切れぬ事件だ。

以前にも記したが、こうした我々の常識を超えた事件が起きた時に、その原因・理由を一つのことに求めるのは止めておいた方が良いだろう。事件の不条理性をまずは受け入れることが必要だ。

犯人の生い立ちから、仕事振り、性格、さらに派遣労働の問題、所謂社会からドロップアウトした人間の問題を語り、この事件を理解したかのように振舞うことだけは避けたい、と私は思う。

恐らく、それらのことがどれもが、ある程度この人物には当てはまるのかもしれない。しかし、問題をそれで理解したかのように考えるのは、思い込みの類だ。

問題は、我々が理解を超えた事象であって、人間社会のなかで確率的に生じる大多数からの偏りの問題なのではないだろうか。確率的な事象ということは、我々がそのよって来る論理を理解し得ないということを意味する。

こうした小さな、しかし確実に存在する偏りから、社会をどのように防衛するのか、またその偏りが顕在化するのをどうしたら防げるのか、という観点からは、上記のような原因・理由を探る議論にも意味が出てくるのだろうが、それは時間をかけて緻密な検証が必要だ。

マスコミは、血を見た吸血動物のような具合だ。恰もドラマのように現場を再現し、さらに家族に意味のないインタビューをするのは止めて欲しい(インタビューは家族の希望だったとも聞いたが、立っていられぬ母親を映し出すテレビカメラには、怒りさえ覚えた)。

負傷を負わされ生命を奪われた方々、そのご家族には、お悔やみ申し上げたい。

コメント

偏り

働きありの3割は実は何もしておらず、その3割を排除すると新たに3割がサボりだすそうです。
集団からの偏りというか、分散というのは集団の安定のために必要不可欠なもので、均質な集団というのはもろいことが良く知られているはずです。人間の精神も同様、平均から何σも離れたところにかような人間は必ず存在し、また集団を均質化できない以上、こうした人間を排除しきれないと思います。果たしてその存在の意味は何なんでしょうかね。

秋葉原という地名を聞いて、コールサインをもらったころのことを鮮明に思い出しました。ジャンク屋が懐かしい。

確かに、集団にheterogeneityがあってこそ、その集団が強くなるのでしょうね。そうした分散の大きさの代償として、時にこうした大きく偏り逸脱した構成員が出てきてしまうのでしょう。その偏りは、誰もが素因を持っているようにも思えます。

この犯罪を犯した青年は、誰かに止めてほしかったと言っているそうですが、二重の意味で悲劇です。犯した犯罪は余りに大きく、裁きを受けて刑に服して欲しいと思います。

秋葉原は、私にとっても、懐かしい場所です。僅かな小遣いを握り締めて、ラジオデパートをウロウロした日々・・・。

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