キリ番 

昨日、帰宅してこのブログをチェックしたら、アクセス数が100万回を超えていた。これは、延べアクセス数なので、実際にお寄りくださった方の数は、この何割になるのだろうが、それにしても11年間、100万回アクセスという記録は感慨深い。

ブログを書き始めたのは、開業し一応仕事が順調に流れるようになり、自分の意見・感想を記す場が欲しかったためである。当時は、医療がどうなって行くのかという問題意識を持っていた。それに音楽や、無線のこともたくさん書いた。2011年の東日本大震災、東電福島第一原発事故が、私の生活と考えに大きな変化を及ぼした。あの原発事故がリアルタイムで進行するのを刻々知りつつ、自分の足場が崩れるような感覚に襲われた。我が家の精神的なバックボーンであった母も失った。リタイアメントするのと同時に、本当は大学で社会科学の勉強をしたいと思っていたが、到底それは叶わず。だが、自分なりに様々な勉強をした。医療の問題は、音を立てずに深刻さを増している。そして、新自由主義経済と、国家主義の跋扈する政治。このような政治が実現し、この社会を危機に陥れるとは想像していなかった。背後には、やはり国の歴史、それに国民の意識の問題があるのだろう。私の内面を直截に記すことはないが、これからは私的にも、公的にも小春日和の時期を過ぎて、冬の嵐の時期に入ってゆくことになるのだろうか。この小さなブログが、その時代に自分がつける足跡を残す場であり続けてくれたらと思っている。様々なマスメディア記事を引用する形で、私自身の問題意識と感想とを表現してきたブログポストを読み返してみると、自分の内面の記録そのものだとの感を禁じ得ない。これからも、続けられなくなるまで、記し続けたい。

大した内容ではないこのブログに、これまで立ち寄ってくださった方には心からお礼申し上げたい。

父の13回忌 

今日は父の13回忌だ。彼が亡くなってから、これまでの時間が、とても長いものに感じられる。社会の動き、そして私の生活自体にも大きな変化があった。

先日、姉が13回忌に寄せてメールを送ってきた。父の年金手続きに用いた書類・・・軍人恩給の書類か・・・を読み返した、とあった。彼が兵役についていたのは、昭和14年から20年までの6年間。20から26歳にかけての青春時代を戦争のさなかで過ごしたことになる。途中、中国中部に一度は送られ、戦場で九死に一生を得た経験もしたらしい。中国の人々にはすまないことをしたと、繰り返し語っていた。教育部隊へ配置され、内地で敗戦を迎えた。

その経験、そしてクリスチャンとしての信念から、戦後は徹底した平和主義者になった。戦争責任の問題をよく口にしていた。それに関連して、天皇制の問題にも関心があったようだ。彼の残した蔵書は、キリスト教関連のもの以外は、ほぼこれらの問題を扱ったものだ。その一部を私自身も読み続けている。戦争責任の問題をうやむやにしたまま戦後を歩みだしたことで、現在の袋小路のような状況があるのだろう。彼の問題意識を受け継ぐという意識は全くなかったのだが、戦争責任、天皇制そして国家神道の問題、一種の選民思想とそれによって戦争に積極的に関わっていった民衆の問題、これらは今後避けて通れない棘になるのではないだろうか。

若い時代は、勉強をする機会がなく、青春を国家によって奪われた。財産を残すことなく、我々子供たちの教育のためだけに一生懸命働いてくれた。晩年は、この田舎で家族に囲まれ、ようやく晴耕雨読の平和な時間を過ごすことができた父だった。人間的には様々な欠点のあった父だったが、家族にとっては、それでも得難い唯一の存在だった。彼がここでその平和な時間をしばらく過ごした年齢に私もさしかかり、どのような思いでいたのか、多少なりとも共感をもって思い起こすことができるようになった。庭の畑で、猛暑のなかふっと涼しい風が吹き抜けると、そこはかとない恵みの時間であることを感じる。おそらく、彼も同じように感じていたに違いない。もう戻って孝行をすることはかなわないが、折に触れて父のことを思い起こすことで、彼への供養としよう。

これからの私の人生は、彼の最後の年月とは違い、大きな嵐が待ち受けているように思えぬこともない。父が、青春を戦争に塗りつぶされたのと同じような経験を、この世に別れを告げるまでの間に私も経験することになるのかもしれない、と時々感じる。この数世代の間、戦争に駆り出されなかった世代は、私たち以降の世代だけなのだ。大きな流れとしては、同じ歴史が繰り返されることはない。だが、個人的な意味では、戦争に匹敵するような事態が待ち受けているのではないか、と時々思う。父が必死に生き抜いたのと同じ切実さ、選択の余地のない状況を生きることが要求されるのではないか、と。

毎日を感謝しつつ 

田舎暮らしにどっぷりつかり、草むしりや、栽培野菜の世話で過ごしていると、時々は単調な生活に溜息をつくこともあるが、この記事を読むと、恵まれた環境にいることを改めて感謝する気持ちになる。

この調査の結果が本当だとすると、健康長寿の理由は、自分の裁量で仕事ができるということ以外にもありそうだ。農作業なり、庭木の手入れなりをしていると、生き物相手なので生活のリズムができる・・・それを単調だと嘆く馬鹿者もいるわけだが・・・。それに、一番の理由ではないかと思うのが、生き物を相手にしている、大地の上に立って生活していると実感することなのではないか。生きていること、生かされていることを、感じる、感じさせられる。これはコンクリートの上で生活していると感じることのない感覚だろう。それが、自然の生命と自分が同期していることを感じることになるのではないだろうか。

庭の畑では、さまざまな野菜が収穫期に入っている。トマト、ジャガイモ、それにモロッコインゲン・・・。

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種から育てたマリーゴールドがここかしこで開花し始めた。

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毎日を、感謝しつつ生きてゆきたいものだ。

以下、引用~~~

農家男性、寿命8歳長い=埼玉県本庄市で調査-健康に好影響か・早大

2017年06月28日 18時43分 時事通信

 首都圏の埼玉県本庄市では専業・兼業農家の高齢者の医療費が農家以外の8割程度にとどまり、特に男性の寿命が農家以外より長いことが分かったと、早稲田大の堀口健治名誉教授と弦間正彦教授が28日発表した。アンケート調査で回答を得た農家の男性の平均死亡年齢は81.5歳で、農家以外の男性より8歳高かった。

 弦間教授は「自分の裁量で農業を営む生活が健康に良いのではないか。会社員などが定年退職後に働けば、健康づくりと医療費削減に役立ち、農業の担い手不足を補うことができる」と話している。

 早大キャンパスがある本庄市は野菜や果物、草花の生産が盛ん。堀口名誉教授らが埼玉県後期高齢者医療広域連合に同市の75歳以上の被保険者の医療費を分析してもらったところ、2014年の専業・兼業農家の男女897人の1人当たり医療費は73万1000円と、農家以外の8258人の91万円の8割だった。

 市内の農協組合員543世帯と非組合員300世帯からアンケート調査の回答を得たところ、1989年(平成元年)以降に亡くなった専業・兼業農家の男性274人の平均死亡年齢は81.5歳で、農家以外の男性183人の73.3歳より8歳高かった。農家の女性223人の平均死亡年齢は84.1歳で、農家以外の女性151人の82.5歳と大きな差はなかった。 

誓い~私たちのおばあに寄せて 

昨日は、沖縄慰霊の日だった。沖縄戦没者追悼式で高校生が自作の詩を朗誦した。

誓い~私たちのおばあに寄せて

上原愛音

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感銘深い詩だ。沖縄の置かれた状況を忘れてはいけない。

志村建世さんのブログ経由、ブログ「八十代万歳」から、このurlを得た。

木立の揺れる音 

昨年、7月、このポストに対して、杉さんJA1HMKが、ブログ主宛のコメントを下さった。

『こころ静かに、逝きたいものです』

との簡明な、それでいてこころに残るコメントだった。

ご存知の通り、彼はその後1か月して循環器疾患で急逝した。それを知った時、彼のこのコメントが改めてこころに迫ってきた。

今日、晴れ上がった空のもと、庭仕事をしていると、木蓮の木の葉のこすれる音が、目立つのでは決してないが、さやかに聞こえた。それで、杉さんのことを思い起こした。永遠のときを思い起こさせてくれた。

私も、杉さんの短いこころのこもったコメントを心の中で復唱していた。

我が家の南側、畑の向こうにこんもりとした森が見える。木立の枝が、風で揺れていた。

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以前にもアップした、桂の木。やはり同じように、枝が風になびいていた。

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母の6回忌 

6年前の今頃、東北自動車道を北上していた。道路が、震災のためにところどころ、でこぼこしていた。震災時のライフラインの喪失によって、恐らくストレスを生じ、体調を崩して入院した母を見舞いに仙台に向かっていた。優しい山並みの安達太良の山々を左手に望みながら、助手席に乗った姉と、子供時代の思い出話をとりとめなくし続けた。この見舞いの旅については以前にも記した。とても具合が悪いはずの母だったが、時折笑みを浮かべて我々を迎えてくれた。こちらに戻りたい、(すでに7年前に他界していた)父はどうしているかと繰り返し、私に尋ねた。姉が病室で母に讃美歌を歌うのを聴きながら、帰路に就いた。母はその後数日て亡くなった。ふっとろうそくの火が消えるような最後であった、と後で聞いた。

先日、弟から手紙が来た。母が弟に出した手紙のコピーが添えられていた。40数年前のことになる。弟が東北大の医学部に入学し、仙台のYMCAだったか、寮に落ち着いた。それを見届けて、東京の自宅に戻った母が、帰宅早々に弟に宛てた手紙だ。仙台のプラットホームで別れ、途中武蔵野線に乗り換え、自宅近くの駅についたこと、小雨が降っていたが、濡れたまま歩いて帰ったこと、夜なかなか寝付かれなかったこと等が淡々と記されていた。裕福ではないので、いろいろと揃えてあげられなくて申し訳ない、枕はそれまで使っていたものをきれいにして送るから、とあった。最後に、キリスト教信仰にたって、また歩みだすと記されていた。

母が、こうして私たち子供を思い、そのために生きてくれたのだった。父も同じように私たちにしてくれた。その愛情を、この年齢になって、改めてありがたく感じる。両親に何事か恩返しをできただろうか、と自問する。親から受けた愛情の幾分かでも、自分の家族に与えること、それがいかに難しくてもその努力をすることだろう。もし両親に会いまみえることが再びできるなら、自分はこうして生きたと胸を張って言えるように・・・。

あと8日で、母の6回忌がやってくる。

五所神社の桜 

昔の職場と我が家の間の通勤路に、五所神社とい名の神社がある。こんもりとした鎮守の森・・・といっても、それほど大きな森ではないのだが・・・も、神社の背後にある。二日前に、そこを通ると、桜が満開だった。近くに工業団地があり、その従業員の宿舎らしい、高層住宅も近くにあるが、大体は周囲は畑だ。人影もほとんどない。降りて写真を撮った。

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この近くから通って、かかってくださっていた可愛い兄弟がいたことを思い出した。彼らも、もう高校生か大学生になっているはずだ。元気に立派に成長なさっていることだろう。

この通勤路を使わなくなって、もうすぐ5年間経とうとしている。

元通信兵だったTさん 

ご近所の一人で、私の両親の時代から親しくさせて頂いていたTさんが、食思不振、腹部膨満等のために近くの病院に入院なさった。昨日、取るものもとりあえずお見舞いに伺った。87歳の飄々とした方だ。少しやせて、身体も動かしずらいようだったが、笑顔で出迎えて下さった。息子さんの話では、すい臓がんらしいとのこと。本人にも告知してあるようだ。

年に一、二度、彼をその家にお邪魔し、お話を伺った。昨年夏、突然、無線をまだやっているのかと問われ、面食らった。その後、何か受信機を持って、また話を伺いに行かなければ、と思いつつ、果たせていたなかった。

昔、彼は、和文電信をやっていたと、昨夏伺った。昨日もその話となった。海軍航空隊の無線部門に所属、現在、茨城の百里基地・茨城空港になっている海軍の基地で、訓練を受けた。受信練習で一文字間違えると、お尻を一発ぶたれた由。その後、三重県鈴鹿市にあった基地に移動した。中波を使い航空機との間で通信を担当していたとのことだ。「ホレ ホレ」と打電し、電文の送信を始めたものだと懐かしそうだった。600、700kmの距離は通信できたとのこと。ゼロ戦に通信機を取り付ける作業も、15歳の彼が行ったようだ。15kgほどの重さの送受信機を、中空に浮かせるように機体に取り付けたらしい。三重のその基地で終戦を迎えられたようだ。本来、空母に乗船することになっていたが、乗るべき空母が全滅してしまい、乗らずに済んだ由。終戦時一か月ほど、その基地に滞在し、飛行機などに取り付けた無線機をすべて取り外し、まとめて爆破したようだ。こうした話をしながら、思いはその当時に飛んでいたようで、懐かしさにあふれた表情をなさっていた。

故郷に帰還後、アマチュア無線を始めてみたかったが、生活に追われて果たせなかったと言っておられた。もっと前に言ってくださればと、残念だった。和文でアマチュア無線を楽しんでいる方のなかには、きっと同じような経歴の方がおられたことだろう。私に話を持ち掛けるのを、遠慮なさっていたのだろうか。農業と酪農をなさっておられ、息子さんが両方ともに跡を継がれたが、経済的に立ち行かなくなり、息子さんの代で両方ともに止めてしまった。息子さん夫婦、それに四人のお孫さんに囲まれて、幸せなリタイア生活を送っておられるように思えた。私がリタイアしてからは、最初に記した通り、年に一、二度、下手な手料理をお土産にお邪魔したのだった。

私が開業してしばらくの間、持病の喘息の治療のために隣町の私の仕事場に通ってくださった。もしかしたら、開業後、患者さんが少ないのではないかと考えて、通ってくださったのかもしれない。そうしたことはあまり語らず、一言、二言、冗談を言って帰って行かれた。

すい臓がんで腹膜まで播種しているとなると、根治は難しいのかもしれない。年齢のこともあるし、苦痛の一番少ない方法で緩和ケアを受けられることになるのだろうか。息子さんによると、恐らく腹水中のがん細胞から判明した病名を告知してから一晩は落ち込んでおられたようだが、その後はいつも通りに戻ったとのことだった。キリスト教信仰を持ち、しっかりした人生を歩んで来られたからなのだろうか・・・。残りの人生の時間を、これまで通りご家族に囲まれて、苦痛に苛まれることなく過ごして頂きたいと切に願いつつお暇した。

復活祭の季節再び 

春分の日を過ぎ、日は日増しに輝きを増す。木々や草花が芽吹き、春の喜びに満ちる季節になろうとしている。

来月中旬の復活祭に向けて、キリスト教の教会ではいろいろな行事が開催されることだろう。

私は、この時期に、マタイ受難曲をとりわけ聴くことにしてきた。手元に、古いオイレンブルグ版のマタイのスコアがある。裏表紙の裏に、1975年5月に本郷で購入したと記録がある。本郷のアカデミアに行って入手したものだ。手垢で汚れ、背表紙は擦り切れている。このスコアを手にして、マタイを何度聞いたことだろうか。聞くたびにこころを揺り動かされる。以前、病院の慰問にこの曲から有名なアリアを抜粋して演奏したことを記した。その際には、このスコアからパート譜を作ったのだ。

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マタイの67、68曲(終曲)の演奏。リヒター指揮ミュンヘンバッハアンサンブルの名演。67曲でイエスに向かい安らかに眠り給えと祈る。そして、怒涛の生涯と、それからの安息を祈る終曲が続く。少なくとも、涙を実際に流すことはなくとも、こころのなかでは涙なしには聞けない音楽だ。



6年前の今頃、母が仙台の施設で最後の日々を過ごしていた。震災時にインフラがすべて失われ、暗闇と寒さのなかで体調を崩したのだろう。4月に母はそっと召されることになる。そうしたことと、自分のこれまでとを思い起こして、またマタイ受難曲に沈潜することにしよう。

両親の蔵書・日記 

引き続き、両親が残した書籍、日記、その他を整理し続けている。

無教会主義のキリスト教に熱心に帰依していた両親の蔵書には、同教の様々な独立伝道者、学者の著作集が多い。私も一時その聖書研究会に通っていた高橋三郎先生の著作集は、2セットもあった。一部は私の本棚に移した。それ以外に、内村鑑三の著作集、塚本虎二の「聖書知識」誌が1930年代から60年代にかけて、おそらく欠本はあるかもしれないが、合本されてあった。矢内原忠雄、酒枝義旗、中沢洽樹、岩隈直等々の著作集もあった。武祐一郎・長谷川保・藤林益三・堤道雄等の書籍もある。我が家には、すでに黒崎幸吉著作集、矢内原忠雄の「土曜学校講義」等がある。個人的に存じ上げている方もおり、懐かしい。これから折に触れて、読んでいきたいと思っているのだが、到底読み切れない。子供たちはおそらく引き継がないだろう。ある時期が来たら、どこかのキリスト教関係の図書館・施設、または伝道者、研究者の方に寄贈しようと考えている。

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父は、晩年、戦争責任問題、天皇制問題、慰安婦問題等々に関心を持ち、それらの問題に関するさまざまな書籍を残した。浩瀚な昭和天皇の伝記、ハーバート ビックス著「昭和天皇」二巻は、彼の本棚から持ち出し興味深く読んだ。以前、その読後感をこのブログに記した。今回の整理でも、これらのトピックスに関する、興味深い書物を多数見つけ出した。やはり、私の書庫に移動だ。現在の政治状況によって、第二次世界大戦前後の問題、戦争責任の問題をもう一度勉強しなおす必要を感じている。私の父は、戦時中中国に派遣され、悲惨な状況を目にし、また貴重な青春時代を、兵士として戦争のなかで費やさざるをえなかった記憶、それに侵略した国々の人々への思いから、こうした問題を考えざるを得なかったのだろう。私の知的興味よりはよほど強烈な、何故だったのかという疑問を抱いていたに違いない。

父親は(母もそうだったが)筆まめで、日記を長期間つけていた。以前にも記した通り、それらを読むことは、彼らの内面に入り込むことを意味するので、なんとなく羞恥のようなものを感じていた。ハードカバーの立派な日記を目にすると、父は将来家族の誰かが、それを読むことを予測し、または期待していたのかもしれない、と思うようになった。ちょっと読んでみると、私、私の家族についての記録、記述がかなりある。自分が家庭を持ち、仕事に明け暮れた時には、両親のことはいてくれて当然、時々手助けを頼む程度にしか意識していなかった。この年齢になり、彼らが生活、人生をどのように考えていたのか、一度日記を通して理解してみるべきだろうと考えるようになった。処分せずに、書庫の一部に収めた。

研修医時代に記した論文草稿も出てきた。研修医二年目に、鴨下教授に「ライ症候群」の総説を書くように命じられ、論文を多数集めて、本文だけで1万字を超える総説を「神経内科」誌のために記した。その手書き原稿が出てきた。ワープロはまだなく、まったくの手書き。参考文献だけはタイプされている。ライ症候群の症例を受け持ったことで、教授はその総説執筆の機会を下さったのかもしれない。出来はどうだったのか、自分では分からない・・・まだ臨床もおぼつかない駆け出しで、電顕を使った肝臓の形態学を少しかじり始めたばかりだった。論文の切り貼り作業だったような気がする。が、今でも、狭い官舎のリビングルームで炬燵に足を突っ込んで一生懸命記したことが思い出される。いろいろな事情があって、初期研修をした自治医大を辞め、この総説を書き終えた直後に母校の基礎の教室に戻ったのだった。戻って1年後、自治医大に戻るように声をかけて頂いたのだが、それに従わなかった。鴨下先生には、公私にわたりお世話になるばかりで、その恩にむくいることがまったくなかった。懐かしさとともに、鈍い痛みを伴って、こうしたことが思い出される。信念を持ちつつ、周囲の方へあたたかな思いやりをかけて下さる先生だった。生前一度お目にかかり、感謝を申し上げたかった。

すべてのことは、いつか終わりを迎える。そのための準備を少しづつ進めて行こう。