毎日を感謝しつつ 

田舎暮らしにどっぷりつかり、草むしりや、栽培野菜の世話で過ごしていると、時々は単調な生活に溜息をつくこともあるが、この記事を読むと、恵まれた環境にいることを改めて感謝する気持ちになる。

この調査の結果が本当だとすると、健康長寿の理由は、自分の裁量で仕事ができるということ以外にもありそうだ。農作業なり、庭木の手入れなりをしていると、生き物相手なので生活のリズムができる・・・それを単調だと嘆く馬鹿者もいるわけだが・・・。それに、一番の理由ではないかと思うのが、生き物を相手にしている、大地の上に立って生活していると実感することなのではないか。生きていること、生かされていることを、感じる、感じさせられる。これはコンクリートの上で生活していると感じることのない感覚だろう。それが、自然の生命と自分が同期していることを感じることになるのではないだろうか。

庭の畑では、さまざまな野菜が収穫期に入っている。トマト、ジャガイモ、それにモロッコインゲン・・・。

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種から育てたマリーゴールドがここかしこで開花し始めた。

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毎日を、感謝しつつ生きてゆきたいものだ。

以下、引用~~~

農家男性、寿命8歳長い=埼玉県本庄市で調査-健康に好影響か・早大

2017年06月28日 18時43分 時事通信

 首都圏の埼玉県本庄市では専業・兼業農家の高齢者の医療費が農家以外の8割程度にとどまり、特に男性の寿命が農家以外より長いことが分かったと、早稲田大の堀口健治名誉教授と弦間正彦教授が28日発表した。アンケート調査で回答を得た農家の男性の平均死亡年齢は81.5歳で、農家以外の男性より8歳高かった。

 弦間教授は「自分の裁量で農業を営む生活が健康に良いのではないか。会社員などが定年退職後に働けば、健康づくりと医療費削減に役立ち、農業の担い手不足を補うことができる」と話している。

 早大キャンパスがある本庄市は野菜や果物、草花の生産が盛ん。堀口名誉教授らが埼玉県後期高齢者医療広域連合に同市の75歳以上の被保険者の医療費を分析してもらったところ、2014年の専業・兼業農家の男女897人の1人当たり医療費は73万1000円と、農家以外の8258人の91万円の8割だった。

 市内の農協組合員543世帯と非組合員300世帯からアンケート調査の回答を得たところ、1989年(平成元年)以降に亡くなった専業・兼業農家の男性274人の平均死亡年齢は81.5歳で、農家以外の男性183人の73.3歳より8歳高かった。農家の女性223人の平均死亡年齢は84.1歳で、農家以外の女性151人の82.5歳と大きな差はなかった。 

誓い~私たちのおばあに寄せて 

昨日は、沖縄慰霊の日だった。沖縄戦没者追悼式で高校生が自作の詩を朗誦した。

誓い~私たちのおばあに寄せて

上原愛音

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感銘深い詩だ。沖縄の置かれた状況を忘れてはいけない。

志村建世さんのブログ経由、ブログ「八十代万歳」から、このurlを得た。

木立の揺れる音 

昨年、7月、このポストに対して、杉さんJA1HMKが、ブログ主宛のコメントを下さった。

『こころ静かに、逝きたいものです』

との簡明な、それでいてこころに残るコメントだった。

ご存知の通り、彼はその後1か月して循環器疾患で急逝した。それを知った時、彼のこのコメントが改めてこころに迫ってきた。

今日、晴れ上がった空のもと、庭仕事をしていると、木蓮の木の葉のこすれる音が、目立つのでは決してないが、さやかに聞こえた。それで、杉さんのことを思い起こした。永遠のときを思い起こさせてくれた。

私も、杉さんの短いこころのこもったコメントを心の中で復唱していた。

我が家の南側、畑の向こうにこんもりとした森が見える。木立の枝が、風で揺れていた。

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以前にもアップした、桂の木。やはり同じように、枝が風になびいていた。

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母の6回忌 

6年前の今頃、東北自動車道を北上していた。道路が、震災のためにところどころ、でこぼこしていた。震災時のライフラインの喪失によって、恐らくストレスを生じ、体調を崩して入院した母を見舞いに仙台に向かっていた。優しい山並みの安達太良の山々を左手に望みながら、助手席に乗った姉と、子供時代の思い出話をとりとめなくし続けた。この見舞いの旅については以前にも記した。とても具合が悪いはずの母だったが、時折笑みを浮かべて我々を迎えてくれた。こちらに戻りたい、(すでに7年前に他界していた)父はどうしているかと繰り返し、私に尋ねた。姉が病室で母に讃美歌を歌うのを聴きながら、帰路に就いた。母はその後数日て亡くなった。ふっとろうそくの火が消えるような最後であった、と後で聞いた。

先日、弟から手紙が来た。母が弟に出した手紙のコピーが添えられていた。40数年前のことになる。弟が東北大の医学部に入学し、仙台のYMCAだったか、寮に落ち着いた。それを見届けて、東京の自宅に戻った母が、帰宅早々に弟に宛てた手紙だ。仙台のプラットホームで別れ、途中武蔵野線に乗り換え、自宅近くの駅についたこと、小雨が降っていたが、濡れたまま歩いて帰ったこと、夜なかなか寝付かれなかったこと等が淡々と記されていた。裕福ではないので、いろいろと揃えてあげられなくて申し訳ない、枕はそれまで使っていたものをきれいにして送るから、とあった。最後に、キリスト教信仰にたって、また歩みだすと記されていた。

母が、こうして私たち子供を思い、そのために生きてくれたのだった。父も同じように私たちにしてくれた。その愛情を、この年齢になって、改めてありがたく感じる。両親に何事か恩返しをできただろうか、と自問する。親から受けた愛情の幾分かでも、自分の家族に与えること、それがいかに難しくてもその努力をすることだろう。もし両親に会いまみえることが再びできるなら、自分はこうして生きたと胸を張って言えるように・・・。

あと8日で、母の6回忌がやってくる。

五所神社の桜 

昔の職場と我が家の間の通勤路に、五所神社とい名の神社がある。こんもりとした鎮守の森・・・といっても、それほど大きな森ではないのだが・・・も、神社の背後にある。二日前に、そこを通ると、桜が満開だった。近くに工業団地があり、その従業員の宿舎らしい、高層住宅も近くにあるが、大体は周囲は畑だ。人影もほとんどない。降りて写真を撮った。

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この近くから通って、かかってくださっていた可愛い兄弟がいたことを思い出した。彼らも、もう高校生か大学生になっているはずだ。元気に立派に成長なさっていることだろう。

この通勤路を使わなくなって、もうすぐ5年間経とうとしている。

元通信兵だったTさん 

ご近所の一人で、私の両親の時代から親しくさせて頂いていたTさんが、食思不振、腹部膨満等のために近くの病院に入院なさった。昨日、取るものもとりあえずお見舞いに伺った。87歳の飄々とした方だ。少しやせて、身体も動かしずらいようだったが、笑顔で出迎えて下さった。息子さんの話では、すい臓がんらしいとのこと。本人にも告知してあるようだ。

年に一、二度、彼をその家にお邪魔し、お話を伺った。昨年夏、突然、無線をまだやっているのかと問われ、面食らった。その後、何か受信機を持って、また話を伺いに行かなければ、と思いつつ、果たせていたなかった。

昔、彼は、和文電信をやっていたと、昨夏伺った。昨日もその話となった。海軍航空隊の無線部門に所属、現在、茨城の百里基地・茨城空港になっている海軍の基地で、訓練を受けた。受信練習で一文字間違えると、お尻を一発ぶたれた由。その後、三重県鈴鹿市にあった基地に移動した。中波を使い航空機との間で通信を担当していたとのことだ。「ホレ ホレ」と打電し、電文の送信を始めたものだと懐かしそうだった。600、700kmの距離は通信できたとのこと。ゼロ戦に通信機を取り付ける作業も、15歳の彼が行ったようだ。15kgほどの重さの送受信機を、中空に浮かせるように機体に取り付けたらしい。三重のその基地で終戦を迎えられたようだ。本来、空母に乗船することになっていたが、乗るべき空母が全滅してしまい、乗らずに済んだ由。終戦時一か月ほど、その基地に滞在し、飛行機などに取り付けた無線機をすべて取り外し、まとめて爆破したようだ。こうした話をしながら、思いはその当時に飛んでいたようで、懐かしさにあふれた表情をなさっていた。

故郷に帰還後、アマチュア無線を始めてみたかったが、生活に追われて果たせなかったと言っておられた。もっと前に言ってくださればと、残念だった。和文でアマチュア無線を楽しんでいる方のなかには、きっと同じような経歴の方がおられたことだろう。私に話を持ち掛けるのを、遠慮なさっていたのだろうか。農業と酪農をなさっておられ、息子さんが両方ともに跡を継がれたが、経済的に立ち行かなくなり、息子さんの代で両方ともに止めてしまった。息子さん夫婦、それに四人のお孫さんに囲まれて、幸せなリタイア生活を送っておられるように思えた。私がリタイアしてからは、最初に記した通り、年に一、二度、下手な手料理をお土産にお邪魔したのだった。

私が開業してしばらくの間、持病の喘息の治療のために隣町の私の仕事場に通ってくださった。もしかしたら、開業後、患者さんが少ないのではないかと考えて、通ってくださったのかもしれない。そうしたことはあまり語らず、一言、二言、冗談を言って帰って行かれた。

すい臓がんで腹膜まで播種しているとなると、根治は難しいのかもしれない。年齢のこともあるし、苦痛の一番少ない方法で緩和ケアを受けられることになるのだろうか。息子さんによると、恐らく腹水中のがん細胞から判明した病名を告知してから一晩は落ち込んでおられたようだが、その後はいつも通りに戻ったとのことだった。キリスト教信仰を持ち、しっかりした人生を歩んで来られたからなのだろうか・・・。残りの人生の時間を、これまで通りご家族に囲まれて、苦痛に苛まれることなく過ごして頂きたいと切に願いつつお暇した。

復活祭の季節再び 

春分の日を過ぎ、日は日増しに輝きを増す。木々や草花が芽吹き、春の喜びに満ちる季節になろうとしている。

来月中旬の復活祭に向けて、キリスト教の教会ではいろいろな行事が開催されることだろう。

私は、この時期に、マタイ受難曲をとりわけ聴くことにしてきた。手元に、古いオイレンブルグ版のマタイのスコアがある。裏表紙の裏に、1975年5月に本郷で購入したと記録がある。本郷のアカデミアに行って入手したものだ。手垢で汚れ、背表紙は擦り切れている。このスコアを手にして、マタイを何度聞いたことだろうか。聞くたびにこころを揺り動かされる。以前、病院の慰問にこの曲から有名なアリアを抜粋して演奏したことを記した。その際には、このスコアからパート譜を作ったのだ。

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マタイの67、68曲(終曲)の演奏。リヒター指揮ミュンヘンバッハアンサンブルの名演。67曲でイエスに向かい安らかに眠り給えと祈る。そして、怒涛の生涯と、それからの安息を祈る終曲が続く。少なくとも、涙を実際に流すことはなくとも、こころのなかでは涙なしには聞けない音楽だ。



6年前の今頃、母が仙台の施設で最後の日々を過ごしていた。震災時にインフラがすべて失われ、暗闇と寒さのなかで体調を崩したのだろう。4月に母はそっと召されることになる。そうしたことと、自分のこれまでとを思い起こして、またマタイ受難曲に沈潜することにしよう。

両親の蔵書・日記 

引き続き、両親が残した書籍、日記、その他を整理し続けている。

無教会主義のキリスト教に熱心に帰依していた両親の蔵書には、同教の様々な独立伝道者、学者の著作集が多い。私も一時その聖書研究会に通っていた高橋三郎先生の著作集は、2セットもあった。一部は私の本棚に移した。それ以外に、内村鑑三の著作集、塚本虎二の「聖書知識」誌が1930年代から60年代にかけて、おそらく欠本はあるかもしれないが、合本されてあった。矢内原忠雄、酒枝義旗、中沢洽樹、岩隈直等々の著作集もあった。武祐一郎・長谷川保・藤林益三・堤道雄等の書籍もある。我が家には、すでに黒崎幸吉著作集、矢内原忠雄の「土曜学校講義」等がある。個人的に存じ上げている方もおり、懐かしい。これから折に触れて、読んでいきたいと思っているのだが、到底読み切れない。子供たちはおそらく引き継がないだろう。ある時期が来たら、どこかのキリスト教関係の図書館・施設、または伝道者、研究者の方に寄贈しようと考えている。

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父は、晩年、戦争責任問題、天皇制問題、慰安婦問題等々に関心を持ち、それらの問題に関するさまざまな書籍を残した。浩瀚な昭和天皇の伝記、ハーバート ビックス著「昭和天皇」二巻は、彼の本棚から持ち出し興味深く読んだ。以前、その読後感をこのブログに記した。今回の整理でも、これらのトピックスに関する、興味深い書物を多数見つけ出した。やはり、私の書庫に移動だ。現在の政治状況によって、第二次世界大戦前後の問題、戦争責任の問題をもう一度勉強しなおす必要を感じている。私の父は、戦時中中国に派遣され、悲惨な状況を目にし、また貴重な青春時代を、兵士として戦争のなかで費やさざるをえなかった記憶、それに侵略した国々の人々への思いから、こうした問題を考えざるを得なかったのだろう。私の知的興味よりはよほど強烈な、何故だったのかという疑問を抱いていたに違いない。

父親は(母もそうだったが)筆まめで、日記を長期間つけていた。以前にも記した通り、それらを読むことは、彼らの内面に入り込むことを意味するので、なんとなく羞恥のようなものを感じていた。ハードカバーの立派な日記を目にすると、父は将来家族の誰かが、それを読むことを予測し、または期待していたのかもしれない、と思うようになった。ちょっと読んでみると、私、私の家族についての記録、記述がかなりある。自分が家庭を持ち、仕事に明け暮れた時には、両親のことはいてくれて当然、時々手助けを頼む程度にしか意識していなかった。この年齢になり、彼らが生活、人生をどのように考えていたのか、一度日記を通して理解してみるべきだろうと考えるようになった。処分せずに、書庫の一部に収めた。

研修医時代に記した論文草稿も出てきた。研修医二年目に、鴨下教授に「ライ症候群」の総説を書くように命じられ、論文を多数集めて、本文だけで1万字を超える総説を「神経内科」誌のために記した。その手書き原稿が出てきた。ワープロはまだなく、まったくの手書き。参考文献だけはタイプされている。ライ症候群の症例を受け持ったことで、教授はその総説執筆の機会を下さったのかもしれない。出来はどうだったのか、自分では分からない・・・まだ臨床もおぼつかない駆け出しで、電顕を使った肝臓の形態学を少しかじり始めたばかりだった。論文の切り貼り作業だったような気がする。が、今でも、狭い官舎のリビングルームで炬燵に足を突っ込んで一生懸命記したことが思い出される。いろいろな事情があって、初期研修をした自治医大を辞め、この総説を書き終えた直後に母校の基礎の教室に戻ったのだった。戻って1年後、自治医大に戻るように声をかけて頂いたのだが、それに従わなかった。鴨下先生には、公私にわたりお世話になるばかりで、その恩にむくいることがまったくなかった。懐かしさとともに、鈍い痛みを伴って、こうしたことが思い出される。信念を持ちつつ、周囲の方へあたたかな思いやりをかけて下さる先生だった。生前一度お目にかかり、感謝を申し上げたかった。

すべてのことは、いつか終わりを迎える。そのための準備を少しづつ進めて行こう。

母の介護記録 

母は70歳台から認知症に冒され、94歳で亡くなるまで、徐々に短期記憶能力を喪失していった。幸運なことに、その人格の中心は最晩年まで保たれた。最近、両親の残した書類や書籍を処分し、また保存することを続けてきた。父が逝ってのち、母は離れで数年間を過ごした。デイケアに通う毎日、多くのヘルパーの方々、私の姉、弟それに義理の妹等が母の面倒をみる手伝いをしてくださった。ヘルパーの方が、家族あてに毎日記してくださった記録の束が出てきた。それには、二三行の短い文章であったが、母がデイケアに出かける前後をどのように過ごしたかが、的確に記されている。朝、デイケアに出かけるまでの時間、庭を悲し気な面持ちで眺めていたが、デイケアの迎えが来ると、元気いっぱいに出かけて行ったとか、「こぶしの花が咲くころに、サツマイモの苗を植えると良いんだよ。」とヘルパーの方に語り掛けたとか、当時の様子がまざまざと目の前に広がるような記述である。通りに面した花壇に腰を掛け、あたかもすでに亡くなっていた父の帰りを待つかのように、時折道行く人々や車を長時間見守っていたこともあった。姉や、弟夫婦が来る日は、とりわけ元気にしていたようだ。そうしたことも記されていた。

母がヘルパーの方々に愛され、ヘルパーの方々が母のために尽くしてくださったことが良く分かる。母の面倒を見てくれたヘルパーの方々に、そして遠くから通って母と生活を共にしてくれた親族に、こころが深い感謝の念であふれる。母の介護が私たちの手に負えなくなり、近くの施設にお願いしなくてはならなくなったときに、弟のたっての希望で母は、仙台に旅立っていった。あちらで弟夫婦、そして介護施設に2年間ほどお世話になった。そして、あの大震災に見舞われる。二、三日暖房のない施設で過ごし、それ以降徐々に健康を害し、震災の翌月に昇天したのだった。見舞ったのは、亡くなる前の日だったか、こちらに戻りたいと泣きべそ顔で懇願されたときには、正直申し訳ない気持ちで一杯になった。だが、それ以外の時には、家族を心配し、笑顔まで見せていた。親族が病室から席を外していたわずかな時間に、ふっとろうそくの灯が消えるように、永遠の旅に旅立っていったのだった。

以前にも記したことをまた繰り返してしまった。このヘルパーの方々の記録が、たかだか10年ちょっと前の日常の記憶を、まるで昨日の出来事であるかのように蘇らせてくれた。あの数年間の母の最晩年、母としては、ただ生かされた時間を生きただけだったのだろう。だが、残された我々には実に多くのことを語り掛け続けてくれているように思える。

時が何と早く過ぎ去ることだろうか。

お世話になった方の退職 

我が家のエアコンが一台働かなくなった。いつも修理や、新規購入でお世話になっている、近所のKさんに電話をした。ところが、お店の電話が通じない。彼の携帯に電話すると、昨年仕事を辞めたとのこと。高度房室ブロックを生じ、ペースメーカーを装着したためらしい。早速、お見舞いがてら彼の家を訪ねた。何度か訪ねたことはあったが、久しぶりでなかなか見つけられず。あまり交通量の多くない田舎道に面して建っている。以前はあった看板が下ろされていた。庭には子供の遊具があった。何度か呼び鈴を押して、ようやく彼のお嬢様らしい方が出てこられた。Kさんは、奥様の実家に越してしまったらしい。お見舞いを手渡して、早々に失礼した。

今朝、彼が我が家を訪ねてきた。その見舞い返しなのか、現在作っている農作物を持ってきてくださった。もうすぐ70歳ということだが、血色も良くお元気そうだ。彼のご両親が、私の両親と親しくさせて頂いていたこともあり、私が開業して以来、仕事場の電気関係のことは彼にいつもお願いしてきた。いつも快く、素早い対応をして下さり、ありがたかった。あの元気そうなKさんが、仕事を辞めねばならぬほどの病気と聞き、どんな具合だろうかと心配だった。

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仕事を辞めた理由を伺うと、感電することによりペースメーカーが作動しなくなる危険があるから、電気関係の仕事は辞めるように医師に言われた由。仕事の負担ではなく、そのリスクだったのかと納得した。義理の母上が90歳以上で介護が必要なため、上記の通り、奥様の実家に移り住み、自家用に野菜を作っているようだ。on demandタイプのペースメーカーらしく、運動すると、心拍数は上がる由。以前と変わらぬ人懐っこい笑顔であった。

彼の母上は、私の母が認知症になっても、何度も訪ねてきてくださった。我が家の離れで、二人が談笑していたことを思い出す。ある時は、二人を車に乗せて、県北の温泉場に連れて行ったこともあった。私の伯母が、第二次世界大戦直後ここで結核のサナトリウムを運営していたころ、私の両親とKさんのご両親は、そこで知り合ったようだ。そして、それほど頻繁に行き来する関係ではなかったが、Kさんにはその仕事を通して、私自身、最初に述べた通り、いろいろとお世話になった。今、ともに仕事を終える人生の時期に入った。これからの退職の時期、住むところと食べるものがあれば、何とかなると言い合って笑ったことだった。

時間があっという間に過ぎゆくことを改めて感じる。

彼は、あと十年だけ生きられれば良いと笑顔で言いながら、車に乗り込んで帰って行った。